涼州の勇士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:19 UTC 版)
若くして郡吏や州の従事となった。 初平年間、馬騰に従って羌族や氐族の反乱を撃破した。幾度か功績を挙げて昇進し、校尉に昇った。 202年、曹操が袁譚・袁尚を黎陽に討った際、袁譚らは南匈奴単于の呼廚泉に曹操を裏切らせ、郭援と高幹に数万の軍勢で侵攻させた。この時、馬騰も曹操を裏切って袁譚らに内通しようとしたが、鍾繇・張既・傅幹らの説得を受け立ち戻った。 馬騰は馬超と龐徳に兵一万人余りを預け、鍾繇の援軍として派遣し、高幹と郭援を平陽で防がせた。乱戦の中で馬超が負傷したが、龐徳は先鋒となって敵軍を大破し、郭援を自らの手で討ち取った。帰陣した龐徳が弓袋から郭援の首級を取り出すと、郭援の叔父であった鍾繇が号泣したので、龐徳は謝罪した。鍾繇は「郭援は我が甥とはいえ国賊です。貴公が謝る必要はありません」と答えたという(『魏略』)。この功績により中郎将に昇進し、都亭侯に封ぜられた。 205年、再び高幹が反乱し、黒山賊の張白騎(張晟)が弘農で呼応すると、曹操の援軍を引き受けた馬騰に従って、両崤で張白騎を討伐した。龐徳は戦う毎に陣を陥れて敵を退け、その武勇は馬騰軍随一とされた。 208年、馬騰が入朝して衛尉に任命されると、龐徳は留まって馬超に仕えた。 211年、馬超が渭南で曹操に敗れると、馬超に従って漢陽へ逃げ込み、冀城に入った。後に、再び反乱を起こして敗れた馬超に従い、漢中へ落ち延び張魯に従った。馬超は更に出奔し劉備に仕えたが、龐徳はそのまま張魯の下に留まった。 215年、曹操が漢中郡を平定した時、張魯と共に曹操に降伏し、その家臣となった。曹操は龐徳の勇猛さを知っていたため、立義将軍に任命して関門亭侯に封じ、所領数を300戸とした。
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