しゅ‐ご【守護】
守護
姓 | 読み方 |
---|---|
守護 | しゆご |
守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/13 15:39 UTC 版)
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。
- ^ 1209年(承元3年)に守護の職務緩怠が問題となり、幕府は調査のため鎌倉近国の守護に補任下文の提出を命じた。この際、千葉成胤は祖父の常胤、三浦義村は父の義澄が与えられた頼朝の下文を提出しており、千葉常胤と三浦義澄が頼朝により下総守護・相模守護に任じられたことがうかがえる(『吾妻鏡』承元3年11月20日、12月15日条)。『源平盛衰記』には富士川の戦いの後に、広常と常胤が上総・下総を頼朝から賜ったとする記述があり、上総広常も上総守護に任じられていたと推測される。
- ^ 保立道久は『吾妻鏡』の文治2年6月21日条は畿内・西国の守護・惣追捕使は完全に停止された事を意味し、建久の新制移行もその状態が継続した結果、頼朝が最終的に守護を設置したのは「東国二十八ヶ国」に限定されたとする。その守護が設置された「東国二十八ヶ国」は『吾妻鏡』建仁3年8月27日条において、源頼家が息子の一幡に譲ろうとした国々と合致するとするとみる(保立道久『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房、2015年)第6章 鎌倉前期国家における国土分割 (原論文:2008年))。
- ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、和泉(後鳥羽上皇支配)、越前、紀伊(後鳥羽上皇支配)
- ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、相模(侍所・政所管掌)、
- ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、摂津(六波羅探題)、丹波(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)
- ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、播磨(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)
守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:13 UTC 版)
出羽は守護不設置の国だったため、南北朝時代以降鎮守府将軍(南朝)・奥州総大将(北朝)・奥州羽州管領・鎌倉公方(篠川御所、稲村御所)などが軍事権を行使した。南北朝時代初期に南朝側が在地領主に多くの権限を与えたため、京都扶持衆などを生む原因となった。
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守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:43 UTC 版)
室町時代の主なものを挙げる。茂別館・大館・花沢館を拠点としていた。
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守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:08 UTC 版)
光言宗が対屍戦用に各都道府県に配置した上級僧兵。人数は50名。それぞれ1人から5人の契約僧、および監査官長を部下として率いている。
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守護(しゅご)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 05:57 UTC 版)
馬頭夜叉を鎮めるための存在。大抵、神領家(本家)の三男もしくは長女が務める。
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守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:39 UTC 版)
鎌倉、室町時代を通じて守護所は設置されず、興福寺がその役割を果たしていた。ただし、その守護権の行使については不明な点が多く、「興福寺別当が守護権限を行使していた」説、「一乗院・大乗院の両門跡が守護権限を行使していた」説、「両門跡のどちらかが興福寺別当の時は別当が、それ以外の者が別当の時は別当と両門跡が共同で守護権限を行使していた」説がある。 但し、室町時代後期には宇智郡は河内畠山氏が、宇陀郡は北畠氏が、それぞれの分郡守護であったとする説がある。 また、天正3年(1575年)に織田家臣の塙直政が織田信長から大和守護に任じられ、直政が天王寺の戦いで戦死すると天正4年(1576年)に筒井順慶が織田信長から大和守護に任じられている。 「衆徒」も参照
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守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:13 UTC 版)
鎌倉幕府 1180年 - 1183年 - 介八郎広常 1259年 - ? - 足利頼氏 ?~? - 足利家時 1329年 - 1331年 - 足利貞氏 1331年 - 1333年 - 足利氏 室町幕府 1334年? - ? - 高師直 1351年 - ? - 佐々木秀綱 1352年 - 1355年 - 千葉氏胤 1355年 - 1356年 - 佐々木道誉(京極高氏)(秀綱の父) 1362年 - ? - 千葉氏胤 1364年 - 新田義政 1364年 - 新田直明 1364年 - 1365年 - 上杉朝房 1376年 - 1397年 - 上杉朝宗 1418年 - 1420年 - 宇都宮持綱 1420年 - ? - 上杉定頼 1448年 - ? - 千葉胤直 戦国時代 戦国時代には、上総武田氏を中心に酒井氏・土岐氏などが割拠したが、三浦氏系と言われている安房正木氏が里見氏に従属しながら北上し、里見氏とともに上総の大半を制した。その後、後北条氏が侵攻して武田・酒井・土岐の諸氏を従属させて里見氏と争ったために激しい争いが続いた。
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守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:50 UTC 版)
祝日はカトリックでは1月20日、正教会では12月18日。兵士、黒死病、競技選手の守護聖人(ペストの黒い斑点が矢が刺さった跡に似ていることから、矢に射ぬかれても死ななかったセバスチャンにあやかって、信仰されるようになった)。都市では、カゼルタ、パルマ・デ・マヨルカ、サン・セバスティアン、リオ・デ・ジャネイロの守護聖人。同性愛の守護聖人(19世紀末くらいから)。
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守護
「守護」の例文・使い方・用例・文例
- 教会の守護聖人 《St. Paul's Cathedral の St. Paul》.
- 守護聖人[天使].
- この息の通う間は御身を守護し参らせん
- この息の音のある間は御身を守護し参らせん
- 天汝を守護せんことを祈る
- 幼君の影身に添って守護し奉らん
- この息の通う間は御身を守護し奉らん
- 身に換えて御守護仕らん
- 守護聖徒
- 神仏の守護
- 神々はこの国を守護し給う
- 白痴者と酔漢には天の特別の守護あり
- 守護神
- 一身を賭して守護し奉らん
- 通常、守護聖人を祝う、地元の祭りや市
- 超自然の力または魔力を通じて守護する
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