武帝の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:52 UTC 版)
265年12月、甥の司馬炎(武帝)が晋朝(西晋)を開くと、司馬亮は扶風王に封じられ食邑1万戸を与えられた。270年6月、鮮卑の禿髪樹機能の反乱が起こると、司馬亮は配下の劉旂・敬琰らに秦州刺史胡烈の救援を命じたが、両者は敵軍を恐れて進軍しなかったため、胡烈は孤立無援となり戦死した。この一件により司馬亮は朝廷より責任を問われて平西将軍に降格となり、劉旂は斬罪に処される事となった。司馬亮は軍司曹冏と共に上奏し、責任は自らの過失にあるとして劉旂の死罪を免じるよう請うたが、武帝は訴えを退け、さらに司馬亮の官爵を全て剥奪した。しばらくすると、改めて撫軍将軍に任じられた。 同年9月、呉の西陵督の地位にあった歩闡が西陵城ごと西晋へ降伏すると、武帝の命により司馬亮は歩闡の身柄受け入れの任に当たった。しかし実際に受け入れに当たる前に西陵城は陸抗の侵攻により攻め落とされてしまい、歩闡は処断された(西陵の戦い)。277年8月、汝南王に改封され、鎮南大将軍・都督豫州諸軍事に任じられた。また、開府を許され、仮節を与えられた。しばらくして再び中央に召喚され、侍中・撫軍大将軍・後軍将軍・太尉・録尚書事・太子太傅等の官職に任じられた。
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