なり‐きん【成(り)金】
成金
- 〔名〕「できぼし」に同じ、俄紳士、成りあがりたる金持。将棋の歩などの金になると云ふより出でたる語。
- 俄分限、貧乏者が一躍して富者となること。将棋などにて歩が成金となる如し。
- 俄かに大金持になつたことをいふ。将棊の駒が敵地に侵入すれば歩も金に成といふのから来たもの。
- 偶然的な事業によつて急に大金を得た成上り金満家のこと。将棋から出た語。
分類 東京
成金
成金(なるかね)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 10:16 UTC 版)
「リングにかけろ2」の記事における「成金(なるかね)」の解説
麟童(剣崎家)に婚儀を断られたため、三条家の政略結婚(負債返済のため)のために新たに一菜のフィアンセとなる成金商事のドラ息子。ドイツで挙式を行うが同時にドイツ大会出場中の麟童たち新世代日本Jr.を狙うジャコビニ率いるシヤッテンの策略のとばっちりを喰い式場は全焼。成金は一菜を見捨てて逃げる。その後も借金を理由に一菜を銀座のキャバクラで働かせるが、一菜は石松に連れ戻される。最終的に成金商事は事業に失敗し負債を剣崎コンツェルンに買い取って貰い麟童に媚び諂うようになる。
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成金(なりきん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 08:15 UTC 版)
「さくらんBOY DT」の記事における「成金(なりきん)」の解説
通販で購入した幸運のブレスレットを歩が装着する事によってパワーアップした姿。「最近彼女が出来た」と言い張っている。
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成金
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「白 NEXT GENERATION」の記事における「成金」の解説
本名は不明。太目でメガネをかけている。「Gehenna」でタケルと最速とともに卓を囲んでいた。金に物を言わせた打ち方をし、最速が全財産をつぎ込んだ時も容赦なく上乗せした。他人が死の恐怖におびえる姿を見て楽しむ冷酷な男。
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成金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
北炭に復帰した後の桃介は、会社での活動が軌道に乗るにつれて株式投資に乗り出す機会も増えていった。ただ本人曰く、日露戦争は日本が賠償金を獲得できない形で終わったため日清戦争時と異なり景気が良くなることはない、との説が一般的であったので、身を入れて株を買うということはなかったという。しかし終戦翌年の1906年(明治39年)春ごろから相場が高騰し始めたのを機に本格的な株式投資に乗り出した。9月ごろに一部を除いて手仕舞いするが、まだ相場が騰貴するので、大株主の雨宮敬次郎や田中平八が売り出した北炭株を買い始める。一時期は会社の乗っ取りも企てたが、株価の高騰であまりにも利益が上がるので12月から売り始め、まだ高騰を続ける中で売り繋いだ。 日露戦争後の株式投機で利益を挙げた桃介は「成金」の一人に数えられた。株式屋仲間の噂では、桃介はこの時期、仲買人の富倉林蔵・島徳蔵、相場師鈴木久五郎に次ぐ金額である350万円の巨利を得ているとのことであった。1907年(明治40年)1月半ばの株価暴落に際しては手元に若干の宝田石油株が残っており含み損を抱えたが、3月に増資ということで株価が一時高騰したので、このときに売り切って利益を得た。以後株式投資を止めて旅行へ出かける。足を洗った桃介に対し、3・4月の安値を見て買いに回った鈴木久五郎は没落してしまう。福澤とともに株式投資に熱中した松永安左エ門も暴落に巻き込まれ財産を失った。 株高期には投資に並行して会社の起業・買収にも関わった。株高で新たに株式を買い込むのが困難なため実業界進出も兼ねて新会社を立ち上げようと親友の岩崎清七を誘い、さらに馬越恭平・根津嘉一郎らと組んでまず帝国肥料という肥料会社の起業に着手する。馬越を創立委員長に立てて株式公募の広告を出したところ折からの好況を背景に募集が殺到、12円50銭の払込に対し株価が高騰して50円のプレミアムが付いた。会社は資本金300万円で1906年10月に発足、会長に馬越が就き、桃介も取締役に名を連ねた。この帝国肥料起業を機に桃介はたびたび発起人に名を貸すよう求められるようになり、1907年春の株価暴落までの間に、権利株を自由に売却可という条件で複数社の起業に関与した。 帝国肥料に関連し、根津と愛知県の半田にある「カブトビール」(会社名は丸三麦酒)を買収し、1906年10月丸三麦酒改め日本第一麦酒の取締役に就任した(社長は根津)。しかし同社取締役は就任から3か月後に辞職した。根津と意見が合わず、早々に持株を売却し関係を断ったたためである。その他、岩崎・根津らと組み紡績会社の起業に参加する。これが日清紡績株式会社(現・日清紡ホールディングス)で、1907年1月26日、資本金1000万円で会社が発足すると桃介は初代専務取締役に就任した。 日清紡績での活動については#事業・日清紡績も参照 日清紡績は戦後恐慌を挟んで1908年(明治41年)6月より工場の操業開始に至るが、先に発足した帝国肥料は横浜で肥料工場建設に着手しただけで開業に至らず1908年8月業界大手の大日本人造肥料(現・日産化学)に吸収された。また日清紡績に関連し、ともに同社専務となった佐久間福太郎と紡績工場の近で東武銀行(旧・葛飾銀行、資本金20万円)を共同経営するようになった。佐久間らと東武銀行の取締役に加わったのは1909年(明治42年)7月のことで、桃介が頭取の地位にあった。しかし銀行で起きた佐久間系幹部の不正事件を機に桃介は佐久間と対立し、このこともあって1910年(明治43年)までに日清紡績の持株をほとんど放出、常務取締役を辞任して日清紡績から撤退した。 東京では、日清紡績に続いて1907年2月に資本金100万円で東京袋織物という織物会社が発足すると監査役に就任。2年後の1909年1月取締役に転じ、経営再建のため推されて社長となり、専務に慶應義塾と北炭時代の後輩にあたる伊井熊次郎を就けて経営にあたった。1909年8月に同社は東京製布に改称したが、1911年(明治44年)6月会社解散となる。同年7月末には東武銀行取締役も辞任している。
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成金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:28 UTC 版)
昔昔亭A太郎、瀧川鯉八、桂伸三(現:桂伸衛門)、三遊亭小笑、春風亭昇々、笑福亭羽光、桂宮治、神田松之丞(現:神田伯山)、春風亭柳若、春風亭昇也とともに、落語芸術協会の若手落語家・講談師によるユニット 成金(なりきん)を結成している。 詳細は「成金 (落語家ユニット)」を参照
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「成金」の例文・使い方・用例・文例
- 研究助成金
- 彼らの議論は農業助成金や不法入国といった感情を引き起こす問題に集中した。
- エコカーを購入すると30万円の助成金をもらえる。
- 私の会社は継続雇用制度を導入しているため、継続雇用定着促進助成金を受給しています。
- 弊社は、自社の業績が低下したため、雇用調整助成金を受給する。
- 我が社は高年齢者等共同就業機会創出助成金によって設立された。
- 彼は受給資格者創業支援助成金を利用して小さな会社を設立した。
- 厚生労働省はわれわれに特定求職者雇用開発助成金を交付した。
- 助成金をもらえるほどラッキーだった。
- 私たちは助成金を交付します。
- 彼は助成金を手にすることができるそうです。
- 補助金も助成金もない大会
- 彼のプロジェクトは助成金でまかなわれている。
- 市場調査のためにオクテル社は研究者らにかなりの助成金をだした。
- トムは小川さんから多くの人が成金を軽蔑すると聞いた。
- 医学研究のための助成金.
- にわか成金.
- 農業助成金.
- 住宅助成金.
- 政府は基礎医学研究に未だに十分な助成金を出し渋っている.
成金と同じ種類の言葉
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