武市富子
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武市 富子(たけち とみこ、文政13年5月18日(1830年7月8日)[1] - 大正6年(1917年)4月23日)は、幕末の志士・武市瑞山の妻。高知藩郷士・島村雅風(源次郎)の長女。ロシア正教日本人初の司祭の沢辺琢磨は従弟[2]。
略伝
嘉永2年(1849年)、武市瑞山に嫁ぐ。夫の瑞山は土佐の若手志士たちと交流が深く、富子はたびたび訪れる志士たちの応対に努め、夫を助けた。文久3年(1863年)、瑞山が投獄されると、自分も夫の辛苦を共にするために、その日以来、板の間で寝て決して畳で眠らず、夏は蚊帳をせず、冬は蒲団を使わずに過ごしたという。慶応元年(1865年)、夫が切腹となると家財のことごとくを没収され、困窮を内職でもって生計を立てた。
瑞山との間に実子はなかったが、養子に半太を迎え、共に東京に引っ越すも、明治45年(1912年)、半太とともに土佐に帰郷した。
脚注
関連作品
- 映画
- テレビドラマ
- 漫画
- アニメ
武市富子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 14:47 UTC 版)
武市半平太の妻。子を授からないことを夫と共に気にしかけていた。獄中のそばに傍らでいる富子の幻影を見た武市は自身が招いた災いを彼女に迷惑至極をかけたことを後悔する。夫の武市から「富」と呼ばれている。
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