傅燮とは? わかりやすく解説

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傅燮Fu Xie

フショウ
フセフ

(?~187
漢陽太守・壮節侯

字は南容。北地郡霊州の人。傅幹の父。傅玄祖父にあたる《晋書傅玄伝》。

身長八尺あり、容貌には威厳があった。本来の字は「幼起」といったが、孔子弟子南容が『(詩経白圭』を一日三度読んだことにあやかって字を変えたのである若いころ大尉寛に師事していた。孝廉推挙されることは二度及んだが、彼を推挙した郡将太守)が亡くなった聞くと、傅燮は官を棄てて喪に服した

のちに護軍司馬となり、左中郎将皇甫嵩とともに張角討伐した。傅燮はかねてより宦官憎んでおり、天子上疏して言った。「臣(わたくし)は天下の禍は外側から来るのではなく内側から起こるものだと聞いております。舜が朝廷に昇ったとき、まず四凶取り除いてから十六人の宰相用いたのはそのためです。いま張角が趙・魏で蜂起して黄巾賊六つの州を乱していますが、臣は軍務受けて罪人討伐して潁川到着しましたが、戦って勝てないことはありませんでした黄巾賊といえども朝廷悩ませるほどではありません。陛下おかれましては、舜が四凶検挙するのが速やかであったことを思い起こされ讒言姦佞の輩を誅伐されるべきです」。

傅燮は張角撃ち破ることに多大な功績挙げ、侯に封ぜられるべきであったが、宦官趙忠彼の上疏見て怒り憎んでいたので、霊帝彼のことを誣告した。霊帝は傅燮の言葉知っていたので罪に陥れることはしなかったが、それでも侯に封ずることはできず、彼を安定郡都尉任じた。のちに病気のため免官となり、改めて議郎に任じられた。

西の羌族叛逆して辺章韓遂混乱起こしたとき、涼州中国各地から軍勢物資集めて際限がなかった。そこで司徒崔烈は、公卿百官が集まる会議の席で「涼州切り捨てよ」と主張した。すると傅燮は声を荒げて「司徒を斬って天下安んじましょうと言った尚書郎楊賛が「傅燮は大臣侮辱しています」と奏上したので、帝は傅燮を呼んで問責した。傅燮は答えた。「むかし冒頓叛逆したとき、樊噲上将軍となって軍勢十万匈奴の地を横行しようとしたので、季布樊噲斬るべきだと言いました。いま涼州天下要衝国家垣根であります。もし野蛮な奴らがこの地を奪ったなら、天下社稷憂慮となりましょう」。帝は傅燮の言葉もっともだ考え、このことから傅燮は厳正さによって朝廷重んじられることになった

車騎将軍趙忠詔勅によって黄巾討伐論功行賞をすることになったが、執金吾甄挙らは「傅南容が功績立てたのに侯に封ぜられていないので天下失望しております賢者任用することによって民衆の心に沿うのがよろしいでしょう」と趙忠告げた趙忠はその言葉に従って弟の城門校尉趙延を使者立てたが、極めて慇懃な様子だった。傅燮は色を正して「この傅燮がどうして私的なご褒美など求めましょう」と拒絶した趙忠はますます恨み抱いたが、彼の名声憚って危害加えることもできなかった。また貴人権力者多くも彼を憎んだ。そのため朝廷留まることができず、漢陽太守出向させられた。

漢陽太守范津は人物見る目があり、もともと傅燮を孝廉推挙した人だったが、このとき傅燮が後任者してやって来たのである郷里人々はそれを栄誉だと思った。傅燮は人民慈しんだので、叛逆した羌族たちも彼の恩情になつき、連れ立って降伏しに来た。また開墾事業行い四十余り陣営連なって屯田した。

そのころ涼州刺史耿鄙は治中従事程球に政治委ねていたが、程球は賄賂取ったりしていたので人々恨み買っていた。中平四年(一八七)、耿鄙は涼州六郡の兵を率いて金城の賊王国韓遂らを討伐ようとしたが、傅燮は彼が必ず敗北する知り、「使君知事どの)の統治日に日に浅薄になっており、人民教育受けていません。孔子は『教育のない人を戦わすというのは、それを棄てるということだと言ってます。万一内部から変事起きてから後悔して取り返しはつきませんぞ。軍を休息させて信賞必罰徹底すれば、賊は我ら臆病だ思って必ず仲間割れするでしょうそののち教育された人を率いて攻撃すれば、坐ったままでも功績立てられるでしょう」と諫めた。耿鄙は聞き入れず、はたして狄道まで軍を進めたところで謀叛起こり、まず程球が殺され続いて耿鄙も殺害された。

四月、賊の韓遂らは進撃し漢陽城を包囲したが、城中の兵は少なく兵糧も底を突いていた。それでも傅燮は城を固守した北地郡の胡族騎兵数千人が賊徒言いなりになって郡を攻撃していたが、彼らはみな昔から傅燮の恩徳になついていたから、城外土下座して彼を故郷帰したい懇願した

傅燮の子傅幹はこのとき十三歳で、父に随行して官舎にいたが、父の性格剛直で高い節義持っていることを知っていたので、意志をまげて危険から逃れることをしないのではないかと心配した。そこで進み出て諫めた。「国家混乱したのは大人ちちうえ)を受け入れなかったせいです。いま天下叛乱巻き起こり軍勢自分を守ることさえできません。郷里の羌胡どもはかつて恩徳浴しており、(父上が)郡を棄てて帰郷されることを望んでおります。これをお聞き届けになり、郷里帰って義挙奨励し道義実践する者があれば支援してやり、それによって天下清めましょう」。

その言葉終わらぬうち、傅燮は怒りあらわにして「別成!」と傅幹幼名叫び、「汝(おまえ)は吾(わし)が死を決意していることを知っているだろう。聖人節義達成し、それに次ぐ者は節義を守るのだ。殷の紂王暴虐であったが、それでも伯夷は(殷を討伐した)周の粟を食べず死んだ仲尼孔子)は彼が賢者であった称賛している。いま朝廷紂王ほどひどくはないし、吾の徳も伯夷遠く及ばないとも限らない。禄を食(は)んでいるくせに危難避けることなどできるか!汝には才智がある。努力せよ主簿の楊会が吾の程嬰だ」と言った傅幹はのどを詰まらせて言葉発することができなかった。左右の者もみな涙を流した

賊の王国は故(もと)の酒泉太守黄衍を使者として「勝負はすでに付いている。天下は漢の所有するものではなくなった。府君知事どの)にその気持ちがあるなら我が将軍ならないか」と傅燮を説得させたが、傅燮は剣を押さえて黄衍を叱りつけた。「割り符与えられ臣下のくせに、謀叛して賊徒のために説教するのか!」。ついに左右の者を引き連れて進軍し軍陣臨んで戦没した。諡されて壮節侯という。

参照王国 / 韓遂 / 季布 / 甄挙 / 孔子仲尼) / 皇甫嵩 / 耿鄙 / 黄衍 / 崔烈 / 舜 / 紂 / 張角 / 趙延 / 趙忠 / 程嬰 / 程球 / 南容 / 伯夷 / 范津 / 樊噲 / 傅幹 / 傅玄 / 辺章 / 冒頓単于 / 楊会 / 楊賛 / 劉寛 / 劉宏天子霊帝) / 安定郡 / 殷 / 潁川郡 / 漢 / 漢陽郡 / 魏郡 / 金城郡 / 周 / 酒泉郡 / 趙国 / 狄道県 / 北地郡 / 涼州 / 霊州県 / 議郎 / 侯 / 公卿 / 孝廉 / 護軍司馬 / 左中郎将 / 刺史 / 執金吾 / 司徒 / 車騎将軍 / 主簿 / 上将軍 / 尚書郎 / 城門校尉 / 大尉 / 太守郡将) / 治中従事 / 都尉 / 詩経 / 諡 / 宦官 / 羌族 / 匈奴 / 黄巾賊 / 胡族 / 四凶 / 使君 / 十六相(十六人の宰相) / 大人 / 屯田 / 府君 / 剖符(割り符


傅燮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 07:07 UTC 版)

傅 燮(ふ しょう、生年不詳 - 187年)は、後漢軍人は南容、もとの字は幼起。本貫涼州北地郡霊州県(現在の寧夏回族自治区呉忠市利通区)。


  1. ^ 後漢書』霊帝紀


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