権力を掌握
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司馬倫は都督中外諸軍事・相国・侍中に就任して権力を手中に収めると、孫秀もまた大郡に封じられて中書令に任じられ兵権を握った。文武百官で封侯された者は数千人にも及び、みな司馬倫の指示を仰ぐようになったが、司馬倫は非識字者であったので実際には孫秀が政治を運用して百官を動かしていた。そのため衆望は次第に司馬倫ではなく孫秀の下に集まるようになった。8月、恵帝の弟である淮南王司馬允は司馬倫・孫秀らの討伐の兵を起こしたが、乱は寝返った司馬督護・伏胤が司馬允を斬り殺した事で鎮圧された。この乱を受けて孫秀は司馬允の子の秦王司馬郁・漢王司馬迪を始め数千人を連座で処刑し、その際には無関係であった者までもがその財産の没収や私怨の発散を目当てに処刑された。また孫秀は斉王司馬冏の存在も警戒し、許昌へ出鎮させて中央から遠ざけた。 孫秀が司馬倫に九錫を下賜するよう恵帝に上奏すると、百官で敢えて異議を唱える者はいなかった。しかし、吏部尚書劉頌は「かつて、漢は魏に九錫を下賜し、魏もまた晋に九錫を下賜しましたが、それはあくまで特例であり、これを平時の制度としてはなりません。周勃・霍光は功績多大な身でありましたが、九錫は与えられておりません」と反対すると、司馬倫の側近張林は怒り「劉頌は張華と結託していた。処刑すべきだ!」と述べたが、孫秀は「張華と裴頠を処刑した事で、既に民衆の信望は損なわれている。そのうえで劉頌まで殺すべきではない」と反対すると張林は同意し、劉頌は光禄大夫に任じられた。司馬倫に九錫が下賜されると、孫秀は侍中・輔国将軍・相国司馬に任じられ、右率である事はこれまで通りであった。 301年1月、司馬倫の意を受けた孫秀は帝位簒奪の準備を進め、腹心に諸軍を統率させて各地に配した。また、牙門趙奉に命じて宣帝(司馬懿)の神語であると称して「東宮(相国府)の司馬倫は速やかに西宮(禁中)に入るように」と宣言させた。司馬倫が恵帝に禅詔(帝位を譲る詔)を書かせて帝位を簒奪すると、孫秀は侍中・中書監・驃騎将軍に任じられ、儀同三司の特権を与えられた。さらに司馬倫は孫秀を厚遇するようになり、かつて文帝司馬昭が相国だった時に住んでいた内庫に住まわせた。政事は孫秀が専断するようになり、事の大小にかかわらず、すべて孫秀の許可を得てから実行に移された。また司馬倫の詔を下した際には、孫秀がしばしばそれを書き換えた上で詔書とした。朝に出された勅命が夜には変えられるといった事も多く、百官の異動も頻繁に行われた。 孫秀は国家の大権を掌握すると、欲しいままに奸謀をなし、多くの忠臣・良将を殺して私欲を満たしたという。また孫秀は同じく側近の張林と以前より関係が悪く、表面上はお互い尊重し合っていたが、裏では妬み合っていた。また、張林は自らに開府の特権が与えられなかったことを恨み、太子司馬荂に手紙を書いて「孫秀は専権して人心を失っており、功臣も全て小人で朝廷を乱しております。まとめて誅殺すべきです。」と勧めた。だが、司馬荂はこの手紙を司馬倫に見せると、司馬倫は孫秀に渡した。孫秀は張林を逮捕するよう司馬倫に進言すると、司馬倫は同意した。司馬倫は華林園に宗室を集めて会合を開くと、張林を招集させた。孫秀は王輿に乗って入殿すると、張林を捕らえて三族と共に誅滅した。
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権力を掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:14 UTC 版)
司馬倫は詔と称して大赦を下すと、自ら符節を持って都督中外諸軍事・相国・侍中となり、権力を手中に収めた。司馬倫は人望を得るため全国の名士を登用し、かつての平陽郡太守李重・滎陽郡太守荀組を左右の長史に、王堪・劉謨を左右の司馬に、尚書郎束晳を記室に、淮南王文学荀崧・殿中郎陸機を参軍に任じた。 5月、亡き皇太子司馬遹の名誉が回復されると、その子である臨海王司馬臧が皇太孫に立てられた。司馬倫は太孫太傅を兼務し、皇太孫を補佐した。司馬倫はひとまずは人心の掌握と恵帝の補佐に務めていたが、次第に権力の独占を志向するようになった。しかし司馬倫自身は才能に乏しく知略が無かったので、実際には政治を担っていたのは中書令となった孫秀であった。そのため、衆望は次第に司馬倫ではなく孫秀の下に集まるようになり、司馬倫自身の求心力は全く無かった。
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