鄴
県 |
||
鄴城には七つの城門があり、そのうち鳳陽門・中陽門・広陽門の三つは南面にあった。真南に位置する中陽門は別名を章門ともいう。北門は玄武門といった《賈逵伝集解》。 城内には中常侍趙忠の邸宅があったが、その格式は身分を越えたもので、皇甫嵩の上奏により没収された。 建安九年(二〇四)二月(または三月)、袁尚が審配・蘇由を守備に残して遠征に出かけたので、曹操はその隙を突いて鄴城を包囲した。曹操は蘇由・馮礼らを内応させて侵入しようとしたが、ことごとく審配に封じられた。五月、曹操は城の周囲に堀を作って漳水を引き入れた。七月、袁尚が引き返してきて李孚を城内に潜入させ、包囲陣の内外から挟み撃ちにしようとしたが失敗、袁尚は曹操の攻撃を恐れて逃走した。八月までに城内では大半の者が餓死した。東門を守っていた審配の甥・審栄が曹操軍を導き入れたので陥落、審配は斬首された。 高幹が別働隊を派遣して鄴を襲撃させたとき、それを察した荀衍は彼らをことごとく誅殺している。李典・臧霸・孫観・馬騰らは一族子弟を鄴に移住させた。 【県侯】袁紹 |
鄴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 22:16 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2011年8月)
( |
鄴(ぎょう、業におおざと)は中国の歴史的地名。後趙・冉魏・前燕・東魏・北斉の各王朝の都となった。大部分は現在の河北省邯鄲市臨漳県にあたり、河南省安陽市安陽県にまたがっている。
概要
春秋時代、斉の桓公が城塞都市を建設したのが始まりとされる。戦国時代には魏に属し、『史記』で知られる西門豹が治め、黄河や漳河から運河を引く灌漑の大事業を行い大いに栄えた。紀元前239年に魏は鄴を趙に割譲する[1]。しかし、紀元前236年に秦の将軍王翦・桓齮・楊端和らが攻略して以降は秦の領地となる[2]。
後漢末期から軍事的に重要となり、群雄のひとり袁紹の本拠地であったが、204年(建安9年)に曹操が侵攻して拠点となり、後に曹操が魏公に任ぜられると魏国の国都と定め、銅雀台などの壮麗な宮殿を造営した。魏帝国成立後は首都は洛陽に移ったが、その後も魏の主要都市として発展し、南北朝時代には再び国都になった。
北魏から分裂した東魏を建国させた高歓は鄴を都に定め、540年(興和2年)頃に新しい宮殿が完成した。高歓の一族が建国した北斉でも引き続き都となった。
北斉が北周に滅ぼされたあと、580年(大象2年)には尉遅迥が帝位を簒奪する勢いの楊堅に反抗して挙兵、鄴に拠って抗戦したが敗北、その後、城は焼き払われた。
河北省邯鄲市臨漳県に遺跡が残る。2.4km×1.7kmに及ぶ大城址であり、民国時代から調査されていたが、1983年に大規模な発掘調査が行なわれ、城壁や街路など当時の都市設計の概要が明らかになっている。1988年に鄴城遺址は全国重点文物保護単位に指定された。
脚注
関連項目
鄴
- >> 「鄴」を含む用語の索引
- 鄴のページへのリンク