ごそしちこく‐の‐らん【呉楚七国の乱】
呉楚七国の乱
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呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)は、中国前漢の紀元前154年に、呉王ほか七国の諸侯王が起こした反乱。漢の宗室である劉氏同士の内乱であった。
- ^ 袁盎と鼂錯は政敵の間柄であり、劉氏の和についてなど政策でもあらゆる点で反対だったため、極めて仲が悪かった。実際に鼂錯は呉王の蜂起を理由に袁盎を殺そうとしたものの、景帝の言により隠居させるに留まっていた。袁盎は機を逆に利用し、鼂錯を殺したのである。ただし、鼂錯の殺害も反乱への対応の一環でしかなかったかも知れない。
- 1 呉楚七国の乱とは
- 2 呉楚七国の乱の概要
- 3 関連系図
- 4 影響
呉楚七国の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:48 UTC 版)
紀元前154年、景帝とその側近で当時御史大夫だった鼂錯が中心となって行った、急激な中央集権化政策に反発した漢の宗室である呉王劉濞が、楚王や趙王などの諸侯王と謀って大規模な反乱を起こした。これが呉楚七国の乱である。 太尉となった周亜夫は景帝の命を受けて大軍を率い、呉王の率いる反乱軍の主力と戦うべく、前線の梁王劉武(景帝の同母弟)からの援軍要請を無視して昌邑に入る。そして昌邑で守備を固め、反乱軍の補給線を絶たせることに成功する。補給線が絶たれた反乱軍は劉武への攻撃から昌邑への攻撃へと切り替えるも、堅い守りに敵わず、反乱軍が陽動作戦を行うも周亜夫はこれを看破、平地において反乱軍を戦車で撃破し追撃、反乱軍主力部隊は壊滅した。 呉王ら反乱側の諸侯王はほとんどが殺害されたり、自殺するなどして、この反乱は3ヶ月ほどで鎮圧された。これにより、漢王朝は中央集権化政策をさらに積極的に推し進めることになった。
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呉楚七国の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:28 UTC 版)
「呉楚七国の乱」も参照 この時代に、皇族・宗室である劉氏一門が封じられた諸侯王は領内の徴税・官吏の任命権などを掌握し、分国は半独立国の様相を呈していた。この問題は前代以来のことであり、文帝も対策を徐々に行ってはいたものの、この問題に対しても消極的な対応であり(文帝自身が諸侯王である代王から皇帝になっている)、中郎将の袁盎の諫言もあって抜本的な対策は先送りにされていた。 基本的には文帝の方針を継承した景帝であるが、分国問題に関しては袁盎と犬猿の仲である御史大夫の鼂錯の献言に従って、諸侯王の権力削減に着手し、諸侯王の些細な過失を理由に封土を没収し、中央集権体制を構築して行った。これに反発した諸侯王は密かに連携し、紀元前154年に呉王劉濞を中心とした反乱が発生した(呉楚七国の乱)。当初は反乱軍が優勢であったが、周亜夫の活躍によりこの反乱は鎮圧されている。 呉楚七国の乱の鎮圧以降、諸侯王の封土は官僚である相(諸侯相)を派遣して統治させ、諸侯王は徴税される税を受け取るのみとし、当初計画していた諸侯王の権力削減は成功した。 また、呉楚七国の乱鎮圧の功労者である周亜夫を、皇太子冊立をめぐる対立により丞相から解任した。それからしばらくして、前漢では初めて自身の側近を丞相に任じた。このことは従来、皇帝の政策にも制約を加えるだけの権力を与えられていた元勲たちとその一族からのみ任命されることが不文律化していた丞相の権力が、景帝の時代に大きく低下し、逆に皇帝権力が飛躍的に強化されたことを示している。
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