涼州とは? わかりやすく解説

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りょうしゅう〔リヤウシウ〕【涼州】

読み方:りょうしゅう

中国甘粛省都市武威旧称


涼州Liang zhou

リョウシュウ
リヤウシウ

領郡12 / 領城98
戸数92,491
人口399,268

略史

はじめ涼州刺史耿鄙が不正な官吏程球を治中従事として信任し多く人々恨み抱いていた。中平元年一八四)冬、北地郡の先羌が枹罕河関盗賊どもとともに叛逆し、湟中従北宮伯玉・李文侯を将軍擁立し、護羌校尉伶徴を殺害した北宮伯玉らは故(もと)の新安県辺章金城従事韓遂誘拐して総帥推戴し、ともに金城太守陳懿を殺した

翌年春に軍勢数万人にふくれあがり、宦官誅殺することを名目三輔地方闖入した。左車騎将皇甫嵩中郎将董卓迎撃したが功績挙げられず、八月には張温車騎将軍となって美陽駐屯した。辺章らは美陽襲撃し張温撃破したが、十一月陣中流星落ちたため金城敗走した張温は盪寇将軍周慎金城包囲させる一方、破将軍董卓望垣進めて羌を討たせたが、いずれも勝つことができず、張温軍勢引き揚げ長安帰還し、さらに翌三年冬には京師(みやこ)に徴し返された。

韓遂辺章北宮伯玉李文侯を殺害し軍勢十万余りこぞって隴西郡包囲した。また漢陽郡王国も合衆将軍自称して韓遂合流した。四年、刺史耿鄙は叛逆者を討伐するため隴西郡入ったが、狄道まで来たところで謀叛起こり、程球とともに殺害された。隴西太守相如は韓遂連合し、また耿鄙の司馬馬騰軍勢擁して謀叛した。韓遂らは王国推戴して主導者とした。酒泉太守黄衍は降服して王国らに同調したが、漢陽太守傅燮押し寄せる敵軍屈せず戦死した

王国らは三輔地方略奪働いていたが、五年、陳倉城で左将軍皇甫嵩前将軍董卓包囲されたうえ敗北した韓遂らは王国排斥し、故の信都県令閻忠を主導者祭り上げようとしたが、閻忠は恥に思って病死した。こうして韓遂らは権勢争って互いに攻撃しあうようになった

都督文俶

刺史・牧】耿鄙 / 种劭 / 韋端 / 邯鄲商 / 韋康 / 雛岐 / 張既 / 温恢 / 孟建 / 魏延 / 楊欣

【州吏】程球 / 楊阜 / 尹奉 / 趙昂 / 閻温

【州人】

【領郡】隴西郡 / 漢陽郡 / 武都郡 / 金城郡 / (西平郡) / 安定郡 / 北地郡 / 武威郡 / 張掖郡 / 酒泉郡 / 敦煌郡 / 張掖属国 / 張掖居延属国


涼州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/06 09:12 UTC 版)

涼州(りょうしゅう)は、中国にかつて存在した州。現在の甘粛省寧夏回族自治区一帯に設置された。

歴史

漢代

紀元前106年元封5年)、武帝が全国を13州に分割し、各州に刺史を置いた際に涼州が設置された。隴西武都金城安定北地武威天水張掖酒泉敦煌の10郡を管轄した。

前漢末の混乱期には隗囂が割拠したが馬援らにより平定されている。後漢が成立すると隴県を州治とした。194年興平元年)に州西部を分割して新たに雍州を設置している。

魏晋南北朝時代

三国時代になるとにより州治は姑臧県に遷された。魏の涼州刺史は同時に戊己校尉も兼任したため、その行政範囲は西域まで及ぶ広大なものとなっている。

西晋末の永嘉年間以後、八王の乱の中で涼州刺史の張軌は自立、前涼を建てると、州南東部に河州を設置している。この時代の涼州は西域諸勢力の拠点となり、前涼以降も後涼南涼北涼などが拠点としている。

439年太延5年)、北魏が北涼を滅ぼすと、涼州はその辺境であるという地理的理由により姑臧鎮に降格された。490年太和14年)、涼州が再び置かれた。西魏の時代には涼州西部に西涼州が設置されるなど、細分化が進んだ。北周の時代には西域への要地として涼州総管府が設置されている。

北周の時代の管轄郡は下記の4郡であった。

隋代

初には、涼州は4郡9県を管轄した。583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、涼州の属郡は廃止された。607年大業3年)、郡制施行に伴い武威郡と改称され、下部に4県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
涼州 武威郡
武威郡 番和郡 広武郡 泉城郡 姑臧県
昌松県
番和県
会寧県
姑臧県
昌松県
彰県 燕支県
力乾県 安寧県
広城県
広武県 新陽県

唐代

619年武徳2年)、李軌を平定すると、武威郡は涼州と改められた。742年天宝元年)、涼州は武威郡と改称された。758年乾元元年)、武威郡は涼州と改称された。涼州は河西道に属し、姑臧・神烏・昌松・番和・嘉麟の5県を管轄した[2]767年大暦2年)、涼州は吐蕃の嗢末部に占領されて、その統治を受けた。唐は嗢末との間で発生した戦闘において最前線となり、唐と嗢末による統治が交互に繰り返された。

宋代・西夏

1006年景徳3年)、李徳明が涼州を陥落させた。1028年天聖6年)、西夏により涼州は西涼府と改められ、搠羅河羅の2県を管轄した。

元代

1226年太祖21年)、モンゴル帝国が西涼府を陥落させた。1278年至元15年)に永昌路が置かれると、西涼府は西涼州に降格し、その管轄とされた。

明代

1376年洪武9年)、により西涼州は涼州衛と改められた。

清代以降

1724年雍正2年)、により涼州衛は涼州府に昇格した。涼州府は甘粛省に属し、武威鎮番永昌古浪平番の5県と荘浪庁を管轄した[3]

1913年中華民国により涼州府は廃止された。

涼州詞

涼州を舞台にした「涼州詞」が多く作られているが、中でも有名なのが唐の王翰による七言絶句である。

葡萄美酒夜光杯(ブドウ酒を夜光杯に注いで飲む)
欲飲琵琶馬上催(飲もうとすると馬上で琵琶を掻き鳴らす)
酔臥沙場君莫笑(酔っ払って砂漠[4]に倒れ伏そうとも笑わないでくれ)
古来征戦幾人回(昔から戦場に出てきたうちのいったい幾人かが無事帰れたことか)

起句では、西域から伝わった「葡萄美酒」、すなわちワインや「夜光杯」といったエキゾチックな小道具が登場する。古来、涼州は天山山脈を越えてヨーロッパへ通ずる東西路の交通の要所(河西回廊)であったため、珍しいものが伝わっていたことに由来する。 同じ理由から涼州は国境防衛の要地でもあり、異民族との戦場になることも多かった。そこに「馬上催」という落ち着かなさの原因があるのかもしれず、結句に「幾人帰」と戦に向かう厳しさと不安が詠われるのである。

脚注

  1. ^ 隋書』地理志上
  2. ^ 旧唐書』地理志三
  3. ^ 清史稿』地理志十一
  4. ^ 「沙場」とは「砂漠」ではなく「戦場」の意味だとも言われる

関連項目




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