クーデター未遂事件
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「フアン・カルロス1世 (スペイン王)」の記事における「クーデター未遂事件」の解説
1981年2月23日、国王親政の復活を求めるアルフォンソ・アルマダ・コミン陸軍参謀次長の信任を受けた、グアルディア・シビル所属のアントニオ・テヘーロ中佐が率いる約200人の兵士により議会が占拠され、アドルフォ・スアレス首相ら閣僚と議員350人が人質に取られるクーデターが発生した(23-Fと呼ばれる)。しかし国王はこの申し出を拒否し、直ちに全軍の指揮官に対してこのクーデターに賛同しないよう呼びかけると同時に、テレビで国民に平静を呼びかけ、民主政治の維持を図った。また、翌24日には陸軍兵士らも国王の呼びかけに応じて投降したため、国民から国王への信頼は不動のものとなった。 このとき、感想を問われ「自分の給料分、働いただけです」と答えた。しかしフアン・カルロスの非公認の「伝記」を著したパトリシア・スベルロによれば、「このクーデターは国内を政治的に安定させ、国王の人気を高めるために仕組まれたものであった可能性もある」という。ともあれ、その後も国王としてのフアン・カルロスの人気は絶大さを保った。2005年に保守系新聞『エル・ムンド』紙によって行われたアンケートによれば、国王に対して「良い」あるいは「非常に良い」印象を持っている国民は77.5%に達しているが、カタルーニャ州やガリシア州では、国王の肖像写真が白昼堂々と公衆の面前で燃やされるなどの事件も起きている。
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クーデター未遂事件
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「サイモン・マン」の記事における「クーデター未遂事件」の解説
1997年、引退し南アフリカ共和国へ移住。近所にはスペンサー伯爵やマーク・サッチャー(英語版)(マーガレット・サッチャーの息子)などのイギリス上流階級の邸宅が立ち並んでいた。 2004年、ジンバブエで傭兵仲間のニック・ドゥトワらと赤道ギニアのクーデターを計画した。話を持ちかけたのは南アフリカのケープタウンに在住していたマーク・サッチャーやイーライ・カリルらイギリスの財界人であり、テオドロ・オビアン・ンゲマを失脚させ、セヴェロ・モトによる新政権を樹立させる計画だった。 マンは自身の会社ロゴ・ロジスティック社名義で登録したボーイング727を用意して64人の作戦要員と共に赤道ギニアに入国し、赤道ギニアで武器を調達していたドゥトワら15人と合流しクーデターを決行する計画だった。しかし南アフリカから情報がリークされ、ジンバブエのハラレ空港に到着したところ、治安部隊に包囲されクーデター容疑で逮捕された。また、このリークにはフランス諜報部が関わっていると言われている。 マンは法廷にて34年の刑を受けたが2009年に恩赦により釈放を受けた。マーク・サッチャーが資金援助に加わったとされる。
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