追撃
追撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:23 UTC 版)
「ツァボの人食いライオン」の記事における「追撃」の解説
1頭が死んでも、人食いライオンはもう1頭残っていた。1頭目が死んでほんの2、3日後に、ライオンは鉄道監督官を狙った。ライオンは監督官のいるバンガローの階段を上り、ベランダを徘徊していたが監督官はその物音を酔っぱらった労働者の立てるものと思い込んで、「あっちへ行け!」と怒鳴りつけた。監督官を襲うのに失敗したライオンは、その代わりにヤギ2頭を襲ってその場で空腹を満たした。 この話を聞いたパターソンは、次の日の夜に監督官の住まいのそばで見張りをすることに決めた。近くには無人の鉄製の小屋があり、銃を発砲するのに適したのぞき穴も備わっていた。小屋の外には3頭のヤギをおとりとしておき、重量が110キログラムほどもある鉄製のレールにつないだ。夜明けの直前までは、平穏に過ぎていった。ライオンはそのときに現れて、ヤギのうち1頭にとびかかり、他の2頭もろともレールごと引きずっていった。パターソンはライオンのいる方向に向けて数回発砲したが、真っ暗だったためライオンではなくヤギのうち1頭に当たったのみであった。 朝になって、パターソンはキャンプから来た数名の者とともにライオンの追跡を敢行した。ヤギとレールが残した跡はすぐにわかり、400メートルほど先でライオンがヤギをむさぼっている場面に遭遇した。パターソンたちが近づく音に気づいたライオンは茂みに身を隠し、腹立たしげな唸り声を上げた。さらに近づいたところ、ライオンは茂みを突き抜けて攻勢に転じたため、ほとんどの者が手近な木に急いで登り難を逃れた。パターソンと助手のウインクラーのみがその場に残った。ライオンは結局襲ってこず、ひそかにその場を逃れていた。茂みの中には、ほとんど手をつけられていないヤギの死骸のみが残されていた。 パターソンはライオンがいつもどおり、もう1度獲物を食べに来ることは間違いないと踏んで近くに頑丈な足場を組み立てて、日暮れ前にその上に登った。パターソンは連日の追跡や夜の不寝番などで疲労が蓄積していたため、鉄砲持ちのマヒナを交代要員として伴っていた。パターソンが寝入っているときに突然マヒナが腕をつかんで、「シャー(ヒンズー語でライオンを意味する)」とただ一言伝えてきた。早速パターソンは自分の2連銃を装備し、ライオンの出現を待ち受けた。 ライオンはやがて姿を現し、忍び足でパターソンたちがいる地点のすぐ下を通った。パターソンはすかさず、両方の銃身からライオンの両肩を狙って発砲した。ライオンはこの攻撃を受けてよろめいたため、パターソンは別の連発銃を装備した。しかし発砲の前にライオンはやぶの中に逃れ、その方向をめがけて撃ちまくるしかなかった。 夜が明けると、パターソンはライオンの後を追った。2キロメートルくらいの距離は、ライオンの血痕をたどるのは容易だった上に何回も休んだ痕跡が見受けられたので、相当な負傷をしていることは明らかだった。結局ライオンは見つからず、岩だらけの場所で後を追うのが難しくなったためパターソンはそれ以上の追跡を断念した。 この時期に、元国営鉄道でインド政府付き顧問技師を務めていたリチャード・モールワースが、視察旅行の途上でツァボを訪問した。モールワースは鉄橋などの工事を調査してその成果に満足したことを伝え、写真をたくさん撮影した。モールワースは、ライオンの襲撃などの試練についてパターソンに大いに同情した。2頭目のライオンをそのうちやっつけるつもりかと質問を受けたパターソンは「近日中にやっつけます」と自信をもって答えたが、モールワースは半信半疑の様子であったという。 ライオンはその後10日ほど姿を見せなかったので、パターソンたちはあのときの傷がもとになって死んだものと思い始めた。ただし、夜の警戒は怠らずに続けたため、結果的にそれ以上の犠牲者を増やさずに済んだ。12月27日の夜、パターソンはトロッコ係の作業員たちの怯えた叫び声で目を覚ました。作業員たちはボマのすぐ外側にある木の上で睡眠をとっていたが、ライオンがそこを狙っていた。雲に隠されて月の見えない暗夜だったため外へ出ることはできず、パターソンは2、3発発砲してライオンを追い払った。翌朝、ライオンがそれぞれのテントまで入り込んだり、木の周りを輪になって巡ったりした痕跡が発見された。 翌日パターソンは、作業員たちがいた木の上に陣取ってライオンを待つことにした。幸先の悪いことに、パターソンが木に登るときに手をかけようとした枝には毒蛇が巻き付いていた。パターソンが慌てて木から降りると、その事態に気づいた部下の1人が長い棒を使って毒蛇を木から引きはがすことに成功した。 その晩は明るい月夜で、見通しもよかった。パターソンはマヒナと一緒に待機し、午前2時まで見張りをした後でマヒナと交代した。1時間ほど睡眠をとった後、パターソンは異様なものを感じて突然目を覚ました。見張りを続けていたマヒナの方では特段気がついたことはなく、パターソンも周囲を見回したものの異変は発見できなかった。パターソンが再び休息をとろうとしたとき、少し離れたところで何かが動く気配がした。その場所に注意を払ってよく見ると、まぎれもなくあのライオンがいた。 木の周囲には、ところどころに小さな草むらがあるのみで見通しはかなり良かったが、ライオンはその草むらを巧妙に利用しながらじわじわと距離を詰めてきていた。パターソンは逃げられることを防ぐために、ライオンがさらに近づくのを待ち受けた。ライオンが20メートル以内に距離を縮めたのを見計らって、パターソンはその胸部を狙い撃ちした。弾はライオンに命中したものの、撃ち倒すまでには至らなかった。ライオンは唸り声を上げて方向転換し、大きく跳び上がって逃れようとしたが、パターソンはすかさず連発銃で3発撃ちこんだ。ライオンがまた唸り声を上げたため、この射撃も命中したことがわかった。 夜が明け始めてから間もなく、パターソンとマヒナは現地人の追跡者を伴ってライオン追跡に出発した。ライオンは多量に出血したまま逃げていたため、追跡は容易なことであった。一行が林の中を400メートル足らず進んだところで、突然ライオンの唸り声がすぐ前方で聞こえた。やぶの向こうに、ライオンが牙をむいて一行をにらみつけ、唸りながら威嚇しているのが見えた。パターソンが狙いを定めて発砲したところ、ライオンは跳び上がって逆襲を仕掛けてきた。パターソンはもう1発発砲して1度ライオンは倒れたが、すぐさま立ち上がって片足をひきずりながらも再度立ち向かおうとした。 パターソンは3発目を発砲したが、目覚ましい効果はなかった。今度こそとどめをさそうとして、パターソンはマヒナが持っているはずの銃を手渡してもらうべく手を出したが、そこにマヒナはいなかった。マヒナは突然のライオン襲撃に恐れおののいて、銃を持ったままで木に登っている最中であった。パターソンもやむなく、木に登ってライオンの攻撃を逃れることにした。ライオンが足に負傷していたため、パターソンはやっとのことで攻撃されないところの枝にぶら下がることができた。 一行を取り逃がしたことを悟ったライオンは、やぶへ引き返してその場を立ち去ろうとした。パターソンはマヒナの手から銃を奪い、すかさず撃った。1発目が命中し、ライオンは前のめりに倒れて動こうとしなかった。パターソンがすぐさま木から降りてライオンに近寄ると、ライオンの体がいきなり跳び上がって彼を驚かせた。だが、ライオンの抵抗もそこまでで、胸と頭に受けた銃弾のダメージで絶命することになった。ライオンはパターソンから5メートルも離れていない場所にくずおれ、その口に折れ枝をしっかりとくわえた状態で死を遂げた。
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追撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 14:57 UTC 版)
追撃とは退却する敵に対して追跡して加える攻撃である。敵の後方を追尾して行う追尾追撃と、敵の退却と並行する別路を移動して行う平行追撃がある。この追撃を実行する場合は、敵の退却の状況を的確かつ速やかに把握し、時期を逃さないことが重要である。敵は退却に先立って一部の部隊による攻撃を行い、その間に本隊の離脱を図る場合がある。この場合、捕虜・スパイ、偵察員などから情報を収集し敵の状況を正確に把握する手段を講じなければ成らない。
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追撃
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追撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 01:37 UTC 版)
20時18分、ビーティーは陣形が未だ乱れたままのドイツ艦隊を発見して攻撃を開始した。直ちに反撃できたのは満身創痍の偵察部隊、旧式戦艦からなる第2戦隊(司令官:モーフェ少将)だけだった。ビーティーが大洋艦隊を抑えている間にジェリコーの部隊も追いつく。しかし20時24分から日が落ち始め、大洋艦隊とビーティーの部隊の区別がつかなくなりジェリコーは追撃を断念して南に転進、大洋艦隊は離脱に成功した。この間、英戦艦キング・ジョージ5世と独戦艦ヴェストファーレンが数度の砲撃を交えたが、双方とも第一次世界大戦において弩級戦艦同士の戦闘がこれで終わるとは想像していなかった。 21時、「大艦隊」の夜戦での弱さを認識していたジェリコーは、払暁まで大規模な交戦を避けようと考えた。彼はシェアがエムズへ逃亡するのを防ぐために南進する間、後方を警備させるため主力艦隊の後方に巡洋艦と駆逐艦の列を置いた(図の7)。実際には、シェアは英国艦隊の航路前方を横切りホーンズ岩礁方面へ逃亡しようと企てていた。シェアにとっては幸運なことに、ジェリコーは慎重になりすぎて多くの状況証拠からドイツ艦隊がジェリコーの背後を取りつつあると判断してしまったため、ジェリコーの偵察艦はシェアの本当の進路を発見できなかった。 シェアの逃走とジェリコーの不活発がドイツの夜戦能力の全面的優位を物語っているとは言え、夜戦の結果は会戦全体ほど明瞭ではない。グッドイナフの旗艦サザンプトンは深刻な損傷を受けていたが、有効な偵察を行っており、ドイツの軽巡洋艦フラウエンロープを何とか撃沈した。フラウエンローブは22時23分に全乗組員320名とともに沈没した。しかし、6月1日2時、運の悪い第一巡洋艦戦隊のブラック・プリンスは戦艦チューリンゲンの砲撃で致命傷を受け、戦隊の旗艦ディフェンスの数時間前の運命を再現するかのように、全乗組員857名とともに轟沈した。 2時10分、イギリス第12水雷戦隊はドイツ艦隊に向けて魚雷を発射した。駆逐艦5隻の喪失といくらかの損傷と引き換えに、どうにか前弩級戦艦ポンメルンを全乗組員844名とともに沈め、軽巡洋艦ロストックに魚雷命中、さらに弩級戦艦ポーゼンに衝突されて放棄された軽巡洋艦エルビングに損傷を与えた。 大破して航行不能となっていた巡洋戦艦リュッツオウは、生存者1,150名が脱出した後の1時45分に自沈した。 ジェリコーの過剰な慎重さに加えて、ドイツ海軍はロンドンの海軍情報局の失策にも助けられた。海軍情報局は、大洋艦隊の正しい位置を知らせる無線傍受を転送したが、ジェリコーがシェアの居場所をつかんだのは4時15分のことであり、もはや戦闘を続けられないのは明らかだった。1916年には「栄光の6月1日」は訪れそうになかった。(午後7時6分、第1戦艦戦隊第5戦艦隊の指揮官ゴーント少将が同隊旗艦「コロッサス」に「光栄ある6月1日の伝統を記憶せよーベルギーの為に復讐せよ」と信号を掲げた。※「北海海戦史」第5巻p415) 大洋艦隊主力は1日午後にはヤーデ湾に帰投。夜明けまでドイツ艦隊を探していたジェリコーもドイツ艦隊主力の帰投の連絡を受け、自艦隊への帰還命令を出した。
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追撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 08:45 UTC 版)
第6師団は米軍第9軍団の華川進撃に参加し、北漢江西側の鶏冠山-北培山-加徳山-芝岩里を攻撃することになった。5月25日午前、第6師団は、第2、第7連隊が中共軍の防御拠点である鶏冠山-北培山の高地群を攻撃している間に第19連隊を北培山後方に迂回させ、退路を遮断するように命じた。第9軍団は、第10軍作戦地域から抜け出た1万~1万2000名余の部隊と多数の車両や野砲が長蛇の列をなして華川ダムの南側を過ぎ華川に向かっているとの航空偵察による報告を受けると、第19連隊は芝岩里を西側から攻撃させ、第6師団主力は第7師団と華川ダムを攻撃するため春川に集結させた。 5月27日、第6師団主力は攻撃を開始し、中共軍の軽微な抵抗を撃退して九萬里発電所-屏鳳山を連ねるカンザスラインに進出した。当時の状況を張都暎准将は「後退する中共軍を追撃する間、道端でうずくまった中共軍兵士をごみを拾うようにトラックに載せていったが、わが軍の小隊規模の部隊が敵の大隊規模の部隊を捕虜にしていくという珍風景が演じられた」と証言している。この朗報に接した李承晩大統領はこの作戦の勝利を褒め称えるため、華川ダムを野蛮な外敵を大破させた湖という意味で「破虜湖」と呼ぶことにした。 5月28日、第6師団は華川ダム西側に進出して中共軍主力の後退を確認した。目標である華川の占領が大幅に遅れたため、中共軍を完全に包囲することは出来なかった。
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