武平三系ほか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 01:24 UTC 版)
彦七の四男・平三は騎手として目立った実績はなかったが、調教師としては重賞20勝を含む通算735勝を挙げた有力者であった。他方、管理馬への禁止栄養剤の投与による3年間の管理停止歴なども持つなど、不名誉な面もあった。 平三には3人の男子と1人の女子があり、長男・宏平は麻布獣医大学を卒業後に調教助手として平三を補佐し、調教師として独立後GI競走で3勝を挙げている。三男・永祥は馬事公苑花の15期生の一人として1967年に騎手デビュー。通算152勝を挙げた。永祥の子・英智も中央競馬で騎手として活動し、平三から三世代に渡る騎手家系となっている。英智はその後調教助手を経て2017年より幸四郎とともに調教師となった。次男の勇は北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)で武牧場を経営していたが、2003年に何者かによって殺害された。その死後も牧場は存続し、2009年には生産馬スリーロールスが宏平の管理で菊花賞に優勝した。長女は、永祥と騎手養成所で同期生だった作田誠二に嫁いでいる。 彦七の三男・輔彦は、調教師として桜花賞・菊花賞のクラシック二冠を制したブラウニーや宝塚記念優勝馬ホマレーヒロを手掛けたほか、弟子に宮本悳、田島日出雄といった騎手を輩出した。加藤敬二が孫弟子に当たる。尾形藤吉の元で騎手となった五男・富三は目立った業績を残しておらず、1944年5月7日の東京競馬場での春季能力検定競走(第7競走・呼馬障害)でイソノマツに騎乗して落馬、死亡している。
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