李恢
李恢
字は徳昂。建寧郡愈元の人。 はじめ建寧郡の督郵となった。叔母の夫の建伶県長爨習に違法行為があったが、益州太守董和は爨習が有力豪族だったため不問に付し、李恢は連座を免れている。推挙を受けて州に赴く途中、劉備が益州攻撃を開始すると聞くと、劉備の勝利を予見して緜竹に行って会見を求めた。劉備は彼を漢中に派遣して馬超を味方に引き入れさせた。成都城が陥落すると益州の功曹書佐主簿に任じられる。のちにある者が李恢は謀叛を企てていると讒訴したが、劉備は彼の無実を証明してやって別駕従事に昇進させた。 章武元年(二二一)、庲降都督鄧方が亡くなると、劉備は李恢に後任に誰が相応しいか尋ねた。李恢は「むかし趙充国は『私に勝る者はおりません』と言いました」と自薦したので、劉備は彼を庲降都督・使持節・交州刺史に任じた。 丞相諸葛亮が高定・雍闓・朱褒らの叛乱鎮圧を開始すると、李恢は道を尋ねながら建寧に向かった。しかし賊軍は互いに集まって昆明にて李恢軍を包囲した。李恢は諸葛亮との連絡も取れず二倍の敵軍に囲まれたため、彼らを欺いて言った。「官軍は兵糧が底をついたので撤退しようとしている。私は故郷に帰ってきたのだから、君たちと力を合わせたいと思う」と。賊はこれを信じて包囲を解いたため、李恢は追撃を加えて大いに撃破した。逃げる敵を追って南の槃江に進んで東の牂牁に迫った。こうして諸葛亮と連絡を取り合って戦功を立てたので、安漢将軍を加官のうえ漢興亭侯に封じられた。 官軍が凱旋したのち南方人が再び叛乱を起こしたが、李恢が討伐にあたり、蛮族の酋長を捕えて成都に移住させ、耕牛・軍馬・金銀・犀皮などを貢物として納入させたので軍資金は大いに潤った。 建興七年(二二九)、交州が呉の領有となったので建寧太守に移る。のち漢中に移り住んだが、同九年に亡くなる。 【参照】高定元(高定) / 爨習 / 朱褒 / 諸葛亮 / 趙充国 / 鄧方 / 董和 / 馬超 / 雍闓 / 劉備 / 益州 / 漢興亭 / 漢中郡 / 益州郡(建寧郡) / 建伶県 / 呉 / 交州 / 成都県 / 牂牁郡 / 槃江 / 緜竹県 / 愈元県 / 庲降 / 安漢将軍 / 県長 / 功曹 / 刺史 / 主簿 / 丞相 / 書佐 / 太守 / 亭侯 / 督郵 / 別駕従事 / 庲降都督 / 使持節 / 推挙 / 連座 |
李恢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/07 08:41 UTC 版)
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李恢 | |
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蜀漢 漢興亭侯・庲降都督・安漢将軍 |
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出生 | 生年不詳 益州建寧郡兪元県 |
死去 | 建興9年(231年) 益州漢中郡 |
拼音 | Lǐ Huī |
字 | 徳昂 |
主君 | 劉璋→劉備→劉禅 |
李 恢(り かい)は、中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。字は徳昂。益州建寧郡兪元県の人。子は李遺(または李蔚)。甥は李球。『三国志』蜀志に伝がある。
生涯
建寧郡の督郵を務めていた時、建伶県令であったおばの夫の爨習が罪を犯したため、連座して免職となりかけた。だが太守の董和は、爨習が豪族出身であったことを理由に罪を許し、李恢の免職を認めなかった。その後、董和は李恢を州に推挙した。なお爨習は孟獲の反乱に同調したが、諸葛亮の南方征伐を受けて帰順し、行参軍・偏将軍となり次いで領軍となって北伐にも加わっている。
ちょうどその頃、劉備は劉璋を攻撃するために葭萌城から出陣した(劉備の入蜀)。李恢は劉備が勝利すると考え、郡の使者と称して綿竹に赴いて劉備と対面した。劉備は李恢を気に入ったので雒城まで伴わせ、張魯の下にいた馬超を味方に引き入れるよう命じた。まもなく馬超は劉備に投降した。劉備が成都を降し益州を手に入れると、李恢は功曹書佐主簿に任じられた。
ある時、李恢は謀反の罪ありとして誣告されたが、劉備は事実無根であることを明らかにした上で、別駕従事に昇格させた。
章武元年(221年)、庲降都督の鄧方が死去した。誰を後任にすべきか劉備が李恢に問うと、李恢は「人間には長所と短所があり、それゆえ孔子は『人を用いるには、その能力に応じた使い方でなければならない』と申しております。そして、明主が上にあれば臣下は情を尽くします。このため、先零の役において趙充国は自分を推薦したのです」と答えた。劉備はこの返答を気に入り、李恢を庲降都督・使持節・交州刺史とした。
建興元年(223年)に劉備が死去すると、南中で高定・雍闓・朱褒が反乱を起こした。建興2年(224年)、諸葛亮は呉に使者を送って友好関係を回復させた上で、建興3年(225年)に自ら兵を率いて南中へ親征した(「後主伝」)。李恢は諸葛亮に従って南征に参加し、別働隊を任された。昆明で倍の兵に囲まれたが計略を用いて撃破し、逃げる敵を追って牂牁郡まで至った。この功により、安漢将軍・漢興亭侯となった。
諸葛亮が去った後、南中では再び異民族の反乱が起き、雲南太守の呂凱が反乱軍に殺害されたため、李恢は兵を率いて反乱を鎮圧した。また、南中の有力者たちを成都に送り、牛馬・金銀などの貢物を納入させたので、一時的に軍事費は大いに潤った。
建興7年(229年)、交州は呉に従属したので、交州刺史を解任され建寧太守となった。その後漢中に移り、建興9年(231年)に死去した。
物語中の李恢
小説『三国志演義』では、馬超を降伏させた功績が大きく取り上げられており、弁舌の士として描かれている。
民間伝承では、李恢の子の李蔚(架空人物)が関索の妹(関羽の三女)を妻に迎えており、諸葛亮が李恢を派遣して南中へ進攻した際、李蔚夫婦は関索とともに先鋒となって反乱を平定している。
李恢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)
「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「李恢」の解説
元劉璋の配下。字は徳昂。馬超と戦う玄徳に味方し、馬超を説き伏せ降伏させることに成功する。
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