はちおう‐の‐らん〔ハチワウ‐〕【八王の乱】
八王の乱
八王の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 02:10 UTC 版)
永興2年(305年)、西晋では八王の乱が起きており、㔨と汲桑は数百騎を率いて成都王司馬穎の配下の公師藩と合流した。この頃、汲桑から石姓をつけてもらい、名を勒と改めた。石勒ら公師藩は鄴を攻めたが、范陽王司馬虓が部将のにこれを討たせると奔走した。司馬穎が東海王司馬越・東嬴公司馬騰らによって処刑されると、死んだ公師藩の後を継いだ汲桑は永嘉元年(307年)に苑中に帰還して掠奪をし、大将軍を自称して司馬穎の復仇を名目に反乱を起こした。石勒は汲桑のもとで前駆として活躍して掃虜将軍・忠明亭侯となった。汲桑らは鄴に入城して、司馬騰が軽騎で逃げたところを汲桑の部将が殺した。鄴宮を焼き、士民を万余人殺し、大いに掠奪し、さらに延津を渡って南の兗州を攻撃すると、太傅の司馬越が苟晞らにこれを討たせた。石勒は苟晞と戦ったが、万余人の死者を出す大敗をすると、汲桑は馬牧に、石勒は楽平に奔走した(汲桑は平原で斬られた)。
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八王の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 02:07 UTC 版)
300年4月、趙王司馬倫が賈謐を誅殺して政権を掌握すると、劉琨は記室督に任じられ、さらに従事中郎に移った。劉琨の姉は司馬倫の子の司馬荂に嫁いでいたので、劉琨は司馬倫に大いに信任された。 301年1月、司馬倫が帝位を簒奪すると、司馬荂は皇太子となり、劉琨は詹事となって司馬荂の補佐に当たった。3月、三王(斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒)が司馬倫討伐を掲げて決起すると、司馬倫は劉琨を冠軍(総大将)に命じ、仮節を与えた。劉琨は孫会と共に皇帝軍三万を率いて黄橋に進軍し、成都王司馬穎と争うも大敗を喫した。劉琨は軍を後退させると、橋を焼き落として防備を固めた。 4月、内乱により司馬倫は殺害された。6月、司馬冏が執政を開始すると、劉琨とその一族は人望があったので特別に罪を許された。劉琨は尚書左丞に任じられ、後に司徒左長史に移った。 302年12月、司馬冏が敗死すると、劉琨は許昌に出鎮していた范陽王司馬虓から招集を受け、司馬に任じられた。 304年11月、恵帝は司馬顒配下の張方により強制的に長安に移された。305年7月、司馬虓は都督幽州諸軍事王浚・東海王司馬越らと共に、恵帝奪還と長安を守る司馬顒打倒を掲げて挙兵した。この時、司馬越は独断で司馬虓を豫州刺史に任じ、元の豫州刺史劉喬を冀州刺史に移らせた。劉喬はこれに大いに反発し、司馬顒の庇護を受けて司馬越・司馬虓らの進軍を阻むようになった。 305年、劉喬が許昌に進軍して司馬虓を攻撃した。劉琨は汝南郡太守杜育らと共に救援に向かったが、到着する前に司馬虓は敗れた。その為、劉琨は司馬虓を迎え入れると河北へ向かったが、劉琨の父母は劉喬に捕縛されてしまった。劉琨は冀州刺史温羨を説得し、司馬虓へ刺史の位を譲ってもらった。司馬虓は冀州を領有すると、劉琨は幽州に派遣され、都督幽州諸軍事王浚へ兵を分けてもらうよう請うた。王浚はこれを容れ、突騎八百を与えた。 同年12月、劉琨は司馬顒一派掃討の為に兵を挙げ、幽州突騎を率いて河橋へ進軍し、将軍王闡を討ち取った。さらに、司馬虓と共に騎兵五千を率いて黄河を渡ると、司馬顒配下の大将石超を撃破してその首級を挙げた。劉喬は劉琨の父を脅して囚人護送車に乗せ、考城に拠って抵抗したが、劉琨らはこれを破って劉喬を南へ退却させた。これにより、劉琨は父母を取り戻した。そのまま田徽と共に廩丘に進軍すると東平王司馬楙を破った。さらに劉琨は兵を分けて許昌へ進軍すると、許昌の人は戦わずして迎え入れた。この時、司馬越は劉喬の子である劉祐より蕭県の霊璧にて攻撃を受け、進退に窮していたが、劉琨は諸軍を統制して司馬越と合流すると、譙で劉祐を破ってその首級を挙げた。これにより劉喬の軍勢も散亡した。 306年、司馬顒は張方を殺してその首を司馬越に送り、和睦を求めたが、司馬越は拒否した。司馬顒配下の呂朗は滎陽に駐軍していたが、劉琨が張方の首を示すと降伏した。司馬越軍が長安を攻略して恵帝が迎え入れられると、劉琨は功績により広武侯に封じられ、食邑二千戸を与えられた。
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