クーデター後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 04:44 UTC 版)
政権を奪取したクーデター派は、まず、バアス党員12名とナセル主義者・無所属派8名の計20名から構成される革命指導国民評議会(NCRC)を設置した。3 月9日には、バアス党創設者の一人であるサラーフッディーン・アル=ビータールに、政府を形成し、NCRCの政策を実行するように要請した。その後、6名の文民がNCRCのメンバーに迎えられた。3名のバアス党員(アフラク、ビータール、マンスール・アル=アトラシュ)と3名のナセル主義者であった。しかし、権力のバランスは崩されず、将校がまだ国を掌握していた。この頃から、軍事委員会は他のNCRCメンバーの知らないところで、政策形成をするようになった。文民指導者はこれに気づき、アトラシュ「なぜ彼らは話さないのか?彼らに連絡将校を任命するよう提案しても良いだろうか?」と言った。その日から、ウムランが軍事委員会の計画について文民指導者側に多少は話すようになった。 初めは軍事委員会を攻撃する論争の兆候はなかった。その時点では、メンバーは豊かな国を作るという目標で互いに結びついていた。3月9日に、NCRCは ルーアイ・アル=アタッシを刑務所から釈放し中将に昇進させ、最高司令官とNCRC議長に任命し、事実上の国家元首とした。ハリーリーは参謀長に任命された。アタッシとハリーリーは有力なポストに就任させられたものの、彼らはNCRCを脅かすのに十分な影響力を保持していなかった。ナセル主義者も注目される役職を与えられた。スーフィーは国防大臣となり、キターニーは参謀次長となった。しかし、軍事委員会は委員を5 名増やし、バアス党の真の権力を掌握した。軍事委員会は、NCRCとの打ち合わせ前に政策決定を行ない、そうすることによって、真の権力者となった。 ウムランは最初にホムスの第5旅団司令官の地位を与えられたが、6 月に第70機甲旅団の指揮官に昇進させられた。ジャディードは、将校事務局長として、友人を要職に任命し、敵を追放し、さらに数名のバアス党員を要職に任命した。ホムスの陸軍士官学校はバアス党の支配下に置かれ、アサドの弟のリファアト・アル=アサドを含む数百人のバアス党員に、司令官職を与える前の短期集中コースを受講させた。アサドは30代にしてシリア空軍の事実上のトップになった。軍事委員会は、メンバーがあまりにも若く、市民に真の指導者とみなされないのではないかと考え、内務大臣にはアミーン・アル=ハーフィズ大佐を任命した。
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