反革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 02:45 UTC 版)
反革命(はんかくめい、英語: Counterrevolution[1][2][3], Counter‐revolution[4][5][6])とは、革命によって倒された旧支配層や反動勢力といった革命に反対する運動・勢力が革命の過程あるいは革命後に新体制を覆し[7][8][9]、旧体制を復活させようとする運動である[4][7]。「反革命」は、以下の2つの種類が存在する[6]。
概要
支配階級の既得権益を守るための抵抗と言えるが、支配階級といっても政権を握った革命勢力はすでに支配階級であるから、自由主義革命であったフランス革命においてもフランス国内外で反革命の動きが生じた。
1917年のロシア革命では最初の二月革命で権力を掌握した臨時政府は、帝政復帰を企むコルニーロフの反乱を「反革命」として抑え込んだ[10]。臨時政府はまもなく二段階革命論に基づいて行われたボリシェヴィキの十月革命により権力を奪われるがその際、アレクサンドル・ケレンスキーら臨時政府の面々はボリシェヴィキを「反革命」と呼んで批判していた。これに対し、ボリシェヴィキはロシア内戦において対立する白軍を「反革命」と規定していた。
社会主義国家が成立した以降は、反革命は社会主義革命を転覆させる運動と取られがちであるが、ハンガリー動乱においてはソ連が「反革命」と見なした動きに対して軍事介入を行うも、当のソ連が同じ左派陣営である日本社会党や日本共産党から「反革命」と批判されるなど、おおよそ矛盾する現象も発生した。
このように何を以って「反革命」と定義するかは一枚岩ではなく、その定義は時代や場所によって異なると言えるので注意が必要である。
実例
- 清教徒革命に対するイングランド王政復古[5][6]。
- フランス革命に対するブルボン朝の復古(フランス復古王政)[4][5][6]。
- 三月革命の失敗[5] – 革命途中に反動勢力の巻き返しに遭う[11]。
- ブルジョワ政府軍によるパリ・コミューンへの弾圧[5]。
- ロシア内戦の白軍 – ロシア革命後、赤軍に対抗・蜂起した反革命軍[12]。
- ハンガリー・ルーマニア戦争によるハンガリー評議会共和国の打倒[5]。
- イタリア王国におけるファシズム運動[6]。
- ドイツ国におけるナチズム運動[6]。
- チャウシェスク政権に対する蜂起[6]。ルーマニア革命 (1989年)#革命の推移を参照のこと。
反革命勢力
![]() | この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2018年10月) |
- ジャコバイト - 名誉革命の反革命勢力
- キューバ系アメリカ人財団
- 中国民主党 (中華人民共和国)
- 台湾#定義、中台関係#「解放台湾」と「反攻大陸」の時代(1949年~1978年)
- 自由ベトナム臨時政府
- ロシア解放軍、自由ウクライナ
- ポーランド亡命政府
- エストニア亡命政府
脚注
- ^ 反革命を英語で・英訳 - 英和辞典・和英辞典 Weblio. 2018年10月30日閲覧。
- ^ 反革命の英訳|英辞郎 on the WEB:アルク 英辞郎. 2018年10月30日閲覧。
- ^ プログレッシブ英和中辞典(第4版) コトバンク. 2018年10月30日閲覧。
- ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年10月30日閲覧。
- ^ a b c d e f 世界大百科事典 第2版 コトバンク. 2018年10月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年10月30日閲覧。
- ^ a b 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年10月30日閲覧。
- ^ デジタル大辞泉 コトバンク. 2018年10月30日閲覧。
- ^ 大辞林 第三版 コトバンク. 2018年10月30日閲覧。
- ^ “<第1次世界大戦と日本>第9回 『世界をゆるがした十日間』”. 読売新聞. (2021年12月22日) 2023年7月28日閲覧。
- ^ 大辞林 第三版 - 三月革命 コトバンク. 2018年10月31日閲覧。
- ^ 大辞林 第三版 - 白衛軍 コトバンク. 2018年10月31日閲覧。
関連項目
![]() | 関連項目が多すぎます。 |
反革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
三島は、ある種の社会改革を目ざした二・二六事件の将校の行動や陽明学を肯定していたが、日本の精神文化とは相容れない唯物史観やマルキシズム、あるいは未来幻想を暗示する進歩主義に基づく革命には断固として反対の姿勢を示している。そして、戦後の左翼の多くが反戦・平和・民主主義という耳障りがいいスローガンを掲げながらもマルキシズムの革命戦術を駆使し、疎外者や不幸な人たちを革命のための一つの齣として利用し権力闘争の場面へ連れていく〈欺瞞〉的なやり方を〈道義性〉が失われていると批判している。 われわれは戦後の革命思想がすべて弱者の集団原理によつて動いてきたことを洞察した。いかに暴力的表現をとらうとも、それは集団と組織の原理を離れ得ぬ弱者の思想である。不安、懐疑、憎悪、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の材料に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集団運動である。空虚にして観念的な甘い理想の美名を掲げる一方、もつとも低い弱者の情念を基礎として結びつき、以て過半数(マジョリティ)を獲得し、各小集団社会を〈民主的に〉支配し、以て少数者(マイノリティ)を圧迫し、社会の各分野へ浸透して来たのがかれらの遺口である。(中略)戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいはないが、純粋なヒューマニズムの動機にかられ、疎外者に対する同情と、正義感とによつて、左にあれ、右にあれ、一種の社会改革といふ救済の方法を考へたのであつた。しかし、戦後の革命はそのやうな道義性と、ヒューマニズムを、戦後一般の風潮に染まりつつ、完全な欺瞞と、偽善にすりかへてしまつた。われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。革命勢力からその道義性と、ヒューマニズムの高さを失はせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。 — 三島由紀夫「反革命宣言」 三島は、〈共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものです〉と述べ、共産主義支持の人が日本の階級制の存在を云々することに反問しながら、君主制のないアメリカの方が様々なメンバーシップや上流階級クラブなどのステイタス・シンボルが非常にたくさんあり、それらの甚だしい階級差や階級意識はアングロ・サクソンの文化の伝統でアメリカの成金が古いヨーロッパの階級を真似して作ったものであるとしている。そして、かたや共産主義も、日本の社会党や共産党の幹部が、一般庶民が持てないようなプール付きの別荘を軽井沢に保有している例や〈新しい階級〉について言及している。 1968年(昭和43年)に行なわれた学生とのティーチ・インにおいて、天皇制廃止論者の学生Fが、三島の『文化防衛論』に異議を唱え、天皇が支配した時代は多くの人間が奴隷であり一部の特権階級だけが属してきた文化は無意味だから、そんなものが伝統ならば壊した方がいいという主旨の発言で質問した際も、三島は以下のように反論している。 文化というものは結局マルキシズムの階級史観では絶対に解明できない。(中略)マルキシズムでも結局芸術の問題を一番理解したのはトロツキーだと思う。トロツキーは、政治はプロレタリア独裁、しかし文化はブルジョア的文化でよろしいということをいった。だからソヴィエト革命が始まって以来、トロツキーが権力を多少とも持っていたほんの一、二年の間だけにソヴィエトには文化と名のつくものが生れたのです。(中略)トロツキーはヒットラーと違うから、ヨーロッパのそれまでの文化をすべて頽廃的な都会的な文化とは規定しなかったから、ヨーロッパの新しい芸術も喜んでソヴィエトロシアへ取り入れた。そしてこのトロツキーは粛清されたんです、あなたのような人によって。いいですか。そして文化というものは特権階級の文化だと規定するあなた自身が日本語しゃべっているじゃないか。この日本語がどれだけ美しい蓄積の上につくられてきたか。何も宮廷の言葉ばかりじゃない。日本の庶民人民の言葉の中にも美しい日本語が残っているのに、いまあなたの日本語聞いてると一向美しくないのはまったくあなたの理論によく合っている。あなたはそういう日本語をつかうことによって、特権階級の文化を滅ぼしているのじゃなくて、あなた自身の文化を滅ぼしているのだ。 — 三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」 また三島は、戦後の革命勢力が教育現場や絵本・漫画を介して、支配者の天皇が奴隷の〈人民〉を虐待し支配していたという構図で日本に奴隷制があったかのように子供に教える動きがあることを非難し、学生Fにも、〈手塚治虫の漫画なんか見ると、あたかも人民闘争があって、奴隷制があって、神武天皇という奴隷の酋長がいて、奴隷を抑圧して(日本を)つくったように書いてあるが、あなたは手塚治虫の漫画を読み過ぎたんだ〉と言い返している。ラジオ番組「全国こども電話相談室」で日本神話について質問した子供に対して回答者の無着成恭が、唯物史観で神話を説明したり天岩戸を墓だと教えたりしていたことにも呆れていたが、三島は戦後まもない1948年(昭和23年)当時から、進歩主義的な文化破壊思想に嫌悪を持ち、フランス革命になぞって以下のようにも綴っている。 ギロチンへみちびく民衆は笑はない民衆です。おそろしくシリアスな、ニイチェ的笑ひとおそろしく無縁の民衆です。共産党系の雑誌や新聞に出てゐる漫画は笑ひを凍らせます。かれらはデスマスクをかぶつた民衆です。美の死刑執行人であるといふ自負すらもちえない精神です。銀蠅が芥箱から出てきてそこらをとびまはつてゐます。ブンブンといひて夜もねられず、といふところでせうが――かれらは「海」とは無縁の精神です。蠅は海のまへで引返します。かれらは翼をもたないくせに翅(はね)を翼だと思つてゐるのです。 — 三島由紀夫「伊東静雄宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)
※この「反革命」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「反革命」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。
反革命
「反革命」の例文・使い方・用例・文例
反革命と同じ種類の言葉
- 反革命のページへのリンク