山科本願寺の戦い
山科本願寺の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 08:54 UTC 版)
詳細は「山科本願寺の戦い」を参照 大和で暴挙に及んだ一向一揆が転進してくる、との噂に怯える都では享禄5年(1532年)7月28日、法華一揆が蜂起した。これには法華信者で、飯盛城の戦いで自害した三好元長の仇討ちという側面もあったと考えられている。法華一揆の蜂起により、細川晴元は法華一揆衆と手を結んだ。 改元後の同年(天文元年)8月23日には山科本願寺の周囲に布陣し、翌日24日早朝より攻撃を始めた攻囲軍によって、寺町周辺のあちこちを放火され大勢を決した。山科本願寺は陥落したのである。その際、17歳の法主・証如は、大叔父・実従(蓮如13男)によって寺宝ともども助け出され、大坂御坊へ避難した。 ただ山科本願寺を焼消させても、この戦いではまだ決着せず、同年9月末に山崎周辺で一向一揆衆と法華一揆衆は再び戦闘状態に突入。この時は一向一揆衆が勝利し付近を放火、京都に攻め入ろうと情勢になったようだが、法華一揆衆が洛中で打ち廻りを行い、10月になって平静に戻った。 その後の詳細は石山本願寺への移転と和議成立を参照。
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