ほく‐ちょう〔‐テウ〕【北朝】
北朝
北朝
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439年に成立した北魏でも五銖銭が行われたが、前代までの旧銭や私鋳銭が広く流通していた。北魏五銖銭が流通を開始したのは493年の洛陽遷都以降である。その後495年に太和五銖銭、529年に永安五銖銭と元号を入れた新しい五銖銭が発行されたが、旧銭との交換比率を高く設定したため流通は限定的であり、旧銭や私鋳銭が広く用いられていた。 西魏では540年と546年に大統五銖銭の鋳造を開始する。 北斉では553年に常平五銖銭の鋳造を開始する。この五銖銭は精巧な鋳造により広く流通したが、次第に私鋳銭が増加していく。 北周は561年に五銖銭5枚相当の価値を持つ布泉を発行し、574年にはその布泉10枚分の価値を持つ五行大布、579年にはその五行大布の更に10枚分の価値を持つ永通万国を発行した。北周はこれらの貨幣の国外への輸出と、国外で私鋳されたものの輸入禁止を行ったことにより、国内経済は比較的安定している。
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北朝
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北朝の北魏は五胡十六国時代からの戦乱により農民が流民となり、荒地が多かった。これを解決するため、農民の帰還を奨励して租税軽減も行い、三長制(485年)を実施した。農民の帰還増加によって土地所有者との紛争が増えたため、訴訟の解決と占有関係の整理を進め、均田制(492年頃)を定めた。均田制では有資格者に田土の支給を行い、農民が占有する土地は穀田・桑田・麻田と居住地であり、穀田によって租、桑田・麻田によって調を納税した。均田制の内容は西晋の占田・課田制を引継ぎつつ、国家の土地所有をさらに強めている。また大土地所有者の隷属下にあった者は奴婢として国家が記録し、大土地所有者の権力を押しとどめる効果もあった。均田制は西魏・東魏、北周・北斉、隋唐時代にも引き継がれ、各王朝によって改変されつつ実施された。
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北朝
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北朝(386年 - 581年、書人、筆跡、書論)北魏(386年 - 534年)前期(386年 - 494年) 後期(494年 - 534年) 東魏(534年 - 550年) 西魏(535年 - 557年) 北斉(550年 - 577年) 北周(557年 - 581年) 北魏 北魏の初代帝王、道武帝は、平城に都を定めたが、7代皇帝の孝文帝は都を河南省洛陽に移した。この遷都から南朝の漢民族の文化を取り入れる漢化政策が始まり、漢人の風俗、習慣、言語、そして国家の諸制度にも漢人のものを採用した。それが自然と書にも反映して北魏の書が隆盛を極めた。この時期(遷都以後)を後期と呼ぶ。前期の書の遺物はほとんどないといってよい。 道武帝の建国以来、廃仏令が布かれていたが、5代皇帝の文成帝の時代に仏教復興の詔勅が発せられて、雲崗石窟や龍門洞窟などの巨大な仏像が造られるようになった。これら仏像に銘文が盛んに刻されるようになったのは後期以後のことであり、前期の雲崗石窟の仏像に付随した文字資料は極めて少なく、後期の龍門洞窟には『龍門二十品』などがある。 漢化されたとはいうものの、北魏では刻石や碑に相応しい書の工夫発展がなされ、その書風は南朝とは気風を異にする新しいもので、峻険でたくましい数多くの傑作が残された。一方、南朝では立碑が禁止されていたため、技巧において洗練された優美な書風を求めたが、概して衰退したといえる。 東西魏以降 北朝の書は孝文帝の代を頂点として、その後は次第に隆盛時の風格を失っていく。北魏の書が魏晋の古法を伝えているのに対し、東魏の書は南朝の書法に従っていてもその古意を失っており、ときに楷書の中に篆隷の法を交えるなど、奇異を好んでかえって後世、悪評を買っているものもある。
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北朝(316-589)
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「貴族 (中国)」の記事における「北朝(316-589)」の解説
五胡の侵入の際に華北に居残った漢人貴族たちは概ねその地位を脅かされることはなかった。彼らが地方で持っている影響力が、王朝の安定のために必要とされたのである。しかし南朝とは違い、漢人貴族たちは中央には余り出仕せず、自らの根拠地に近い地方の地方官になることを望んだ。戦乱の中での不安定な中央政権に魅力を感じなかったからであろう。 しかし北魏により華北が統一され、ある程度の安定政権ができると、次第に漢人貴族たちも中央へと進出し始め、太武帝の時には山東随一の名門とされる清河崔氏の崔浩が司徒に登った。崔浩は漢人たちを大いに起用して北朝においても南朝を模した貴族制を作ろうとするが、鮮卑人たちの反発を買い誅殺された。この事件により漢人貴族の勢力は一時後退した。 一方、尚武を是とする鮮卑の間でも漢人たちの影響により貴族的なものが浸透するようになった。部族制をとる鮮卑にとって貴い血筋とは各部族の族長級の者たちであり、また戦乱の中で軍功を挙げた功臣たちであった。これらの者たちが自分の地位を子孫に受け継がせたいと望むのは自然なことであり、最も望ましいのは地位・財産・領土などをそのまま受け継がせる封建制であったが、中央集権を望む皇帝側からはそれを認めづらく、地位と名分のみを受け継がせる貴族制が折衷案として選ばれたのである。 第6代皇帝孝文帝の時期に馮太后の摂政の元で三長制・均田制などの導入により部族制の解体が図られた。その後の孝文帝親政時の大幅な官制改革(493年の前令・495年の中令・499年の後令)、漢人・鮮卑の中での貴族の格付けが為され、既に孝文帝以前より漢人・鮮卑の間での通婚も行われるようにもなっており、北朝においても貴族制が成立した。 しかし急激な漢化への反発から六鎮の乱が起こり、北魏は分裂して東魏→北斉、西魏→北周へと分裂することになる。この二つの国は貴族制に対する態度も対照的であった。北斉はほぼ北魏の貴族制をそのまま受け継ぎ、更にそれを発展させる方向へと進んだ。一方で新興商人・地主層の台頭、金の力により官位を手に入れる現象が目立ってくる。 一方、北周においてはそれまでの九品を九命(品とは逆に正九命が最高)とし、その下に九秩を設けた。そして清濁の別を廃止し、昇進には功績のみが参考にされた。北斉との戦いが続く中においては功績といえば軍功であり、官職に就く者はほとんどが鮮卑出身の軍人となった。その中で漢人貴族層は排撃された。鮮卑の尚武政策への復古である。西魏・北周で採用された府兵制における軍制の要職である柱国・大将軍の系譜は関隴集団を形成した。
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北朝
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北朝では、天師道の信徒から寇謙之が出て、天師道の教団制度の立て直しに尽力した。祭酒が勝手に教職者を任命する制度や世襲制を廃止し、教職者には品行方正を求めた。また、宗教制度における費用の改修方法を改め、教職者による搾取を防ごうとした。さらに、父母や教師、そして君主に逆らってはならないことを説くなど、道教の教えに儒教的な倫理規範を取り入れ、統治階級の好みに合致した道教を作り上げた。寇謙之は、太武帝に重用された崔浩と親しく、彼を通して皇帝に道教の信奉者にさせ、国家的に天師道を崇拝するように宣布させることに成功した。 北周の頃には、武帝が主導して初期の道教の教理書である『無上秘書』が完成した。
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「北朝」の例文・使い方・用例・文例
- 日本が北朝鮮と戦争をする
- 北朝鮮の核をめぐる問題が、世界の注目を浴びる
- 国連安保理が北朝鮮への非難決議を全会一致で採択した
- 中国と北朝鮮は友好関係にある。
- それだけ北朝鮮は(中国も)狡猾なんです。
- 今日のトピックは「北朝鮮による日本人拉致問題」です。
- 南北朝
- 国連での、あの運命的な会議の日・・・北朝鮮への戦争を宣告しました。−サタデーレビュー
- 南北朝鮮の間の戦い
- 北朝鮮またはその国民または彼らの文化の、北朝鮮またはその国民または彼らの文化に関する、あるいは、北朝鮮またはその国民または彼らの文化に特徴的な
- 北朝鮮と韓国を切り離している非武装地帯の両側に緊張がある
- 北朝鮮の首都で産業の中心
- 北朝鮮出身の朝鮮人
- 北朝鮮の通貨単位
- 北朝鮮の通貨の基本単位
- 北朝鮮では、100チョンは1ウォンと同価
- 北朝鮮という国
- 南北朝,室町時代における在地領主
- 南朝と北朝
- 南北朝時代の二つの皇統
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