文帝の施政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:52 UTC 版)
文帝の基本的な政治姿勢は、高祖以来の政策を継承するもので、民力の休養と農村の活性化にあった。そのため、大規模工事は急を要するものを除き停止している。宮中で楼閣を設けようという計画が出された際にも、その経費が中流家庭10戸の資産に相当すると知って中止を命じたり、自らの陵墓を高祖や恵帝に比べて小規模なものとしている。また、文帝の在位期間は減税が数度実施され、一切の田租が免除された年もあった(ただし他の税や労役については実施されていたと考えられる)。法制度の改革では、斬首・去勢を除く肉刑の廃止を行っている。 生母である薄氏に対しては孝行を尽くし、自ら毒味役を務めたりと孝行な皇帝であるとして、後世二十四孝に数えられた。文帝は薄氏を尊重し、冤罪により周勃が逮捕された際に薄氏から叱責を受けると周勃の釈放を命じたり、臣下の諫言にもかかわらず計画していた匈奴との戦争を薄氏の説得により中止している。 自らの擁立者でもあり、同時に政敵でもあった諸侯王に対しては穏便に接し、本来ならば無嗣断絶になる場合、また謀反を起こして廃立される場合にも、皇帝の恩恵という名目でその血縁者を求め、領地を分割させて諸侯の地位を保全させる努力を払っている。これらは後の呉楚七国の乱の原因となったと批判されているが、分割相続によって反乱を起こした諸侯王家の意思統一が困難になり、乱の早期鎮圧が可能になったともいえる。また、周亜夫・袁盎などに実直が過ぎて無礼とも取れる行いがあっても全く問わず、むしろ非常に高く評価した。子の皇太子劉啓(後の景帝)にも何かあれば頼れと遺言しており、呉楚七国の乱の鎮圧に当たって重要な働きをすることになる。 文帝の政策は、父の高祖や嫡母の呂雉、あるいは孫の武帝の時代に比べれば、目立った業績は欠如しているが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代が創出された。文帝の治世は次の景帝の代と合わせて「文景の治」と賞賛され、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなった、などの逸話が残されている。 文帝の16年、「人主延寿」と瑞兆ともいうべき文字が彫られていた玉杯が発見され、その記念に改元して再び元年と称した。2度目の改元以降は「後元年」「後2年」と呼称している。
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