北斉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/04/25 13:46 UTC 版)
| 斉 | |||||
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| 齊 | |||||
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北斉と北周・陳・後梁
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| 公用語 | 中古漢語 | ||||
| 首都 | 鄴 | ||||
| 皇帝 | |||||
| 550年 - 559年 | 文宣帝 | ||||
| 559年 - 560年 | 廃帝 | ||||
| 560年 - 561年 | 孝昭帝 | ||||
| 561年 - 565年 | 武成帝 | ||||
| 565年 - 576年 | 後主 | ||||
| (576年 - 576年) | (安徳王) | ||||
| 577年 - 577年 | 幼主 | ||||
| 変遷 | |||||
| 東魏より禅譲 | 550年 | ||||
| 北周によって滅亡 | 577年 | ||||
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| 先史時代 中石器時代 新石器時代 |
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| 黄河文明・ 長江文明・ 遼河文明 |
三皇五帝 (虞) |
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| 夏 (二里頭文化) |
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| 殷 | |||||||||||
| 西周 | |||||||||||
| 東周 |
春秋時代 | ||||||||||
| 戦国時代 | |||||||||||
| 秦 | |||||||||||
| 前漢 | |||||||||||
| 新 | |||||||||||
| 後漢 | |||||||||||
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| 西晋 | |||||||||||
| 東晋 | 五胡十六国 | ||||||||||
| 宋 | 北魏 | ||||||||||
| 斉 | |||||||||||
| 梁 | 西魏 | 東魏 | |||||||||
| 陳 | 後梁 | 北周 | 北斉 | ||||||||
| 隋 | |||||||||||
| 唐 | |||||||||||
| 武周 | |||||||||||
| 五代十国 | 契丹 | ||||||||||
| 北宋 | 西夏 | 遼 | |||||||||
| 南宋 | 金 | ||||||||||
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| 明 | 北元 | ||||||||||
| 南明 | 順 | 後金 | |||||||||
| 清 | |||||||||||
| 中華民国 | 満洲国 | ||||||||||
| 中華 民国 (台湾) |
中華人民共和国 | ||||||||||
北斉(ほくせい、簡体字: 北齐; 繁体字: 北齊; 拼音: , 550年 - 577年)は、中国の南北朝時代に高氏によって建てられた国。国号は単に斉であるが、春秋戦国時代の斉や南北朝時代の斉などと区別するために北斉・高斉と呼ぶ。
歴史
鮮卑化した漢族[1]である国祖の高歓は北魏末期の六鎮の乱に加わったが、爾朱栄に鎮圧された。爾朱栄が孝荘帝に殺されると自立して爾朱氏を滅ぼし、孝武帝を擁立して北魏の実権を握った。後に孝武帝が宇文泰の元へと逃がれると孝静帝を擁立して東魏を建て、宇文氏の西魏と対立した。
547年に高歓が死ぬと長男の高澄が後を継ぐが、その直後に河南大行台の侯景が背いて州都もろとも梁に帰順した。高澄は慕容紹宗を派遣して侯景・梁軍を撃破した。梁に逃れた侯景はその後反乱を起こし、梁を事実上の滅亡に追い込んだ(侯景の乱)。
549年、高澄が梁からの降人の蘭京に殺されると、高澄の同母弟である高洋(文宣帝)が後を継ぎ、翌550年に孝静帝から禅譲を受け北斉を建てた。
文宣帝は華北の支配をめぐり北周と争う一方、北方に勃興した突厥を撃破するなど、軍事面では優勢であったものの、北斉の国内では「勲貴」と呼ばれる鮮卑系武人と漢族を中心とする文人官僚が内部抗争を繰り広げた。北斉後期になると、さらに「恩倖」と呼ばれる皇帝側近の勢力が抗争に加わり、これら三者による対立が激化して北斉の求心力は低下した。第5代の高緯(後主)の代に、斛律光ら勲貴層が粛清され、北周や陳に対する軍事的優位を失った上、その後も漢人官僚と恩倖による内紛が続き、国内は混乱した。このような状況の中、北周の武帝の侵攻に対応できず敗北を続け、577年に滅亡した。
王朝滅亡後、旧北斉皇族は当初は武帝に寛大な処置を示されていたが、後に北斉の重臣であった穆提婆の反乱未遂の告発に連座してそのほとんどが処刑されており、高歓直系の末裔としては唐の681年(北斉滅亡から104年後)に高澄の子の高長恭の孫(高歓直系で記録に残っている数少ない玄孫)とされる高元簡なる人物と、隋代に第4代皇帝である武成帝の四男の高廓の子孫(高君緒(高廓の子)・高玄景・高元思の親子3代)が辛うじて確認されている。また、女系では高歓の娘の一人潁川長公主が段韶の長男の段懿との間に男子である段宝鼎を儲けている。段宝鼎の妻は文宣帝の娘の中山長公主である。他に司馬消難が高歓の娘(名前不詳の公主)を娶っている。司馬消難には司馬泳・司馬潭・司馬令姫(北周の第5代皇帝静帝の妃)の2男1女がいるが、3人の母が高歓の娘かは不明で少なくとも正史では司馬令姫の母に関する記載はない。
傍系の末裔としては、高歓の従弟である高岳の孫の高士廉の子孫が少なくとも唐代末の9世紀後半までに8世孫(高士廉から数えて9代目)にわたって存続している。また、高士廉の妹は長孫無忌・長孫皇后兄妹の母となり、長孫皇后は唐の第2代皇帝太宗の皇后となり、3男4女を儲けた。そのうちの三男が唐の第3代皇帝高宗である。故に高士廉は長孫兄妹の伯父で、高宗の大伯父となり、唐皇族と縁戚関係がある。唐は907年に滅亡するまで高宗の子孫が帝位を継承したため、最後の皇帝である哀帝まで北斉皇族の血筋がそちらでも存続した。
北斉の皇帝
- 顕祖文宣帝(高洋、在位:550年 - 559年)
- 廃帝(高殷、在位:559年 - 560年)
- 粛宗孝昭帝(高演、在位:560年 - 561年)
- 世祖武成帝(高湛、在位:561年 - 565年)
- 後主(高緯、在位:565年 - 576年)
- 幼主(高恒、在位577年)
系図
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高謐 |
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(追)文穆帝 高樹生 |
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高翻 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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(追)神武帝 高歓 |
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清河王 高岳 |
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(追)文襄帝 高澄 |
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1文宣帝 高洋 |
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3孝昭帝 高演 |
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4武成帝 高湛 |
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任城王 高湝 |
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楽安王 高勱 |
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| 蘭陵王 高長恭 |
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安徳王 高延宗 |
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2廃帝 高殷 |
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楽陵王 高百年 |
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5後主 高緯 |
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(楚恭哀帝) 高儼 |
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長孫晟妻 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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6幼主 高恒 |
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(唐)長孫皇后 | |||||||||||||||||||||||||||||||
年号
脚注
- ↑ 《北齊書·本紀·卷一》齊高祖神武皇帝,姓高名歡,字賀六渾,渤海蓚人也。六世祖隱,晉玄菟太守。隱生慶,慶生泰,泰生湖,三世仕慕容氏。……神武旣累世北邊,故習其俗,遂同鮮卑。
参考資料
- 川勝義雄『魏晋南北朝』講談社〈講談社学術文庫〉、2003年
- 川本芳昭『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大 : 魏晋南北朝』講談社〈講談社学術文庫〉、2020年。CRID 1130568459339435906。 ISBN 9784065219065。 NCID BC04483469。
- 松丸道雄, 池田温, 斯波義信, 神田信夫, 濱下武志『中国史2 三国〜唐』山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年。 ISBN 9784634461604。 NCID BN14769181。
- 尾崎康「北魏における渤海高氏」『斯道文庫論集』第2巻、慶應義塾大学附属研究所斯道文庫、1963年3月、243-289頁、 CRID 1050845763876903040、 ISSN 0559-7927。
関連項目
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北斉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 02:40 UTC 版)
550年(天保元年)、北斉が建国されると、太子庶子に任じられ、本官のまま博陵郡太守を代行した。 557年(天保8年)、太府少卿を兼ね、まもなく大司農少卿に転じ、さらに太常少卿となった。 561年(皇建2年)、母の喪のため職を去った。まもなく前任の官に復帰して、冠軍・輔国将軍の号を加えられ、吏部郎中に任じられた。しばらくして、司徒左長史に転じ、驃騎大将軍の号を加えられ、御史中丞を兼ねた。ときに太原の王乂の娘は陸孔文との婚約が決まっていたが、司徒録事参軍の盧思道が私的に銭40万を王乂に貸し付けて、彼女を妻に迎えた。袁聿修はこのことを知っていながら、弾劾しなかったため、御史中丞の任を罷免された。まもなく秘書監に転じた。 天統年間、趙郡王高叡らとともに五礼の改定を議論した。信州刺史に任じられ、故郷に錦を飾った。 武平年間に離任するにあたっては、州民の鄭播宗ら700人あまりが頌徳碑の建立を願い出て、中書侍郎の李徳林の文章で功績を刻まれた。ほどなく信州中正を兼ねたまま、都官尚書に任じられた。吏部尚書・儀同三司に転じ、まもなく正式に吏部尚書となった。
※この「北斉」の解説は、「袁聿修」の解説の一部です。
「北斉」を含む「袁聿修」の記事については、「袁聿修」の概要を参照ください。
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