成都開城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 02:32 UTC 版)
劉璋は成都城中に3万の兵と1年分の兵糧があり備えが充分であることから抗戦しようとした。しかし劉備が李恢を当時張魯のもとに寄寓していた馬超のもとに派遣して帰順を説いたため、馬超は張魯のもとから出奔して劉備に帰順した(当時、馬超は張魯と不仲になっており、その配下の楊白らとも対立していた)。猛将として有名だった馬超が劉備に帰順したことを知った劉璋は震撼した。官民の多くは劉備と戦う覚悟であり、鄭度のように焦土作戦を進言するものもいた。法正は鄭度の作戦を劉璋は採用できないだろうと劉備を安心させ、自身は手紙を送り劉璋に降伏を勧告した。 214年夏5月、劉備が簡雍を降伏勧告の使者として送り込むと、劉璋は「わしはもはや領民を苦しめたくない」と述べ、降伏・開城した。
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