山科本願寺の戦いとは? わかりやすく解説

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山科本願寺の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/23 04:17 UTC 版)

山科本願寺の戦い(やましなほんがんじのたたかい)は、天文元年(1532年8月23日 - 24日にかけて行われた細川晴元六角定頼京都法華一揆の連合軍と浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との戦い。山科本願寺合戦(やましなほんがんじかっせん)ともいう。




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山科本願寺の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 08:54 UTC 版)

山科本願寺」の記事における「山科本願寺の戦い」の解説

詳細は「山科本願寺の戦い」を参照 大和暴挙及んだ一向一揆転進してくる、との噂に怯える都では享禄5年(1532年7月28日法華一揆蜂起した。これには法華信者で、飯盛城の戦い自害した三好元長仇討ちという側面もあったと考えられている。法華一揆蜂起により、細川晴元法華一揆衆と手を結んだ改元後の同年天文元年8月23日には山科本願寺周囲布陣し翌日24日早朝より攻撃始めた攻囲軍によって、寺町周辺あちこち放火され大勢決した山科本願寺陥落したのであるその際17歳法主証如は、大叔父実従(蓮如13男)によって寺宝ともども助け出され大坂御坊避難した。 ただ山科本願寺を焼消させても、この戦いではまだ決着せず、同年9月末に山崎周辺一向一揆衆と法華一揆衆は再び戦闘状態に突入。この時は一向一揆衆が勝利し付近放火京都攻め入ろう情勢になったようだが、法華一揆衆が洛中打ち廻り行い10月になって平静に戻ったその後詳細石山本願寺への移転和議成立参照

※この「山科本願寺の戦い」の解説は、「山科本願寺」の解説の一部です。
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