馬騰とは? わかりやすく解説

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馬騰Ma Teng

バトウ

(?~212
衛尉槐里

字は寿成。扶風郡茂陵の人《馬超伝》。

馬援の子孫である馬平羌族の女とのあいだに生んだ子で、若いころ家業営んでいなかったため貧しく、いつも彰山で材木切って背負い、それを城市売り歩いて身を立てていた。馬騰は身の丈八尺余りもあり、体が大きい上に面構え雄大であった。しかし性質賢明温厚であったので、人々多くが彼を尊敬した馬超伝》。

涼州刺史耿鄙が佞吏程球を治中従事として信任したため、中平元年一八四)冬、北地郡の先羌や枹罕河関盗賊ども、さらに北宮伯玉李文侯・王国辺章韓遂らが叛逆した《後漢書霊帝紀・同傅燮董卓伝》。耿鄙は民間人のうち武勇ある者を州内募集し討伐軍を編成したが、馬騰はそれに応募した一人であった。州郡の官吏は彼をただ者でないと思い、軍従事任じて部曲統括させた。馬騰は賊徒討伐功績立てて軍司馬に任じられる馬超伝》。

同四年四月、耿鄙が部下の裏切りによって殺されると、馬騰は軍勢率いて韓遂軍に合流し王国叛乱軍の盟主擁立しともども三輔地方荒らし回った王国韓遂らは五年十一月陳倉城を包囲したが、翌年二月左将軍皇甫嵩敗れ混乱のさなか王国死亡している《後漢書霊帝紀》。その後諸将権力争って殺し合い、ついに部曲はばらばらになってしまった《後漢書董卓伝》。

混乱利用して董卓朝政実権握ったので、初平元年一九〇)正月山東義兵立ち上がった後漢書献帝紀》。このころ馬騰は龐悳らを率いて羌族氐族叛乱平定しており《龐悳伝》、その功績よるものか、偏将軍任じられている《馬超伝》。

董卓死後朝廷実権李傕郭汜掌握したが、初平三年一九二)、馬騰・韓遂らは軍勢率いて長安参詣し、馬騰は征西将軍(あるいは征東将軍)に任じられて郿に駐屯し韓遂鎮西将軍任じられ涼州帰還するよう命じられた《董卓馬超伝》。

董卓伝』『馬超伝』では初平三年征西将軍になったとし、『典略』では初平年間征東将軍になったとするが、『後漢書劉焉伝』『三国志同伝』では興平元年のとき征西将軍だったとあり、『典略』は誤りなのだろう。

興平元年一九四)、馬騰は入朝したのち霸進駐した。李傕私心通じようとしたが、聞き入れられなかったので腹を立てた後漢書董卓伝》。そこで益州劉焉手を結び劉焉伝》、侍中(あるいは諫議大夫)馬宇・右中郎将(あるいは左中郎将劉範前涼刺史种劭中郎将稟らとともに李傕襲撃計画し後漢書种払・同董卓伝》、西州には食糧少なため池陽で調達したいと上表して、屯所長平岸頭移した馬超伝》。

池陽李傕封地である。『典略』では李傕との抗争触れていないが、池陽移駐を対李傕戦の一環とみて、ここに挿入する

馬騰は何日ものあい李傕戦ったが、勝負決することはできなかった。それを聞いた韓遂軍勢率いて両者和解させようとしたが、結局ふたたび馬騰に合流することになり、李傕郭汜樊稠李利出して長平観の下で馬騰らと戦わせた《後漢書董卓伝》。また長平将軍王承らが馬騰に危害加えられることを恐れ、馬騰が出陣し防備なくなったところを攻撃したので、馬騰は潰走した《馬超伝》。劉範种劭戦死し斬首数万余りを出す大敗であったが、韓遂樊稠同郷であったため逃れることができた《後漢書董卓伝》。

馬騰と韓遂涼州帰還すると、韓遂義兄弟契り結んだが、しばらくしてお互いに攻撃しあうようになった後漢書董卓伝・馬超伝》。韓遂は馬騰に攻撃され敗走したが、軍勢糾合して反撃し、馬騰の妻子殺した馬超伝》。そのころ馬騰の子馬超は、韓遂の小将閻行一騎打ち演じている《張既伝》。

曹操山東戦争行っていたが、関中混乱憂慮し鍾繇司隷校尉任じて関中諸将監督させた。鍾繇長安赴任すると馬騰・韓遂手紙送り利害説いて子息人質に出させた《鍾繇伝》。鍾繇涼州牧韋端の仲介韓遂和解した馬騰は、召し返され槐里駐屯し、そこで前将軍・仮節・槐里侯となり、胡族や張白騎侵入備え士人厚遇し賢者推挙し民衆いたわったので三輔地方人々は非常に彼を愛した馬超伝》。

前将軍補任をここに挿入したが、あるいは郭援らが敗北したかも知れないソースの『典略』では建安初年鍾繇・韋端の仲介韓遂和解し槐里駐屯して前将軍任じられ云々続け郭援事件記述しない。馬騰の官職および駐屯地推移は、彼の生涯通じて今一つはっきりせず、馬騰と鍾繇とのやりとり年代的に明瞭でない

建安七年二〇二)、袁譚袁尚高幹郭援匈奴単于派遣して河東侵略させた《荀彧伝・後漢書董卓伝》。馬騰と韓遂は彼らと内通していたが、鍾繇張既派遣して馬騰らを説得し、また傅幹説得もあって、馬騰は馬超龐悳らに一万人を預けて鍾繇支援させたので、郭援らを破ることができた《鍾繇張既伝》。馬騰を征南将軍韓遂征西将軍任じ、ともに幕府を開くことを許可した後漢書董卓伝》。のちに張白騎張琰・衛固らの討伐にも馬騰は参加している《張既伝》。

十三年、曹操荊州遠征にあたって、馬騰らが関中割拠していることを危惧し張既派遣して部曲解散して帰還するよう説得した。馬騰は承諾しつつも行動に移さなかったので、彼が心変わりすることを恐れた張既諸県命令書を送って食糧用意し太守郊外まで出迎えさせたので、やむを得ず出立した張既伝》。馬騰は朝廷徴され衛尉となり、馬超の弟馬休奉車都尉、その弟馬鉄騎都尉任じられ家族はみな鄴に移住したが、馬超だけは留守残して馬騰軍を宰領させた《馬超伝》。

十六年、馬超韓遂楊秋李堪成宜らと手を結んで叛乱起こしたため《馬超伝》、翌十七五月癸未、馬騰は三族皆殺し処された《後漢書献帝紀》。

参照】韋端 / 衛固 / 袁尚 / 袁譚 / 閻行 / 王国 / 王承 / 郭援 / 郭汜 / 韓遂 / 高幹 / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 鍾繇 / 成宜 / 曹操 / 种劭 / 張琰 / 張既 / 張白騎 / 程球 / 稟 / 董卓 / 馬宇 / 馬援 / 馬休 / 馬超 / 馬鉄 / 馬平 / 樊稠 / 傅幹 / 辺章 / 龐悳 / 北宮伯玉 / 楊秋 / 李傕 / 李堪 / 李文侯 / 李利 / 劉焉 / 劉範 / 益州 / 槐里県 / 河関 / 河東郡 / 関中 / 鄴県 / 荊州 / 山東 / 三輔 / 彰山 / 池陽県 / 長安県 / 長平観 / 長平岸頭 / 陳倉県 / 霸 / 郿県 / 枹罕 / 扶風郡 / 北地郡 / 茂陵県 / 涼州 / 右中郎将 / 衛尉 / 仮節 / 諫議大夫 / 騎都尉 / 軍司馬 / 軍従事 / 侯 / 左将軍 / 左中郎将 / 刺史 / 侍中 / 小将 / 司隷校尉 / 征西将軍 / 征東将軍 / 征南将軍 / 単于 / 前将軍 / 太守 / 治中従事 / 中郎将 / 鎮西将軍 / 偏将軍 / 奉車都尉 / 牧 / 夷(皆殺し) / 羌族 / 匈奴族 / 胡族 / 先羌 / 氐族 / 府(幕府) / 部曲


馬騰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 21:13 UTC 版)

馬騰
代の書物に描かれた馬騰
後漢
衛尉・槐里侯
出生 不詳
右扶風茂陵県隴西郡[1]
死去 建安17年(212年
拼音 Mă Téng
寿成
主君 霊帝→独立勢力→曹操
氏族 扶風馬氏
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馬 騰(ば とう、? - 建安17年〈212年〉)は、中国後漢末期の武将。寿成司隷右扶風茂陵県の人。

有力な涼州軍閥の一人であり[2]、後漢末期における涼州反乱軍の首魁となった[3]。朝廷に対して反乱と帰順とを繰り返し、関中・隴右[注釈 1]に割拠する代表勢力にまで成長したが、次第に曹操へ従属の意を示すようになった[7]。入朝して九卿の位を得るに至ったが、人質としての役割も有していたため[8]、後に子の馬超が起こした反乱に連座して処刑された[9]

生涯

涼州での台頭

後漢初期の名将馬援の子孫[10]関中豪族である扶風馬氏本貫は右扶風茂陵県(陝西省興平市北東[11])に属するが、馬騰の実際の出生地は涼州隴西郡甘粛省南部)である[1]。父の馬平中国語版桓帝の時代、天水郡蘭干県の県尉(副長官)だったが、官位を失った後も隴西に留まり、羌族と雑居した[12]。家が貧しく妻がいなかった馬平はついにの娘を娶り、この二人の間に馬騰が生まれた[13][14][15]。馬騰は若い頃、貧乏で土地も所持していなかったため、彰山で材木を伐採し、それを背負って城市で売りに行くことで生計を立てていた[16]。成人した馬騰は、身長は8尺(約184cm[11])余りで体格に優れ、容貌も雄異、性格は温厚かつ賢明であったので、多くの人が尊敬したという[14][16]

中平元年(184年)、涼州刺史耿鄙中国語版が佞吏を信用したため、や羌が反乱を起こした。さらに、北宮伯玉中国語版・李文侯・王国韓遂辺章といった者たちもこれに続いて反乱を起こしたため、耿鄙はこれらを鎮圧しようと郡内で勇敢な者を募集した。馬騰はこれに応じた。馬騰を見た役人たちは彼が只者ではないと見て軍従事に抜擢し、部隊を率いさせた。馬騰は期待通りに功績を挙げ、軍司馬に任じられた[14][17]

中平4年(187年)4月、耿鄙が韓遂に殺害されると、馬騰は韓遂ら反乱勢力に加わり、三輔に侵入した[18][19]。中平5年(188年)に陳倉を包囲したが、落城には至らず、中平6年(189年)2月、援軍の皇甫嵩によって撃破された[20][21]。馬騰らは王国を追放して閻忠を強制的に主としたが[22][23][注釈 2]、閻忠が病死すると相争うようになり、反乱の勢いは減じた[26]

李傕・郭汜政権への参入

永漢元年(189年)、董卓は新たに献帝を擁立した。しかし、朝廷での専権に対する反発が起きたことを受け、初平元年(190年)に長安へと遷都した。その際、馬騰は韓遂と共に、関東諸将による反董卓連合軍に対抗する戦力として、董卓の招きに応じて出仕した[27][28]。馬騰は軍功を挙げて偏将軍となった[14]。初平3年(192年)、董卓が暗殺され李傕郭汜が政権を握ると、馬騰は韓遂と同様、李傕たちに対して恭順し[29]征西将軍となって郿県に駐屯した[30][31][注釈 3]。後に征東将軍に転じた[3][14]。李傕・郭汜政権において、馬騰は羌氐の反乱鎮圧に従事していた[29][35]

その後、馬騰は李傕に対して、自身の兵に与える穀物を融通するよう要求し、池陽県に駐屯地を移したが、聞き入れられなかったことから李傕らと対立した[14][36]。そのため益州刺史の劉焉と手を結び、馬宇・劉範杜稟中国語版らの協力を得て長安襲撃を計画した[37][注釈 4]。韓遂は軍勢を率いて両者を和解させようとしたが、結局は馬騰に合流することとなった[42]。一方、李傕は郭汜・樊稠李利を出撃させ、興平元年(194年)3月、長平観で馬騰らと交戦した[43]。しかしここで長安襲撃計画が漏洩したため、馬宇・劉範は槐里に逃亡した[44]。また、長平の王承らも馬騰に危害を加えられることを恐れ、馬騰が出撃し防備のなくなったところを攻撃した。軍が壊滅した馬騰は涼州まで潰走したものの[30][45]、同年4月、慰撫の目的から安狄将軍の称号を与えられた[36][46]

曹操政権との交渉

建安3年(198年)、李傕は段煨らにより誅殺され、曹操陣営が政権の中枢となった[47][48]。一方、涼州に戻った馬騰と韓遂は、義兄弟の契りを結び仲睦まじくしていたにもかかわらず、建安初頭には互いに攻撃しあうようになっていた[14][49]。隴右から関中への進出もまた同時に行われていた[47][50]。韓遂は馬騰に攻撃され敗走したが、再び軍勢を集めて反撃し、馬騰の妻子を殺した[51]。このため和睦は困難なものとなり、戦が絶えなかったという[14][51]。曹操の派遣した司隷校尉鍾繇[注釈 5]および涼州牧の韋端の仲介を経て、馬騰・韓遂間の争いは収まったが[14]、両者の緊張関係は解消されなかった[53]。彼らはそれぞれ子を人質として入朝させた[54][55]。また馬騰は召し返されて槐里に駐屯し、前将軍仮節となり、槐里侯に封じられた[51]。北方では胡族の侵入に備え、東方では白騎[注釈 6]に備えた[58]。また士人を厚遇して賢者を推挙し、民衆を労わったため、三輔は安定し、人々は馬騰のことを非常に敬愛したという[14][51]

建安5年(200年)の官渡の戦い袁紹が曹操に敗れた後、残党勢力の袁尚は、南匈奴単于である呼廚泉と合流し、建安7年(202年)には河東へと侵攻していた[59][60]。曹操は当時、傍観する関中の諸勢力を味方につけようと画策していた[10]。鍾繇は張既を使者として馬騰の下に派遣し、袁尚麾下の郭援高幹を討伐するよう説得した[51][59]。馬騰ははじめ郭援に内応していたが、傅幹の勧めも受け[61][60]、子の馬超および1万余りの兵を派遣して鍾繇の下に合流させ[62]、郭援軍の撃破に貢献した[14][55][63]。また馬騰は同年に征南将軍を拝命し、さらには開府を許された[4][64]。その後も曹操の援軍要請に応え、部将の龐徳と共に高幹・張晟・張琰中国語版・衛固らの討伐に参加した[65]。曹操政権は鍾繇を通じて関中の間接的統治を行い、現地において有力な勢力である馬騰・韓遂を利用していた[52]

入朝と刑死

建安13年(208年)、曹操は荊州遠征(赤壁の戦い)で南進する際、馬騰らが関中に割拠していることを危惧した[59][66]。手始めに辟召した馬超が応じなかったため[14][67]、曹操は、張既を馬騰のもとに派遣して、部曲を解散した上で入朝するよう説得した[59][68]。馬騰は承諾したものの、すぐには入朝しなかった[59][69]。馬騰の心変わりを恐れた張既は、諸県に命令書を送って食糧を用意し、太守に郊外まで出迎えさせた。馬騰はやむを得ず出立し[59]、同年12月、衛尉となった[51][70][注釈 7]。森本淳によれば、馬騰の入朝は、曹操が圧倒的に優勢である当時の状況においては、もはや独立を保つことが難しいという判断を受けてのものだという[74]。同時に、子の馬休は奉車都尉に、馬鉄騎都尉に任じられた[14]。馬騰は一族ともどもに移住し、実質的に曹操の人質となった[75]。根拠地にひとり留まった馬超は、解体された馬騰の軍勢を引き継ぎ[14][76]、韓遂と並んで関隴地帯の主力となった[77]

建安16年(211年)3月、馬超をはじめとする関隴諸将は、曹操による漢中侵攻の動きに疑念を抱いた結果、抵抗することを選び[78]、同年7月から9月にかけて曹操軍と交戦したものの、大敗した(潼関の戦い[79]。馬超は降伏せず、涼州へと逃げのびた[14][80]。そして翌年の建安17年(212年)1月[81][注釈 8]、諸戎(西方の非漢族ら)の渠帥(少数民族の首領)たちを率いた馬超は隴上[注釈 9]で蜂起し、ほぼ全ての郡県からの呼応も相まって、隴右を席巻した[31][87]

建安17年(212年)5月、馬騰は馬超の反乱に連座して誅殺され、三族皆殺しとなった[9][88][注釈 10]

『三国志演義』での馬騰

小説『三国志演義』(以下『演義』)において、馬騰は漢王朝への忠誠を尽くす人物として描かれている[93]。特に、現在最も普及している、毛宗崗中国語版によって編纂された版本(毛宗崗本)では、馬騰の忠誠心がより一層強調される傾向にある[94]。この改変は、子の馬超が後漢の継承者たる蜀漢ならびに劉備へ帰順するため、忠心を持った善人としての描写を要求されたことが原因となっている[95]。また、後漢建国の功臣である馬援の子孫であるからには、王朝に対して忠実であるのが道理であり、史実のように董卓に与するような存在であってはならないという意識も働いていると考えられる[93]。なお、馬騰の死に関する時系列の逆転は、『演義』以前に成立した元代雑劇や『三国志平話』などにおいて、すでに見出すことができる[96]

『演義』の馬騰は、賊軍討伐という名目のもと、韓遂と共に長安へと押し寄せる[97]献帝からの密勅を受けて李傕・郭汜の軍勢と交戦するも、長安を陥落させるには至らないまま西涼に撤退する[97]。その後、董承を中心に打ち立てられた曹操暗殺計画にも名を連ねている[97]。劉備が勢力を伸ばし始めた頃、馬騰はその対抗策として許昌に呼ばれるが、そこで黄奎と共に曹操暗殺を謀る[98]。しかし、黄奎が妾に詳細を話したことがきっかけで計画が漏れた結果、複数の曹操配下による襲撃を受けて重傷を負う[99]。逮捕されてもなお馬騰は曹操を激しく罵り、同じく上京していた子の馬休・馬鉄もろとも殺害されてしまう[100]。そして、唯一脱出に成功した馬岱から経緯を聞いた馬超は、曹操に対して反旗を翻すに至る[97]

脚注

注釈

  1. ^ 隴山以西の地域[4]。金城・隴西・漢陽などの郡が置かれた涼州東部も含め[5]、漢代においては実質的に涼州に対する呼称となっている[4]。両地域を合わせた略称を関隴という[6]
  2. ^ 王国は敗戦後に死亡したという記述もある[24][25]
  3. ^ 『三国志』馬超伝の注に引く『典略』によれば、隴県と汧県の間に常に駐屯したという[32]。その領域について、森本は隴右と郿県から約70km西にある汧水の間[33]、飯田は涼州と司隷の境界地点とする[34]
  4. ^ 韓遂・馬騰は関中で争乱を起こした時、幾度も劉焉と連絡を取り合っていたという[38][39]。劉焉はこの長安襲撃計画を受け、援軍として5000の叟兵を馬騰に送った[38][40]。叟(そう)は、を中心に中国西南部に存在した非漢族を指す[41]
  5. ^ 鍾繇は関中諸将の統御および彼らからの軍事力提供を任務とした[52]
  6. ^ 盧弼中国語版『三国志集解』に引く姚範中国語版の指摘によれば、『十六国春秋』には前秦苻堅鮮卑を「白虜」と呼ぶ箇所があり[56]、そこからの類推で「白騎」は鮮卑として考えられるという[57]。一方、当時河東弘農で反乱していた「張白騎(張晟)」とする解釈もある[51]
  7. ^ 初学記』および『太平御覧』における袁宏『漢紀(後漢紀中国語版)』の引用文には「長楽衛尉」とあるが[71][72]、『後漢紀』では「長楽」の二文字が欠落している。周天游『後漢紀校注』では脱文とされている[73]
  8. ^ 三国志』楊阜伝をもとにすれば、馬超が再起した年月は建安17年(212年)1月である。同書董卓伝にも「馬超が漢陽に拠有し、馬騰は連座して三族皆殺しとなった」とあり、族滅以前に再起している。また『後漢書』献帝紀によれば、建安17年5月の馬氏族滅の後、同年8月に韋康が殺害されたため、馬超は建安17年に再起したことになる[82]。一方、再起の年月を建安18年(213年)とする研究もある[83]。『三国志』武帝紀の記述に従えば、馬超が再起したのは建安18年である。司馬光資治通鑑』は建安18年とする[84]
  9. ^ 隴西・南安漢陽永陽中国語版[85][86]
  10. ^ 飯田祥子は、入朝した閻行の父が潼関の戦い以後も殺されずにいたことを根拠に、馬超が帰順する可能性を踏まえて人質の処刑が留保されていたのではないかと推測する[89]。その軍事力に有用性を見込んだため、勢力を温存させながらの懐柔を狙ったのが理由だという[90]。また『後漢書』および『資治通鑑』では、馬騰らが誅殺されたのは建安17年(212年)5月癸未の日と記されているが、当月の朔日は癸未ではなく壬辰のはずである[91][92]

出典

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  2. ^ 王 1991, pp. 74–75.
  3. ^ a b 森本 2012a, p. 161.
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  6. ^ 並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」」『駒澤史学』第87号、2016年、53–80、p. 56。doi:10.69200/0002005328
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  10. ^ a b 王 1991, p. 75.
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  12. ^ 飯田 2022, p. 105; 王 1991, p. 71.
  13. ^ 飯田 2022, p. 105; 白 2013, p. 160; 王 1991, pp. 71–72.
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  15. ^   (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝注引『献帝伝』, ウィキソースより閲覧, "[]騰父平,扶風人。為天水蘭干尉,失官,遂留隴西,與羌雜居。家貧無妻,遂取羌女,生騰。" 
  16. ^ a b 白 2013, p. 160.
  17. ^ 飯田 2022, p. 106; 白 2013, p. 160.
  18. ^ 森本 2012a, pp. 158–159, 170; 劉 2015, p. 116.
  19. ^   (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝, ウィキソースより閲覧, "[中平]三年春,遣使者持節就長安拜張溫為太尉。三公在外,始之於溫。其冬,徵溫還京師,韓遂乃殺邊章及伯玉、文侯,擁兵十餘萬,進圍隴西。太守李相如反,與遂連和,共殺涼州刺史耿鄙。而鄙司馬扶風馬騰,亦擁兵反叛,又漢陽王國,自號「合眾將軍」,皆與韓遂合。共推王國為主,悉令領其眾,寇掠三輔。" 
  20. ^ 白 2013, p. 161; Haloun 1949, pp. 122–123.
  21. ^   (中国語) 『後漢書』巻8霊帝紀, ウィキソースより閲覧, "[中平]六年春二月,左將軍皇甫嵩大破王國於陳倉。" 
  22. ^ 飯田 2022, pp. 96, 107; 白 2013, p. 161; Haloun 1949, p. 123.
  23. ^   (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝, ウィキソースより閲覧, "[中平]五年,[王國]圍陳倉。乃拜[]卓前將軍,與左將軍皇甫嵩擊破之。韓遂等復共廢王國,而劫故信都令漢陽閻忠,使督統諸部。" 
  24. ^ 飯田 2022, p. 96.
  25. ^   (中国語) 『後漢書』巻71皇甫嵩伝, ウィキソースより閲覧, "[中平]五年,涼州賊王國圍陳倉,復拜[皇甫]嵩為左將軍,督前將軍董卓,各率二萬人拒之。[...]王國圍陳倉,自冬迄春,八十餘日,城堅守固,竟不能拔。賊衆疲敝,果自解去。[...][皇甫嵩]遂獨進擊之,使卓為後拒。連戰大破之,斬首萬餘級,國走而死。" 
  26. ^ 飯田 2022, p. 107; 白 2013, p. 161.
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  28. ^ 飯田 2022, p. 97; 森本 2012a, pp. 160–161.
  29. ^ a b 飯田 2022, p. 97.
  30. ^ a b 飯田 2022, p. 97; 白 2013, p. 161.
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  32. ^ 飯田 2022, p. 106; 森本 2012a, p. 161.
  33. ^ 森本 2012a, p. 172.
  34. ^ 飯田 2022, p. 106.
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  37. ^ 森本 2012a, pp. 161–162.
  38. ^ a b 満田 2017, p. 67.
  39. ^ 『三国志』巻38許靖伝注引『益州耆旧伝』
  40. ^   (中国語) 『後漢書』巻75劉焉伝, ウィキソースより閲覧, "興平元年,征西將軍馬騰與範謀誅李傕,[]焉遣叟兵五千助之[...]。" 
  41. ^ 田啓涛「中古漢語詞語考弁両則」『語言研究』 第1期、2023年、104–109、p. 107。
  42. ^ 森本 2012a, p. 162.
  43. ^   (中国語) 『後漢書』巻9献帝紀, ウィキソースより閲覧, "[興平元年]三月,韓遂、馬騰與郭汜、樊稠戰於長平觀,遂、騰敗績,左中郎將劉範、前益州刺史种劭戰歿。" 
  44. ^ 満田 2017, p. 67; 白 2013, p. 161.
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  47. ^ a b 飯田 2022, p. 98.
  48. ^   (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝, ウィキソースより閲覧, "[建安]三年,使謁者僕射裴茂詔關中諸將段煨等討李傕,夷三族。" 
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  50. ^   (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝, ウィキソースより閲覧, "韓遂與馬騰自還涼州,更相戰爭,乃下隴據關中。" 
  51. ^ a b c d e f g 張 2023, p. 34.
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  56. ^   (中国語) 『十六国春秋』巻4前秦録, ウィキソースより閲覧, "[]堅謂權翼曰:「吾不從卿言,鮮卑至是。關東之地,吾不復與之爭,若將[慕容]泓何?」[...]堅登城觀之,歎曰:「此虜從何出也,吾不用王景畧[王猛]、陽平公[苻融]之言,使白虜敢至於此。」" 
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  58. ^ 張 2023, p. 33.
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参考文献

日本語文献

中国語文献

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  • 劉林智「漢末至三国初期三輔地区的社会変遷」『中国史研究』第1期、2015年、113–134頁。 
  • 宋傑「曹魏的戦略重地関中」『三国戦争与地要天時』中華書局、2024年、54–138頁。ISBN 9787101164749 
  • 王希恩「漢末涼州軍閥集団簡論」『甘粛社会科学』第2期、1991年、71–75, 67頁、doi:10.15891/j.cnki.cn62-1093/c.1991.02.015 
  • 于天宇「経略関隴与三国局面之形成」『学術研究』第2期、2017年、132–139頁。 
  • 張寅瀟「《典略》“東備白騎”釈疑」『史志学刊』第3期、2023年、33–37頁、doi:10.13514/j.cnki.cn14-1186/k.2023.03.003 

英語文献

関連項目


馬騰(ばとう)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:00 UTC 版)

三国志 (北方謙三)」の記事における「馬騰(ばとう)」の解説

馬超の父。漢王室の血を守るため、老躯押して単身許都へとのぼる。

※この「馬騰(ばとう)」の解説は、「三国志 (北方謙三)」の解説の一部です。
「馬騰(ばとう)」を含む「三国志 (北方謙三)」の記事については、「三国志 (北方謙三)」の概要を参照ください。

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