傅幹
字は彦材《武帝紀》または彦林《後漢書傅燮伝》、小字を「別成」といった《後漢書傅燮伝》。北地郡霊州《後漢書傅燮伝》あるいは泥陽の人《晋書傅玄伝》。傅燮の子、傅玄の父《晋書傅玄伝》。 父の傅燮が漢陽太守に任命されたので傅幹も官舎で暮らしたが、中平四年(一八七)、王国・韓遂らが反乱を起こして漢陽城を包囲した。賊軍のうちに傅燮が目をかけていた胡族がいて、平伏しながら傅燮に降服するように訴えた。傅幹はこのとき十三歳であったが、「国家は混乱して大人(ちちうえ)を受け入れませんでした。いま天下が反乱して軍隊は自分の身を守ることさえできません。郷里の羌胡族どもは恩徳を忘れておらず、(大人が)郡を棄てて帰郷してくださるのを願っておるのです。どうかその通りにしてやってください。郷里で義士を集めてから天下を正せばよろしゅうございます」と傅燮を説得した《後漢書傅燮伝》。 傅幹の言葉も終わらぬうち傅燮はため息を吐き、「別成よ、吾が死を覚悟していることを知っていたのか?俸禄を賜った以上は逃げるわけにはいかんのだ。お前には才智がある。努力せよ、努力せよ。主簿の楊会が吾の程嬰だぞ」と言った。傅幹は喉を詰まらせて言葉にならず、左右の者たちもみな泣き崩れた。傅燮は両翼の軍勢を率いて進撃し、戦死した《後漢書傅燮伝》。 程嬰は春秋時代、趙の人。主君が政敵に殺されたとき、程嬰は同僚の公孫杵臼に「ご主君の奥方にはお腹に忘れ形見がおる。もし男児ならば盛り立てるつもりだが、女児ならばわしは死のう」と言った。政敵は、奥方が男児を産んだと聞いて、殺すつもりで探したが見付けられなかった。程嬰が「必ずまた探しにくるぞ」と言ったので、公孫杵臼は他人の子供を背負って山中に潜伏し、政敵配下の諸将に殺された。主君の忘れ形見は、実は、程嬰のもとにいて、のちに公に即位することができた。これが趙武である。程嬰は「ご主君と杵臼に会いにいく」と言い残して自殺した《史記趙世家》。 袁尚は高幹・郭援に軍勢数万人を授け、匈奴単于とともに河東へ進攻させ、使者を出して馬騰・韓遂と手を結ぼうとした。傅幹は馬騰を説得した。「道に従う者は栄え、徳に逆らう者は亡ぶ、と申します。曹公(曹操)は天子を奉じて逆賊を討っており、道に従う者と言えましょう。袁氏は王命に背き、胡人どもを駆り立てて中国を侵略しており、徳に逆らう者と言うべきです。ごたごたが片付いたとき、どっちつかずの態度を取っておられた将軍が真っ先に誅殺されはしないかと心配です。将軍が郭援を討ち果たすならば、曹公はきっと将軍に感謝することでしょう。」馬騰はそれを聞き入れ、子の馬超に軍勢一万人を授けて鍾繇とともに郭援を打ち破らせた《鍾繇伝》 建安十九年(二一四)、劉備が蜀を攻略しようとしたとき、丞相掾趙戩は「劉備は成功できないだろう。用兵が稚拙であるし、蜀は四方を要害に囲まれておるからな」と述べた。しかし徴士傅幹は「劉備は他人に死力を尽くさせる度量の持ち主だ。諸葛亮は政治の変化に通暁し、正直でありながら知謀を持ち、それが宰相となっている。張飛・関羽は勇敢かつ忠義であって、いずれも万人の敵であり、それが将帥となっている。劉備の戦略に加えて三人の傑物が補佐するのだから成功せぬはずがない」と言った《先主伝》。果たして劉備は蜀を下したのであった。 同年七月、曹操が遠征して孫権を攻めたとき、参軍傅幹は諫言した。「天下を治めるには文武の道があり、それを用いるには威徳を備えるものです。明公(との)は武力によって天下の十分の九を平定され、いまだ王命に従わぬ者といえば呉・蜀だけです。呉には長江、蜀には高山があり、威光によって屈服させるのは困難、恩徳によって懐柔する方が容易です。軍勢を休めて国内を固められませ。いま十万の軍勢を催しておられますが、賊軍が深く要害に楯籠るならば、兵馬も能力を発揮できず、威光に傷が付きまするぞ。」曹操は聞き入れず、そのため成果を挙げられなかった《武帝紀》 傅幹はのちに扶風太守まで昇った《後漢書傅燮伝・晋書傅玄伝》。 【参照】袁尚 / 王国 / 郭援 / 関羽 / 韓遂 / 呼廚泉(匈奴単于) / 高幹 / 諸葛亮 / 鍾繇 / 曹操 / 孫権 / 張飛 / 趙戩 / 程嬰 / 馬超 / 馬騰 / 傅玄 / 傅燮 / 楊会 / 劉協(天子) / 劉備 / 河東郡 / 漢陽郡 / 呉 / 蜀 / 長江 / 泥陽県 / 扶風郡 / 北地郡 / 霊州県 / 参軍 / 主簿 / 丞相掾 / 単于 / 太守 / 徴士 / 羌族 / 匈奴 / 胡族 |
傅幹
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傅 幹(ふ かん、175年 - ?)は、中国後漢時代末期の政治家。字は彦材、または彦林。小字(幼名)は別成。本貫は涼州北地郡霊州県(現在の寧夏回族自治区呉忠市利通区)。父は傅燮。子は傅玄。
経歴
姓名 | 傅幹 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 175年(熹平4年) - 没年不詳 |
字・別号 | 彦材(字) |
本貫・出身地等 | 涼州北地郡霊州県 |
職官 | 徴士〔曹操〕→参軍〔曹操〕 →丞相倉曹属、扶風太守〔曹操〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 馬騰→曹操 |
家族・一族 | 父: 傅燮 子:傅玄 |
幼年期は父が漢陽太守を務めていたため、西涼にいた。中平4年(187年)、当時の涼州刺史耿鄙の悪政に反乱した異民族により、漢陽城が包囲された。当時13歳だった傅幹が父に降伏を勧めたものの、父はその進言を拒否し部下に傅幹の後事を託し戦死した。
傅幹はその後、元耿鄙の部下であった馬騰に仕えた。建安7年(202年)、馬騰が冀州の袁尚や并州の高幹と手を結び、曹操に対抗しようとすると 「『徳に順じる者は盛え、徳に逆らう者は滅ぶ』と言います。曹公は天子を奉じて暴乱を除き、法令は明らかで上下が団結しています。これは順徳の者であることを現しております。袁氏は強大な家系に頼り、朝廷に背き、胡虜(匈奴)を使って中原を侵略させています。これは逆徳の者である証拠です。将軍は今、朝廷に仕えながら袁氏にも通じようとしています。元々、将軍は中原の成り行きを見守るおつもりだったはずです。今後、曹氏と袁氏の勝敗が決したら、朝廷は将軍の罪を責める詔を発し、真っ先に将軍を誅滅するでしょう」と進言した。 これを聞いた馬騰が恐れ始めると「智者は禍を福に転じるものです。今、曹公は袁氏と戦い、高幹・郭援が河東を攻撃しています。曹公に万全の計があっても、河東の危機を脱することは難しいでしょう。将軍がこの機に高幹等を討てば、袁氏の片腕を破ることになり、曹公の危機を除くことができます。曹公が必ず将軍に感謝し、将軍の功名は比類なきものになるはずです」と諌め、曹操への敵対を思い留まらせた。これにより馬騰は、子の馬超や龐徳を曹操の援軍に派遣し、高幹・郭援の軍を撃破した。
その後、傅幹は曹操配下に転じた。建安17年(212年)、劉備が益州の劉璋を攻撃すると、丞相掾の趙戩が「劉備に平定は無理だ」と主張したが、徴士となっていた傅幹は「劉備の器量に加え、諸葛亮・関羽・張飛の3人の補佐があるため、平定に成功する」と反論した。そして事実、傅幹の言う通りとなった。
建安19年(214年)秋7月、曹操が孫権を討伐しようとすると、参軍となっていた傅幹は、徳をもって懐柔するのが良いとして征伐を諌めたが、聞き入れられなかった。結局この征伐は、捗捗しい戦果を残せずに終わっている。
『三国志』魏書武帝紀によれば、傅幹の官位は丞相倉曹属で終わったとあるが、『後漢書』傅燮伝によれば扶風太守まで至ったとある。
小説『三国志演義』でも、史実同様に曹操の南征を諌める場面で登場している。しかしここでは史実と異なり、曹操はこの諫言を受け入れている。また、馬騰の元配下であったことは記されていない。
参考文献
- >> 「傅幹」を含む用語の索引
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