ロジェ・デュコとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ロジェ・デュコの意味・解説 

ロジェ・デュコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/20 20:36 UTC 版)

ロジェ・デュコ

ピエール・ロジェ・デュコ: Pierre Roger Ducos1747年7月25日 - 1816年3月16日)は、フランス第一共和政から第一帝政の政治家。国民公会では議員に選出され、総裁政府では5人の総裁のひとり(ラ・ルヴェリエールの後任)となった。

生涯

1747年、アキテーヌのモンフォール=アン=シャロッスで生まれる。ランド県で選出され国民公会の議員になる。議会内の派閥では平原派に属した。1793年ルイ16世の処遇を決定するための投票が行われ、デュコは執行猶予なしの死刑に賛成票を投じたが、その後も国民公会内で目立たなかった。

1795年、国民公会は解散され、代わりに設立した上院にあたる五百人会で、デュコは議員に当選した。彼はフリュクティドール18日のクーデターを生き抜いて治安判事になり、さらにプレリアール30日のクーデターの後、味方を増やしたい総裁バラスの思惑で総裁に指名された。

1799年11月9日、ブリュメール18日のクーデターが起こった。総裁に指名されてからわずか半年後の出来事である。このクーデターで総裁政府が倒され、統領政府が成立した。1か月間臨時統領を務めたあと、ナポレオン・ボナパルト第一統領就任に賛成した。この功績で護憲元老院の副議長に就任した。

その後、デュコは伯爵に叙されたが、1814年にナポレオンを裏切り、その廃位に賛成した。復古王政で引き続き政治家を務めたがったが、ルイ16世の処刑に賛成したため大逆罪で追放され、1816年に交通事故でウルムで亡くなった。

脚注

 この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Ducos, Pierre Roger". Encyclopædia Britannica (11th ed.). Cambridge University Press. 




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロジェ・デュコ」の関連用語

ロジェ・デュコのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロジェ・デュコのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのロジェ・デュコ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS