山科本願寺焼討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:02 UTC 版)
詳細については山科本願寺の戦いも参照。 三好元長の排除を狙っただけが、思いもよらぬ悪影響を招いた結果に驚いた細川晴元は室町幕府管領の立場から、本願寺との決別と一向一揆鎮圧を決意する。一方、晴元の変心を知った蓮淳もそれまでの一向一揆の行動を事実上追認して細川晴元攻撃を命じ、全面対決に至った。 そこでまず晴元の命令に木沢長政が従い、更に晴元の臣茨木長隆の画策により、一向一揆に対抗する形で京都と山城の法華宗徒から編成された法華一揆が同年7月28日に柳本賢治の家臣であった山村正次に率いられて蜂起した。そこへ晴元の縁戚でもあり、本願寺を嫌う近江守護六角定頼までもが呼応した。 天文に改元後の翌月、8月2日と5日には、一揆は晴元がいる堺北庄に攻め寄せたが、木沢軍がこれを撃退している。 8月7日、京都に集結した法華一揆は京都にある本願寺教団の寺院を次々に攻撃する。8月8日、細川軍も堺から出撃して大坂御坊を攻撃し、迎え撃った一揆を撃破している。 12日には六角軍と連合して蓮淳のいる大津の顕証寺を攻め落とし、16日と17日は東山で一向一揆と合戦を行っている。続いて23日には、証如のいる山科本願寺を3万の大軍で包囲して、翌日24日に水落から寺内に攻め込んで山科本願寺は落ちた。 なお肝腎の蓮淳は顕証寺陥落の際に、もう一つの拠点であった伊勢長島願証寺へと逃走して、息子実恵の元に潜伏した。ちなみに前述の本福寺の3度目の破門が行われたのはこの最中であった。頼みとする蓮淳とはぐれて山科本願寺へ退避していた証如は、大叔父・実従(蓮如の末子)とともに親鸞聖人御影や寺宝ともども大坂御坊へ退却し、辛うじて死地を脱している。
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