傅燮
字は南容。北地郡霊州の人。傅幹の父。傅玄の祖父にあたる《晋書傅玄伝》。 身長は八尺あり、容貌には威厳があった。本来の字は「幼起」といったが、孔子の弟子南容が『(詩経)白圭』を一日三度読んだことにあやかって字を変えたのである。若いころは大尉劉寛に師事していた。孝廉に推挙されることは二度に及んだが、彼を推挙した郡将(太守)が亡くなったと聞くと、傅燮は官を棄てて喪に服した。 のちに護軍司馬となり、左中郎将皇甫嵩とともに張角を討伐した。傅燮はかねてより宦官を憎んでおり、天子に上疏して言った。「臣(わたくし)は天下の禍は外側から来るのではなく、内側から起こるものだと聞いております。舜が朝廷に昇ったとき、まず四凶を取り除いてから十六人の宰相を用いたのはそのためです。いま張角が趙・魏で蜂起して、黄巾賊は六つの州を乱していますが、臣は軍務を受けて罪人を討伐して潁川に到着しましたが、戦って勝てないことはありませんでした。黄巾賊といえども朝廷を悩ませるほどではありません。陛下におかれましては、舜が四凶を検挙するのが速やかであったことを思い起こされ、讒言・姦佞の輩を誅伐されるべきです」。 傅燮は張角を撃ち破ることに多大な功績を挙げ、侯に封ぜられるべきであったが、宦官趙忠は彼の上疏を見て怒り憎んでいたので、霊帝に彼のことを誣告した。霊帝は傅燮の言葉を知っていたので罪に陥れることはしなかったが、それでも侯に封ずることはできず、彼を安定郡都尉に任じた。のちに病気のため免官となり、改めて議郎に任じられた。 西の羌族が叛逆して辺章・韓遂が混乱を起こしたとき、涼州は中国各地から軍勢や物資を集めて際限がなかった。そこで司徒崔烈は、公卿百官が集まる会議の席で「涼州を切り捨てよ」と主張した。すると傅燮は声を荒げて「司徒を斬って天下を安んじましょう」と言った。尚書郎楊賛が「傅燮は大臣を侮辱しています」と奏上したので、帝は傅燮を呼んで問責した。傅燮は答えた。「むかし冒頓が叛逆したとき、樊噲は上将軍となって軍勢十万で匈奴の地を横行しようとしたので、季布が樊噲を斬るべきだと言いました。いま涼州は天下の要衝、国家の垣根であります。もし野蛮な奴らがこの地を奪ったなら、天下・社稷の憂慮となりましょう」。帝は傅燮の言葉をもっともだと考え、このことから傅燮は厳正さによって朝廷で重んじられることになった。 車騎将軍趙忠は詔勅によって黄巾討伐の論功行賞をすることになったが、執金吾甄挙らは「傅南容が功績を立てたのに侯に封ぜられていないので天下は失望しております。賢者を任用することによって民衆の心に沿うのがよろしいでしょう」と趙忠に告げた。趙忠はその言葉に従って弟の城門校尉趙延を使者に立てたが、極めて慇懃な様子だった。傅燮は色を正して「この傅燮がどうして私的なご褒美など求めましょう」と拒絶した。趙忠はますます恨みを抱いたが、彼の名声を憚って危害を加えることもできなかった。また貴人・権力者の多くも彼を憎んだ。そのため朝廷に留まることができず、漢陽太守に出向させられた。 漢陽太守范津は人物を見る目があり、もともと傅燮を孝廉に推挙した人だったが、このとき傅燮が後任者としてやって来たのである。郷里の人々はそれを栄誉だと思った。傅燮は人民を慈しんだので、叛逆した羌族たちも彼の恩情になつき、連れ立って降伏しに来た。また開墾事業を行い、四十余りの陣営が連なって屯田した。 そのころ涼州刺史耿鄙は治中従事程球に政治を委ねていたが、程球は賄賂を取ったりしていたので人々の恨みを買っていた。中平四年(一八七)、耿鄙は涼州六郡の兵を率いて金城の賊王国・韓遂らを討伐しようとしたが、傅燮は彼が必ず敗北すると知り、「使君(知事どの)の統治は日に日に浅薄になっており、人民は教育を受けていません。孔子は『教育のない人を戦わすというのは、それを棄てるということだ』と言っています。万一、内部から変事が起きてから後悔しても取り返しはつきませんぞ。軍を休息させて信賞必罰を徹底すれば、賊は我らが臆病だと思って必ず仲間割れするでしょう。そののち教育された人を率いて攻撃すれば、坐ったままでも功績を立てられるでしょう」と諫めた。耿鄙は聞き入れず、はたして狄道まで軍を進めたところで謀叛が起こり、まず程球が殺され、続いて耿鄙も殺害された。 四月、賊の韓遂らは進撃して漢陽城を包囲したが、城中の兵は少なく兵糧も底を突いていた。それでも傅燮は城を固守した。北地郡の胡族騎兵数千人が賊徒の言いなりになって郡を攻撃していたが、彼らはみな昔から傅燮の恩徳になついていたから、城外で土下座して彼を故郷に帰したいと懇願した。 傅燮の子傅幹はこのとき十三歳で、父に随行して官舎にいたが、父の性格が剛直で高い節義を持っていることを知っていたので、意志をまげて危険から逃れることをしないのではないかと心配した。そこで進み出て諫めた。「国家が混乱したのは大人(ちちうえ)を受け入れなかったせいです。いま天下は叛乱が巻き起こり、軍勢は自分を守ることさえできません。郷里の羌胡どもはかつて恩徳に浴しており、(父上が)郡を棄てて帰郷されることを望んでおります。これをお聞き届けになり、郷里に帰って義挙を奨励し、道義を実践する者があれば支援してやり、それによって天下を清めましょう」。 その言葉が終わらぬうち、傅燮は怒りをあらわにして「別成!」と傅幹の幼名を叫び、「汝(おまえ)は吾(わし)が死を決意していることを知っているだろう。聖人は節義を達成し、それに次ぐ者は節義を守るのだ。殷の紂王は暴虐であったが、それでも伯夷は(殷を討伐した)周の粟を食べずに死んだ。仲尼(孔子)は彼が賢者であったと称賛している。いま朝廷は紂王ほどひどくはないし、吾の徳も伯夷に遠く及ばないとも限らない。禄を食(は)んでいるくせに危難を避けることなどできるか!汝には才智がある。努力せよ。主簿の楊会が吾の程嬰だ」と言った。傅幹はのどを詰まらせて言葉を発することができなかった。左右の者もみな涙を流した。 賊の王国は故(もと)の酒泉太守黄衍を使者として「勝負はすでに付いている。天下は漢の所有するものではなくなった。府君(知事どの)にその気持ちがあるなら我が将軍にならないか」と傅燮を説得させたが、傅燮は剣を押さえて黄衍を叱りつけた。「割り符を与えられた臣下のくせに、謀叛して賊徒のために説教するのか!」。ついに左右の者を引き連れて進軍し、軍陣に臨んで戦没した。諡されて壮節侯という。 【参照】王国 / 韓遂 / 季布 / 甄挙 / 孔子(仲尼) / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 黄衍 / 崔烈 / 舜 / 紂 / 張角 / 趙延 / 趙忠 / 程嬰 / 程球 / 南容 / 伯夷 / 范津 / 樊噲 / 傅幹 / 傅玄 / 辺章 / 冒頓単于 / 楊会 / 楊賛 / 劉寛 / 劉宏(天子・霊帝) / 安定郡 / 殷 / 潁川郡 / 漢 / 漢陽郡 / 魏郡 / 金城郡 / 周 / 酒泉郡 / 趙国 / 狄道県 / 北地郡 / 涼州 / 霊州県 / 議郎 / 侯 / 公卿 / 孝廉 / 護軍司馬 / 左中郎将 / 刺史 / 執金吾 / 司徒 / 車騎将軍 / 主簿 / 上将軍 / 尚書郎 / 城門校尉 / 大尉 / 太守(郡将) / 治中従事 / 都尉 / 詩経 / 諡 / 宦官 / 羌族 / 匈奴 / 黄巾賊 / 胡族 / 四凶 / 使君 / 十六相(十六人の宰相) / 大人 / 屯田 / 府君 / 剖符(割り符) |
傅燮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 07:07 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動傅 燮(ふ しょう、生年不詳 - 187年)は、後漢の軍人。字は南容、もとの字は幼起。本貫は涼州北地郡霊州県(現在の寧夏回族自治区呉忠市利通区)。
経歴
身長は8尺で、威容があった。若くして太尉の劉寛に師事した。2たび孝廉に察挙された。推挙してくれた郡将が死去すると、官を去って喪に服した。184年(光和7年)、護軍司馬となり、左中郎将の皇甫嵩とともに張角の反乱軍を討った。
傅燮は宦官の専横を憎んでおり、虞舜が四罪を追放した故事になぞらえて、かれらを粛清するよう求める上疏をおこなった。このため宦官の趙忠の讒言を受けた。霊帝は傅燮に罪を科さなかったが、封爵を与えることもなかった。傅燮は安定都尉に任じられ、病のため免官された。
後に議郎に任じられた。ときに西羌が離反し、辺章や韓遂らが隴右で反乱を起こしていた。軍役のための徴発があり、民衆の負担は止むことがなかった。このため司徒の崔烈は涼州放棄論を唱えた。傅燮はこれに激しく反論し、霊帝は傅燮の意見を採用した。
趙忠が車騎将軍となると、黄巾の乱討伐の論功をおこなうこととなり、趙忠は弟の趙延を傅燮のもとに派遣して、万戸侯の位で傅燮を釣ろうとした。傅燮は気色ばんで、「遇と不遇は天命である。功あって論じられないのは時機である。傅燮がどうして私賞を求めようか」と拒絶した。趙忠はますます傅燮を恨むようになった。傅燮は権貴の人々に憎まれることが多く、漢陽太守として出向させられた。傅燮は漢陽郡において羌の懐柔につとめ、屯田を開き、40あまりの営を置いた。
ときに涼州刺史の耿鄙は治中の程球に実務を任せており、程球が不正な利益を貪っていたため、涼州の士人たちはこれを恨んでいた。187年(中平4年)、耿鄙は6郡の兵を率いて金城郡の王国や韓遂らの反乱軍を攻撃しようとした。傅燮は耿鄙が人心を失っていることを知っていたため、敗戦を予想して、信賞必罰を明らかにするよう耿鄙を諫めた。耿鄙は聞き入れず出陣したが、狄道に達すると部隊に反乱が発生し、まず程球が殺され、次に耿鄙が害された。反乱軍は進軍して漢陽を包囲した。城中は兵が少なく食糧の備蓄もなかったが、傅燮は籠城して固く守った。
北地郡の胡騎数千が反乱軍に従って漢陽郡を攻撃したが、みな傅燮の恩義を受けていたため、城外で叩頭して傅燮を郷里に送ると申し出た。子の傅幹が傅燮を説得したが、傅燮は節を曲げることを良しとしなかった。王国がもと酒泉太守の黄衍を派遣して降伏を勧告したが、やはり傅燮は聞き入れなかった。4月[1]、傅燮は戦没した。諡は壮節侯といった。
脚注
伝記資料
- 『後漢書』巻58 列伝第48
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