ジャン=マリー・コロー・デルボワとは? わかりやすく解説

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ジャン=マリー・コロー・デルボワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/16 05:37 UTC 版)

ジャン=マリー・コロー・デルボワ
Jean-Marie Collot d'Herbois
コロー・デルボワ
生誕 (1749-06-19) 1749年6月19日
フランス王国 パリ
死没 (1796-06-08) 1796年6月8日(46歳没)
フランス領ギアナ カイエンヌ
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ジャン=マリー・コロー・デルボワ(Jean-Marie Collot d'Herbois、1749年6月19日 - 1796年6月8日)は、フランス革命期の革命指導者。民衆演劇の役者であり、パンフレット作家でもあった[1]。なお、『デルボワ』というのは芸名にあたる。

ナンシー事件で指揮官から苦役刑に処されたスイス兵を釈放するために尽力し、その後、山岳派の議員となる。リヨンの反乱鎮圧における過激さをロベスピエールに咎められ、テルミドール9日のクーデターに協力し、ロベスピエール派を失脚させた。しかしクーデター後は、テルミドール派にスケープゴートとされた者たちのひとりとなり、ギアナに流刑が決まった。それから1年と経たない間に、コローは熱病に侵され没した。

彼は、フランス史上初めて流刑地で死亡した代議士(国民から選ばれ、国民を代表して国政を議する人間)である[2]

略歴

革命前から革命初期にかけて

パリで金銀細工職の子として生まれる。オラトリオ会で教育を受け、18歳で旅劇団に入った。20以上の戯曲を書き上げ[3]、1787年にはリヨンの劇場で座長を務めた[4]。この頃、街での評判が悪かったコローは、挫折や失敗、観客からのブーイングを経験し、これが彼にリヨンに対する恨みを与え後の暴力行為に繋がったという説もあるが、一方ではコローは社交界から歓迎され、フレッセル総督が主宰した祝賀行事にも出席しており、この時期のコローが良心的かつ名のある役者だったと主張する声もある。

1789年に革命が没発するとパリに戻り[4]、革命祝賀会の企画で俳優・劇作家としてのスキルを活かし始め、1790年にジャコバン・クラブに入る[3]。同年8月、ナンシーに駐在していたスイス兵が給与未払いに対して不審を抱き、経理の明確化を求めたところ、指揮官はこれを反抗とみなし兵が罰され約20名が絞首刑、41名が苦役刑に処されるナンシー事件が起きた[5]。彼らは1791年憲法発布にともなう恩赦においても、外国人という理由から釈放されなかったが、これが憲法成立後に発足した立法議会において問題となり、1792年春に釈放された。この時、スイス兵釈放のために尽力した者たちのなかにコローの姿もあった[6]。スイス兵の非公式弁護人だった彼は激しい議論の後、4月9日、立法議会に対してスイス兵を議場に迎えさせた。また、反省した新政府によって彼らを讃える催し『自由の祭典』を、ジャコバン・クラブおよびパリ・コミューンによって開催する約束が取り付けられ、同月15日に実施された[7]

1791年、革命の諸スローガン普及のために作られた立憲君主制を主張する懸賞作品『ジェラール親父の暦』でサン=キュロットとしての名声を得た[3][4]。また、1792年5月にロベスピエールが、自身が戦線悪化のニュースが前線から届く度にジロンド派からスケープゴートにされる動きから身を守るため、『憲法の擁護者』という新聞を発行し始めた。これは本人が執筆した原稿に加え、ニュース、各地方や軍隊にいる通信員からの手紙が掲載され、これの制作にはジャコバン・クラブの同志だったコローやクートンなどが協力していた[8]

コロー・デルボワの画

国民公会への選出

同年、パリ・コミューンのメンバーとなり[3]蜂起コミューン評議員の任に就く[4]。やがてルイ16世が外国軍と通じていたことが明るみに出た後起きた[9]8月10日事件には積極的に参加し、九月虐殺も支持した[4]国民公会のパリ代表として選出されると山岳派として議席を獲得する。1792年9月21日、国民公会の会合で王権停止を要求。ルイ16世の裁判には死刑に票を投じた。戦局が激化すると、1793年3月9日から4月30日にかけて、ニエーヴルロワレに派遣され、30万人募兵令による徴兵を監督した[3]

当時、不利な立場に陥ったジロンド派はライバルの攻撃に活路を見い出そうとし[10]、これがジロンド派の追放に繋がった[11]。コローはジロンド派追放を強く支持していた[3]。その後、地方に逃れたジロンド派議員は連邦主義の反乱フランス語版)を起こし[12]、これをきっかけとして軍港トゥーロンは王政派の影響下に入ると港はイギリススペインの艦隊に引き渡された。公安委員会はこの事態を秘密にし、国民公会に報告しなかったのだが、9月2日、エベール派だったコローの友人ビヨー=ヴァレンヌは、この件で公安委員会を批判した。5日にはエベール派のコミューン指導者に率いられたサン=キュロットが国民公会に押し寄せた。その際、国民公会はビヨー=ヴァレンヌとコローを公安委員会の委員として迎えるなどして対処した[13]

10月末、フーシェらとともに鎮圧作戦を監督するためリヨンに派遣される[14]。リヨンでの反乱は、ジロンド派が起こした連邦主義の反乱の一部だった[15]バレールフランス語版)を始めとした国民公会はこの作戦について、貧しい人々、愛国者、産業活動に使われた建物や教育や人類のための記念碑は保護されると考えていたが、派遣議員たちは2日間で200人の処刑を命じ、粛々と任務をこなした。処罰のために選びだされたのは富裕層であり、コローによれば、住民のほぼ全員が有罪であり、女性たちは守護聖人としてシャルロット・コルデーを崇拝しながら部隊を誘惑した[14]。コローとフーシェは反乱鎮圧における残虐さについてロベスピエールから糾弾された[4]。こうした派遣議員はパリに呼び戻され、入れ替わりに公安委員会とりわけロベスピエールとサン=ジュストに近い議員が地方に送り込まれた。5月8日には公安委員会が、県革命裁判所の廃止を再確認するとともに、地方の革命委員会(革命裁判所に相当)を原則として廃止した[16]。呼び戻された派遣議員たちは、自分たちが公安委員会からどのような処分を受けるのかわからないまま不安に駆られていった[17]

エベール派が窮地に立たされた際は、コローもビヨー=ヴァレンヌも、エベール派追放が自分たちにもたらす結果を恐れて厳しいスタンスを変えなかった[18]

アンリ・アドミラによるコロー・デルボワ暗殺未遂事件

テルミドール9日のクーデター

やがて各戦線でフランス軍が勝利を収め、戦争に関する危機感が薄らぐと、革命政府内部での対立が表面化しはじめた。元々エベール派に近い立場だったビヨー=ヴァレンヌとコローも[19]、1794年3月24日に起きたエベール派処刑に関して[20]ロベスピエール派に不快感を持っており[21]、またエベール派やフーシェと繋がりがあったため自分たちが攻撃の的になっていると感じていた[22]。6月29日、自称預言者でロベスピエールを神聖な使命を帯びた存在であるとするカトリーヌ・テオ英語版フランス語版という女性が問題となり[23]、不利な立場となったロベスピエールは公安委員会にて彼女への追及をやめさせようとした。そのために革命裁判所検事フーキエ=タンヴィルの辞任を要求したことから口論となり、コロー、ビヨー=ヴァレンヌ、カルノーはロベスピエールとサン=ジュストを独裁者となじった[24]。5月22日午前1時に暗殺者アドミラフランス語版から銃撃2発を受けるが未遂に終わる[25]。これは当初、ロベスピエールを狙った犯行だったが、出会うことができなかったため替わりにコローを負傷させたものだった[26]。その後数日間、国民公会にはコローとロベスピエールが暗殺者の攻撃から逃れたことについて、彼らを祝福する大量の意見書が寄せられた[27]

ダントン派に近い存在だったブールドンフランス語版に近い議員や[28]、フーシェ、タリアン、カリエフロレンといった、地方からパリに召還された派遣議員たちは、倒される前に倒すため、ロベスピエール派を打ち倒されるべき陰謀家に仕立てる計画を進めた。そこに、戦争の危機が遠のいたことで革命政府を終わらせ本来あるべき体制に復帰させたい議員たちが加わり、テルミドール9日のクーデターが起きる[29]。コローとビヨー=ヴァレンヌも、フーシェ達と合流した[30]。1794年7月27日、サン=ジュストが演壇に登り、ロベスピエールを擁護する発言を始めたが、タリアンに遮られ[31]、ビヨー=ヴァレンヌが告発状を読み上げた[32]。その後、国民公会はロベスピエール派を「法の外へ置く」、すなわち法的権限を一切奪うことを決めたため、彼らは裁判を受けることなく翌日、断頭台へ上った[33]

逮捕

その後、クーデターを起こしたテルミドール派が実権を握り、委員会改選でビヨー=ヴァレンヌ、コロー・デルボワ、バレールは公安委員会から外され、彼らの影響力は弱まった[34]。8月29日、コローと二大委員会(公安委員会と保安委員会)の元構成員6名は、彼らはロベスピエールと同様に恐怖政治の責任者であるとされた。なおかつ、ロベスピエールと闘うのがあまりにも遅すぎ、ダントン派に対する有罪判決を下させ彼らを処刑し、反対にエベール派排除の際には何人かの罪人(クーデターでロベスピエール派として処刑された国民衛兵司令官アンリオ、フランス語版、を含む)を保護したため告発するというのが彼らの言い分だった[35]

流刑地に送られるコロー、ビヨー=ヴァレンヌ、バレール

1795年2月26日、公安委員会全体の責任が追及され、その翌日には、国民公会は公安委員会の委員だったビヨー=ヴァレンヌ、コロー・デルボワ、バレール、そして保安委員会ヴァディエフランス語版)を告発した。彼らは「四人組」と呼ばれて恐怖政治のシンボルのような扱いを受けた[36]。4月1日、1793年憲法の実施と飢饉対策、拘束されている革命派の釈放を要求してパリの民衆は国民公会に押し寄せた。翌日も騒乱は続いたが、サン=キュロット運動の主要な指導者は1794年に逮捕・処刑されていたため、経験を積んだリーダーの不在もあり民衆は何の成果も得られなかった(ジェルミナルの蜂起)[37]

蜂起が失敗に終わると右派の影響力が一時的に高まり、四人組は正規の裁判の手続きを省略して南米ギアナへの流刑が1日のうちに決定された[38]。コロー、ビヨー=ヴァレンヌ、バレールは議会決定に服し、それぞれの居住地で監視下に置かれた[39]。コローの家に、テュイルリー地区の治安委員が封印を施すため現れた際、行政命令を伝えられた彼はそれに従う心づもりはできていると答え、治安委員たちの前で本人のアパルトマンにある鍵のかかった家具や物品をすべて開けてみせた。流刑に処す命令の実施を任された治安委員会の使者が現れると、コローは10分ほどかけて自身の妻に別れの言葉を告げ、馬車に乗り込んだ[40]

ヴァディエは姿をくらませていたため元から逮捕されておらず、バレールは護送の途中で脱出に成功し南フランスに潜伏したため、実際にギアナに送られたのはビヨー=ヴァレンヌとコロー・デルボワの2人だった[38]。約50人の代表者が手続きを送らせようと試みて、指名点呼による投票を要求したが、実現しなかった。革命裁判所が使われなかった理由としては、民衆運動に対する恐怖や、この裁判所自体が廃止の方向性にあり、国民公会は革命裁判所の行き過ぎを告発したところだったため、この場所を使うのを嫌ったことが挙げられる[41]

最期

当時、流刑は「乾いたギロチン」と呼ばれていたが、ビヨー=ヴァレンヌはギアナを「酷熱地帯のシベリア」と名付けた[42]フリュクティドール18日のクーデター後、ビヨー=ヴァレンヌの元同僚が数名、王党派として逮捕されギアナへ流刑となり、その内2名の元山岳派がこの地で死亡している[43]。その内の1人はこの地について、苛酷な気候は人体を厳しい試練にさらし、発熱、嘔吐、下痢を引き起こしたと伝えている。特に高い湿度は、受刑者の日常生活に常に悪影響を及ぼし、すべてにカビが生え、砂糖は溶けてしまったという。日光の不足と通風の欠如によって家屋内の湿度は上昇し、雨がほぼ絶え間なく降るのも彼らの健康を脅かした[44]

この環境の中で、1796年4月頃、コローは高熱に見舞われカイエンヌの病院へと移送を余儀なくされた[44]。流刑地では「彼らが互いに連絡をとることも、逃亡することも、彼らが近づきになった人々に影響を与えることもできないようにし、やるべき仕事と植民地の日常の労働に従事することができるように、彼らを監視することを、これらの部署の指揮官たちに強く求める」とされていたが[45]、コローは病気のためここに来ていたビヨー=ヴァレンヌと再会した。後にビヨー=ヴァレンヌは自身の回想録で、コローが3ヶ月の間、赤痢の症状に悩まされたこと、彼の「体をやつれさせた」「悪性の熱病」のことを取り上げている[44]

ジュネーヴ劇場の監督として描かれたコロー・デルボワ。ヒマレッハーによる版画、1880年制作

コローがかかっていた病は、当時流行していた腸チフスが、この自然環境のもとで広まっていた黄病か、他の熱病だったのか、症状に関する正確な記述が欠如しているためにはっきりしない。ただし、この地で生き残った者たちの証言では、体温の激しい上昇、頭痛、腹痛、関節痛、吐き気、液状の大便に混じっての出血が繰り返されている[46]

瀕死に陥ったコローはカトリック信仰の慰めの言葉を聴いて死にたいと強く願い出た[47]。ギアナに到着してから11ヶ月後、彼はカイエンヌの病院にあるビヨー=ヴァレンヌのベッドのすぐそばで亡くなった。ギアナから海軍および植民地大臣に送られた知らせには、「去るプレリアル20日(6月8日)、この市にある軍病院で流刑囚ジャン=マリ・コロが死去したことを、私はあなたに通知する。彼の衣服は、彼が口頭で告げていたことを考慮し、流刑囚ビヨに引き渡された」[48]

死後

コローの最期は、この地の流刑者としてはありふれたものだった。しかし新聞発行者と風刺的な小冊子の作家は彼の死について誇張した。ある人物は、コローはとある熱病に侵され、「せん妄状態で、喉の渇きと苦痛に苛まれたコロは、突如起きて、リキュールに似た甘口葡萄酒1本を一気に飲み、彼の体は真っ赤になった…」彼の枕元に呼ばれた現地の外科医は黒人たちに病院への移送を命じたが、彼らは自然の只中にコローを躊躇なく遺棄した。コローを助けるため再び呼ばれた外科医が彼を見つけ出したが、それとほぼ同時に病人はひどい苦痛の中で亡くなった。「…大量の血を吐き、泡を吹いてひっくりかえった肢体…」「彼の埋葬は祝日に行われた。黒人の墓堀人たちは踊りに行くのを急ぎ、中途半端にしか彼を埋葬しなかった。彼の死骸は豚とカラスの餌食となった」とした[47]。こうしてコローの死は捏造されて後世に伝えられた[49]

脚注

出典

  1. マクフィー2017、P.193
  2. ビアール2023、P.219
  3. 1 2 3 4 5 6 https://www.archontology.org/nations/france/convention_1792_95/collot.php
  4. 1 2 3 4 5 6 マルタン2024、P.220
  5. 山﨑2018、P.102
  6. 山﨑2018、P.126
  7. マルタン2024、P.196
  8. マクフィー2017、P.192-193
  9. 山﨑2018、P.136
  10. 山﨑2018、P.159
  11. 山﨑2018、P.159-161
  12. 山﨑2018、P.171
  13. 山﨑2018、P.175
  14. 1 2 マクフィー2022、P.288
  15. 山﨑2018、P.163
  16. 山﨑2018、P.208
  17. 山﨑2018、P.220
  18. マクフィー2017、P.294
  19. 山﨑2018、P.219
  20. 山﨑2018、P.204-205
  21. 山﨑2018、P.220
  22. マクフィー2017、P.322
  23. 山﨑2018、P.216
  24. 山﨑2018、P.220-221
  25. セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、p.218.
  26. 山﨑2018、P.216
  27. ビアール2023、P.178
  28. 山﨑2018、P.214-215
  29. 山﨑2018、P.220
  30. マクフィー2017、P.333
  31. 山﨑2018、P.222
  32. マクフィー2017、P.334
  33. 山﨑2017、P.222-223
  34. 山﨑2018、P.225
  35. ビアール2023、P.220
  36. 山﨑2018、P.233-234
  37. 山﨑2018、P.236-237
  38. 1 2 山﨑2018、P.237
  39. ビアール2023、P.221
  40. ビアール2023、P.223
  41. ビアール2023、P.222
  42. ビアール2023、P.29
  43. ビアール2023、P.219-220
  44. 1 2 3 ビアール2023、P.230
  45. ビアール2023、P.229
  46. ビアール2023、P.230-231
  47. 1 2 ビアール2023、P.235
  48. ビアール2023、P.321
  49. ビアール2023、P.298

参考文献

関連項目




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