視察旅行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
(1888年)明治21年12月2日よりヨーロッパ各地へ視察旅行に出る。外国の地方自治制度と軍事および国会と地方議会の関係の調査が目的だった。フランスでは軍人政治家ジョルジュ・ブーランジェが大衆の人気を背景に打倒政府の首領に担がれたクーデター未遂事件(ブーランジェ将軍事件)を見聞、翌(1889年)明治22年2月11日の宮中での大日本帝国憲法発布式典には、フランス滞在中のため臨んでいない。伊藤も遊学しており、当時「シュタイン詣で」とさえ言われるほど日本政府の要人らがオーストリア・ウィーンの憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山縣も訪問している。ほかにイタリア、ドイツ、イギリスにも出かけ、ドイツでグナイスト、クルメツキ(ドイツ語版)、ビスマルク、ヴィルヘルム2世らのもとを訪問している。しかし山縣は外国語ができず、その国の事情を十分に知ることができないとこぼしている。また議会を見学した際には「空論を主張するものが声望を得る」と批判的な感想を持った。10月2日に帰国した。 旅行で山縣が得た知識・体験は中央で急進的な民衆運動が政治を混乱させていること、対照的に地方議会は平穏な状態を見て国会開設を否定的に捉えるようになった。 自治制に協力したモッセの師にあたるグナイストからは、町村は住民の自治を基盤とするドイツ制度でよいとしながら、それより上の府県レベルには導入すべきでなく、官選の知事の権限が強いフランスの制度を採り入れることを忠告され、帰国後に公布された府県郡制に反映された。また、かつて大久保利通にも教示したシュタインやクルメツキたちからは、それぞれ外交方針と議会操縦を学び、これは帰国後に山縣が第1回帝国議会で発表する「主権線」「利益線」の概念と議会支持者の形成などに活かされるようになる。
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