権力基盤の確立に向けてとは? わかりやすく解説

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権力基盤の確立に向けて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 06:54 UTC 版)

細川晴元」の記事における「権力基盤の確立に向けて」の解説

それまで権力者だった細川高国滅ぼした晴元だったが、堺公方としての政権奪取というこれまでの方針転換。現将軍義晴和睦し、その管領に就こうとした為に三好元長対立してしまう。細川京兆家家督管領の座さえ手に入れば別に義晴将軍のままでも良かったという事である。共通の敵高国滅ぼして僅か2ヶ月内部対立表面化した堺公方であったが、高国討伐功労者であった元長に対し、それを邪魔者と見る畿内国衆晴元の下に結集した享禄5年(1532年)、晴元肩入れする木沢長政攻撃する元長を排除すべく、茨木長隆摂津国衆が策謀凝らして本願寺10世法主・証如一向一揆蜂起依頼提言証如快諾蜂起した一揆軍によって自らの手を汚す事なく元長を堺で敗死させただけでなく、不和になった足利義維阿波への放逐にも成功した飯盛城の戦い)。長政主君で、元長の支援受けていた畠山義堯巻き込まれ一向一揆討たれている。 内部反対派排除し将軍義晴和睦できた晴元は、蜂起したまま乱行重ねた一向一揆軍の鎮圧神経費やした一向宗対立宗派であった法華宗とも協力して法華一揆誘発させ、他にも領内一向宗活動悩まされていた近江国六角定頼とも協力して山科本願寺攻めた山科本願寺の戦い)。山科本願寺焼亡後、石山本願寺移転した一向一揆戦い天文2年1533年)に一向一揆反撃遭い堺から淡路国亡命したが、摂津池田城復帰して体勢立て直し天文4年1535年)に和睦した享禄・天文の乱)。天文3年1534年)に木沢長政仲介三好元長嫡男三好長慶とも和睦し家臣組み入れた天文5年1536年)、京都勢力伸ばした法華衆に対し比叡山延暦寺六角定頼連合して壊滅させた(天文法華の乱)。同年細川高国残党率いて敵対していた高国の弟・晴国も討ち取り畿内安定させ、天文6年1537年)に右京大夫任官され、管領として幕政支配した。なお、この年4月19日には六角定頼猶子となっていた三条公頼の娘が晴元嫁いでいる。だが、一方で足利義晴が本来は敵方である晴元対抗するために権力機構整備したこと、六角定頼幕府内での発言力高まったこと、両細川の乱以前からの細川京兆家譜代家臣内衆)の多く細川高国配下として運命を共にしたことによる京兆家政治的ノウハウ喪失などによって幕政における細川京兆家発言力大きく低下したとする指摘もある。

※この「権力基盤の確立に向けて」の解説は、「細川晴元」の解説の一部です。
「権力基盤の確立に向けて」を含む「細川晴元」の記事については、「細川晴元」の概要を参照ください。

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