マクシミリアン・ロベスピエール
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マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(仏: Maximilien François Marie Isidore de Robespierre, 1758年5月6日 - 1794年7月28日)は、フランス革命期で最も有力な政治家であり、代表的な革命家。
注釈
- ^ 18世紀末に中央集権的な組織を備えた近代的「政党」は存在しなかった。当時のジャコバン派は議員たちの緩やかな連合体であって、国民公会内の一会派的な性格が強かった。したがって、ジャコバン体制はファシズムやスターリニズムのような20世紀的な一党独裁体制とは異なっている。ロベスピエールが政権を掌握していた1793年から1794年の間もジャコバン派は少数派で、実際には独立した穏健な中間派(平原派)が多数派を占めていた。恐怖政治期に国民公会が立法と行政を統括する政府で、国民公会政府はジャコバン派と平原派の連立政権に支えられていた。さらに警察・財政は独立した委員会によって担われおり、軍事は平原派の閣僚が担当、ジャコバン派は立法・行政・司法に及ぶ国政の全権を掌握できたわけではなかった。柴田三千雄はジャコバン派の独裁は存在しなかったと指摘した上で、恐怖政治を現代的な意味で理解するのは時代錯誤で歴史的に正確な理解ではないと述べた。ロベスピエールによる恐怖政治は現代の恐怖政治、独裁体制とは性格が大きく異なっていると強調した[2]。
- ^ 脚注の追記。歴史家による心理分析
- ^ 否定する研究あり[21]。
- ^ 脚注の追記。生活サイクルについて(p.67)
- ^ 世界的な火山の活動期で、噴火による大気中の粉塵の増加によって世界中で気温が最大-1.5度低下した。これにより世界中のいたるところで厳冬と凶作に見舞われ、飢饉が起こったが、これはフランス革命の遠因の一つとされる。
- ^ 歴史家の解説を記述
- ^ グレート・ブリテン王国は既に産業革命によって機械化と工業化を達成し大量生産を可能とする歴史段階に入っていた。その結果、いまだにに農業国であったフランスは貿易競争力を喪失して国内産業が疲弊していく状況に陥っていく。フランス革命前夜、英仏間の貿易摩擦に起因する緊張状態は戦争寸前の状況にあった。フランス国内では協定破棄のためなら戦争も止む無しという世論が高まっていた。(遅塚氏)
- ^ 国民議会のブルジョワ議員も土地を所有しており、多くが不在地主となっていた。彼らの領主権は農民騒擾によって侵害されていた。封建的諸特権の廃止は農民の要求を認めて貴族的特権を廃止する一方で、ブルジョワジーによる私的所有権を確立する方策であった。柴田三千雄による分析
- ^ 脚注の追記。アッシニアについての説明。暴落原因に関する柴田三千雄の分析
- ^ 脚注の追記。有権者資格の説明。柴田三千雄による分析
- ^ ジャコバン派は一般に急進的な過激派のイメージで認識されているが、このイメージは史実ではない。ジャコバン派は共和制移行からロベスピエールの恐怖政治期に急進化するが、この特定の期間を除いては急進的ではなかった。革命初期のジャコバン派は王党派も加わっていたため共和主義団体ではなく、多様な人々から構成されておりおよそ過激派という様相ではなかった。ジャコバン修道会で毎晩会議を開いて政治談議をおこなうクラブであったが、年会費も労働者の二週間分の賃金に相当する24リーブリと高額だった。したがって、ジャコバン・クラブはブルジョワの政治クラブであってその構成は民衆的でもなかった。現代的な大衆政党とは異なり党員と党幹部による役務の序列に基づく党組織はなく、組織的拘束性のある権力関係もない単なる政治会派でしかなかった。内部に政治的対立が生じると分派が生じて、会員がクラブを脱会して新クラブを結成していくという事象が生じた。ジャコバン派はフイヤン派やジロンド派といた各勢力の離合集散が進展したことによって次第に急進性が増してロベスピエールと彼の周辺をなした政治家の支持団体という性格を強めていったのである[101]。
- ^ 脚注の追記。柴田三千雄による分析
- ^ このときの有権者資格を正確に表現すれば、成人男子選挙権である。ただし、投票は間接選挙であり、婦人と家内奉公人には選挙権が与えられず、選挙権も現代の普通選挙とは異なる幾つかの制限があった。また農作業の繁忙期であったことや従軍中の兵士が全線で投票できなかったこと、教会改革への反発、王党派が被選挙権から排除されたため選挙をボイコットしたため、投票率は低調で10%に留まった。投票者数も1791年憲法後の立法議会選とそれほど変わらなかった[172]。
- ^ 赤色は山岳派、灰色は平原派、青色はジロンド派を表しているが、当時は政党というものがなく、議員の信条や派閥は必ずしも明確ではなかった。そのため後世の学者の独断による分類の具体的な勢力数は出典によってまちまちで、これは一例に過ぎない。ただし平原派のような中間派が最多であったことは学者間の共通認識である[132][175]。
- ^ ロベスピエールの良き友人。髄膜炎により車椅子生活をしていたが、テルミドールのクーデターでは享年39歳で、病気はフィクション(長谷川哲也著『ナポレオン・獅子の時代』)で描かれたような老齢のためではない[158]。
- ^ 秘密会議とされたのは外野の干渉を避けるためで、公開にして政治アピールの場とかした後述の国防委員会の反省から
- ^ 警察権は主に保安委員会が管轄していた。後に1793年7月28日の法令で公安委員会を強化する目的で、嫌疑者の拘引する命令を発する権限だけは同委員会にも与えられることになったが、治安・警察に関する広範囲な権限は依然として保安委員会が持っていた。つまり事実上は両委員会の二元支配となっていたわけで、この権限争いがテルミドールのクーデターの一因となっている。1794年4月16日、ジェルミナル27日の法令で公安委員会にも逮捕権(告発権と予審権)が与えられ、両者の争いは一層激しくなった。なお保安委員会は治安委員会とも訳される
- ^ つまり9人制の場合は最低でも6人以上の会議で4人以上、14人制の場合は最低でも9人以上の会議で5人以上、12人制の場合は最低でも8人以上の会議で5人以上、11人制の場合は7人以上の会議で最低でも4人以上の委員の賛意と署名が必要とされた。これは公安委員会のメンバー構成上、どの派閥も単独ではいかなる決定もできなかったことを意味する。主導権を持ちながらも常に協議と妥協をしいられた。ロベスピエールが何かにつけて公会やクラブで演説したのは、他の委員を説得するために人民の支持と後押しを必要としたため
- ^ 後世の批評家が指摘するロベスピエールの個人独裁というのは歴史学的に間違いで、ロベスピエール独裁といった場合、公安委員会の強力な支配体制を人格化したに過ぎない。ロベスピエール個人独裁のイメージはテルミドールのクーデター以降に成立した政治的フィクションであり、その後継承されてきた歴史認識上の大きな誤りであって、史実ではない。
- ^ 公安委員会の委員は大臣よりも上位の権限を持っていた。大臣を監視する民衆代表の位置づけが公安委員であったが、公安委員自身に強い権限が与えられたので、公安委員が事実上の大臣に、大臣が格下げされて事実上の省庁長官になるというような構造になった
- ^ 広義では8月10日事件や6月2日の革命にすでに開始されていたという考え方もあるが、国民公会が公式に認めたのはこの日から
- ^ これも徴兵制とは異なる。人的・物的資源の無制限の動員を可能にするもので、総力戦体制の始まり
- ^ サン=ジュストが国民公会に提案し「平和が到来するまで革命的である政府」を続けると宣言。ここでいう“革命的”とは三権の非分立を意味する
- ^ 当初は陪審員や検事、裁判長らがブルジョワ出身者であったため意図的に緩慢で、逮捕者の大半を釈放していたが、1793年の夏ごろから左派が台頭すると、エベール派の要求で恐怖政治が始まった9月5日より強化され、人員も刷新された。
- ^ エルマンは元検事で裁判官を歴任後、革命裁判所の裁判長となり権勢をふるったが、テルミドール反動で逮捕され、フーキエ・タンヴィルらとともに処刑された。彼が就任してからは、それ以前の死刑宣告が49名であったのに対して、以後は12月までに209名、翌年1月から5月までに942名が反革命の容疑で死刑宣告を出した。さらに1794年6月10日のプレリアール22日法ができると、弁護が禁止されるなどの手続きが簡素化され、最盛期で監獄と刑場が裁ききれないほど大量の有罪判決を出した。ギロチン刑は大量処刑には不向きな処刑方法で設置やメンテナンスに時間がかかり、一日に処刑できる人数は一台あたり7、8人と非効率的な処刑法であったため、執行待ちの死刑囚が増加していった。ギロチン刑による死者数は総数およそ1万4千人~1万7千人、また一説によると4万人とされ、パリでは2600人だった。全国で猛威を振るった恐怖政治のうちヴァンデ戦争の中心地フランス西部では処刑数の74%を占め、全体の割合において突出している。有罪とされた罪状の78%が国家反逆罪で陰謀が19%、経済混乱罪は1%であった。処刑の目的は内戦の終結と革命の防衛にあったと見ていい[188]。革命裁判所では上訴も抗告もできず、判決は一度きりの絶対的なものであった。死刑の判決が出た場合は被告人の財産は国に没収された。初期には財産のない親族に没収財産は返還されたが、ヴァントーズ法成立後は死刑だけでなく追放刑を受けた者も、所有財産は全部無条件で没収され、貧者に再分配されることに改まった。
- ^ 12月19日ナポレオンの活躍によりトゥーロン市は奪回され、イギリス・スペイン・ナポリ他の同盟軍が同市を放棄して撤退。フランス軍が入城。報復のテロも始まる
- ^ 独立派の頭領パスカル・パオリによる反乱をイギリスが支援したことでフランスから分離して、ジョージ3世を国王にアングロ・コルシカ王国を称する反乱地域となっていた
- ^ 戦闘指揮は貴族出身の将校が長らく独占してきたが、恐怖政治期に貴族が次々と亡命したため有能な指揮官が不足した。そのため指揮官の任用に実力主義が取り入れられるようになった。軍の実力評価によって縁故のない若い士官が活躍できる土壌ができたことが、ナポレオンが後に頭角を現す契機となる。
- ^ 彼女は未亡人と呼ばれ、亡くなった際にはロベスピエール未亡人に準じるとして、共和主義者が大勢、葬儀に参列した。
- ^ 妹のシャルロットはこれを否定して、兄は生涯童貞だったと述べている。
出典
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- 1 マクシミリアン・ロベスピエールとは
- 2 マクシミリアン・ロベスピエールの概要
- 3 私生活
- 4 脚注
マクシミリアン・ロベスピエール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 21:51 UTC 版)
「静粛に、天才只今勉強中!」の記事における「マクシミリアン・ロベスピエール」の解説
初登場時は弁護士。融通の利かない性格でアラスでは浮いた存在だった。優れた弁舌によってアラス選出の平民議会議員となり、国民公会議員の選挙では選挙区をパリに移して当選する。一貫してモンターニュ派に属し、コティのような寝返り組を快く思っていない。ジロンド派をでっち上げ裁判で粛清し、さらに公安委員会委員長として独裁権を握り、モンターニュ派の穏健派と急進派を共に始末しようとしたため、議員の多くを敵にまわし、破滅した。
※この「マクシミリアン・ロベスピエール」の解説は、「静粛に、天才只今勉強中!」の解説の一部です。
「マクシミリアン・ロベスピエール」を含む「静粛に、天才只今勉強中!」の記事については、「静粛に、天才只今勉強中!」の概要を参照ください。
マクシミリアン・ロベスピエール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 03:44 UTC 版)
「イノサン」の記事における「マクシミリアン・ロベスピエール」の解説
シャルルの刑場の群集の一人として登場する、法律を学ぶ少年。利発で、他者を議論で圧倒する。
※この「マクシミリアン・ロベスピエール」の解説は、「イノサン」の解説の一部です。
「マクシミリアン・ロベスピエール」を含む「イノサン」の記事については、「イノサン」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
フランスの政治家 | エルヴェ・ド・シャレット ジャン=マリー・ロラン マクシミリアン・ロベスピエール クローディ・エニュレ グザヴィエ・ベルトラン |
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