略伝とは? わかりやすく解説

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りゃく‐でん【略伝】

読み方:りゃくでん

主要な経歴だけを記した伝記簡略な伝記。「ゲーテの—」⇔詳伝


略伝

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曾幾」の記事における「略伝」の解説

贛州贛県出身で、のちに洛陽移住する特命によって吏部考試受けて太学上舎を賜り校書郎となる。のちに河南府少尹となる。高宗時代江西提刑・浙西提刑を歴任。兄の曾開が抗戦主張し宰相秦檜対立したため、連座して免職となり、転運使判官の職があったが固辞する江西茶山寺に閉居していたが、秦檜死後、浙西提刑に復帰し台州知州となる。のち秘書少監となり、『神州宝訓』編纂の旨を受け、書を完成させて礼部侍郎となる。たびたび隠退申し出て許され、玉隆観の提挙となり、隆興2年1164年)に官を辞する乾道2年1166年5月平江府にて83歳で死去

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小原慶山」の記事における「略伝」の解説

丹波生まれ京都住んだ。諱は雅俊、字を光、はじめ渓山と号した狩野益信に画を学んだが、中年になって長崎遊学し河村若芝門弟となる。1705年宝永2年)に絵をもって長崎奉行仕え唐絵目利の手伝いになったとも、元禄年間唐絵目利御用絵師を命ぜられたとも言われる定かで無い。渡辺秀石などと唐絵目利派を形成。のちに石崎元徳の師となった人物図・花鳥図のほかに喜多元規風の頂相残している。子に、儒学修め中国語堪能だったという小原巴山がいる。

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山本竹雲」の記事における「略伝」の解説

備前児島郡裕福な家に生まれ煎茶盛んだった高松に遊ぶ。その後京都出て御池柳馬場に住んだ篠崎小竹門下儒学を学ぶ。花卉画をよくし、煎茶通じた篆刻高松にいるとき細川林谷学び各地で売印して生計立てている。文房趣味詳しく煎茶器鑑定もした。 江馬天江、谷如意山中静逸浅井柳塘熊谷鳩居堂山中箺皇堂らと交友した。また三条梨堂松方海東杉聴雨長三洲など当時名流印章多く刻している。 福井には度々遊歴し吉川帰峰・片山州・五十嵐香圃・岡崎州・久津見晴嵐などの門弟がいる。足羽山にはその流派文房流」の記念碑がある。 東山清水稚児ヶ池で入水。池の畔には羽織たたまれ丁寧に下駄揃えてあり、一煎点てたらしく煎茶道具が並べられていた。京都南禅寺天授庵墓所がある。

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壬生水石」の記事における「略伝」の解説

最初高田春塘・春木胥山に就いて篆刻学び、のちに三雲仙嘯門下古体派刀法を学ぶ。また書画にも巧み池大雅私淑して土佐大雅堂自任した。浪華京都遊歴し関西文人交流呉北渚より印譜について教えられている。豪放質朴な印風で知られ印譜水石堂刻史』がある。また昭和2年川村直流編『壬生水石印譜』が出版される

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浜村蔵六 (二世)」の記事における「略伝」の解説

初世浜村蔵六の甥で後の養子となった。はじめ初世学び長じて京坂に遊んで技芸深め世に名人蔵六称された。 深く印学を研究し六書を学ぶことを怠らなかった。このため中国から舶載される印籍高額であっても購入した。『氏印略』・『漢銅印叢』などを深く追慕している。林述斎二世蔵六の高い志を感じて諸侯にこれを紹介している。文化4年1807年)には、幕命受けて朝鮮通信使返翰用の官印刻し丁銀賞賜として受けた印譜『賁斎印譜』がある。 文政2年7月没。霊山寺初世蔵六の墓に合葬される。

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福井端隠」の記事における「略伝」の解説

勘解由武繁の次男として伊勢上中ノ郷(現在三重県伊勢市)に生まれた正四位外宮権禰宜至った下久保住み、のちに為田に移った小俣蠖庵に就いて書画篆刻を学ぶ。印聖高芙蓉古体派篆刻宗として一家成し大和古印体も得意とした。また、茶道にも詳しく千宗室入門した後、藪内紹智について藪内流究めた門弟山田寒山松木松年山本釣青・上部紅於・田中成章・江川閑雲田代桧垣坡・川崎河村竹・北川園などがいる。 享年85墓所新町裏(現在伊賀市上野新町)になる。 子息福井琴も篆刻よくしたが、若くして亡くなった

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篠田芥津」の記事における「略伝」の解説

安部井櫟堂師事して篆刻学び、また鈴木風越1816年 - 1886年)の門人ともいう。秦漢の古印の法に則り文彭何震の印法に従った舶載された清国からの印籍などに影響され浙派作風取り入れている。その印篆は非常に癖があったので「津の撥文字」といわれた。 はじめ江戸出て篆刻家として一家をなしてから京都移り柳馬場に住んだ明治天皇御印三条実美らの名流の印を多く刻している。門戸を叩く者が後を断たなかったが、河井荃廬・章石兄弟などほんの数人だけを門人として許した中国の『広印人伝』に「性豪逸、多奇行」と紹介されているが、異常に几帳面な人でキチンとていないと気が済まなかった。たとえば道を歩くときは必ず真ん中歩き、直角に曲がる。寝具位置は畳の目数で測って決めていて寸分もずらさない。家の門から道までの歩数決めていて、これが合わない何度でも繰り返した李白書幅「古行」の行書文字一字一字切り離してまっすぐに表具し直して床に掛けていた、などなど。これらの行動から強迫性障害疑われる

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浜村蔵六 (三世)」の記事における「略伝」の解説

幼少ころから書を学び最も篆刻好んだ15歳のときに三体千字文臨書二世浜村蔵六はその雄々しく勢いある運筆見て驚き天賦の才見抜いて篆刻の技を磨かせた。「つまらない石印材でも光玉のようになり、鈍刀をもって鋭利となる」とその技量にいたく感服した二世蔵六没する嗣子がおらず、文政2年1819年)、28歳時に代々継承されてきた亀紐古銅印伝授され浜村家を継いだ以後浜村家の名声を汚すことなく、その篆刻絶技評され門戸をたたく者は絶え間なかったという。文政年間には関西遊歴し、客の求めに応じて印を刻した。この時の印を集めて岡本豊彦をはじめ頼山陽篠崎小竹斎藤拙堂などの名士らが序文加えた印譜刊行している。また青華磁器の印を作成し江戸もたらした潔癖症で庭の落ち葉はすべて拾い居宅に埃ひとつ無かった。妻の金山耀も遷号し、画や篆刻よくした。 子が無く備前出身塩見大澥が四世蔵六継承した。なお、篆刻家として、はじめて帝室技芸員となった中井敬所は甥に当たり、その技を伝授している。 天保14年1843年8月没。享年54霊山寺葬られる

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小俣蠖庵」の記事における「略伝」の解説

明和2年伊勢山田上中之郷字河崎世古生まれる。代々豊受大神宮神楽職を任ぜられ、また家業味噌商いした。書画骨董好み富裕であったので名品出会えば高額でも購入し数々の品を蒐集鑑識にも精しかった書・画ともに巧みで、画は越後釧雲泉門弟石川侃斎に就いて学び山水図を最も得意とした。書は蘇軾趙孟頫董其昌私淑し古法帖などで独学した。僧玉潾から明楽習っている。 篆刻芙蓉門の高弟源惟良に就いて学び奥義究め、後に一家成した福井端隠古森雲・中西笠山阪田丘などの優れた門弟輩出した一時家運衰えたので信越地方遊歴し再生称した帰郷した仮住まい篆刻書画三昧暮らし文人墨客訪れその作品求めたという。 蠖庵の号は晩年居宅の名。諸国漫遊から戻ると家が古く棟がたわみ、しかも尺取虫のようだったので蠖庵とした。この号は主に書画揮毫した。篆刻には齋と称した。他に別号が百以上もあった。最晩年は目を悪くしたので眯翁とした。 清雅好み博識無欲気高く、常に穏やかなに人と接した慈悲深く困っている人がいると助けずにはいられなかった。盗賊にあって困窮した人に、即座に自ら画いた書画20贈り復興資金充てさせたという。青木木米零落して伊勢隠れていたときも救済木米は後に京焼陶工として大成した享年73伊勢山田天神岡葬られる印譜に『蠖庵印譜』がある。 蠖庵の生涯福井端隠の『符先生寿伝』に伝えられる

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河井章石」の記事における「略伝」の解説

京都寺町二条南腕利き印判師として知られる川井仙右衛門次男として生まれる。兄の河井荃廬同じく篠田芥津について篆刻を学ぶ。明治36年、荃廬が東京移り住んだので家業である河井生々軒を引継いだ。また金声印社を結び、多く篆刻家育てることに尽力した文人系・官印系のどちらの印の制作もこなし、ほとんどの書体自家薬籠中のものとしたがとりわけ大和古印体優れた。また富岡鉄斎自用印を集めた無量壽佛印譜』、同じく今尾景年の『養素齋印譜』は章石とその一門鈐印して仕立てた印譜である。門弟水野東洞などがいる。

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木村竹香」の記事における「略伝」の解説

白根生まれ。はじめ名工大江萬里門戸叩いた断られそのまま東京赴いて中井敬所門人となる。一年修行し、敬所に香の一字許されて竹香と号する新潟帰り萬里真向い古町通りで開業版木屋を営む。その篆刻技術の高さに萬里舌を巻いたという。妻はマス詩文もよくし、骨董趣味高じた。あるとき、人の借金保証から家財没収され蒐集した骨董品すべてを失ってしまった。会津八一気に入られ親交が深い。 山田寒山とは同郷親交深く十六羅漢の印の制作依頼している。この十六羅漢陶土作成され紫檀の箱に入れその扉に五世浜村蔵六書した金石結縁 瓦礫放光」の文字を竹香が刻んだ巡錫中の永平寺監院星見天海開眼式を行うことになり大評判となった次男正平寒山娘婿となり、東京に出る。長男軍平と三男幸平北洋漁業従事して函館移住していた。ひとり暮らしを心配した息子達呼ばれて函館移住した。しかし、長年住んだ故郷忘れられずに帰郷し回向院新潟県新潟市西区)の副住職となる。昭和11年古希迎えると自らの葬式代わりに寿筵を催したその後再度北海道渡り昭和18年没した享年77

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羽倉可亭」の記事における「略伝」の解説

京都伏見稲荷祠官である延年の子で同宗目代の信賢に養育されその継嗣となった14歳従五位下駿河守17歳非蔵人十八目代となるが、24歳のとき職を辞して各地遊歴した。 幼少のころに村瀬栲亭について経学と書学び、僧月峯に画と篆刻教え受けて、後に岡本豊彦に画を学んだ。売書売印の生活をしながら江戸出て大窪詩仏門下となり、細川林谷篆刻の法を受ける。明治維新後、宮内庁御璽山水図納めている。特に有栖川宮熾仁親王寵遇を蒙っている。 米寿祝賀祇園中村催し山階宮晃親王久邇宮朝彦親王から祝の和歌を賜っている。 翌明治20年8月竹坊にて没した稲荷山墓碑がある。息子南園篆刻生業としている。 東京芸術大学大学美術館山水図などが収蔵されている。

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渡辺秀実」の記事における「略伝」の解説

唐絵目利渡辺秀詮実子。父が43歳のときに生まれた。画はこの父に学びかたわら南蘋派真村廬江にも教えを受ける南蘋派華麗な画風北宗画の力強い画風併せ持つ画風であった享和2年1802年)、唐絵目利職に就任同時に渡辺家7代家督世襲した。しかしなぜか御用絵師はなっていない。先輩石崎融思とは対照的で「性狷介にして妄りに交わるを喜ばず」と評されている。両者にはなんらかの確執があったものと推定される渡辺家初代秀石とその師の小原慶山生涯にわたって敬慕した。 『長崎画人伝』・『歴代画家提要』(1825年)を著している。また流派確立のために夥しい数の粉本収集整理尽力したが、嫡男の秀乾の夭折文政12年1829年)によりこの粉本散逸した門弟荒木千洲・村田皐などがいる。

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望月金鳳」の記事における「略伝」の解説

大坂平野町現在の大阪市中央区)で、接骨医平野浄恵の次男として生まれる。幼名数馬別号小蟹。後に望月家継いだ9歳頃、円山派の手ほどきを受け、この頃は芳号した。後に四条派西山芳園にも学び金鳳号する17歳のとき剣道身を立てようと養家去り京都近辺志士剣客と交わる。しかし、時勢変化武術の道は諦め明治9年1976年上京して内務省勤めた後、開拓使仕官した30歳から15年北海道官吏として暮らすなか、多く動物飼いながらその生態観察して写生努めた明治15年1882年内国絵画共進会北海道から作品を送る。明治23年1890年)職を辞して再び上京第3回内国勧業博覧会出品し浅草清町に塾を開く。主に日本美術協会動物画を出品し、しばしば賞を得た明治29年1896年日本絵画協会結成されると、「枯木」で一等褒状受賞する。しかし、明治31年1898年日本絵画協会審査方針に不満を抱いた野村文挙鈴木華邨らと日本画会結成し、その審査員となる。「新機軸」という言葉を嫌い、拙くて自分研究した絵を描け門弟指導した明治42年1909年文展審査員務め正派同志会会員でもあり、日本美術協会出品作はしばし宮内庁買上げとなった大正4年動脈瘤のため死去享年69

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市河恭斎」の記事における「略伝」の解説

稲毛屋山の子備中庭瀬藩仕えた市河米庵門下で書の才能開花した米庵継嗣がなかったので請われ養子となる。性格温和で人に好かれた。書はとりわけ小楷優れ小米称された。詩文をよくし、篆刻巧みであった江戸下谷住んだ38歳夭折した

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隆子女王 (伏見宮貞敬親王王女)」の記事における「略伝」の解説

伏見宮貞敬親王11女として生まれる。 天保12年1841年10月12日突如伏見宮家の御殿から乳母と共に家出するという騒動起こす伏見宮家は京都所司代まで失踪届を出すほどの大きな騒ぎとなり、結局10月29日年上の甥(系譜上は異母兄)に当たる勧修寺門跡済範入道親王(後の山階宮晃親王)と同行しているところを与力同心明石発見され、京に連れ戻される。この騒動対す時の天皇仁孝天皇怒りすさまじく、済範は門跡解任された上、親王身分取り上げられ東寺幽閉伏見宮邦家親王隆子女王異母兄、済範の実父)も閉門処分となった当事者である隆子女王出家させられ瑞龍寺生涯お預かり処分となる。 生涯処分解かれることはなく、万延元年1860年)に病気のため瑞龍寺死去中宮寺門跡隆子女王の妹に当たる尊澄成純の働きかけにより賀陽宮朝彦親王誓願で罪が許されたのは死後4年経った元治2年1865年正月のことであった

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長谷川延年」の記事における「略伝」の解説

先祖豊臣氏家臣で後に三条家仕えたという。延年京都生まれ父の事情ですぐに大坂に連れて来られ松江町に住む。戸籍上、蒿善兵衛長男となっているが、自身長谷川慶三が父と述べている。 15歳の頃伝来した道教善書感応篇』・『陰隲文』を読み衝撃を受ける。これ以降生涯通じて道教信仰した。21歳の頃に善書集大成文帝全書50巻を入手。この一部模刻して施本した。そののち善書模刻写本精緻行っている。道教信仰全身全霊傾けその精進のためとした。31歳天保4年)の時、今まで模刻した善書をすべて合わせ綴じ『覚夢篇』として施本。35歳天保8年)の時、大塩平八郎の乱によって居宅焼失模刻してきた版木悉く失ってしまい、手元には『覚夢篇』一冊のみが残った。これ以後、施本活動途絶えた。なお、大塩平八郎とは親交があったといわれる延年篆刻前川虚舟の印風に近く石鼓派に分類される。自刻印印譜『鞱光斎篆刻印譜』は文政7年9月最初の「乾巻」が編まれてから延べ50冊に至るまで累々と編まれた。これは善書の施本活動同じく道教信仰精進現れで「諸悪莫作 衆善奉行」を為すことにほかならなかった。安政4年1860年)にはついに日本における古印の集大成称される博愛集古印譜』を上梓する。これは藤原惺窩高芙蓉藤貞幹穂井田忠友・源嵩年などの古印譜から700余り印影集め緻密に模刻した印譜である。 34歳のとき三条家仕え69歳にて致仕している。55歳杉原氏世津を娶るが、子どもに恵まれず、後に養子迎えている。享年86法名釈了真。慶徳寺大阪府八尾市南本町)の杉原家墓地に葬られる

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アフリク・シモーネ」の記事における「略伝」の解説

彼はブラジル出身の父とモザンビーク出身の母との間にブラジル生まれたが、9歳の時(彼の父の死後)彼と母はモザンビーク首都ロウレンソ・マルケス(つまり現在のマプト)に移らざるを得なかった。一度、彼がマプトステージ立った時、彼のマネージャー彼にロンドンに来るよう頼んだロンドンにおける最初ショービジネスステップとして、彼は他のヨーロッパ諸国首都での出演で、貴重な経験集めた。彼はギグヨーロッパ全土で行う経験持った彼にとって幸運にフランスレコード大君Eddie Barclayがパリでのショーに来た。彼等はすぐに契約書サインしたアフリク・シモーネドイツ語、英語、ポルトガル語フランス語アフリカ諸語を話すが、彼の歌はスワヒリ語他の言語ミクスチュア書かれている。このアイデア結果的に自身母語ヨーロッパハッピーサウンドミクスチュアする結果となった近年彼はモスクワ出会ったロシア人の妻と共にドイツベルリン)に定住しフランスイタリアドイツリトアニアTVショー出演している。

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福田半香」の記事における「略伝」の解説

文化元年1804年)、遠江国見附宿現在の静岡県磐田市)の脇本陣隣の旅籠営み町役人務めていた家に生まれる。母方大久保家生家近く淡海國玉神社神主をしていた。父・市郎右衛門国学学び本居宣長入門している。幼少の頃から絵を好み文化10年1813年)頃から掛川藩御用絵師村松以弘に絵を習う。同門平井顕斎がいる。この頃は、出身磐田近くにある「今の浦」という小さな湖に因んでか、「磐湖」の号を用いている。 文政7年1824年21歳江戸出て尾張出身の匂田台嶺(まがた たいれい)に1年ほど学ぶ。その後一度郷里見附戻り3年間家で私塾手伝いながら、写生花鳥画独学し毎日100描いたという。天保元年1830年)頃から「半香」の号を用いるようになる。 やがて遊歴の旅に出て天保4年1833年4月30歳の時、田原帰郷中だった渡辺崋山訪ね崋山筆『客参録』)、山本梅逸らの諸先人の絵について語り合う翌年再び江戸へ出て以後崋山教えを受けながら主に江戸で活躍する。その一方関東地方中心に巡業行い糊口しのいでたようだ梁川星巌筆の斡旋状が残っており、星巌のような著名な文人仲介頼りに、地方旧家回って画作依頼受けてたようだ崋山田原永蟄居になると、天保11年1840年10月田原まで崋山訪ねて喜ばせている。半香生活費工面もしていたらしく、蟄居状態で公に絵を売れず困窮している崋山の生活を助けようと書画会企画する。ところが、これが田原藩問題視され崋山切腹追い込む原因となってしまう。この事件半香にもショック与えたらしく、同時期の作品にも精彩を欠くが、やがて立ち直り緻密繊細な作品を残す。 元治元年1864年)、61歳病没戒名蔭舎暁夢居士崋山死に追いやった事を生涯悔やみ地下崋山謝罪するため、渡辺家菩提寺である小石川富坂善雄寺に葬らせた。善雄寺には、大沼枕山撰文墓碑銘があり、磐田市大見寺にも石川鴻斎による、没後大正13年1924年)に建てられ顕彰碑がある。 明清画学び穏やかな描写半香持ち味がある。若いころ緻密な着色多く晩年になると水墨画作品目につくようになっていく。崋山弟子ではあるが、師と異なり絵師として分を弁え西洋画関心を持たなかった。兄弟子椿椿山花鳥画を得意とし、椿山には及ばない感じた半香山水画に心を注いだが、花鳥画にも佳作残している。

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生田良佐」の記事における「略伝」の解説

1837年天保8年)、大野毛利家家臣郷校弘道館学頭務めていた生田箕山次男として周防国熊毛郡大野村生まれる。幼少から聡明で、妙円寺勤王僧である月性指導受けた1858年安政5年7月には吉田松陰松下村塾入り松陰教え受けたこのため安政の大獄起こって松陰老中間部詮勝暗殺計画すると、その計画賛同したために長州藩捕らえられ弘道館監禁された。 松陰没後1859年安政6年11月許され出獄し藩校明倫館入学したが、5か月後に眼病かかって失明しその後闘病生活続けながら文久元年1861年11月12日死去した享年251888年明治21年)に靖国神社合祀され、1924年大正13年)に従五位贈られた。

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池永道雲」の記事における「略伝」の解説

先祖相模国小田原土豪文禄年間江戸出て薬種売って生計立てた。やがて業が成り富裕な薬種商となった道雲はこの薬種商嗣子として江戸人形町生まれる。幼い頃から学を好み書をよくし、榊原篁洲師事した。また細井広沢師友となり最も親しく交わっている。篆刻黄道謙に私淑している。長じて書家篆刻家として名を成した家業怠ることなく家訓守り隆盛させ、長子の道習(宗右衛門)に譲っている。隠居後文房清玩凝り、興が乗れば揮毫篆刻し、飽きれば琵琶奏でるという悠々自適の生活を送っている。 篆書を誰よりも深く研究した。『篆海』・『篆髄』・『三体千字文』など、1850余巻の浩瀚な書を著す。とりわけ一刀万象』が刊行される清国人なども賞賛惜しまず、その名声海外にも聞こえたという。当時名士競ってこの書を買い求めようと門前集ったが、「100しかないので友人知人にのみしか分けられない」と断っている。権大納言藤原俊清・参議菅原長義使いにも同じ返答だったが、霊元上皇妙法院法親王上る聞く及んで大変な名誉である」として装帙に入れてこの書を渡した後日上皇はたいへん喜ばれ、香品など下賜された。なお、この『一刀万象』は上中巻では千字文刻し下巻では169印の印影掲載しており、日本印譜嚆矢となった。 自らの死期察する親戚旧知会い沐浴して「吾まさに道山に帰休せんとす」と告げた。それから平家二曲琵琶奏で家人に自らの葬儀指示をし墓碑を撰したのち、浩然と逝ったという。浅草誓願寺塔頭受用院に葬られたが、昭和2年に、受用院の移転に伴い東京都練馬区田島山十一ヶ寺に移葬された。門弟勝間竜水がいる。

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横田汝圭」の記事における「略伝」の解説

谷文晁門下鳥越明神前に住む。中国元・明の画風慕い山水図花鳥図を得意とした。一時甲州移り住んだが、再び江戸戻り気まま生活したという。 尚歯会加わり狩谷棭斎松崎慊堂渡辺崋山亀田鵬斎渡辺南岳など多く文人交流があった。尚方鑑(古銅鏡)を所蔵し記録がある。 行年78歳下谷長久院埋葬される伝存作品少ない。

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大岡利右衛門」の記事における「略伝」の解説

大岡利右衛門は、天保3年1月4日1832年2月5日)に近江国野洲郡比留田(後の中里村、現滋賀県野洲市比留田)で大工を営む傍ら農業を行う、大岡宇八と妻浪の第三子として誕生した利右衛門育った近江湖南地域では少年時近江天保一揆起こり米作り生きる村人約4万人自分達の生活を守るために命がけで立ちあがった利右衛門近江天保一揆農民立ち上がったことに、深く感動していたことが伝えられている。幼い時から農業興味持ち農業改良新し米づくり夢見ていた。 安政4年1857年)、利右衛門分家し僅かだが自分の田を持つと、米の生産増やすための様々な工夫試み一人行い始めた最初に分散している田を一カ所に集める為、近隣農家土地交換交渉行い実験成果一目でわかり、かつ農の効率求めた。「良い米が作れた」「沢山の米が収穫できた」などの話を聞くとそこに行き耕作方法聞くと共に稲の品種改良のためには籾種交換選択必要なことから、各地良い籾を分けてもらい自分の田で育てた明治14年1881年)には、利右衛門農業改良への実績認められ野洲郡北部試作人を命じられた。利右衛門は、実りが多い稲ができた時には自作の籾を農家分けた近隣分けた量は明治17年1884年)には、43200余人農家27石にのぼった伝えられる利右衞門作り出した品種としては「大岡」「新日光」などがある。この後多く品評会利右衛門作った米は様々な賞を得た江戸時代田植えは稲をばら撒き行われ、今のような規則正しく植える「正条植え」はほとんど行われていなかった。利右衛門は稲がよく育つためには日光風通し大事だ考え毎年正条植え」を続けた結果明らかに収穫に差があることがわかり、正条植え農民等に奨励し、自ら指導を行うと共に普及努めた滋賀県では明治後半には多くの田で正条植えが行われるようになったまた、田を取り巻くように植えられた畦地の木については、稲への日光を遮るものとしての伐採代わりに畦地での大豆栽培推奨した。昔から琵琶湖増水による水害に度々襲われ湖岸地域に対しては、水害に強い雑穀育成指導した利右衞門多く農家より良い収穫得られるように努め姿勢評価され明治29年1896年4月緑綬褒章受章した利右衛門は、より良い米作り豊かな農村作り一生をかけ、大正元年1912年死去した

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真村廬江」の記事における「略伝」の解説

長崎博多町住み早くから熊斐入門沈南蘋直伝画技を受ける。師熊斐没した後、来舶清人方西園に画を習い独自の画風確立する淡彩基調とした清新雅な作品が多い。 一時期豊後日田五石の家に寓居して創作活動行った田能村竹田竹田師友画録』)。享年42門弟唐絵目利渡辺鶴洲がいる。子の真助は唐絵目利荒木家養子となり荒木君瞻と名乗り画を画いた

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高橋廣湖」の記事における「略伝」の解説

熊本県鹿本郡山鹿町松坂現在の熊本県山鹿市)に、浦田長次郎と登喜長男として生まれる。本名は久馬記(くまき)。長次郎熊本藩御用絵師矢野良敬に師事雪舟流れをくむ雲谷派学び地元山鹿画塾「観堂」を開いていた。翁・長の号を持ち今でも山鹿周辺の寺社には長次郎描いた絵馬多く残っている。初めは父に絵の手ほどきを受け、同じく次弟一二(号は天鹿)、四男の四郎(号は湖月・廣香)も日本画家になっている明治25年1892年17歳熊本在住南画家犬塚琴に弟子入りする琴は道釈人物画を得意とし、廣湖も南画筆法人物画研究打ち込む3年後明治28年1895年)には、初号「天鹿」を名乗り熊本移住する熊本では市内の新鍛冶橋にあった絵画研究所共進舎」の教員となり、絵の指導行いつつ、西洋陰影法写実性取り入れよう模索する。また同年結婚している。 翌年熊本東雲座巡業来ていた高橋こうと出会う。こうは幕末明初の新吉原一世を風靡した花魁今紫3代目)で、この頃は「阪東かおる」「高橋今紫」「錦糸」の名で男女合同劇の女優となり各地巡業していた。廣湖が舞台上でのこうの舞姿を連日スケッチしていると、ある時こうから声をかけられるスケッチ出来栄え感心したこうは、東京絵の修業をするよう促した。こうと廣湖は二人がかりで父を説得して上京高橋家菩提寺繁成寺寄宿し明治30年1897年亀井裕記なる人物の紹介松本楓湖内弟子となり安雅堂画塾入塾する。門弟の中では今村紫紅同期で、速水御舟小茂田青樹と共に研鑽した。翌年香川県琴平門弟派遣するのに自ら志願四国遊歴するこの頃、師から廣湖の号を授かる明治32年1899年安雅堂画塾生が多く加わる巽画会参加同年第7回日本絵画協会第2回日本美術院連合絵画共進会に《趙宜子仮寝》を初出品し二等褒状を受ける。翌年安雅堂画塾から独立し一時熊本出身人形師安本亀八亭を間借りした後、浅草区三好町現在の台東区蔵前)の一軒家に移る。 同年第8回日本絵画協会第・3回日本美術院連合絵画共進会に《四季》《苦心経営》《雪月花》を出品第9回日本絵画協会第4回日本美術院連合絵画共進会に《春夏秋冬》《秋風》《子供》を出品し銅牌受賞第10回日本絵画協会第5回日本美術院連合絵画共進会に《天孫降臨》を出品し銅牌受賞。続く第11回日本絵画協会第6回日本美術院連合絵画共進会にも《天孫降臨》を出品し銅牌翌年第12回日本絵画協会第7回日本美術院連合絵画共進会に《貴賎苦楽》(熊本県立美術館)を出品し銅牌第13回日本絵画協会第8回日本美術院連合絵画共進会に《美人摘草》《田家驟雨》《元寇》を出品し銅牌翌年第15回日本絵画協会第9回日本美術院連合絵画共進会に《馬上の杯》《女風呂》を出品第5回内国勧業博覧会に《薬狩》を出品するなど、キャリア重ねていく。一方日本美術院内の研究会・互評会を統合した二十日会紅児会橋本雅邦川合玉堂らが結成した二葉会、小堀鞆音らによる歴史風俗会などに参加、更に研究に励む。この頃千住人々とも交流旦那衆が支援団代「芳廣会」を組織し、廣湖の活動支えた。なお、高橋こうも上京後熱心に廣湖を支援し続けていた。廣湖は相続者不在だった高橋家を継ぐことを決意し、再び父を説得し明治33年1900年)廣湖の家督廃嫡その後次弟一二譲り明治39年1906年)ようやく高橋家夫婦養子となることが認められる同年今村紫紅とともに巽画会評議員となり、翌明治40年1907年国画玉成会結成する際には発起人一人となる。同年締切に間に合わず第1回文展に《重盛諫言図》が出品拒否されると、後藤新平働きかけ同作展示する個展開かれ、廣湖の名は上がった明治44年1911年花房義質からその一代絵巻尾竹竹坡分担制作依頼されると、翌年5月その取材のため朝鮮旅行する。ところが、旅行中猩紅熱にかかり、帰国後これが悪化6月2日湯島天神町の自宅急逝してしまう。享年37翌年巽画会主催で「故高橋廣湖遺墨展覧会」が上野竹の台陳列館開かれ、『故高橋廣湖作品画集』が刊行された。 弟子堅山南風亀井琴仙など。なお、父が没する浦田家は上京家督と天鹿の号を継いだ次弟一二その後不明だが、四男の四郎亡くなるまで日本画家として活動続け息子日本芸術院会員となった浦田正夫がいる。

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住吉廣賢」の記事における「略伝」の解説

伊予松山藩御用絵師遠藤實の三男として生まれる。遠藤家は元々江戸住み狩野興以の子・興甫に連なる一族だったとも推測されるが、少なくとも祖父遠藤廣古の代には住吉派転向し江戸で松山藩仕えようになった。父・広實も父の跡を継いで松山藩仕え江戸幕府御用絵師住吉廣行弟子だった。廣賢も廣行の次男住吉家を継いでいた住吉弘貫(廣定)に絵を学ぶ。実兄である遠藤廣宗・貫周は既に弘貫に学んでいる兄弟子で、弟弟子山名貫義がいる。時期不明だが弘貫の養子となり、1863年文久3年に弘貫が亡くなると、翌年30歳で跡を継ぎ幕府御用務めた。 しかし、1868年5月11日慶応4年4月19日)に若年寄服部常純から御用絵師の職を解かれた旨を通達される徳川家静岡下向付き従おうとしたが、病身のため同行できなかった。ところがこれが幸いし同年9月17日新政府への出仕命じられ東京府貫属とし家禄として現米13石を支給された。11月13日18日行われる明治天皇による新嘗祭用い砂子泥引の四季花鳥図屏風一双制作急遽命じられ18日当日奉納したその後新政府への画事は続き、翌1869年明治2年会計官租税司の図籍方へ移動1871年明治4年9月大蔵省、後に内務省出仕となり、大小広範囲に渡る画事を依頼される1875年明治8年内務省地理寮11出仕免職となるが、東京国立博物館やに現存する古画模本多くがこれ以降制作されたと見なせる事から、その後官公庁半官的な職務請け負ってたようだ1878年明治11年)にアーネスト・フェノロサ来日すると、狩野友信狩野永悳と共に彼の日本美術研究協力した享年49歳戒名は常輕院深達廣賢居士墓所は、『東洋美術大観』や『東京美術家墓所誌』によると護國院だが、現在は多磨霊園にある。跡は息子住吉廣一が継いだ大成せず39歳若さなくなったため住吉家も途絶えた弟子高取稚成など。

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山田寒山」の記事における「略伝」の解説

曹洞宗の僧であったが、18歳の頃、小曽根乾堂訪ねて篆刻について問い24歳のときに福井端隠入門し高芙蓉流れを汲む古体派篆刻を学ぶ。明治16年最明寺熊野市二木島町住持任されるが同19年には辞して大坂に出る。同28年東京移り住み瓢箪池畔に仙堂と名付けた庵を結ぶ。同30年清国渡り呉昌碩親しく交わりその門下となっている。 伊藤博文自用印を受けてから知遇得て交際深めた倭寇奪われたという蘇州寒山寺梵鐘国内捜索した発見できず、新たな梵鐘鋳造するときに博文にその銘文撰定依頼その後寒山寺檀徒総代託している。清国から帰朝した後、博文らの賛助得て大正4年1915年千葉県海上郡野尻村長山現在の銚子市長山町)に寒山寺別院建設し住職となる。 「寒山寺#寒山寺の鐘」を参照 明治40年1907年)に河井荃廬をはじめ初世中村蘭台五世浜村蔵六岡本椿所らと丁未印社を結成。他にも益斎富鴻の『印章備正』の刊行中村不折と書会を催すなど活発に行動し後進育成篆刻芸術発展尽力した篆刻家木村竹香とは新潟同郷生涯の友として交際した。竹香の編集した著名な印譜羅漢印譜』に寒山傑作収録されている。また竹香の次男正平娘婿迎え篆刻業を継がせている。 その篆刻豪放磊落作風知られ高芙蓉正統流れ汲み、自らその五世と称した高芙蓉源惟良小俣蠖庵 - 福井端隠山田寒山 - 山田正平 篆刻には篆書以外にも隷書楷書・行書・草書大和古印体仮名梵字など自由闊達用い印材多様石印以外に鋳造印・陶印木印などを製作している。また多芸多才であり、篆刻以外にも詩・書をよくし、画・陶芸巧みだった。生涯清貧暮らした大正7年(1918年)12月26日下谷区下谷町にて亡くなる。享年62歳。戒名は「自得寒山想潤居士」といい、紀州最明寺葬られた。なお、鎌倉円覚寺分骨もされている。

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清原雪信」の記事における「略伝」の解説

探幽門下四天王のひとり父・久隅守景と、同じく探幽四天王数えられる神足常庵の娘で、探幽の姪に当たる母・国との間に生まれる。伊藤仁斎の子伊藤梅宇著の『見聞談叢』では、宇の祖母・那倍は「画工狩野信」と親しかった記され、その談話がよく引用される。それによると、信は狩野法眼探幽)の姪で、17・8歳で絵を良く日々法眼通っていたが、稽古の時尼崎仕官の子通じた。これを清信の母が強く叱ったため、家を出てその男別宅し画を描いて渡世とし、後に大い繁盛し尼崎にて没したという。 探幽の弟狩野安信高弟狩野昌運記した昌運筆記』では、清原氏嫁いで京都住んだとし、さらに「白石蔵本狩野系図」という資料を引き、探幽門人清原氏平野兵衛清に嫁したとする。しかし、落款の「清原氏女」を素直に解釈すれば本人清原氏だと考えられ神足一族家系図から清原氏祖父・常庵の姓だと見なせる。信が父方ではなく母方の姓を名乗ったのは、神足家山城国西岡現在の京都府長岡京市)の国人で、その盟主存在という由緒ある武士の家だった。更に母の家系探幽連なっていることを踏まえれば、信にとって「清原氏」とは自らの家系・画系の正当性保証する名前だったと考えられる白井華陽筆の『画乗要略』では、絵を探幽学び識者女性画家の中で一番だと讃えたという。 井原西鶴の『好色一代男』巻七「末社らく遊び」における島原太夫衣装は、白繻子の袷に信が秋の野描き公家和歌添えた記され談林蕉風与謝蕪村俳句にも詠まれた。更には女絵狩野雪姫」「富仁親王嵯峨錦」「祇園祭礼信仰記」の浄瑠璃歌舞伎作品などで、信をモデルとした「雪姫」という人物登場するし、当時人気の高さが窺える。娘に同じく絵師だった清原春信がいるが、活動時期短かったらしく現在作品3点しか知られていない

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山本光一」の記事における「略伝」の解説

酒井抱一弟子山本素堂長男四世継いだ酒井道一実弟江戸時代中期儒学者山本北山曽祖父に当たる。三世酒井一の門人で、新吉原江戸町住んだ明治7年1874年)に設立され起立工商会社では、鈴木其一次男一や、其一門人の稲垣其達と共に製作下絵描き明治14年1881年)の時点では中心的存在だった。東京芸術大学大学美術館には749点もの図案残っており、これは画工名がわかる図案の中では最も多い。図柄だけでなく、洋風器物の形も一緒に考案し金工蒔絵など多様な技法による製品化要求答えるなど、幅広い仕事をしている。明治10年1877年)の第一回内国勧業博覧会で、漆器図案花紋賞を受賞翌年パリ万国博覧会に行く話もあったが、同僚渡辺省亭にくじで敗れパリ洋行は叶わなかったという(「西尾卓郎翁の談話」)。明治13年1880年)に竣工した靖国神社燈籠図案担当する明治15年1882年第一回内国絵画共進会翌年第一回パリ日本美術縦覧会にも出品している。明治22年1889年)には熱海遊び当地名所絵なども描いている。 しかし、明治24年1891年起立工商会社閉鎖されると、どこからか誘いあったらしく金沢へ居を移し後半生北陸舞台活躍した明治29年1896年)頃までは金沢工業学校現石県立工業高等学校)に、翌明治30年1897年3月から翌年9月までは富山県立工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)にも図案絵画教師として在職している。金沢では拈華会を主催し日本画加賀友禅若手作家育成した岡本光谿、伊藤光下村など、「光」の字を継ぐ画家たち光一門人たちである。日本画家石崎光瑤この頃弟子で、晩年まで長文の手紙を出すなど子弟交流があった。明治30年1897年)に光瑤に雅号授与する送り状では、自らを「尾形専門」と称し本阿弥光悦俵屋宗達尾形光琳以降絵師系譜記した尾形系統略」という系図南砺市立福光美術館)を贈っている。創刊間もない北國新聞からも挿絵依頼されたらしく、北国新聞社にはその原画残っている。後に粟津小松にも在住し数々屏風絵を残す。明治38年1905年)頃石川から姿を消し消息途絶えるが、一説には京都行ったともいわれる人物画草花図など幅広い画題をこなし、屏風絵大作多く残すなど、近年多く作例知られ始めている。

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滝和亭」の記事における「略伝」の解説

江戸千駄ヶ谷生まれる。本姓田中幼名長吉、名は邦之助。7,8歳頃近所佐藤翠崖に学び山、翠山と号するまた、荒木寛快片桐陰(渡辺玄対門人)にも学んでいる。大岡雲峰坂本浩然師事したのち、長崎遊学する日高鉄翁学び陳逸舟などの清国人とも交わりをもつ。安政元年1854年江戸帰る幕府仕え安政3年1856年)から諸国歴遊し、慶応2年1866年江戸帰るウィーン万国博覧会フィラデルフィア万国博覧会シカゴ万国博覧会出品し内国勧業博覧会内国絵画共進会では毎回受賞する明治26年1893年9月25日帝室技芸員となる。美学者滝精一息子弟子に、和亭の二女縁組した原丹荒井寛方の父・荒井佐藤紫煙女流画家波多野華涯など。

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胡震」の記事における「略伝」の解説

生涯にわたって仕官せず布衣のまま過ごした。書は篆書八分に非常に精しい篆刻銭松啓発され、深い親交結んだ広東の厳荄が『銭叔蓋・胡鼻山両家刻印2巻編集している。後の呉昌碩がこの二人絶賛し影響受けていた。作風は素野趣があるとされる

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終南浄寿」の記事における「略伝」の解説

小島息安の次男として生まれる。伊藤岡の実弟で、この兄より書法受けた。わずか9歳にて山代甘南備寺得度し享保14年1729年)に南嶺元勲法嗣となる。のちに洛北神光院萬福寺聖林院住持となる。悟心元明とは親友でともに江戸遊学し詩文通じ書名馳せた洛東岡崎では介石庵を結び大典顕常大潮元晧・木村蒹葭堂高芙蓉文人交わった享年57萬福寺万松崗に墓所がある。 印譜『巽斎捐因』や『終南悟心印譜』にその刻印掲載されている。

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鶴澤探山」の記事における「略伝」の解説

出身江戸とも京都とも言われるが、後に京都活躍したことを踏まえれば後者可能性が高い。探幽最晩年弟子で、探幽四天王中に探山が入ることもある。元禄年間東山天皇勅書により上洛それまでの探川の号を探山に改める。1700年元禄13年)に法橋位を得る。1708年宝永5年)に完成した第五皇子慶仁親王中御門天皇)の御所障壁画制作するその後宝永度の内裏障壁画や、1713年正徳3年)の近衛尚子女御御所障壁画小浜千石障壁画などに彩管振ったこうした禁裏御用絵師としての活躍認められてか、晩年1724年享保9年法眼叙されたが、その5年後に死去享年75。墓は京都善導寺息子鶴澤探鯨鶴澤派を継いだ弟子橘守国など。 壮年期御所障壁画が殆ど失われたため、画名の割に現存作品数は多くない画風探幽によく似ており、余白広め取り構図簡略化し、少な筆致対象描き出している。そのため、落款「山」の字を「幽」に書き換え探幽画とする者がいたという逸話残り実際そうした改変の跡が認められる作品残っている。

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ミハイル・ポクロフスキー」の記事における「略伝」の解説

1891年モスクワ大学文学部卒業する1905年ロシア社会民主党入党しボルシェヴィキ所属する1906年に党のモスクワ市委員1907年中央委員となる。1909年パリ亡命し研究活動や党機関紙である「ナシェ・スローヴォ」の編集在外学校講師仕事従事する1917年ロシア革命始まってから帰国しボルシェヴィキでもなくメンシェヴィキでもない「メジライオンカ」と称されグループ所属した。「イズヴェスチア」紙の編集委員をへて、十月革命後はモスクワ・ソヴィエト議長となり、ブレスト・リトフスク講和会議にも出席している。1929年からは科学アカデミー正会員社会主義アカデミー初代総裁ソヴィエト史学重鎮として外交文書革命資料編集諸種雑誌編集後進である歴史家養成あたったその死後になってロシア共産党から除名されスターリン批判後の1962年に名誉回復され1967年には著作集4巻公刊された。

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山鹿秀遠」の記事における「略伝」の解説

菊池系図』によると、大宰権帥藤原隆家の子政則が父と共に大宰府下向し、鎮西兵頭宣旨受けて号したその子則隆は肥後国菊池下って領主となり、菊池称した。秀遠はその子孫・経遠の子とするが、『尊卑分脈』で隆家の子に政則の名は見られない『平家物語』大宰府落」で、都を追われ平氏一門九州逃れて来ると、平家から源氏方に転じた緒方惟栄追い払らわれ、平家の家人であった秀遠と原田種直軍勢率いて迎え参じたが、両者不和のため、種直は引き返している。秀遠に伴われ平氏一門一時秀遠の山鹿城立て籠もったが、敵が攻めてくるとの知らせで再び海上逃れた『平家物語』では秀遠は九州第一精兵とされ、壇ノ浦の戦い平家方の大将軍として軍船率いて奮戦した戦後所領没官となった『吾妻鏡』文治元年12月6日条)。

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今井順斎」の記事における「略伝」の解説

松浦静軒の子で、代々続く医業継いだ様々なに就いて医業研鑽一家成した傍ら篆刻嗜み、篆学に精しく一説亡命した明の石周麟学んだという)鉄筆揮った貞享3年1686年)に江戸出て池永一峰の家に寓居してともに篆刻研鑽した。一峰の『一刀万象』に序文寄せ、そのタイトルも順斎が名付けたという。篆刻黎明期にあって唐・宋以降装飾的な印風を排撃し古印を尊ぶ姿勢示している。法帖模刻したが、技術未開発劣悪だった。貞享年間榊原篁洲細井広沢正面刷の技法編み出し以来法帖精度格段に高まった。後にこの方法を世に紹介している。 元禄2年1689年10月医師として水戸藩仕え正徳5年1715年3月には幕府侍医に至る。

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益田遇所」の記事における「略伝」の解説

幼いうちから長橋東原について書を学び、また経学好んだこの頃東嶺号している。次に益田勤斎入門し篆刻を学ぶ。勤斎門下抜きんでて技量優れていた。天保4年1833年)に勤斎が没する継嗣がなく親戚らが協議して所を養子迎え入れて跡を継がせた。盛名高まり名士こぞってその印を求めた安政4年1857年)と安政6年1859年)には幕府の名を受けて印を刻し賞賜授かっている。江戸下谷和泉通り付近に居宅があった。門弟には中井敬所育ち、子の香遠が家業引き継いでいる。 作風高芙蓉古体派であったが、独自の作風加えて新味出し、号に因んで浄碧居派と称している。常日ごろから『氏印略』や『秦漢印存』などの印譜を範としていた。

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略伝

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マックス・ベア (ジャーナリスト)」の記事における「略伝」の解説

オーストリア帝国ガリツィア・ロドメリア王国現在のポーランド・ポトカルパチェ県)のタルノブジェク市に生まれた1889年ドイツ移住して「マクデブルク・フォルクスシュティンメ(ドイツ語版)」紙の編集者となり、その8ヶ月後に階級闘争けしかけドイツ軍官憲侮辱した罪で逮捕され有罪判決をうけ10ヶ月禁固刑科せられた。 1894年6月にはイギリス移住し翌年から1年間ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学ぶ。1897年にはパリに赴き、そこでドレフュス事件見聞している。さらにニューヨークへ渡り1898年から1902年における米西戦争フィリピン人反乱知り、後にアメリカ覇権主義成立としてドイツ社会民主党の「ノイエ・ツァイト(ドイツ語版英語版)」紙や「フォルヴェルツドイツ語版英語版)」紙に分析提供することになる。ベアは「ミュンヒェナー・ポスト(ドイツ語版)」紙や「ジューイッシュ・アルバイター・ツァイトゥング」紙の通信員でもあり、「エンサイクロペディア・ジュダイカ」の編集にも協力している。 エドゥアルト・ベルンシュタインイギリス去ってドイツ戻ったため、ベアは「フォルヴェルツ」紙のイギリス通信員となるよう要請され1902年から1912年までその地位にあった第一次世界大戦中1915年敵性外国人としてドイツへ追放され1919年から1921年まで「鐘 (Die Glocke)」紙を編集。この「鐘」は、ドイツ社会民主党極右属し、パウル・レンシュ(ドイツ語版)やコンラッド・ヘーニッシュ(ドイツ語版)やハインリッヒ・クノー(ドイツ語版)の仲間であったアレクサンドル・パルヴス資金提供されていたが、ベア社会民主党政治的道具から「鐘」を脱却させ、むしろ文化評論教育的な紙面作りめざしたためにパルヴスによって解雇されたという。1919年以後ドイツ革命に関するベア見解は、社会民主党フリードリヒ・エーベルトグスタフ・ノスケナチズムへの道を準備した、というものだった1927年からダヴィド・リャザノフ要請によりモスクワマルクス・エンゲルス研究所で、1929年からはフランクフルト社会調査協会ドイツ語版英語版)で活動しドイツ共産党所属していたが、ナチス権力奪取により1933年にはロンドンへ亡命余儀なくされ、同地死去した

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略伝

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アルフォンソ・デ・リゴリ」の記事における「略伝」の解説

ナポリ近郊のマリアネッラ生まれナポリ大学法学修め法律家となるが、1723年父親反対押し切って聖職者となり、3年後には司祭となる。主にナポリ貧民窟孤児ハンセン病患者など当時疎外されがちだった人々中に入って宗教活動行い、この活動が基となって1732年レデンプトール会創設1762年にはサンタアガタ=デ=ゴッティ司教叙任されジャンセニスムとの論争傍ら道徳神学大きな足跡残した。 リゴリは告解のための摘要3巻著し、それによって教会下す刑罰時には厳しく時にはより寛大に操作できるようにした。それによって教会運営詐欺師娼婦商法のように柔軟性のあるものにした、というのが20世紀社会学者ワルター・ベンヤミンの評価だった。

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伊集院須賀」の記事における「略伝」の解説

嘉永5年1852年)、縁あって西郷家嫡男だった吉之助(隆盛)と結婚するその際は吉之助の父母祖父母ともに健在であったが、同年に吉之助の祖父・竜右衛門、父・吉兵衛、母・政佐と相次いで亡くなり翌々年安政元年1854年)には吉之助自身藩主島津斉彬に従って江戸へ出府してしまったため、家計大い苦しくなった。その影響もあってか、江戸在府の吉之助に親族から相談持ちかけて離縁したその後の吉之助と弟兼寛の関係が悪くなった様子もないので、円満な離縁だったといわれる。しかし、吉之助は終生これを後悔していたという。その後消息歴史表舞台から消え一切不明である。

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徐渭」の記事における「略伝」の解説

徐渭の父の徐鏓(じょそう)は夔州府知府つとめた徐渭はこの父の召使いとの間に生まれた庶子であった正妻の童氏の子である二人の兄の徐淮(じょわい)と徐潞(じょろ)がいたが、徐渭生まれたときは既にこの正妻亡くなっていた。生後百日目で父が病死後妻だった氏が嫡母となって徐渭育てた6歳からエリート教育を受け、経学をはじめ八股文古琴琴曲剣術などを学んだ14歳のときに嫡母没し精神的な支柱を失う。20歳のときにようやく童試合格し秀才となる。その後20年の間に8度郷試に臨むも及第に至ることはなかったが、その間多く師友学友得て郷里では「越中十子」と称されたという。この中には画家の陳泰州知州のぼった公節などがいる。 20代はじめころ潘克敬の娘婿となり長男の徐もうけた25歳のときに長兄の徐淮が急死。すぐのち19歳若妻の潘氏が亡くなるという不幸が重なる科挙に受からず役人になることはできなかったため、やむなく家塾を営んだが生活は貧窮した友人頼って各地転々とするうち、32歳のとき紹興侵入した倭寇討伐軍に剣術の師である彭応時友人呂光升らと参加戦果挙げたことで胡宗憲など高級官僚から幕客私設秘書)として迎えられた。この頃名将として名高い戚継光兪大猷に彼らを讃える詩を贈っている。胡宗憲徐渭文才見抜き様々な文章代筆依頼した殊に1560年制作した鎮海記」が高く評価され褒賞を得る。これを元手40歳にして自宅となる酬字堂を建築。この模様を『酬字堂記』として著している。 しかし2年後胡宗憲不正事件連座失脚徐渭自身は罪に問われなかったとはいえ有力な後ろ盾失い生活は困窮。しだいに精神不安定になっていく。一旦は北京に職を見つけるがすぐに辞め紹興戻った。自ら「墓志銘」を書き2年間、9回の自殺未遂重ねた1566年、ついに狂気から妻である張氏を殺害7年獄中生活を送る。知人でありパトロンであった天復張元父子減刑釈放奔走し親身になって徐渭救出試みている。 釈放後、紹興近く名勝諸曁県五洩山に友人らと滞在し「遊五洩記」を著しその後杭州南京・宣府など中国各地遊歴多く人物交遊盛んに詩や画の制作文筆行った北京では武将李如松面識得て後に任地馬水口に賓客として厚遇された。1582年、病が進行し帰郷する家庭内不和長男の徐別居となり次男の徐(じょき)と暮らす。門戸閉ざし誰とも会おうとはせず遠出もすることはなかったが、制作意欲旺盛で「西渓湖記」など多く傑作残した1587年に再び、李如松招かれたため北京赴く途次徐州発病しやむなく自宅に戻る。徐のみが赴き幕客となっている。後にこのとき徐得た報酬充て徐渭詩文集を編纂した1593年、徐岳父屋敷仮寓自伝『畸譜』を書き上げると、その年に没した享年73

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ヘンリー・クリストファー・ベイリー」の記事における「略伝」の解説

ロンドン生まれる。オックスフォード大学に籍をおき、古典学んでいる。在学中に"My Lady of Orange" という歴史小説書いて小説家書誌学者のアンドリュー・ラング認められイギリスアメリカ両国出版された。卒業とともにデイリー・テレグラフ紙入社し劇評担当し第1次世界大戦時期従軍記者になり、後にはリーダー・ライターとして認められる1914年頃から医者探偵役もつとめるレジナルド・フォーチュン主人公とする探偵小説シリーズ書き始め1920年には初めての短編集フォーチュン氏を呼べ Call Mr.Fortune』が出版され以来1948年まで長編短編あわせ23冊もの人気シリーズとなった欧米各国広く愛読され1950年代イギリス探偵小説としてはセイヤーズクリスティークロフツフリーマンとともに五大家と評価されていた。

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秦星池」の記事における「略伝」の解説

はじめ平陵師事し孫過庭摸す。のちに長崎で清の書家胡兆新書法学んだ楷書行書能くした。1823年に歿、行年61歳法帖に「清風帖」など。著作に「和漢対照書札」。

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吉村孝敬」の記事における「略伝」の解説

京都の人。吉村洲の長男として生まれる。洲は滋賀県野洲市農業を営む西川権三郎の息子で、幼少より寺院仕え絵師になったことが知られる洲も応挙学んだが、寛政2年1790年禁裏造営の際は、障壁画制作願書名を連ねながらも不採用になっている若い頃の孝敬についてはよくわかっていないが、幼少より父から絵を習い早く応挙門に入った考えられる寛政10年1798年小石元俊指導行われた腑分けに、父洲・木下応受(応挙次男と共に同席し、『施薬院男体臓図』(京都大学図書館などが所蔵)の解剖図を描く。享和2年1802年33歳の時、父と共に西本願寺本如宗主から「茶道格」を仰せつかる。そのため西本願寺の画事を多く務めている。 弟子に、子の吉村孝文wikidata)や、安政御所造障壁画制作参加した駒井孝礼がいる。

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杉山松助」の記事における「略伝」の解説

安政5年1858年)の吉田松陰による間部詮勝天誅計画をはじめとした過激な尊皇攘夷運動参加文久2年1862年)には京都に赴き、久坂玄瑞と共に活動続ける。藩主より功績認められ藩士の身分許された。 元治元年6月5日池田屋事件遭遇脱出して深手負いながらも長州藩邸に辿り着いて危険を知らせたが、重傷だったため助からず、翌日死亡した享年27明治24年1891年)、従四位贈られる

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中林竹洞」の記事における「略伝」の解説

竹洞は、名古屋産科医中林玄棟の子として生まれた。幼い時から画を好み14歳沈南蘋風の花画を得意とする絵師山田宮常に学ぶ。翌年尾張画壇パトロンとして知られ豪商神谷天遊才覚見込まれる同家引き取られひたすら古画臨模行って画法会得した天遊に連れられ万松寺出向いたとき衎(リカン元代)の「竹石図」を見て深く感銘したことから竹洞の号を授けられといわれる。このとき弟弟子山本梅逸王冕の「墨図」に感銘したことからその号を与えられた。19歳時には絵画をもって生計立てるにいたった享和2年1802年)、恩人天遊病没するとと共に上洛寺院などに伝わる古書画の臨模行い京都文人墨客交流した天遊友人内田著に仕事依頼受けて生計立てた30代後半には画家として認められ以後40年にわたり文人画家重鎮として知られた。墓所京都府黒谷真如堂墓碑に「竹洞隠士」とある。 竹洞は『画道金剛杵』(1802)や『文画誘掖』(文政二年〔1819〕刊・弘化二年〔1845〕刊の二版があって内容異なる)といった画論書を著し著作30種類超える中国南宗画臨模勧め清逸深遠趣きを表すべきである文人として精神性重要さ強調している。また室町時代からの画人47人を品等付けし、その上で池大雅最高位置いている。 その画風清代文人画正統派繊細な表現スタイルを踏し、幕末日本文人画定型といえる中国絵画規範に自らの型を作って作画するため構図趣向パターン化し多作なことも手伝い変化乏しくどの作品似たような印象を受ける。ただし、70年前後から亡くなるまでの最晩年は、筆数が少なくなり、素直に自身心情吐露し作品変化するのが認められる長男中林竹渓三女中林清淑南画家門人大倉笠山今大路悠山勾田台嶺斎藤畸庵高橋李村玉井鵞溪、梁川紅蘭がいる。

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宇喜多一蕙」の記事における「略伝」の解説

戦国大名宇喜多秀家七世の孫と言う京都出身初め田中訥言師事して7年土佐派を学ぶ。訥言は『伴大納言絵巻』の模本3本制作しそのうちの1本を一蕙に与えたとされ、一蕙も師に忠実に仕えたという。訥言晩年眼病病み失明を苦に自殺したとされ、こうした師の最期は一蕙にも強い衝撃与えた推測される。のちに土佐光孚にも学び大和絵古法修めて機軸出した画風古典的題材好み、師の田中訥言冷泉為恭とともに復古大和絵派巨匠として評価得ている。ただし、一蕙と為恭は互いに面識はあったものの、信条違いからか親交もたなかった。為恭の弟子田中有美回想によると、一蕙と為恭は私的な交わりではさほど不和には見えなかったが、一度画道の話となると互いに罵倒し合っていた。為恭は一蕙の絵には独創がなく、尽く古画模倣であり、彩色極めて稚拙だと評したことがあるという。天保3年高久隆古が、安政元年頃に若き富岡鉄斎入門している。また和歌書道にも通じ京都活躍した性格豪快剛直な熱血漢伝えられ古典を学ぶ内に尊皇攘夷思想傾斜嘉永6年1853年ペリー来航時には神風夷艦を覆す図」を描いて幕府ペリーの対応を批判安政元年1854年皇居造営に際しては「列所伝周宣姜」を描いて公武合体風刺した以後絵画によって尊皇活動展開し大老井伊直弼を陥れようと画策し信州松本勤王家・山本貞一郎近藤茂左衛門兄弟らと、青蓮院宮尊融法親王三条実万らに国策説くなどした。また、いち早く情報入手した和宮降嫁思いまらせようと、『婚怪草紙』を描き中山忠能通じてこれを献じた安政5年1858年安政の大獄により、子の可成とともに弾圧受けてえられる山本自決)。後に江戸送られて、翌安政6年1859年6月10日所払刑となり、帰京する獄中得た病で洛東田中没した享年65。墓は上京区金山華光寺明治24年1891年従四位贈られ東山霊園記念碑立てられた。 速筆による淡彩作品が多い。弟子語った古画精神私心混じえずに写し止めるよう努力すれば自然に自己の特徴生まれるようになる」というのが、一蕙の制作信条だった。

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松平重休」の記事における「略伝」の解説

第2代藩主松平重栄次男宝永5年1708年11月23日、父の隠居により家督を継ぐ。正徳2年1712年)、幕府から与えられ朱印状で「木付」を「杵築」と誤記されていたことを機に、「杵築」に改めた民政尽力し領民慕われる善政布いたといわれているが、正徳5年1715年8月10日25歳死去した。跡を甥で養嗣子の親純が継いだ大正5年1916年)、従四位追贈された。

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島津久治」の記事における「略伝」の解説

天保12年島津久光次男として重富館(現鹿児島県姶良市)に誕生する。母は正室千百子。嘉永5年1852年)閏4月島津久宝養嗣子となることが決定し同年3月家督相続したまた、久宝の娘と結婚する

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東郷実賢」の記事における「略伝」の解説

東郷位照東郷実勝異母弟。母は二階堂右衛門行格の娘で、伊集院俊方同母弟である。伯母島津綱貴側室伯父二階堂行宅。 上の2人の兄が遠島になり、さらに3番目の兄が伊集院家養子入りしており、実満の子としては示現流東郷家残った唯一の人物であったが、父の死後家督相続した2つ年下の甥である実昉同様に若年ゆえに示現流皆伝するまでにいたらず門弟統べる力量はなかった。島津吉貴許可得て薬丸兼慶東郷家代理として指南させることにした。 後に小野村西之谷現在の鹿児島市小野)に移住72歳死去し曹洞宗松原山南林寺埋葬された。

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黒葛原俊宗」の記事における「略伝」の解説

万治2年1659年)、勘定奉行就任また、同年作成の「鹿府万治高帳」に『高393石4斗 黒葛原周右衛門』とある。船奉行納戸奉行奏者番勤め平松郷、踊郷、馬越郷などの地頭兼任する寛文8年1668年8月19日、父の黒葛原周右衛門忠清死去宝永4年1707年)、隠居示現流高弟薬丸兼陳の娘と結婚し、4男2女を儲ける。後に義兄弟薬丸兼福に子がなかったので、次男忠長養子に出すが、天和2年1682年7月3日長男の周八忠朝が夭折したために、養子出して丸半介武兼と称していた次男呼び戻し嫡子とする。後に改め三男を兼福の養子に出す。これが薬丸兼慶である。 正徳3年1713年10月13日死去

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宮原義直」の記事における「略伝」の解説

文政10年1827年12月15日将軍徳川家斉御目見する。文政11年1828年11月4日部屋住ながらも高家見習召し出される。同年12月16日従五位下侍従摂津守に叙任する。後に従四位下に昇進する安政元年1854年9月27日高家肝煎就任する安政2年1855年11月16日、父義周の隠居により家督相続する慶応4年1868年3月11日高家肝煎辞職し明治14年1881年2月11日73歳逝去した。 『大日本人名辞典』4(1887年 初版1974年 講談社復刊)、『名家伝記資料集成』4(1984年 思文閣)には、維新の際に公武間を周旋して政治上の功績があり、和歌書画茶道にも秀でていたことが記述されている。 表 話 編 歴 宮原家10代当主1855年 - 不詳)義照 - 義久 - 晴克 - 義辰 - 義真 - 氏義 - 義汨 - 義潔 - 義周 - 義直 - 義路 - 聡氏 - 厳夫 -

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桂孝古」の記事における「略伝」の解説

桂氏藩主同じく大江広元を祖とし、藩政担い藩主側近輩出する家柄である。家格大組(八組・馬廻り)、門家で「木戸」とも呼ばれていた。のちに小五郎木戸姓に改名したのは、この「木戸にちなんでいる。 孝古は嗣子失っており、病床にあって家名断絶恐れがあった事から、近所藩医和田昌景の子である8歳和田小五郎末期養子迎えた。その十数日後、62歳で没。藩により桂家存続認められるが、規則により家禄150石から60石は召し上げとなり、残り90石を小五郎相続し桂小五郎となる。翌年1月には孝古の妻も病死し小五郎桂家継いだ後、生家和田家で育つ事になる。

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武市富子」の記事における「略伝」の解説

嘉永2年1849年)、武市瑞山嫁ぐ。夫の瑞山土佐若手志士たちと交流深く、富子はたびたび訪れ志士たちの応対努め、夫を助けた文久3年1863年)、瑞山投獄されると、自分も夫の辛苦共にするために、その日以来板の間寝て決して畳で眠らず、夏は蚊帳をせず、冬は蒲団使わず過ごしたという。慶応元年1865年)、夫が切腹となると家財ことごとく没収され困窮内職でもって生計立てた瑞山との間に実子はなかったが、養子に半太を迎え、共に東京引っ越すも、明治45年1912年)、半太とともに土佐帰郷した叔父島村雅事従弟島村衛吉である。

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関思恭」の記事における「略伝」の解説

先祖武田信玄家臣とされ、曾祖父伊藤友玄の代になって水戸藩仕え祖父友近もやはり水戸藩仕官。しかし父の伊藤祐宗(号は道祐)は生涯仕官していない。思恭はこの父と母戸張氏)の第四子として水戸生まれ故あって関氏名乗る幼少から筆や硯を遊具代わりとするほど書を好んだ16歳のとき江戸出て細井広沢にその才能を見いだされ入門。その筆法極めて優れ、たちまち広沢門下第一となった広沢が思恭に代書させるに及んでその評判高まった因みに浅草待乳山歓喜天の堂に掲げられる金龍山』の扁額広沢落款印があるものの思恭が代筆したのである経学太宰春台に就いて学び詩文天門から受けた。また射術優れた27歳文学を以て土浦藩仕え禄を得た広沢没後三井親和並称されその評判はますます高まり門弟およそ5千人擁したという。40歳妻帯し3女をもうける。60歳頃より神経痛患い歩行が困難となり家族介護されるもその運筆衰えなかった。享年69江戸小石川称名寺葬られる門人関口忠貞がいる。娘婿の其寧が跡を継ぎ、孫の克明曾孫の思亮とその子である雪江いずれも書家として名声得た。 宋の婁機『漢隷字源』を開版している。

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森琴石」の記事における「略伝」の解説

摂津国有馬温泉現在の兵庫県神戸市北区)で、梶木源次郎三男として生まれる。名は熊、後年繁と改める。初号蘆橋次に金石、更に琴石と改めた。字は吉夢別号に栞石、鉄橋雲根館等も号し、斎号を聴香読画廬。父・源次郎は、現在も同地で高級旅館として知られる「中の坊」を経営し有馬温泉炭酸水発見者でもある。1846年弘化3年大坂旅館出石屋」を経営する猪平(のち善蔵)の養子となり、1850年嘉永3年鼎金城南画学んだ金城1862年文久2年)に亡くなると、忍頂寺静村梅谷)の門に転じ一方漢籍妻鹿(めが ゆうしょう)、高木退蔵学んだ1873年明治6年東京遊学して、高橋由一から油絵の手ほどきを受けたという。ただし、由一の門人帳には琴石に当たる名が見えず実際の所は不明である。ただ、由一と親交があり銅版画家で知られる松田緑山二代目玄々堂)とは、何らかの接触があったと推測される明治10年頃から胡鉄梅王冶梅ら来舶清人画家交流する。に明治10年代には全国各地景勝地巡り写生画稿が幾つか残っている。1882年明治15年)の第一回内国絵画共進会褒状1884年明治17年浪華画学校の支那教員となり、後に同僚になった矢野五洲と協働して1889年明治22年浪華画会結成翌年大阪府博物場で大阪絵画共進会開催する翌年9月宮内庁の御洋画家となったとされるこのように南画家として活発に活動する一方で明治8年頃から2122年にかけて多く銅版画手掛けている。現在確認されているだけで60点から70点以上、特に地図25点以上と多い。琴石が銅版画をどこで身につけたかはよく分かっていない。若林春水堂学んだとされるが、作風類似から松田緑山からも影響受けたとも言われる明治銅版画家には、青野洲、結城正明柳田中村月嶺らのように、狩野派絵師から転じたものが少なくないが、琴石のように南画家出身者異例である。 その後も、内国勧業博覧会日本美術協会展などで受賞重ね大家として認められるうになる大正2年1913年大阪画家では初め文展審査員選ばれた。なお琴石を扱った文献では、同年帝室技芸員拝命したとされる。しかし、当時の『官報』に記載はなく、帝室技芸員扱った学術論文などにも琴石の名は無い。これに先立つ明治43年1910年)にも帝室技芸員審査があり、琴石は鈴木松年野村文挙村瀬玉田山本梅荘菊池芳文竹内栖鳳山元春挙と共に総長から候補には挙げられたものの、最終的に選から漏れたようだ。晩年病気がちで、大正10年1921年78歳没した。墓は当初安治川墓地(場所不明)に葬られたが、後に四天王寺移された。

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頼春風」の記事における「略伝」の解説

頼家は元々小早川氏仕え、のち竹原移り海運業始めその後紺屋営んでいた。その当主頼惟清には5人の息子生まれそのうち次男と五男は早世し、残った3兄弟頼春水春風頼杏坪である。また春水息子頼山陽であることから、春風の甥が山陽になる。 春風は、竹原生まれる。父・惟清は息子たち勉学に励ませ、春風もこれを努める。春風14歳時に兄・春水従い大阪で学ぶ。のち弟・坪もこれに加わる。尾藤二洲とは親交温めた春風は、儒学を、そして医術古林見宜から学ぶ。 安永2年1773年)父・惟清が倒れたことから春風だけ竹原戻り頼家宗家いわゆる竹原頼家家督を継ぐ。そして医業開業している。安永9年1780年)には塩田経営始めている。天明元年1781年邸宅春風館」を建て、紺屋叔父の頼惟宣(伝五郎)に譲った。その一方で竹原文化向上にも貢献し寛政5年1793年)に郷塾竹原書院」の開講春水と共に参加し講師となった。この竹原書院は現在市立竹原書院図書館として存続している。 頼家の3兄弟はいずれ学問詩文、書と優れのち「三頼」と称される篠崎三島は頼兄弟を「春水は方(四角)、春風は円、坪は三角」と漢詩譬えて、後の世人は春風はその詩風だけではなく円満の人であった評している。兄弟2人がのちに広島藩儒となり順調に出世していったのに対し春風竹原とどまり悠々自適な生活を過ごした。3兄弟とも菅茶山との交流があったが、管は春風自由な生き様に一番共感していた。 兄・春水の子山陽出奔した際には、春風追手一人となった。のち山陽連れ戻され幽閉された際に『日本外史』の構想を練る事になるが、この題名春風の案である。また山陽廃嫡したため春水嗣子がいなくなったことから、春風長子頼元鼎(景譲)を春水の養嗣とした。春風相続者は、長女・唯子に婿養子として花山文台の子迎え養嗣とした。これが頼小園である。また元鼎春水相次いで死去し春水の孫・頼聿庵広島頼家家督継いだ際には、春風藩命によりその後役となり七人扶持与えられ御医師格(藩医となっている。 文政8年1825年竹原春風館で死去享年73墓所竹原照蓮寺著書に『春風館詩鈔』『適肥』『芳山小記』など。子孫広島大学名誉教授頼桃三郎・頼祺一親子がいる。

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池田孤邨」の記事における「略伝」の解説

越後国水原近辺現在の阿賀野市出身。名は三信(みつのぶ)、三辰、字は周二、通称・周次郎。号は自然庵、、冬街士(天保後期)、煉心窟(安政から文久頃)、画戦軒、天狗堂、旧(舊)松軒久松軒など。 池田藤蔵の子として生まれる。10代後半には江戸へ出て酒井抱一師事したと見られる水原天領で、越後有数の米処として、干拓新田開発積極的に行われたその結果廻船業などで富を成す素封家多く江戸京阪文人墨客水原訪れ逗留することも珍しくなかった。父藤蔵水原こうした素封家交流があり、弧邨が若く江戸に出るのも、水原来訪した文化人関与したとする説がある。また、抱一弟子で、後に孤邨の弟子となる野沢の父・九皐庵九甲の紹介とする説もある。孤邨は後々まで水原との関係を保ち続ける。嘉永6年1853年2月に父が亡くなると、同年4月水原古刹西福寺に父の墓碑建立している(大橋訥庵銘文)。 文政年間前期頃に抱一入門抱一の号の一つ邨」の1字から孤邨を名乗った推測される抱一死後30代半ばから一時深川冬木町住み40代後半には両国久松町移り没するまで過ごした。しかし、深川時代作品関東大震災多く失ったとされ、動向不明な点が多い。安政6年1859年)刊の『書画會粹 二編』では「画名天下高し然れども名を得る事を好まず、戸を閉め独り楽しむ」とあり、その人物を伝えている。書画鑑定優れ茶道好み和歌通じた教養人で、好み」と号した琳派後継者自認し最晩年元治2年光琳新撰百図』上下弟子野沢跋、ボストン美術館など)、慶応元年1865年)『抱一上人真蹟鏡』上下出版した。これらは絵手本として使用された他、ジャポニズム機運にのって西洋渡り装飾美術隆盛寄与した1882年イギリス初のインダストリアルデザイナーとして活躍したクリストファー・ドレッサー出版した日本 その建築美術美術工芸』では、早くも光琳新撰百図』が引用されている。一方文中に「大和魂」「皇国」といった語句散見し、孤邨が勤王思想持っていたことが窺える。墓は江戸川区西瑞江大雲寺。 孤邨は其一ほど多作ではなく作品の質も振り幅大きい。また、抱一や其一、酒井鶯蒲比べて画材劣り状態が劣化しているものが少なからずあり、彼らに比べて大名豪商注文少なかった推測される。しかし、代表作屏風」(バークコレクション)には、近代日本画を先取りする新鮮な表現みられる弟子中村岳陵最初の絵の手ほどきをした野沢木村江村孤山、胝狐仙、胝八木沢松嶺、西崑山高橋孤道、福島孤龍など。早稲田大学図書館初代館長などを務めた市島謙吉は、数多く印章コレクションしており、その中には同郷の孤邨の印章37含まれ、現在は早稲田大学會津八一記念博物館所蔵されている。

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劉諶」の記事における「略伝」の解説

263年、魏が蜀漢侵攻してきた際、成都廟堂にて劉禅光禄大夫譙周発言受け入れて降伏しようとすると、劉諶徹底抗戦主張して反対したが容れられず、黄皓らによって宮中からしめ出されてしまった。帰宅後、劉諶妻子殺害し、その首を携え祖父昭烈皇帝劉備)の廟前で、己の首を刎ねて自害した小説『三国志演義』では、妻の姓は崔。妻と数人王子自害したという設定になっている

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楊儀」の記事における「略伝」の解説

かつては曹操仕えた傅羣荊州刺史)の主簿であった。しかし、関羽慕っていたことからその下に降り、功曹に採り立てられた。後に劉備の下へ使者として赴き、気に入られ左将軍府の兵曹となった219年劉備漢中王になると尚書となった。しかし221年劉備即位すると、上司劉巴喧嘩して弘農太守左遷された(太守ではあるが、弘農郡は魏の領地である)。しかし、諸葛亮彼の才幹高く評価していたため、劉備亡き後に再び採り立てられ丞相参軍幕僚)・丞相長史幕僚長)[蜀書楊儀伝では、八年.遷長史.加綏軍將軍…とある]へと累進し諸葛亮補佐当たった諸葛亮出征時、事務処理優れていた楊儀は、丞相府の幕僚筆頭として、部隊編成計画立案軍需物資確保などの重要な任務滞りなく処理した。ただ、狭量自分才覚鼻にかけるようなところがあったため、魏延と仲が悪かった軍議の場で両者言い合いになると、魏延白刃楊儀脅し楊儀がこれを恐れて泣くような時もあったという。諸葛亮は、楊儀才能深く惜しみ同時に魏延勇猛頼りとしていたため、どちらか罷免する忍びず、2人不仲なことに心を痛めていた。 234年諸葛亮五丈原で魏との対峙中に病死すると、楊儀諸葛亮遺言に従って諸将指揮執り全軍撤退成功させた。この時、魏延撤退命令に従わなかった上、兵を挙げ楊儀討とうとしたが、他の諸将らが諸葛亮遺命に従って楊儀味方し魏延配下兵士までもが彼を見捨てたため、軍が四散してしまう結果になった魏延息子達漢中逃げたが、その途中で楊儀の命を受けた馬岱軍勢によって殺害された。『三国志』蜀書魏延伝によると、楊儀届けられ魏延の首を踏みつけ「庸奴(知恵足りぬ輩)め、もう一度悪さができるものならやってみよ」と言ったという。 楊儀諸葛亮の死後長年実績政敵魏延討ち取ったことから、自分こそがその後継者に相応しいと考えていた。ところが諸葛亮後継者には、留府長史として後方勤務務めてきた蔣琬選ばれ尚書令益州刺史という要職任命されたのに対し楊儀統括する部署のない中軍師に任命されたのみで、職務もないという状態であった。これは諸葛亮がその生前楊儀能力について評価していたものの、その狭量すぎる性格問題視し、自らの後継者には彼ではなく蔣琬密かに指名していたからであった楊儀それまで蔣琬のことを、経歴実績いずれも自分後塵拝してきたと考えていたため、この処遇大きな不満を覚え費禕対し「かつて丞相諸葛亮)が亡くなった際に、軍を挙げて魏についていたら、こんな風に落ちぶれる事はなかったろうに」と漏らした費禕その内容劉禅密告すると、楊儀庶人落とされ漢嘉郡流罪となった。ところが楊儀は、流刑地から他人誹謗する激越内容の上書を送り続けたこのためついに劉禅らが楊儀拘束させると、楊儀自殺したといわれるその後妻子成都に戻ることを許された。

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和田義亮」の記事における「略伝」の解説

大和国宇智郡大岡村現在の奈良県五條市岡町)の庄屋山田家出身山田家甲斐国郡内小山田氏の者が武田信虎について高野山に来た後、宇智郡土着したと伝え小山田山田改めたという。ちなみに小山田氏坂東平氏である。和田平氏名乗っていた。山田氏末裔に残る文書にも小山田とある文書がある。父は佐平としているが、山田氏墓地の墓には真平とある。同じ五條森田節斎学んだ文久年間頃より尊皇攘夷運動参加して真木保臣平野国臣高杉晋作らと親交結んだ生野の変参加し池田屋事件では新撰組襲撃遭いながら咄嗟判断隠れることに成功して生き延びた禁門の変において長州藩軍と合流して天龍寺駐屯するが、敗退後天王山にて真木最期看取り、その遺言高杉晋作三条実美らに伝えるために長州藩向かいそのまま同藩に留まる四境戦争では長州側の一員として小瀬川攻防戦奮闘した戊辰戦争では北陸道総督の下で鎮撫活動にあたり戦功で4人俸禄授けられた。その後宮内省出仕したが、晩年京都西陣織職人となり、西陣織再興尽力した大正8年1919年)、正五位贈られた。

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真徳秀」の記事における「略伝」の解説

幼少時から天才知られており、4歳ときにはどんな書物暗誦することができたという。慶元5年1199年)に進士となる。博学宏詞科に及第し南宋光宗仕えて大学博士となったが、その後継いだ寧宗には疎まれ地方官左遷されてしまった。しかしそこで、泉州交易海防対策功績挙げている。寧宗死後即位した理宗儒学肌の教養人であったため、礼部侍郎中書舎人任じられ中央政界復帰し翰林学士参政知事歴任理宗側近として活躍したが、当時南宋実権握っていた有力者である史弥遠からその活躍妬まれ左遷されかけたこともあり、結局真徳秀が行なった理宗対す10万にも及ぶ上奏成果挙げられなかった。理宗真徳秀重用することで儒学による治世望んだが、当時モンゴル帝国との問題もあり、これは実現することなく終わったのである。しかし、朱熹時代起こった偽学の変で弾圧され儒学者たちを解放するように皇帝進言してこれを実現させるなど、一部では評価されている功績がある。端平2年1235年)、58歳で死去した。 明の正統年間1436年 - 1449年)に、孔子廟に従祀され、成化3年1467年)には浦城伯を追贈された。

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独立性易」の記事における「略伝」の解説

父は敬、母は陳氏泰昌元年3月1620年)に父が没し翌年大火家産焼失したため、医をもって生業にすることを決意し儒学医術学び明朝仕官した名流集う詩社参加して、詩や書で名が聞こえていた。宦官魏忠賢による政治乱れを嫌い、長水語渓(浙江省嘉興市桐郷市)に隠れ医術を業とした。 明朝滅亡後清朝圧政逃れて永暦7年1653年58歳のとき、商船乗って長崎渡来そのまま亡命する。 しばらく帰化人医師川入徳の許に身を寄せていたが、ここでは朱舜水同居となっている。承応3年12月1654年)、隠元隆琦請う興福寺にて得度し儒者であった仏門帰依道号独立法諱性易名乗った同年隠元普門寺行き記室として随行続いて万治元年1658年隠元徳川家綱謁見するための江戸行きにも随うと、漢詩や書、篆刻水墨画などが高く賞賛された。噂を聞いた老中松平信綱より平林寺招かれる栄誉にも浴した。 しかし、病を得万治2年1659年)には長崎に戻る。興福寺の幻寄山房にて脚痛の養生しながら自著斯文大本』を元に書論』を著し正し書法啓蒙努めた明代新し篆刻伝え日本の篆法を一新した。また初め石印材に刻する印法を伝えた万治4年1661年)に岩国藩吉川広正と子の広嘉に招聘され施術した。岩国では錦帯橋架設重要な示唆与えている。 寛文2年1662年)、67歳からは各地行脚しながら医業専念貧富かかわらず民に施し病を癒したという。とりわけ疱瘡治療知られた。岩国吉川家長州毛利家小倉小笠原家などからも招かれている。 寛文5年1665年)、即非如一の広寿山福聚寺書記となり白雲室を与えられている。 寛文12年1672年3月海を渡って二人訪れた同年11月崇福寺広善庵で示寂する。享年78荼毘付され遺骨従者の慧明・祖明によって宇治黄檗山萬松岡(ばんしょうこう)に奉じられた。 正徳6年1716年)に弟子高玄岱独立記念して武蔵平林寺に戴渓堂を建立し享保3年には高松弟子年江直美と共に木牌を建て行状記した明治23年1890年)、中井敬所によって『独立禅師印譜』が編集され、現在東京国立博物館所蔵されている。この印譜に鈐された印は独立中国から持ち込んだ印で、弟子玄岱に授けられたものが代々門弟通じて敬所に届いたのである。 他に書家北島雪山弟子となっている。

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孫君沢」の記事における「略伝」の解説

浙江省杭州銭塘県出身生涯は全く不明だが、画風から馬遠夏珪学んだとされる。元時代杭州には南宋画院画家末裔職業画家となって活動していたと考えられ孫君沢その中で代表的な画家である。中国では評価され現存する作品はないが、日本では高く評価された。室町幕府6代将軍足利義教は、従来尊重されていた禅僧余技描いた水墨画より、技術的に優れた職業画家作品好み孫君沢作品熱心に集めていた。その後編纂された『君台観左右帳記』では「上」の部に記載され長谷川等伯も『等伯画説』の第53条で、孫君沢楼閣山水図名手記している。 現在確認されている作品15点ほど。画面対角線片側モチーフ集めたいわゆる「辺角の景」の構図景物の形、岩や土坡の処理などは馬遠夏珪院体画継承しているが、輪郭線が強調され描写固くなり、奥行き感は減少し情趣乏し面があるこうした要素は、後の明代画院における浙派南宋院体山水様式にも繋がる要素であり、中国では忘れ去られる原因となったが、孫君沢線描基本とし画面幾何学的に構成する画法は、日本絵師たちには学びやすかったまた、日本招来され南宋絵画小品が多いのに対し、(伝)孫君沢作品大幅多く、大画面障壁画の手本としても有用だった見られ雪舟祥啓狩野派画家たち大きな影響与えた

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黒田綾山」の記事における「略伝」の解説

高松田町町家生まれる。幼少の頃から読書と画を好んだという。最初の画の師は江戸幕臣にして狩野派画家加藤文麗だったという。やがて池大雅私淑して21歳安永4年1775年)のとき、大坂出て大雅高弟福原五岳入門同門林閬苑親友となる。 26歳安永9年1780年)のとき備中玉島遊歴し、売画をして暮らし土地人々親交を結ぶ。その後山陽道讃岐・京坂など諸国遍歴したが、天明5年1785年)再び玉島に戻ると永住決意当時天領であった玉島海運中心に商業発達し商人の町として活気があった。居宅を起屈と命名して画を以て生計立てた天明の飢饉のときは窮民に自らの画を与えて援助した最初の妻先立たれたが、再婚し44歳過ぎてから2女を儲ける。次第画業名声高まり丹波亀山藩絵師として招聘されるが、これを固く辞退。それでも亀山藩からは厚遇され終生俸禄支給されている。家庭では次女3歳亡くし、妻も早世する不幸に見舞われた。 綾山は明・呉派の銭貢の画風敬慕若き日田能村竹田は綾山に画の批評請うたという。書風大雅傾倒し独自の書風をもった。詩文能く和歌詠んだ菅茶山西山拙斎頼春水皆川淇園横溝藿里・福武重な名だたる文人交友した。 60歳にて病没墓所岡山県倉敷市玉島竹浦共同墓地にある。法名崇高山居士」。 門人岡本綾江は綾山没後建碑企て大坂儒者篠崎小竹撰文依頼したのだが、資金難から永らく碑を建てられずにいた。しかし、白神皞々に師事した富商中原国華中心となって費用捻出し、綾山没後34年後にあたる嘉永元年1848年)ようやく丸山高運寺に「綾山黒田翁之碑」が建てられた。

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春屋妙葩」の記事における「略伝」の解説

甲斐国山梨県)の生まれ母方叔父である夢窓疎石のもとで受戒すると天龍寺住職となり、室町幕府に対して五山第一南禅寺楼門山門新築提言幕府楼門建設援助をしたが南禅寺紛争状態であった園城寺がこれに抗議比叡山門徒もこれに加わり楼門撤去妙葩配流求め紛争政治問題にまで発展する1369年応安2年/正平24年)に管領細川頼之楼門撤去させる。妙葩は頼之と対立して天龍寺住職辞して阿波国光勝院、さらに丹後国雲門寺隠棲する。頼之は妙葩との和解のために会談求めるがこれを拒絶対して頼之は門徒僧籍剥奪を行う。足利義満の命により、1376年絶海中津とともに日本帰ってきた汝霖良佐に法を授ける。 1379年康暦元年/天授5年)の康暦の政変で頼之が失脚した後に入京し、南禅寺住職として復帰する妙葩は頼之が失脚する直前丹後出立しており、政変への関与考えられている。 3代将軍足利義満帰依を受け、同年10月10日初代僧録となる。同年義満要請により全国禅寺統括その後嵯峨宝幢寺開山。さらに義満相国寺創建すると妙葩開山第一世を請じたが、妙葩はこれを固辞やむなく師の夢窓疎石開山始祖とし、妙葩第二住持となった実質的に妙葩相国寺開き五山十刹制度作り五山派興した五山版刊行なども行い五山文化の発展寄与した。また多く弟子育て、彼らは日明貿易を行う際に幕府外交顧問となった

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永樂保全」の記事における「略伝」の解説

幼名は千太郎出自不明だが、一説京都織屋沢井家出身で、幼少から陶器釉薬商う百足屋へ奉公し大徳寺黄梅院住職大綱和尚のもとで喝食として修行したという。1806年頃に和尚紹介十代善五郎である永樂了全養子となる。十一代善五郎襲名したのは1817年であり、1827年には紀州藩十代藩主徳川治寶西浜御殿御庭焼開窯招かれ作品賞して「河濱支流(かひんしりゅう)」の金印と「永樂」の銀印を拝領した。これが永樂姓の由来であるが、正式に改姓するのは明治入ってからである。1843年息子の和全に善五郎の名を譲って善一郎と名乗り、さらに1848年には保全(やすたけ)と名乗り変えたこのため没後は他の善五郎との区別のため保全(ほぜん)と呼ばれる奥田頴川やその弟子欽古堂亀祐青木木米仁阿弥道八など他の京焼作家とは別軸で活躍していた。長年京都活動しその後大津湖南焼開窯摂津高槻での開窯など、京都離れた地域でも積極的に陶作を行なった一説には息子の和全と不仲だったのも京都離れた理由一つだという。

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頼采真」の記事における「略伝」の解説

広島藩であった頼杏坪長男いわゆる頼家嫡子。母は藩儒加藤十千の孫にあたり加藤静古の娘である恭子玲瓏子)。夫妻結婚当初から坪の長兄夫婦である頼春水頼梅颸その子である頼山陽同居しており、広島頼家居邸であるの木小路武家屋敷(現頼山陽史跡資料館)で采真は生まれる。のち一家独立する。 采真は儒学父母より学ぶ。坪の兄つまり采真の叔父にあたる春水広島頼家同じく叔父頼春風竹原頼家、彼らの友人達儒者らと交わる。 父坪は藩儒から平士として藩務についたが、采真は藩儒はならず平士として藩に仕え始める。文化5年1808年)、藩主浅野重晟参勤交代に隨ったに連れられ江戸に向かう。翌文化6年1809年)帰藩。 文政5年1822年15石3人扶持を給せられる。 父坪の藩務に幾つか携わっている。文政元年1818年)『芸藩通志』の編纂坪が命じられた際には采真もこれに加わり文政8年完成している。文政11年1828年)、坪が三次町奉行となった際に、采真は藩命によりその勘定所吟味役格として郡町事務務めた天保元年1830年)、父坪が隠居、そのため采真はいわゆる頼家家督継ぎ知行140石を給せられ、広島に戻る。同年銀奉行勘定奉行付で金銀出納管理する役職に任ぜられ、同年藩より白島屋敷拝領する天保3年1832年蔵奉行天保5年1834年)から天保7年1836年)まで江戸勤番天保8年1837年)から 弘化元年1844年)まで大阪蔵屋敷留守居役(番目付)。大阪時代には当地儒者と交わる。弘化2年1845年普請奉行となった知行190石。 嘉永3年1850年普請奉行時に病死享年60墓所広島安養院現在の多聞院)。妻は矢野八幡宮神主香川氏の娘、かね子。子は三男二女嫡子長男頼正義。

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胡湄」の記事における「略伝」の解説

科挙制度においては諸生甘んじた書画などの収蔵家で知られる項元汴外孫であったので、その収蔵物模写臨模自由に行え画業進んだ虫魚図・花鳥図を得意とし仙筆と称揚された。金銭によって画を求められても気に入らない者には応じなかった。詩文にも優れ高雅の士と交友。その名声日本にも届き徳川幕府招聘をしようとしたが既に没しており、その代わり弟子沈南蘋来日した

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呂大臨」の記事における「略伝」の解説

京兆府藍田県出身。はじめは張載師事し熙寧10年1077年)に張載没する程頤のもとに入門し学び謝良佐游酢楊時とともに程門の四先生称せられるまでになった文章良く六経通じ、礼にもっとも精しく兄の呂大防とともに考究論議した元祐年間1086年-1094年)に太常博士となり、秘書省正字うつった元祐7年1092年)、政治家の范祖禹が呂大臨学風古人のごとき身の修め方を好み、講官に抜擢しようとした用いられる前に没した著書として『玉渓集』『考古図(中国語版)』がある。

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狩野永岳」の記事における「略伝」の解説

父は京狩野絵師影山洞玉(後の狩野永章)、弟は狩野永泰で、その子冷泉為恭早く才能を見いだされ京狩野8代狩野永俊の養子となり、文化13年1816年)永俊が没する27歳家督継いだ初代狩野山楽末裔であることを誇りとし、箱書き落款に「山楽九世孫」としたためている。山楽二代山雪の画を熱心に学び、特に30代までは桃山時代巨木表現に範を取った復古画風基本とした。 その上で当時京都人気博していた四条派画風積極的にとり入れている。この他にも江戸中期来日した沈南蘋流れを汲む長崎派や、谷文晁によって広まった北宗画文人画宗達光琳装飾的な琳派、甥にあたる冷泉為恭から復古大和絵直接学んだこのように様々な画風貪欲に吸収し自家薬籠中の物とした。 京狩野家代々九条家と関係が深く、永岳33歳の時、画を好む九条尚忠家来となった嘉永6年1853年)、尚忠左大臣公務江戸下ったとき、これに同行し富士山実見し富士百幅」を描いている。 永岳の代になって京狩野紀州徳川家彦根井伊家御用絵師務めようになった井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる井伊直弼肖像画は永岳が画いたとされる57歳にして禁裏朝廷御絵師御次となってから落款に「金門画史」・「金門画院第一史」と記すこともあった。66歳のとき禁裏安政造営が行われ多く障壁画制作にあたっている。 臨済宗妙心寺には永岳の作品多く残りとりわけ隣華院客殿障壁画は永岳の代表作といえる同じく臨済宗大徳寺にも頂相など多数作品残されている。東本願寺にも大障壁画を手掛けたがのちに焼失した本願寺通じて地方別院にも永岳の作品多数見られるこの他にも永岳は多くパトロンをもち、京都はいうに及ばず長浜飛騨高山にも足を伸ばし富商富農求めに応じて絵を画いた禁裏御用絵師とはいえ、永岳が家督継いだ頃の京狩野派は、土佐派鶴沢派の後塵拝し不遇な立場にあったなおかつ江戸後期には伝統的な画派勢力弱め特色持った新興画派台頭していた。永岳は生き残り掛け京狩野伝統革新させ、特色打ち出すことに成功する京都画壇では重鎮として扱われた。享年78養子の永祥が10代相続門弟同じく養子岡山多く作品が残る狩野永朝や、木村舟、長野祐親などがいる。そのほかに岩国吉川家御用絵師佐藤丹治土佐藩河田小龍京焼永楽保全なども永岳に画を習ったという。

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満岡伸一」の記事における「略伝」の解説

佐賀県佐賀郡鍋島村(現・佐賀市)の蒲原家誕生8歳の頃、北海道室蘭市輪西移住する1906年北海道師範学校講習科を卒業後、札幌近郊教鞭振るう1908年井深照子結婚13年後、母の生家再興のため満岡姓を名乗る1912年白老郵便局長に就任して以降30年間を白老過ごし白老アイヌの「隣人」としてアイヌ風俗伝承記録し、それをライフワークとした。1924年にその成果を『アイヌの足跡』(初版)として発刊した1942年に健康を害して郵便局退職し東京府北多摩郡国分寺町現・国分寺市)へ移住し、その7年後没する享年68歳。 満岡夫妻邸宅は、白老町役場の東隣にあった夫婦文学活動をしていたことから知人多く著名な歌人を招いた歌会催された。詩人森竹竹市は、同夫妻影響受けて句作・歌作を始めた考えられる

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宋玨」の記事における「略伝」の解説

代々官吏の家に生まれる。30歳の頃から遊歴し金陵現在の南京)にて文人墨客交友したが、その中で詩人の程嘉燧(孟陽)は師友となり深く交流した二人は旅を伴にし、詩や手紙送りあった。しかし、宋玨原稿を残さなかったのでこの詩は散逸してしまっている。書は夏承碑を範とし、隷書優れた。画は米芾父子元末四大家師法し、山水画花卉画を得意とした。特に篆刻盛名高くなり、これに倣う者が跡を断たず莆田派の開祖見なされる篆刻隷書八分用いていたため正しく篆法に則っていないと周亮工などの保守的な篆刻家から批判された。魏植(伯昇)・黄昇(象侯)・熊(公兆)・林晋(晋白)などが後継となったが、古文などを用いてますます正統から逸脱し重苦しい作風となっていったため、やがて莆田派は消滅した

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楊沂孫」の記事における「略伝」の解説

江蘇省蘇州府常熟県出身。若い時は兆洛に学問学び、『管子』『荘子』に精通した1843年挙人となり、官職鳳陽府知府至った。書は最初鄧石如影響受けていたが、後に金文石鼓文・漢碑篆書や唐の李陽冰要素吸収し、独自の書風確立した

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益田勤斎」の記事における「略伝」の解説

経学通じ、書をよくし、書画骨董愛玩し鑑識にも通じたとりわけ篆刻優れ江戸中の名士文人が勤斎の印を求めて列を成したという。高芙蓉遺風継いで秦漢の古印の法を守りながらも新味交え独自の印風を確立した二世浜村蔵六とともに江戸二名家」と称された。勤斎の清新精緻な印風は子の益田遇所門弟曽根寸斎などに継承され、浄碧居派と呼ばれた江戸下谷通に住んだ享年70印譜に『浄碧居印譜』・『勤斎印存』がある。羽倉可亭集めた『勤斎印牋』には、可亭が勤斎に篆刻依頼した自用印のほか、中島棕隠使用印などが含まれる

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佐々木玄龍」の記事における「略伝」の解説

江戸で生まれる。幼少より書の修行励み、「象體の字」を得意とする天和2年1682年)、来日した朝鮮通信使一行詩文やりとりし正徳元年1711年7月から幕府仕え、この時と享保4年1719年9月にも朝鮮通信使接待任されている。享保6年1721年6月25日致仕享保8年1723年)に病を得没す享年74歳武州三縁山(増上寺)浄運院に葬る法号は「領春院興誉琉霊玄龍居士」。

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頼春水」の記事における「略伝」の解説

安芸竹原現在の広島県竹原市)の紺屋を営む富商 頼惟清(亨翁)の長子として生まれる。仲子道工氏)は春水幼少の頃死去する。惟清は教育熱心な父親であったので、春水4歳から5歳頃より京坂の学者平賀中南塩谷に就いて学問勤しむ19歳のとき病を得大坂にて医師探すうちにそのまま留まり片山北海入門し経学詩文を学ぶ。また同じ頃、趙陶斎に就き書と篆刻を学ぶ。明和元年1764年)、師の北海盟主混沌詩社創立されこれに加わる。詩豪呼ばれるほど才能開花した大坂文人墨客交流したが、特に7歳年上葛子琴と深い友情結ばれている。 安永2年1773年大坂江戸堀北(現大阪市西区)に私塾青山社を開く。弟の春風坪も儒者となり三頼と称される篠崎三島は「春水四角く春風円く坪は三角だ」と漢詩譬えて頼兄弟評した。妻静子頼梅颸)は和歌秀でた文人であった安永9年1780年)、34歳時に長子山陽誕生する翌年広島藩7代藩主浅野重晟藩儒として招聘され一家安芸に移る。藩内に学問所(現修道中学校・修道高等学校)を創立する天明3年1783年江戸勤番となり、春水単身赴任し世継ぎ教育係務めている。天明5年1785年)、自らの信ず朱子学をもって藩の学制統一したその後友人である古賀精里尾藤二洲柴野栗山語り合い元来古文辞派であった彼らを見事に朱子学転向させてしまう。この三人は後に寛政の三博士称される寛政9年1797年)に松平定信老中となると三博士らと働きかけ朱子学幕府正学とすることに成功する。また林家私塾官学化し昌平坂学問所とした。いわゆる寛政異学の禁にはこのような背景があった。その後隠然とした影響力持ちつづけ寛政12年1800年)には昌平坂学問所召されて自らも書の講義行っている。この寛政異学の禁多く学者冢田大峯赤松滄洲など)から徹底批判され定信退陣早める一因にもなった。にもかかわらず春水自身一切矢面に立つことがなく傷ひとつ付かなかった。明治になって徳富蘇峰は「春水世を渡る上においても、身を処する上においても、なんら間違いなく、なんら危なげ無く、実に安全第一紳士的学者である」と評している。 長らく江戸赴任していたが、安芸では寛政8年1796年次男大二郎が病没し、寛政12年1800年)には長男山陽が藩を出奔するという大事件起すやむを得ず座敷牢閉じ込めるが、4年後に山陽廃嫡し、弟春風の子景譲を養嗣子として迎えている。享和3年1803年)に任を解かれ帰国する文化10年1813年)、長年功績により家禄300石を給せられる文化12年1815年養子景譲が病死翌年春水死去享年71広島市南区比治山にある安養院(現・多聞院)に葬られる。孫の聿庵が家督継いだ春水生前一冊の著書著さなかったが、没後13年目の文政11年1828年)に山陽編集によって『春水遺稿』(11巻別録3巻付録1巻)が刊行された。出版費用実弟坪が藩主願い出て補助受けた。主に春水漢詩年代順に掲載している。別録交友録的な回想記である『在津紀事』と『師友志』が掲載されているが、当時大坂活躍した文人人間関係伝え貴重な資料となっている。 大正4年1915年)、従四位追贈された。

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頼杏坪」の記事における「略伝」の解説

宝暦6年1756年7月、父又十郎(頼亨翁)、母仲仔の四男として竹原生まれる。通称四郎長兄頼春水次男と五男が死亡し次兄頼春風頼山陽は兄春水の子で、坪は叔父に当たる。 坪は7歳のとき母に死別し、父と兄に育てられた。家は商家で、父は学問好きであった25歳のときに大坂出て儒学学びその後兄・春水と共に江戸にも出て服部斎に師事した30歳広島藩学問所(現修道中学校・修道高等学校)の儒官迎えられ天明5年1785年広島藩の子浅野斉賢教育係となった春水春風坪の頼三兄弟は、とみに文才恵まれた儒者であり、多く優れた漢詩を残すなど、レベルの高い共通点持ち合わせると共に個性生かしてそれぞれの分野後世名を残した坪が二人の兄異なるのは、地方行政官として歩んだ足跡である。しかも、普通の人なら隠居する50代半ば過ぎてから、郡代官や三次町奉行として藩政一端加わった坪が三次郡恵蘇郡代官になったのは文化10年1813年10月で、58歳のときだったその後三上郡奴可郡加えた備後国北部4郡(現在の三次市庄原市双三郡比婆郡)の代官歴任備北各地々を歩いて農民声を聞き政治反映しようと努めた当時備北地方百姓一揆伝統の地と言われた。飢餓備えて植えたり神社老人集めて敬老会催したなどの話はよく知られている。 文政11年1828年)、坪は三次町奉行任じられ4月家族をあげて三次転居してきた。このときすでに73歳で、三次在任したのはわずか2年であった文政12年1829年2月には京都から甥の頼山陽三次にある坪の役宅運甓居訪れ漢詩残している。 文政13年1830年)閏3月坪は三次町奉行辞して広島引き上げた天保5年1834年79歳で病没比治山安養院現在の多聞院)に葬られた。嫡子頼采真(舜燾)。 『芸備孝義伝』や『芸藩通志』などの藩史編纂携わったほか、「原古編」「春草堂詩鈔」などの著作がある。 明治42年1909年)、従四位追贈された。

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佐藤玄々」の記事における「略伝」の解説

福島県相馬郡中村町(現相馬市出身本名清蔵1888年宮彫り師の家に生まる幼い頃から木彫技術を学ぶ。1905年17歳で「われ世界第一彫刻家たらんと祈りき」と上京翌年山崎朝雲師事1913年朝山の号を貰い独立30歳結婚大森アトリエ構える。1914年日本美術院同人院展出品続けた後、1922年官費留学により2年フランス渡りアントワーヌ・ブールデル師事する1935年帝国美術院会員1937年帝国芸術院会員1939年大日本護国会が紀元二千六百年記念行事一環計画した和気清麻呂像》の制作では、朝山北村西望朝倉文夫の3人でコンペとなり、朝山作品選ばれた。しかしこの時、師・朝雲が「銅像のような大作佐藤より朝倉さん北村さんの方が良い」との言を聞いて朝山憤慨し朝山の号を返上し師弟の関係を絶ったこれから1948年玄々号するまで、本名清蔵通した1945年戦争によりアトリエ全焼する。1948年老子』の一節「玄之又玄、衆妙之門」から玄々名乗る1949年京都妙心寺塔頭大心院移住アトリエとする。戦後日本芸術院会員

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中田粲堂」の記事における「略伝」の解説

先祖鳥居忠政家臣で後に幕府仕え官吏となる。しかし父平蔵は職を辞して江戸下谷住み深谷氏名乗りその後祖父母の姓である伴氏称する。粲堂は学問好み最初谷麓谷に就き、後に林述斎祭酒)の門下となり儒者生業とした。また詩文をよくし篆刻巧みであった文化年間京都北陸遊歴している。中田氏後嗣がいなかったので中田姓に復した谷麓谷の娘(つまり谷文晁実妹)である谷舜媖を妻とし江戸八丁堀地蔵橋住んだ隣家住人村田春海、さらに隣には斎藤十郎兵衛住んでいたとされる。後に役人南町奉行所与力となったが、柴野栗山野沢酔石、山本北山大窪詩仏佐藤一斎菊池五山などの文人深く交流し文雅究めた。その性格剛毅ありながら慈愛深く人に尽くした文政12年火災遭い蔵書印章ことごとく焼失した篆刻古人真跡研鑽し、よいものをみれば必ず模刻した。その数は数百顆に上り歴朝名公欵譜』とした。また花を好み、画友に30の花を画かせ、それに銅印30顆を刻して鈐し詩句添えて名花交叢』として冊子とした。

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長尾雨山」の記事における「略伝」の解説

讃岐高松藩士の長尾勝貞(竹嬾)の長子として香川郡高松香川県高松市)に生まれる。幼い頃から父について漢学を受け、天性詩才を見いだされる明治21年1888年)、東京帝国大学文科大学古典講習科を卒業後、岡倉覚三天心)に共鳴し東京美術学校設立尽力。また美術雑誌国華」(現在も朝日新聞出版刊行)の創刊にも協力しその編集行っている。この間学習院東京美術学校などで教鞭を執る明治30年1897年)から勤めた熊本第五高等学校では夏目漱石同僚となってよき相談相手となり詩文などでも親交深めた明治32年1899年)、東京高等師範学校教授転じ東京帝国大学文科大学でも講師務め明治35年1902年)に職を退官上海移住当時中国最大出版社であった商務印書館招聘に応じて編集顧問となり、中国最初中等教科書編纂従事した書画骨董通暁し大正元年1912年)には岡倉覚三紹介ボストン美術館監査委員委嘱され美術品選別にも携わっている。民国2年1913年)、呉昌碩西泠印社社長に就任する及んで河井荃廬とともにこれに参加している。 大正3年1914年)に帰国京都に居(京都市上京区西洞丸太町上ル)を構え在野学者として研究講学をし、文人とて詩書三昧暮らし送った駐日清国公使黎庶昌書記官鄭孝胥呉昌碩羅振玉内藤湖南狩野直喜君山)・犬養毅(木堂)・副島種臣滄海)などの当時一流学者文人交遊をひろめた。 その書は法帖重んじすべての書体よくしたとりわけ草書優れた詩文ははじめ国分青厓同じく「明の七子の風」を標榜したがのちには唐詩・宋詩にも影響され独自の詩風確立した。画は墨竹図を得意とし、書画鑑定に精しかった平安書道副会長日本美術協会評議員務め、他に泰東書道院・日本南画院などに参加した昭和17年1942年4月京都自宅にて没する享年79昭和40年1965年)、『中国書画話』(筑摩書房筑摩叢書〉)が刊行書画についての講演集成跋文吉川幸次郎)。

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ヘンリー・ユール」の記事における「略伝」の解説

スコットランド出身エジンバラ教育を受け1840年からインドベンガル軍隊勤務しインド各地旅行したシク戦争en:First Anglo-Sikh War(1845–1846)、en:The Second Anglo-Sikh War(1848–1849))などに従事し1862年イギリス陸軍大佐階級をもって退役してヨーロッパにもどり、ドイツ・イタリア・シチリア島と移住する1872年には翻訳研究により王立地理学会Royal Geographical Society)から金メダル授与される1875年から亡くなるまでインド協議会Council of India)の会員であり、1877年にハクルート協会(Hakluyt Society)の会長となる。 オックスフォード英語辞典作成にさいして、特に東洋に関する記述助言することで貢献した

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頼聿庵」の記事における「略伝」の解説

頼山陽長子。母・淳(御園氏)のお腹の中にいる時に山陽出奔したため、藩法により生まれてすぐ母は離縁され生家戻され以降祖父母にあたる頼春水夫婦の子どもとして育てられる春水嫡子山陽出奔したため廃嫡されたことにより、養嗣として春水の弟である頼春風の子頼元鼎(景譲)を迎えていた。山陽自身捕らえられ連れ戻され春水屋敷離れ(現頼山陽史跡資料館頼山陽居室)に幽閉され文化2年1805年謹慎解かれたのち、文化8年1811年京都拠点としている。聿庵は春水屋敷育てられ幼き頃より春水や景譲、そして春水春風の弟にあたる頼杏坪から薫陶を受ける文化12年1815年)景譲が病死、そのため聿庵が春水嫡子となった文化13年1816年)、聿庵16歳時に春水死去広島頼家家督を継ぐ。藩命により後見人春風着き以降聿庵は主に坪から学ぶことになる。文政元年1818年)、藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)に出仕頼家祖父春水から代々藩儒勤めており、聿庵もこれを引き継ぐことになる。 天保2年1831年5月、聿庵31歳時に江戸詰となる。江戸に向かう最中京都で父・山陽対面果たした天保3年1832年広島藩奥詰次席同年9月、父・山陽死去天保4年1833年江戸詰の聿庵は藩主浅野斉粛山陽著書日本外史』を献上する江戸詰天保4年まで。また藩主斉粛の嫡子である浅野慶熾侍講となる。 広島に戻ると、春水倣い家塾天日堂」を起こす天保12年1841年広島藩奥詰。また山陽死去により生活が苦しくなった腹違いの弟(いわゆる京都頼家)の頼支峰頼三樹三郎面倒を見ている。ただ山陽死去後、聿庵は度々酒に溺れるようになっていき、親友坂井虎山窘められるなど周囲が心配するほどとなった嘉永2年1849年2月藩主斉粛の前で、藩の重臣今中大学罵倒したことにより謹慎処分を受け、嘉永3年1850年3月聿庵48歳時に隠居家督嗣子頼誠軒譲った安政3年1856年病気により死去享年56墓所広島市南区比治山にある多聞院著作に「聿庵詩稿」など。

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狩野栄信」の記事における「略伝」の解説

狩野養川院惟信の子として江戸生まれる。天明5年1785年11歳奥絵師として勤め始め享和2年1802年)に法眼叙す文化5年1808年)父惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作棟梁となり、自身も2双制作する文化13年1816年)に法印となる。茶道能くし、松平不昧恩顧受けたといわれる息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子押し付ける調子のよい一面記されている。 こうした一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品秀作力作が多い。中国名画の場面幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題作る手法確立清代絵画学んで遠近法をも取り入れて爽快奥行きある画面空間作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画再興や、長崎派南蘋派影響思わせる極彩色着色画、大和絵細密濃彩画法積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言える弟子菊田伊洲菊田伊徳など。

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フィオーレのヨアキム」の記事における「略伝」の解説

チェーリコ富裕な公証人家庭生まれる。コゼンツァにある学校通い、その市の司法仕事に就く。放縦な生活をおくった後、回心して聖地エルサレムへと巡礼し、ギリシアビザンティウム旅行してからイタリア帰国する南部イタリアルッツィにあるサンブチーナ修道院(Sambucina)に数年間を過ごしレンデコゼンツァ中心に伝導始めたカタンザーロに近いコルタレ(Cortale)のシトー会加入し修道士として誓約する。コルタレの修道院長選ばれたが、数年後孤独欲して1181年職務解かれるようルキウス3世願い許される。 ふたたび放浪の旅出てロンバルディアをへて1186年ヴェローナ達し、そこでウルバヌス3世謁見賜る。そこから南イタリア帰るヨアキム周囲に、聖書不明瞭な箇所について訪ねてくる弟子たちが集まるようになる1191年イギリス国王リチャード1世は、聖地イェルサレム赴く途中メッシーナヨアキム会見しヨアキム自分サラセン人アンチ・キリスト主要な手先考えていることを告げリチャードサラディンを倒すことは疑いなしと保証した伝えられる1195年頃、彼は弟子たち連れてコゼンツァ東方シラ山(La Sila)へ行き修道院建ててフィオーレ」(Fiore)と呼ぶ。その修道院で死ぬまで瞑想著述に従う。

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楊継盛」の記事における「略伝」の解説

保定府容城県出身嘉靖26年1547年)に進士挙げられる貧しい生活のなか天文地理兵学などの学問励み音楽にも長じた兵部員外郎時にアルタン・ハーン侵入にさいし、平大将軍咸寧侯仇弱腰痛撃して罪を得た。のち刑部員外郎・兵部武選司に復活したがふたたび大学士厳嵩専権として十罪五奸を暴き、棄死(死罪にされ晒し者)にされる。天下の人はみな涕泣したという。子に10年経った開けてむようにと2首の詩を授けたのに、「浩気還太虚丹心千古生前未了時、事留与後人」「天王聖明制度高千古、生平報恩、留作忠魂補」とある。死後7年目にして、隆慶帝直諫の功をもって太常寺少卿を追贈した。後の人はその品行重んじて、『楊忠愍集』3巻を編した。 典拠管理 FAST: 365439 GND: 138618437 ISNI: 0000 0000 8153 256X LCCN: nr95042149 NTA: 192659804 Trove: 1426412 VIAF: 73748594 WorldCat Identities: lccn-nr95042149

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心定」の記事における「略伝」の解説

建保3年越前国生まれたとされる。しかし、生地仏門に入るまでの来歴等一切わかっていない。ただし、応永年間成立とされる白山豊原寺縁起』には建長元年1249年)の記事として「密宗碩徳本寺本山に於てその誉れ隠れなく、事相教相達者これ在り」として誓願上人実名心定)の名が挙げられている。また当人文永5年1268年)に著した受法用心集』によれば小僧少年の昔より老後の今にいたるまで密教功労をいたす事万里嶮難をこえ、千尋蒼海をわたるが如し」と、幼少の頃より密教修学励んだことが強調されている。以下はそのあらましである。 18歳21歳徳大徳に随て諸の天等の法を受る事二十八尊、其の内吒天・毘沙門十二神・天形星、已上四尊は殊に秘訣を伝へ、大小口伝集六十四帖をうつし取り畢りぬ。 21歳嘉禎元年1235年)の比、英豪阿闍梨に付て十八道を受け、乃至許可灌頂の受職を得。 25歳延応元年1239年)の夏の比、越中国細野の阿聖阿闍梨秘密瑜祇等流法身三種灌頂を受け、立川一流秘書悉く書きつくし了ぬ。 28歳仁治三年1242年)に道源大徳に随て中院一流伝法成さしめ、又別流の瑜祇三重灌頂受けて事相教相の秘旨を聴聞す。 36歳建長二年(1250年)の夏の比、越前国赤坂新善光寺の弘阿弥陀仏と云ふ僧来る。しばらく宿住し日々所々巡礼せし事、又知識親近して修行作法見しありさま数日間談ぜし次に菩提心論の談議を求請しき。之れに依て4、5日を経、勝義行願の大旨授け畢りて後、件の僧出にき。其の後、又事の便り有り彼の新善光寺に詣し時、弘阿弥陀仏の奄室に召請再三に及びしかば彼の室に望み見れば経机の上大なる袋を置けり。弘阿弥陀仏是れを開き巻物取り出せり。其の数殆ど百余巻なり。是れを開き見れば大旨越中国流布する処の立川折紙どもなり。此の中彼の三部経口伝7、8巻交れり。初めて是れを見るに珍らしく此の巻物借用して住所に帰てうつしをはりぬ。 37歳建長三年1251年)、生年37歳にして上洛せし時、五条坊門地蔵堂にして彼の法の行者遇ひ経書をうつし、秘伝書きとる。 39歳建長五年(1253年)の春、高野山の玄覚阿に随て教相秘書等を伝へ、正智院一流の口决随分隔心なく授かり了りぬ。 41歳建長七年1255年)、醍醐金剛王院大僧正実賢と聞へし人の付法弟子随一賀茂空観上人門葉に入つて先づ真言一宗教相大義をうかがひ学し、並に十八道・両界護摩等を修行する事7か年なり。 47歳弘長元年1261年)の春の比、遂に入壇の素懐をとげ、其の大法秘法一百余尊を授かり瑜祇理趣の秘口秘伝をうかがひ、結句内作灌頂をさづかり畢ぬ。首尾総じて14か年功労なり。 54歳文永五年(1268年)、今此の上人は6人の智者に随つて九流付法をうけたり。醍醐の三流の中の三宝院金剛王院流光明山一流此の三流金剛王院大僧正実賢に受け、融源阿閣慶円上人二流は宝筐上人に受け、勧修寺の流は顕良伯耆阿闍梨に受け、壷坂の流をば三輪の禅仁上人に受け、尊念僧都の流をば高野道範阿闍梨に受け、又道上人に遇て小野の大事を面授口决せり。また清水唯心上人付法にあひて広沢保寿院の流を尋ね聞き、又花蔵院尊勝院の流、又真乗院の房円僧正、隆澄僧正流々につき総て当世明徳と聞ゆる人ごとに随分へめぐりてうかがひ尋ぬる。初め18歳より今54歳にいたるまで総て37年が間、密教修学に心をつからして1日空しき日なし。 また『白山豊原寺縁起によれば文永5年頃、「天気」(「天皇思し召し」の意。当時天皇は第90亀山天皇)により豊原寺下向し、越前国内の邪法の者については血脈絶ち印信破棄加賀越中両国の者については5人の弟子をしてことごとく論断せしめたことが記されている。おそらくはそうした中、『受法用心集』が著されたものと思われる同書では自らの修学経緯記した上でその中で二度立川流にも言及している)、当時蔓延っていた名称不明密教一派掲げ髑髏本尊儀礼など性的儀礼を含む教義を「況や又女犯肉食を本とし、汚穢不浄行ずる事、曽て内法にも外法も本なき事なり」として「内法にも非ず外法にも非ず。只徒に奈利業報なり。尤も是れをあはれむべし」と断じている。ところが、これが思いがけない結果もたらすことになる。『受法用心集』の高山寺写本でこの件に付言した『破邪顕正集』(おそらく正和2年1313年以前)は、『受法用心集』に記された「此の法」が、仁寛(=蓮念)を祖とした法流、すなわち立川流淵源すると述べ、それを敷延した宥快『宝鏡鈔』(天授元年/永和元年1375年))は、立川流髑髏本尊祀る邪道法流であると同定した。さらには後醍醐天皇側近学僧文観弘真邪道法流結び付けられるようになったこうした言説は、長く認められてきたが、2000年代入ってドイツ日本学者シュテファン・ケック(Stefan Köck)らによって本格的な史料批判始まり真言宗法流一つである立川流「彼の法」集団髑髏本尊儀礼とする宗教者たち)、それに文観派の三者互いにおそらくほとんど関係がないものであるという見解出されるようになっている詳細は「「彼の法」集団#歴史参照)。 なお、25歳当時立川流修学経験根拠心定立川流の僧とする見方があるものの、『白山豊原寺縁起によれば心定醍醐寺金剛王院実賢より相伝された醍醐三流の内、殊に三宝院流と金剛王院流の二流究め最終的に三宝院流を以て一山不朽」とし嫡流師資相承することに決している。従って、三宝院流の僧とするのが適当と思われる

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慈光院 (島津重豪側室)」の記事における「略伝」の解説

お登勢の方の父・市田貞行足軽であったが(近江国出身浪人とする説もある)、娘のお登勢が重豪の側室となると城下士に取り立てられ、弟の市田盛常江戸薩摩藩邸の定府奥掛家老取り立てられる安永2年1773年)に於篤(後の徳川家斉御台所・茂姫)を鹿児島城出産する。この出産前年安永元年1772年)に亡くなった浄岸院島津継豊正室竹姫)が「もし生まれた子が女児であるなら徳川家嫁がせるように」と遺言していたともいわれ、夫・重豪は、安永3年3月1日1774年4月11日)於篤を薩摩から呼び寄せ安永5年8月22日1776年10月4日)には一橋徳川家嫡男・豊千代(後の徳川家斉)と於篤の婚約成立する。この縁故により於篤の母であるお登勢の方には私領1600石と「御内証様」の称号与えられ、他の側室より突出した地位についた。更に天明3年5月には「準御前様」、寛政元年8月6日には「御部屋様」と改称した島津家中の側室が特別の呼び名呼ばれ、他の側室区別されるようになったのはお登勢の方初めてである。 なお、於篤が江戸入りしたころにお登勢の方江戸入りしたもの思われ、於厚と牧姫は江戸で出産している。一方世子・斉宣の生母であるお千万の方は安永5年1月22日1776年3月11日)に江戸から鹿児島城本丸御殿転居させられていた。 更に、中津藩奥平昌高鈴木藤次の娘を生母とするが、お登勢の方実母として公表された。ちなみにお登勢の方先述の茂姫始め4人もの子女を重豪との間に儲けたものの、その中に男子はいなかった。 次第薩摩藩政は、将軍正室外戚威光を傘にきたお登勢の方市田盛常兄弟市田一族らによって私物化され、他の薩摩藩家臣市田一族に対して恨みを持つようになった。これが後の近思録崩れ一原因となるのであるお登勢の方享和元年1801年死去法名慈光院殿佛心慧證大姉」、墓所江戸大円寺、後に鹿児島浄光明寺(現在廃寺)に改葬されとされるお登勢の方死去後島津斉宣家臣らによって、市田盛常一所持格・家老罷免、盛常の嫡男市田宜も小姓組頭免職となり、盛常を始めとする市田一族すべてを薩摩藩政から追放したが、斉宣失脚後に義宜は勘定奉行取り立てられ復権している。

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森五郎兵衞 (初代)」の記事における「略伝」の解説

森五郎兵衛は、八幡新町(現滋賀県近江八幡市新町)に生まれたとされる同地豪商伴伝兵衛家に奉公入り五郎兵衛性質温厚忠実陰日向無く仕事勤しんだと伝わっている。五郎兵衛中年になり奉公年季満ちた時、主家の主である伴伝兵衛自らが五郎兵衛奉公中の忠勤事細か記した褒賞状を作り資金と共に五郎手渡し別家立て独立することを許した独立した後も主家報恩忘れず五郎兵衛は、主家より渡され褒賞状を何より宝物とし、主人であった伴伝兵衛亡くなった後、伝兵衛位牌自家の仏壇中央据え毎朝位牌への合掌を欠かさなかったと伝えられている。 五郎兵衛独立した後、煙草商として江戸から関東一円行商したところ、五郎兵衛商才顧客利益第一にする態度誠実な人柄からすぐに顧客信頼を得ることができ、数年で利を重ねることができた。その後江戸出店設け近江麻布関東地方呉服扱った着実な仕事ぶり顧客集め次第販路広がり大発展を遂げていった。五郎兵衛の店の奉公人達も一生懸命に働いていたが、これも五郎兵衛がそうであったように、真面目に働いた奉公人には年季満ちた際に必ず独立することを許し資金相応渡していたことによる当時五郎兵衛伴伝兵衛のような商人ばかりでなく、猾商と呼ばれる狡猾な商人多くいた。別家わずかな資金をも惜しみ年季近い番頭に人を使って遊び教え、金を使いませたり女性との間にもめごとをつくる等し首にするような商人多くいただけに、五郎兵衛の店は奉公人にとり働きがいがある商家であった五郎兵衛この様な話を聞くたびに「猾商は商界罪人だけではなく世間罪人だ。奉公人は店の宝、主人の手足であり、猾商は自らの手足を切断しているようなものだ」と憤っていたことが伝えられている。 元禄16年2月17日1703年4月2日)、五郎兵衛亡くなった生前五郎兵衛は弟和助分家する際、伴伝兵衛頼み一旦和助奉公出し奉公人としての立場経験させた後に分家させたとされ、奉公人第一とする森五郎兵衛家の考えがわかる逸話と言える五郎兵衛亡くなった後も、後継者はよく遺志継ぎ代々森五郎兵衛称し屋号近江屋三左衛門、また『扇叶』と称して八幡御三家一つ数えられる至った

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デイヴィッド・ギャリック」の記事における「略伝」の解説

イングランド西部ヘレフォードのワイドマーシュ通りにある宿屋Angel Inn)に生まれる。先祖は南フランス・ラングドック地方ユグノーだったが、祖父の代になってナントの勅令廃止抵抗しイギリス移住する。父は陸軍船長として一年のほとんどはジブラルタル駐在していたので、子供時代デイヴィッド兄弟姉妹は母の実家があるリッチフィールド住んでいた。19歳時にリッチフィールド・グラマースクールに学んでいたデイヴィッドサミュエル・ジョンソン設立したエディアル・ホール・スクール(Edial Hall School)に入学した。この学校閉鎖され1737年ジョンソンとともにロンドンへ向かい、弟と共同リッチフィールドロンドンを結ぶワイン商を始めた1740年ドルリー・レーン王立劇場諷刺劇「レーテー Lethe」「日陰イソップ Aesop in the Shade」に初め出演し、その年のうちにグッドマンズ・フィールド劇場(Goodman's Fields Theatre)の一員として働き始めた。たちまち俳優として頭角あらわし1746年から1776年までドルリー・レーン王立劇場支配人務めるまでになる。シェークスピア悲劇登場人物演じさせる当代一とうたわれ、その名声ヨーロッパ広まり、特にドイツでは1770年代後半に「ギャリック旋風」とでもいえる現象引き起こした

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村田了阿」の記事における「略伝」の解説

煙草商の次男として江戸生まれ下谷坂本浅草金藏寺住んだ国学清原雄風に、書を沢田東江に学ぶ。和歌俳諧狂歌狂詩画を能くし、博学多識北静盧狩谷棭斎市野迷庵とも並び称された。行年72没した戒名顕徳院了阿居士下谷区金杉町西蔵院に墓がある。 その手記の中に書賈本屋)への不信漏らしており、「ともすれば人を欺く故、ものを任せられない」といい、例として「大部の書には目録付録など必ず別巻があるものだが、書賈本文だけを分けて置いて、その別巻売りに出す」と商売根性憎んでいる。

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頼梅颸」の記事における「略伝」の解説

大坂儒学者飯岡義斎・妻の来島氏次女として生まれる。義斎夫妻六子もうけたが四子は早世し、次女静子颸)で三女直子梅月)、後に颸は春水の妻となり梅月尾藤二洲の妻となる。 義斎は娘2人教育を施す。静子早くから文章和歌才能長け和歌京都小沢蘆庵師事する和歌菅沼斐雄国文香川景樹指導受けたとも。 安政8年1779年20歳の時、中井竹山仲人当時大阪家塾開いていた春水結婚颸(静子)の代表作である『遊洛記』は安政9年1780年)に出来たもので、春水の父つまり舅の頼惟清(亨翁)と春水とで京都遊んだ時の紀行である。同年長男山陽生む天明元年1781年春水広島藩7代藩主浅野重晟藩儒として招聘されたため、一家移り住むことになる。天明3年1783年春水江戸勤番となったため、広島頼家家事一手に引き受けることになり、その間歌道にも励んだ広島で居についた翌日である天明5年5月13日1785年6月19日)から後に『日記』と呼ばれる日記をつけ始める。この日記春水江戸勤番となったため留守中の頼家家事育児知らせ目的つけられたものがその後続き旅行の際には紀行文和歌添えられ生涯59年間に渡って綴られている。春水による日記春水日記と共に後に山陽研究のみならず当時風俗儒者研究などに用いられる貴重な資料となっている。 寛政元年1789年)藩よりの木小路武家屋敷(現頼山陽史跡資料館)を拝領し定住する寛政12年1800年山陽出奔春水の弟である頼杏坪捕まり連れ戻され離れ幽閉された。これに静子憂愁の歌を残すなど深く心を傷め幽閉中には時に励まし時に叱咤愛情注いだ山陽はのち謹慎解かれ在野学者として京都拠点活動することになるが、これ以降母・静子への慈愛が特に顕著となっていく。 山陽廃嫡となり、頼家嫡子は養嗣として春水の弟である頼春風の子・頼景譲(元鼎)を迎えた。また藩法により山陽夫婦離縁となったため、その子つまり静子の孫にあたる頼聿庵育てることにもなった。文化12年1815年)景譲が病死、そのため聿庵が頼家嫡子となった文化13年1816年2月、病に倒れていた春水自分なき後の隠居名にと「颸」の号を静子に残す。静子はこれを守り以降颸を用いている。この1週間後春水死去57歳の時であった颸は生涯子女教育捧げた山陽は『日本外史』で評価されることになるが、この成功颸の教育賜物とされている。山陽の他には二男一女もうけた次男三男早世し、長女が頼三穂(お十)でのち広島藩進藤吉之助へ嫁いでいる。また広島頼家嫡子となった孫の聿庵、ひ孫の誠軒、養嗣の景譲、その子どもである達堂の教育にも尽力した。なお聿庵・誠軒は広島頼家家督継ぎ広島藩儒となり学問所(現修道中学校・修道高等学校教授となり、達堂は景譲が死去し広島頼家家督を聿庵が継ぐことになった際に独立し大阪堺で売薬業始めのち堺師範教授となった天保3年1832年)、息子山陽先立たれる73歳の時であった天保14年1844年死去享年84墓所広島市南区比治山にある多聞院春水の隣に並んであり、墓標は聿庵の筆による。

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祥子内親王」の記事における「略伝」の解説

鎌倉時代末期後醍醐天皇側室阿野廉子皇女として生まれる。その生年について日本文学研究者安西保子は、正和5年1316年)から元応元年1319年)ごろと推測する。なぜなら、『新葉和歌集神祇によれば斎宮野宮時代元弘3年1333年) - 建武3年1336年))に百首歌伊勢神宮奉納しており、それだけ和歌力量があるならば、元弘3年1333年時点数え15歳には達していたと考えるのが自然だからである。その一方で日本文学研究者所京子は、元亨2年1322年前後とする。廉子主君である西園寺禧子に従って中宮内侍として入ったのが文保2年1318年)から元応元年1319年)ごろであり、同母弟である恒良親王誕生年も考えると、この辺りが妥当ではないか、とする。 元弘3年11月1333年12月)、父後醍醐天皇斎宮卜定前述した通りこのころ、夢でお告げがあったとされ、伊勢神宮百首歌奉納した(『新葉和歌集神祇)。 しかし、延元元年/建武3年同じく1336年)、建武の乱により建武の新政崩壊し伊勢群行することなく野宮退下し、史上最後斎宮となった。ここに大来皇女より約660年一説には豊鍬入姫命より約1,400年続いた斎宮終わりを告げた父帝吉野行宮南朝開いた後も、吉野には同行しなかったと見られる(『新葉和歌集』春上および雑上)。 正平7年/文和元年1352年2月10日余りに吉野に赴き、後醍醐天皇塔尾陵に参拝した時期不明だが、あるとき落飾して、保安寺という寺に住んだ(『新葉和歌集釈教)。『続史愚抄』では、異母姉で先代斎宮懽子内親王保安寺住んだと言われているので、晩年斎宮姉妹寄り添って暮らしたとも考えられるが、『続史愚抄自体近世資料なので確実なところは不明また、保安寺という寺も、当時京都のものと河内国大阪府)のものがあったというので、そこもはっきりとしない北朝光明上皇は、正平10年/文和4年1355年)ごろに保安寺訪れたというが(『本朝皇胤紹運録』)、姉妹関係するものだった可能性はある。 生地没年等、詳細な情報不明である。『新葉和歌集』雑上「程もなき(略)」は弟の後村上崩御悼んだ歌の可能性もあり、そうであれば正平23年/応安元年1368年3月11日までは生存したことになるが、それも確定的ではない。 歌を能く詠み、『新千載和歌集』に1首、『新葉和歌集』に16首、祥子内親王詠歌残っている。安西評価によれば、忍恋を詠んだ恋歌3首は観念的すぎて面白みがなく、実際恋愛経験無かったではないかという。しかしその一方で、他の歌については、最後斎宮としての矜持保ち動乱という世の濁りしっかりと見据える姿勢には、崇高さと清浄さ感じられるという。 野宮ののみや)より退下の後、見て忘れめや 神の斎垣榊葉木綿(ゆふ)かけそへし あけぼの大意忘れることなどありましょうかその昔賀茂神社斎院だった式子内親王神社でのことを「忘れめや」と詠んだように、私もまた忘れことはなでしょう、神の斎垣榊葉白木綿しらゆう)をかけたあの日のことを――そして、その神々しい白木綿にも似て汚れ一つなく真っ白なこの雪の曙のことを) —祥子内親王、『新葉和歌集神祇・574

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相阿弥」の記事における「略伝」の解説

祖父・父に引き続いて足利将軍家同朋衆として仕え唐物奉行務めた阿弥派絵画大成書院飾り完成書画管理鑑定造園、香、連歌茶道など多方面活躍した狩野正信に対して画題画本選択や画事の相談行なったりもしている。更に正信の子狩野元信は、墨の調子相阿弥に学ぶべきだと忠告されたとの話もある。 画家としては三条西実隆実隆公記』や景徐周麟翰林葫蘆集』でその活躍記され、「国工相阿」と称されている。また『翰林葫蘆集』には相阿弥描いた書斎図に題して、「(原叔首座が)国工相阿に絵んこを請い且つ又予に就て賛詞求む」とある。一般に五山文学において、絵師に画を求め時の常套的な表現は「工に命じて」描かせるというもので、絵師の名さえ記されないのが通例である。それに比べ、ここでの「我が国名画相阿弥頼んで描いて貰った」という表現は、非常に丁寧であり、相阿弥画技一般職業画工より高いランク与えられていたことがわかる。弟子に単庵智伝がいる。 鑑定家としての側面を見ると、『蔭涼軒日録』には相阿弥唐物値付けをしている記述頻出する応仁の乱以降東山御物名品市場流出し、堺の豪商町衆たちの手に渡るといった流行起きており、相阿弥こうした時流直接関わっていった想定できる永正8年1511年)には150人ほどの中国画列伝座敷飾り図入り解説香合茶碗などの唐物説明から成り立つ『君台観左右帳記』、大永3年1523年)には座敷飾り方式をまとめた『御飾記』を著した大永5年1525年10月27日死去享年70前後とされる

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盧照鄰」の記事における「略伝」の解説

范陽郡涿県出身幼少より曹憲・王義方に従って経史小学学び詩文巧みであった初めは鄧王府文書の処理係である典籤となり、鄧王(唐の高祖の子李元裕)に重用された。のち新都県尉となったが病のために職を辞し陽翟山(現在の河南省許昌市禹州市)の山麓移住した。病が重くなって、ついに潁河身を投じて死んだ。 その詩は厭世的悲しみいたむ作が多い。長安繁栄のさまを詠じた長安古意」が最もよく知られ、『唐詩選』にも収められている。著に『盧升之集』7巻と『幽憂子』3巻がある。 長安古意 長安大道狹斜 長安大道狹斜連なる 青牛白馬香車 青牛 白馬香車 玉輦縱橫過主第 玉輦縱橫 主第に過(よぎ)り 金鞭絡繹向侯家 金鞭絡繹(らくれき)として侯家に向かう 龍銜寶蓋朝日 龍は寶蓋を銜(ふく)んで朝日承け 流蘇晩霞 流蘇吐いて晩霞帶ぶ 百丈游絲爭繞 百丈の游絲 爭うてを繞り 一群共啼花 一群の嬌 共に花に啼く千門側 遊 千門の側ら銀台種色 碧銀台種の色 複道交窗作合複道交窗 合歡をなす 雙闕連甍垂鳳翼 雙闕連甍 鳳翼垂る 家畫閣天中起 家の畫閣 天中に起こり 漢帝金雲外直 漢帝の金 雲外直し 前相望不相知 前に望んで相知らず 陌上相逢詎相識 陌上に相逢うてなんぞ相識らん 借問吹簫向紫煙 借問す 簫を吹いて紫煙に向かう 曾經學舞度芳年 曾て經て舞を學んで芳年を度(わた)る 得成比目何辭死 比目と成るを得ば何ぞ死を辭せん 願作鴛鴦不羨仙 願わくは鴛鴦とならん仙を羨まず 比目鴛鴦真可比目鴛鴦 真に羨むべし 雙去雙來君不見 雙去雙來 君見えず 生憎帳額繍孤 生憎や帳額 孤を繍す 好取開簾帖雙燕 好取す 簾を開いて雙燕を帖するを 雙燕雙飛繞畫燕雙飛を繞る 羅幃翠被鬱金香 羅幃翠被 鬱金香 片片行雲蟬鬢 片片たる行雲 蟬鬢に著き 纖纖初月纖纖たる初月 黄に上る 黄粉車中黄粉車中より出づ 含嬌含態情非一 嬌を含み態を含んで情は一つにあらず 妖童寶馬連錢 妖童の寶馬 連錢 娼婦盤龍屈膝 娼婦盤龍屈膝 御史府中烏夜御史府中 烏夜啼き 廷尉門前雀欲棲 廷尉門前 雀は棲(すくわ)んと欲す 隱隱城臨玉道 隱隱たる城 玉道に臨み 遙遙翠幰没金堤 遙遙たる翠幰(すいけん金堤没す 挾彈飛鷹杜陵北 彈を挾みを飛ばす杜陵の北 探丸借客渭橋西 丸を探り客に借す渭の西 倶邀俠客芙蓉倶に邀う俠客芙蓉の劍 共宿娼家桃李蹊 共に宿す娼家桃李の蹊 娼家日暮羅裙 娼家日暮 紫羅の裙 清歌一囀口氛氳 清歌一たび囀じて口氛氳 北堂夜夜如月 北堂夜夜 人月如く 南陌朝朝騎似雲 南陌朝朝騎似たり 南陌北堂北里 南陌北堂 北里連なる 五劇三條三市 五劇三條 三市を控(ひ)く 弱柳青拂地垂 弱柳青 地を拂って垂れ 佳氣紅塵暗天起 佳氣紅塵 天を暗うして起る 漢代金吾千騎來 漢代金吾 千騎來る 翡翠屠蘇鸚鵡翡翠屠蘇 鸚鵡の杯 羅襦寶帶為君解 羅襦寶帶 君が為に解き 燕歌趙舞為君開 燕歌趙舞 君が為に開く 別有豪華將相 別に豪華將相稱する有り日回天不相讓 日を轉じ天を回らして相讓らず 意氣由來排灌夫 意氣由來 灌夫を排し 專權不容專權判して相を容れず 專權意氣豪雄 專權意氣 もと豪雄 青虯紫燕坐生風 青虯紫燕 坐(いなが)ら風を生ず 自言歌舞千載 自ら言う歌舞千載長ずと 自謂驕奢五公 自ら謂う驕奢五公凌ぐ節物風光相待 節物風光 相待たず 桑田碧海須臾桑田碧海 須臾に改まる 昔時金階白玉堂 昔時 金階白玉堂 只今唯見青松只今唯見る青松在る寂寂寥寥揚子寂寂寥寥 揚子の居 年年歳歳一床書 年年歳歳 一床の書 獨有南桂花獨り南山桂花の發(ひら)く有り 飛來飛去襲人飛び來り飛び去り人の裾を襲う

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駱賓王」の記事における「略伝」の解説

婺州義烏県現在の浙江省金華市義烏市)の出身初めから落魄らくはく)し、好んで博徒交わり性格傲慢剛直高宗弘道元年683年)に長安主簿となり、ついで武后統治時に数々の上疏をしたが臨海郡の丞に左遷される。出世望み失い官職棄てて去った684年に徐敬業(中国語版)が兵を起こすと、その府属となり敬業のために檄文起草し武后誹謗、その罪を天下伝えた武后はその手に入れて読ませ「蛾眉敢えて人に譲らず 孤眉偏に能く主を惑わす」のあたりでは笑っていたが「一抔土未乾、六尺孤安在」の句にいたり愕然としてその作者の名を問い駱賓王であることを知ると「このような才ある者を流落不遇にしたのは宰相過ちである」と言ったという。 敬業の乱が平定された後は、亡命し行方知れなくなった。また銭塘霊隠寺住んでいたという伝説もあり、霊隠寺題する詩もある。

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略伝

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懐素」の記事における「略伝」の解説

幼くして仏門入りその後長安に移る。修行の暇に好んで書を学んだが、貧乏だったので芭蕉をたくさん植えてそのを紙の代わりにし、それが尽きると大皿や板を代用し磨り減るまで手習いした。また、禿筆が山をなしたので筆塚作って供養したという。 その書名は若い時から知られたようで、当時社交界名士から多くの詩を寄せられており、『書苑菁』などにかなり収録されている。大暦12年777年)、洛陽にのぼり、そこで顔真卿会い、盧象・張謂などが懐素のために作った詩『懐素上人草書歌』を示して真卿に序を求め、真卿は『懐素上人草書歌序』を書いたという。懐素名声実力のほどを伺わせる一件である。 彼は従弟の鄔彤(おとう)や顔真卿から張旭の書を授けられ、さらに風まかせ変化する夏の雲の姿を見て極まりない形の変化やその自然な布置から悟入したと伝えられる。特に草書優れ、その作風狂草呼ばれる草書なかでも奔放な書体を得意としているが、法を逸脱したものではなくその実王羲之書法基盤にしている。彼は酒を愛し酔い任せて壁や垣根などに辺り構わず草書書き散らしたので、世に狂僧と呼ばれた。その行動も草法も張旭に学ぶものであり、張旭合わせて張顛素狂(ちょうてんそきょう、顛張酔素・顛張狂素とも)と並称された。 懐素後世に与えた影響大きく、唐末から五代にかけて僧侶草書よくするものを生み、文人率意の書の規範となったまた、日本においては良寛好んで習ったといわれている。

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略伝

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アギス4世」の記事における「略伝」の解説

エウリュポン家の出身である。紀元前244年即位スパルタは本来、ふたつの王家長老会政権運営していたが、当時一部貴族の手によって政権運営され貴族層は奢侈に流れ国民貧窮に喘いでいた。アギスは、初期リュクルゴス制度目指し債務免除実施。しかし、土地再分配遅れたので、市民反感を招く。紀元前241年レオニダス2世クーデターによって処刑される

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康子内親王」の記事における「略伝」の解説

母の穏子が35歳時の子で、長兄とは16歳違いであり、皇太子の妹として厚遇を受け、承平3年933年)の裳着の際には小野道風作の屏風献じられ、源公忠により捧げられ和歌知られている。しかしその後結婚話などはなく、母の居所である弘徽殿昭陽舎梨壺)で生活を送っていた。35歳の時、准三后に任ぜられる。 ところが、同年藤原師輔結婚天皇同母姉である皇女臣下結婚したのは前代未聞事態で、世間驚かせた。実は、母・穏子が没する身辺寂しくなったらしく、同年に妻・雅子内親王亡くしたばかりの師輔と正式の婚儀を経る前に懇ろになってしまったのが事実のようで、『大鏡』では弟・村上天皇面前藤原実頼その節操の無さ暴露された話が紹介されている。 天暦9年955年)、36歳高齢で師輔の十一男(後に出家し、深覚となる)を出産続いて懐妊するが、この時は体調がひどく悪かったようで「まろは悪き心地するなむ」と夫に常々話していたと言うことが『栄花物語』で紹介されている。この予感不幸に的中し天暦10年956年)に師輔の十二男を産んだ後、産褥のために薨去した。遺児となった十二男は母の実家である宮中引き取られ異母姉の皇后藤原安子の元で成長することになる。彼が後の藤原公季である。 康子内親王遺骸桂川河原にて荼毘にふされたことは分かっているが、墓所がどこに築かれたかは記録無く不詳である。

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西山芳園」の記事における「略伝」の解説

大坂元町周辺で、有力木綿問屋二人兄弟次男として生まれる。しかし、家が破産したため三井呉服商か糸店で丁稚奉公にあがる。そこで絵を描いていると、番頭からその道薦められ中村芳中弟子入りする。芳中は自分より良い師をつければ大成する考え京都大家松村景文に自ら紹介労を取る。芳園はこの恩を忘れないようにするため、芳中から1字を貰い芳園と号す。ただ、画風に芳中の影響は全くと言っていいほど見られない。しかし、景文についたのは僅かな間、かつ月に1度通い弟子で、更に実際に指導したのは兄弟子横山清暉だったともされるその後大坂活躍清和温順幽雅軽淡な筆致人気集めた。非常な健筆で、半切2,3日課のように描き潤筆料はわずか金1分だったという。絹本よりも紙本作品多く渇筆用いた上品さに独特の風合いがあり、渇筆良さが出やすい紙本のほうに傑作が多いとされる晩年浮世小路住んだ慶応3年1867年)没、享年64戒名は芳園仁觀義察信士墓所大阪市北区東寺町(現与力町)の善導寺弟子息子西山完瑛其翠、久保田桃水逸見、五渡亭国升など。

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森口華弘」の記事における「略伝」の解説

森口華弘は、明治42年1909年12月10日滋賀県野洲郡守山町字岡(現滋賀県守山市岡町)の森口周治郎・とめ夫妻の子として生まれ平七郎と名付けられた。森口家農業米屋営み弘は5人兄弟3番目3男で偏食病弱小柄で大変大人しく誰彼構わず喧嘩をするガキ大将ですら平七郎とは一度喧嘩をしなかったと伝えられる12歳小学校卒業すると、遠縁が営む京都薬店奉公に出、夜は薬剤師目指し薬学校夜学部に通ったが、制度変更から薬剤師になるためには専門学校卒業義務付けられ金銭的にとりがなく専門学校進学できない平七郎は薬剤師になることを断念せざるを得なかった。 この頃、たまたま店頭貼ってあった平七郎の絵に型絵友禅図案作る職人興味持ち彼に染色をやってみないかと誘った以前から絵を描くことが好きであった平七郎は、これを契機に一旦実家戻り薬店辞め染色行いたいことを父に申し出た最初反対していた父も、母の従兄坂田三郎助言から漸く同意し大正13年1924年10月10日数え16歳の時、坂田に連れられ京友禅3代目中川邨の門を叩き住み込み弟子となった当時16歳での弟子入り遅かったが、「好きこそ物の上手なれ」との言葉通り平七郎は精励し師匠である邨の好意疋田芳沼のもとへ週一回通い日本画を学ぶことまで許されるようになった夜寝時間惜しみ師匠図柄手本を写すなど修行励み20歳の頃睡眠不足から神経衰弱となり徴兵検査不合格となったところ、徴兵検査官から「兵隊になるばかりが男子勤めではない、染色やり通すことも国への立派な奉公だ」と励まされた。その頃、母の従兄から染色としての雅号弘(邨派を広めるとの意味)」が贈られ25歳になってから使うようにと言われた。 昭和11年1936年1月8日知惠結婚し昭和14年1939年1月京都市中京区小路工房構え独立した結婚後、師匠である邨より独立3年待てと言われ29歳と遅い独立となったが、出入り業者であった安田商店弘とも仕事をしたいとの申し出があり、本来師匠筋の顧客とは仕事をしないとの不文律があったが特に師匠許しもあり、友禅扱い大手である安田商店仕事引き受けようになった弟子を持つようになり、昭和16年1941年安田商店設立した友禅工芸会社取締役技術部長を兼ね昭和17年1942年第1回個展呉服問屋として大手市田東京店開催した昭和20年1945年終戦後進駐軍相手ネッカチーフ手染めしたもの売り暮らし支えたその後問屋から注文請け染色を行うのではなく独立した友禅作家として活動することを市田相談の上決め昭和24年1949年市田選会に参加し友禅作家として初の新作発表行った弘は昭和14年1939年独立した頃、東京の上野の帝室博物館で偶然衣裳一部蒔糊技法用いているのを発見し、これを砂子のように全面に施す発想を得、苦心して森口流の蒔糊技法創案した。多彩友禅をあえて淡色濃淡だけで表し、また桂離宮竹垣修学院離宮造作などから新しイメージ発想して特異な模様創造した菊の花一輪着物全体描き、裾にいくほど花の形が大きくなり、しかも色調変化させることで立体感を出す七五三技法などを編み出した昭和30年1955年衣裳全体蒔糊施した縮緬友禅訪問着早春』で第2回日本伝統工芸展朝日新聞社賞を受賞した同年日本工芸会正会員となり、日本伝統工芸展監査員就任して昭和42年1967年重要無形文化財保持者人間国宝)に認定された。以降京都友禅研究会発足し友禅研究後進の指導行い日本工芸染色部門役員として染色伝導染色による社会的活動奔走し昭和46年1971年紫綬褒章昭和57年1982年勲四等旭日小綬章夫々受章受勲した。平成19年2007年)には次男であり弟子である森口邦彦重要無形文化財友禅」の保持者に認定された。平成10年1998年)には故郷滋賀県守山市名誉市民第一号の称号を受け、平成20年2008年2月20日98歳で死去した

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湯朝竹山人」の記事における「略伝」の解説

瀬戸内海家島兵庫県)にある浄土真宗の寺に生まれる。父は住職・湯朝鐵龍1897年明治30年)ごろ万朝報記者として宗教担当する他、社主黒岩周六(涙香)に代わって「俚謡正調」の選者となり、紙面呼び物として評判となる。大正時代になって端唄・小唄などの三味線小歌曲や民謡研究従事した晩年漢詩没頭し詩友であった寛永寺山主世話凌雲院に寓居する。1944年昭和19年正月おたふく風邪診断受けて入院しその2日後に死去享年70歳大僧正によって「竹山院釋観明」と追号された。

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ピンダロス」の記事における「略伝」の解説

テーバイ近郊のキュノスケパライの生まれ。その家はギリシア名門アイゲイダイ氏に属し若くして作詩音楽学び20歳時にテッサリア豪族依頼をうけて勝利歌を作っている。シモニデスバキュリデス同時代ライバルとして持ちアイギナ島貴族シチリア独裁者テロンさらにはアイスキュロスはじめとして当時文豪つぎつぎと滞在していたヒエロンの宮廷に赴き、名声まかせて各地貴族のために作詩した。最大傑作といわれるピュティア勝利歌」第4歌と第5歌キュレネの王のために作られている。オリュンピアデルポイなどに旅行して競技祭典にも出席したが、最後にアルゴスの地で愛す少年テオクセノスの手抱かれ80歳の生涯閉じた

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甲斐庄楠音」の記事における「略伝」の解説

京都市生まれ甲斐庄氏楠木正成末裔自称した一族で、江戸時代徳川光圀推挙で9500石の大身旗本となった裕福な武士であった。父・正秀甲斐庄氏跡継ぎ養子となったものの、後に離縁となり別家建てたという事情があり、その時慰謝料京都広大な土地購入した音はその父の元で経済的に恵まれた少年時代送った生家京都御所東南にあり、音の妹は「暮らしぶりはまったくのお大名殿様のようだったと回想している。 しかし、幼少時から喘息患い病弱であり、過保護に育てられた。体格華奢で、後には芝居女形扮することもあった。 京都府第一中学入学してから絵画への関心高まり京都市立美術工芸学校転校して竹内栖鳳らに学ぶが、授業にほとんど出席しなかったため1年留年してしまう。その後専門学校研究科と進む中でいくつかの展覧会出品し村上華岳認められるようになり、1915年大正4年)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学卒業同窓生であった岡本神草入江波光玉村方久斗らと前衛的日本画研究集団「密会」の結成参加した1918年大正7年)に国画創作協会に『横櫛』を出品岡本神草の『口紅とともに入賞候補挙げられる。このとき、『横櫛』を推した村上華岳と『口紅』を推した土田麦僊とが互いに譲らず、結局竹内栖鳳仲裁金田和郎の『水蜜桃』が受賞したのだが、このことで新進作家甲斐庄楠音有名になる。しかし、後に土田麦僊との確執を産む原因ともなる。退廃的とも言えるほど女性生々しく描く音と、整った美人画よくする麦僊は画風対照的であった1922年大正11年)、帝展に『青衣の女』(ちなみに同年国画創作協会落選作品であった)が入選したことで、1924年大正13年)に国画創作協会会友となる。定期的に作品発表できる場を得た音はその後精力的に作品発表した女性官能美をリアルに描き大正ロマン代表する人気画家一人であった。 《青衣の女》の下図の前の音 《青衣の女》のポーズをするトク だが1926年大正15年)、東京市上野日本美術協会開かれた国画創作協会第5回展に出品した『女と風船』は土田麦僊陳列拒否された。上京していた音は、会場近くの寺で自らの絵を手直ししていた麦僊に翻意掛け合うものの、「穢(きたな)い絵は会場穢くますから」とされにべもなかった。この「穢い絵事件」を音は、「腕力があればただではすまなかった」と、晩年まで悔しがった。その後アク強さ消えて整理され画風変わったが、そのためか絵が次第売れなくなり映画界への転身つながった。なお『女と風船』は兄が買い取ったが後に火災失われモノクロ図版京都国立近代美術館所蔵されている。 1928年昭和3年)には「新樹社」を結成し活動の場を移す。しかし1931年昭和6年)に会員大量脱退事件起き新樹社は実質解散追い込まれるその後は「蒼穹社」に出品をしていたが、溝口健二知り合ったことで映画界転身し以後映画時代風俗考証家として活躍するうになる最初に手伝った溝口作品は『残菊物語』(1939年)、公式には『芸道一代男』(1941年)からである。芸者らを人間くさく描こうとする溝口作風は、音と通じるところがあった。 この溝口の縁で1943年昭和18年)に芸術関係者のサークル山賊会」に参加俳優初代水谷八重子川口松太郎花柳昇太郎、千宗左千宗室永楽善五郎吉井勇幅広く各界人と交友1953年昭和28年)には自身風俗考証担当し溝口監督をした『雨月物語』がヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞自身アカデミー衣装デザイン賞ノミネートされる溝口以外の監督作品含めて音が関わった映画200以上に達し旗本退屈男シリーズ市川右太衛門まとった豪華な衣装音のデザインだった。 しかし、絵の道を諦めたわけではなく1949年昭和24年)には新規に美術団体結成しようとして資金難から失敗している。1956年昭和31年)に溝口死去したのをきっかけ映画界去り以後は「山賊会」の活動通じて絵画発表するうになる1963年昭和38年)に京都市美術館行われた国画創作協会回顧展過去の作品出品されたことから再び注目されるうになる高齢や健康の問題もあって晩年寡作であった最晩年1976年にかけて完成させた六曲一隻屏風絵虹のかけ橋(七妍)』を京都国立近代美術館購入し画家として生涯終えることができた。1978年昭和53年)、友人訪問中に持病喘息発作により死去享年83墓所金戒光明寺にある。 生涯独身であったが、青年時代婚約者裏切られたことが原因とも、ホモセクシャルであったとも言われる。このことが独特の画風にも少なくない影響与えているという説もある。

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中村芳中」の記事における「略伝」の解説

京都出身。名は徳哉。号は温知堂、達々、担板漢など。芳中は字とされるが、同時代資料でも「沖」「冲」「仲」「中」「方仲」「方冲」「方中」「芳仲」「芳中」と様々である。芳中自身落款・印章を見ると圧倒的に「芳中」が多く、「沖」から「方中」そして「芳中」へ」改名した推測される生年不明だが、江戸琳派の祖・酒井抱一とほぼ同時代人だと考えられる生い立ち不明だが、『伝灯録』が出典の「担板漢」(物を肩に担ぐと視野一方限られることから、一を知って二を知らない偏屈者の意)という別号用い教養や、後述する木村蒹葭堂文人たちとの交流から、富裕な商家の出とも言われる史料上の初出は、1790年寛政2年)『浪華郷友録』に大坂内本町に住む絵師として紹介されており、既に一人前絵師だったことがわかる。1794年寛政6年)の『虚実柳巷方言』では「指頭ホウチウ」と記されており、指に直接絵の具付けて描くなど筆以外で絵を描く指頭画良くしたことがわかり、実作品も残っている。画業初期は、他に南画風の山水画手掛けている。しかし、やがて周囲文人俳人たちの影響で、尾形光琳私淑していったと考えられる1799年寛政11年江戸へ下向。この時交流があった木村蒹葭堂から選別を受け、大坂俳人たちが「中村方中の東行をおくる」という俳諧摺物制作している。その後も度々江戸訪れた考えられる1802年享和2年江戸で光琳画譜』(加藤千蔭序、川上不白跋)を刊行する。この出版は、抱一の『光琳百図』より十数早い。ただし、その掲載作品光琳作品版行したのではなく、あくまで芳中が自身が「光琳風」だと思う画風描いたもので、人物画には与謝蕪村耳鳥斎らの影響見て取れる文政2年大坂病没弟子西山芳園。他にも弟子はいたであろうが、現在にその名は伝わっていない。

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白仁甫」の記事における「略伝」の解説

白仁甫代々金に仕えて官僚を出す家柄生まれたモンゴルによって開封陥落し金朝滅びると一家離散憂き目にあったが、元好問庇護受けて養育されようになった。これは白居易の子とされる白仁甫の家が元稹の子孫とも言われる元好問の家と先祖代々親しくしており、そのよしみによるものだった。元好問白仁甫文才期待をかけ、我が子同然に育てたという。 1237年、父の白華が無事であり、真定支配するモンゴル漢人世侯史天沢仕えていることがわかったため、父の元に戻った白仁甫史天沢に目をかけられ元朝出仕することを推薦されるが、これを拒否した。そして1261年から各地転々とするようになった。彼は真定にいる頃から戯曲作り始めており、作家として生活の糧を得るようになったその後南宋滅びると、1280年ごろから建康南京)に定住するようになり、生涯元朝仕えようとはしなかった。半ば隠遁者の生活をおくり、80歳ぐらいまで生きていたという。

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竹内理三」の記事における「略伝」の解説

1907年明治40年12月20日愛知県知多郡岡田町愛知県知多市前身)にて、機織工場共同経営者である父竹内仁重と母志んの三男として生まれる。 岡田尋常小学校経て1920年大正9年)、半田中学校入学。背が低く猛勉強をする竹内は、彼を気に入らない連中からいじめを受けたという。1924年大正13年)、第八高等学校入学在学中同級生史学研究会結成し、その会報誌『瑞陵史叢』の創刊号竹内処女論文有史以前日本」を寄せている。また、指導教官である国文学教授石井直三郎より、『万葉集』講読受けた。これが竹内奈良時代研究下地となった1927年昭和2年)、第八高等学校卒業し東京帝国大学文学部国史学科に入学同期生川崎庸之宝月圭吾がいた。在学中東洋史講義聴講に熱心であったという。1930年昭和5年)に東京帝国大学文学部国史学科を卒業卒業論文は「奈良朝時代に於ける寺院経済研究」。寺院経済テーマとしたのは、竹内の父が郷里檀家総代として寺院経済関与していたこと、辻善之助政教中心仏教史研究していたので、経済史側面からの仏教史明らかにたかったのが主な理由だという。卒業論文題目決定する際、平泉澄から「そんなもん歴史書けますかね」と言われたという。これは、当時皇国史観唯物史観歴史学界の中で激しく対立していたことが背景にある。この卒業論文は翌1931年昭和6年)に大岡山書店から出版(『奈良朝時代に於ける寺院経済研究』)されたが、これは竹内恩師である辻善之助のすすめによるという。 東京帝大卒業後、竹内東京帝国大学史料編纂所入所大日本史料第一編部に配属された。史料編纂所在籍中精力的に著述重ね竹内荘園研究萌芽というべき『日本上代寺院経済史研究』(1934年)や、さらに発展させた『寺領荘園研究』(1942年)を著している。 1943年昭和18年)から翌年にかけて奈良時代史料集寧楽遺文』を刊行した。これは、竹内卒業論文作成時に蒐集した史料整理したもので、『大日本古文書』が入手困難であった当時において若手研究者を中心に重宝された。 竹内経歴を語る上で外すことができないのは、大著平安遺文』の刊行である。1947年昭和22年)から刊行されたが、太平洋戦争敗戦に伴う経済界混乱によって出版継続難し状況にあった1952年昭和27年)に、文部省研究出版助成金受けたことによって劣悪な出版状況改善され、『平安遺文』の刊行円滑となり、1957年昭和32年第9巻刊行を以て一応の完成見た。この『平安遺文』の刊行によって、平安時代研究環境整備された。その後鎌倉時代史料蒐集整理した鎌倉遺文』も刊行され奈良平安鎌倉時代研究環境整備竹内功績に負うところが大きい。 また、1958年昭和33年)に『寧楽遺文』『平安遺文』の完成により朝日新聞社より朝日文化賞受賞した

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永井直陳」の記事における「略伝」の解説

元禄11年1698年)、武蔵岩槻藩初代藩主永井直敬三男として生まれた正徳元年1711年)の父の死去により、家督は兄の尚平が継ぎ、直陳は1500石を分与された。正徳4年1714年)に兄が死去したため、その養子として家督継承した継承の際、1千五百石は収公された。同年12月28日従五位下伊豆守叙任された。享保15年1730年)には伊賀守に転任した1739年奏者番任じられた。その他、生涯大阪加番八度務めた宝暦6年1756年5月21日武蔵岩槻藩から美濃加納藩移封された。長男の尚俶、次男尚志いずれも早世していたため、宝暦12年1762年8月2日に甥で義理婿養子の尚備に家督譲って隠居し同年11月26日死去した享年65

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梅尭臣」の記事における「略伝」の解説

咸平5年1002年)、譲の、おそらく庶子として生まれる。母の名は束氏と張氏の2つ伝わっている。家は代々官僚とは無縁家柄だったが、叔父譲の弟)の詢が例外的に翰林侍読学士という高官に就いていた。13歳になるとその詢のもとで詩文学んだ思われる26歳太子賓客謝濤の娘と結婚する唐代のような世襲貴族存在しない宋代にあって官僚政治家輩出する各家は、婚姻による結びつきにより新たに名族作り出しつつあった。謝家は欧陽脩王安石黄庭堅などとつながる名家であり、謝氏と結婚した梅堯臣前途洋々かと思われた。しかし梅堯臣科挙及第することなく29歳のとき、詢の功績あやかる任子という制度によって官途就いた宋代官僚任用制度基本科挙であり、イレギュラーな任子官僚スタートとして選んだ梅堯臣官僚人生は、その出世スピードが妻に「(なまず)が竹竿上るように」まどろっこしいと嘆かせるほど不遇で、生涯貧困余儀なくされる役職としてまず太廟斎郎(皇帝廟堂係官に就きほどなく桐城県主簿県知事補佐官)を経て30歳のとき河南洛陽)の主簿転じた。そこで洛陽留守市長)で当時文壇重鎮であった銭惟演詩才激賞され、その紹介多く文人詩人知り合う生涯親友であり文学同志であり、パトロンともなった欧陽脩ともこのとき出会う。さらに河陽主簿徳興県県令建徳県襄城県知県呉興の監税官など地方官転々としたが、慶暦4年1044年7月7日43歳のとき、呉興監税官を全うして汴京帰る途中高郵の船の中で妻謝氏を亡くし同月のうちに符離安徽省)で次男十十をも喪う。この一大事がその詩作新たな作風与えることとなる。2年後に都官員外郎刁渭の娘と再婚したその後も忠武軍節度判官許州総督属官)・鎮安節度判官陳州総督属官)など地方官勤め皇祐元年1049年)には父譲の死による服喪などがあり、低い官位のままで生活は苦しかったが、慶暦8年1048年)に国士博士皇祐3年1051年)に同進士出身賜り太常博士になった進士科挙中でも最も尊ばれコースであり、これにより50歳にしてようやく梅堯臣未来大きく拓けたかに見えた。いったん永斉倉(汴京の北の永斉渠という運河のほとりにあった穀物倉庫)の監督転じ、母束氏の喪に服した後、嘉祐2年1057年)、欧陽脩らの推薦によって中央での官である国子監直講になり、翌年科挙の知貢挙試験委員長となった欧陽脩のもとで小試官(試験官となった。このとき及第した者のなかには蘇軾蘇轍兄弟曾鞏がいる。 嘉祐5年1060年)、尚書屯田司員外郎・刑部官員外郎至ったが、4月17日当時京師流行した疫病倒れ同月25日59歳亡くなった。このとき在住していた汴京城東の汴陽坊は庶民が住む下町で、大官車馬連ねて弔問訪れるのを見て近所の人々驚いた欧陽脩による墓誌銘伝えている。長男増、夭折した次男十十、ほか女子2名がいた。

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松平親賢」の記事における「略伝」の解説

5代藩主松平親盈次男天明5年1785年5月23日先代藩主で兄の親貞が隠居したため、その養嗣子となって跡を継いだ天明6年1786年)から大学者として知られる三浦梅園三顧の礼をもって家臣迎え行き詰まった藩政再建するための藩政改革行なった寛政11年1799年)、幕府の命により湯島聖堂再建費用として4858両を献金した享和2年1802年9月28日50歳で死去した。跡を甥で養嗣子の親明が継いだ。 表 話 編 歴 能見松平氏杵築藩7代藩主 (1785年 - 1802年)小笠原家小笠原忠知1632-1645 三河吉田藩転封 能見松平家松平英親1645-1692 松平重栄1692-1708 松平重休1708-1715 松平親純1715-1739 松平親盈1739-1767 松平親貞1767-1785 松平親賢1785-1802 松平親明1802-1825 松平親良1825-1868 松平親貴1868-1871 廃藩置県

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松平親盈」の記事における「略伝」の解説

4代藩主松平親純長男元文4年1739年)、父の死去により家督を継ぐ。藩財政再建するために銀札発行し倹約令出したが、宝暦年間凶作相次いだため、効果はほとんどなく、むしろ藩財政悪化していった。明和4年1767年8月14日長男の親貞に家督譲って隠居し寛政12年1800年12月26日75歳死去した。 表 話 編 歴 能見松平氏杵築藩5代藩主 (1739年 - 1767年)小笠原家小笠原忠知1632-1645 三河吉田藩転封 能見松平家松平英親1645-1692 松平重栄1692-1708 松平重休1708-1715 松平親純1715-1739 松平親盈1739-1767 松平親貞1767-1785 松平親賢1785-1802 松平親明1802-1825 松平親良1825-1868 松平親貴1868-1871 廃藩置県

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曽我直庵」の記事における「略伝」の解説

生い立ち経歴不明だが、作品年記や着賛者在世年代によって、16世紀後期から17世紀初頭に「蛇足六世」を名乗って堺で活躍した水墨画漢画の手法を取り入れた豪快な筆致で、図などの鷙鳥画や花鳥画優れた作品残した曽我二直菴息子か、少なくとも直庵の画系を継いだことは間違いない。他に弟子とされる画人に、田村直翁がいる。

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豊田美稲」の記事における「略伝」の解説

豊田美稲は、天保3年1832年)に近江国甲賀郡池田村(現滋賀県甲賀市甲南町池田)に生まれた通称謙次、名は徳隣とも言い、有秋・潭とも号した。幼い時から鋭敏で、読書好み、剣の修行よくした伝えられる。美稲が生まれた甲賀郡では、天保13年1842年唯一一揆側が完全勝利したと言われる近江天保一揆起こり一揆成功した翌年にかけ一揆参加者への取り調べ激烈極め獄死などで多く犠牲者出した少年期にあった美稲にとって近江天保一揆大きな影響与えた考えられる数え20歳で家を出て諸国遊歴し江戸入り塚田孔平の門人となり、幕臣で後に外国奉行務め岩瀬忠震いわせただなり)邸に寄寓した。美稲が旅に出た後の嘉永5年1852年黒船来航し世情騒然と始めた嘉永6年1853年7月18日ロシア使節プチャーチン長崎来航すると、岩瀬忠震川路聖謨と共に露使応接掛となり、長崎出向きプチャーチン国境和親通商について交渉を行うこととなった。美稲もこれに同道したが、道中故郷甲賀において家の者より強く帰宅促されやむを得ず帰郷することとなった甲賀帰郷時に水口藩尊王攘夷派藩士交わり中村栗園中村確堂城多董等と親しく交わった。 しかし世情落ち着かぬ状況にあり天下憂う美稲は京都に赴き各藩志士交わったこの後安政6年1859年)から文久3年1863年)まで、現岡山県美作市土居の行餘学堂学問教え、また文久元年1861年以降同地志士安東次郎興した学問所においても子弟教育従事したこの間文久3年1863年)に起きた八月十八日の政変で、長州藩が京より追放された。中国地方拠点とした美稲は、多く長州藩士とも交流した元治元年1864年門人安東鉄馬と共に京都入り宮部鼎蔵古高俊太郎城多董等と京における公武合体派一掃計画するが、元治元年6月5日1864年7月8日)の池田屋事件により、京都での襲撃計画失敗終わった加えて元治元年7月19日1864年8月20日)の禁門の変により多く同志失った。美稲は池田屋事件当時故郷甲賀にいたため難を逃れることができたが、幕府追われるとなったため長州人の薬売り変装し長州へ向かうこととした。 長州へ向かう途上で、美稲は岡山藩家老土倉家大目付齋藤氏勧めで、備前国周匝旅館橘屋逗留した。美稲は松江藩軍用金奪い津山占領計画練っていたとされ、この動き危機感じた土倉家家臣田原平左衛門襲撃を受け、慶応元年12月25日1866年2月10日壮絶な斬り合いの後死去した後日田原平左衛門切腹したと伝えられる明治34年1901年12月17日生前の功により正五位叙位された。

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松平重栄」の記事における「略伝」の解説

杵築藩初代藩主松平英親長男元禄5年1692年12月4日、父の隠居により跡を継ぐ奏者番寺社奉行務めた元禄10年1697年)、近隣日出藩百姓逃散してきたとき、それを保護しながら日出藩交渉し無難に解決している。宝永5年1708年11月23日次男の重休に家督譲って隠居し享保5年1720年2月18日76歳で死去した。 表 話 編 歴 能見松平氏杵築藩2代藩主 (1692年 - 1708年)小笠原家小笠原忠知1632-1645 三河吉田藩転封 能見松平家松平英親1645-1692 松平重栄1692-1708 松平重休1708-1715 松平親純1715-1739 松平親盈1739-1767 松平親貞1767-1785 松平親賢1785-1802 松平親明1802-1825 松平親良1825-1868 松平親貴1868-1871 廃藩置県

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安藤寛長」の記事における「略伝」の解説

延享4年1747年生まれ先代当主・次由の養子となり、明和2年1765年5月8日養父死去したため、同年6月24日に跡を継いだ明和8年1771年3月12日25歳死去し、跡を養子の次猷が継いだ。 表 話 編 歴 紀伊田辺藩第10代藩主 (1765年 - 1771年)安藤直次1619-1635 安藤直治1635-1636 安藤義門1636-1654 安藤直清1654-1692 安藤直名1692-1699 安藤陳武1699-1717 安藤陳定1717-1724 安藤雄能1724-1730 安藤次由1730-1765 安藤寛長1765-1771 安藤次猷1771-1801 安藤道紀1801-1808 安藤直與1808-1809 安藤直則1809-1823 安藤直馨1823-1826 安藤直裕1826-? 安藤直行?-? 安藤直裕?-1871 廃藩置県

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松平英親」の記事における「略伝」の解説

高田藩初代藩主松平重直長男寛永20年1643年正月家督を継ぐ。正保2年1645年)、高田から杵築32000石に移封された。藩政確立するために25か条の法令をはじめ、寛文2年1662年)からは検地実施して新田開発などに尽力した明暦2年1656年)の日根野吉明改易時の府内城受け取り役も務めている。 元禄5年1692年12月4日長男の重栄に家督譲って隠居し宝永3年1706年3月10日82歳で死去した江戸台東区竜泉)の正燈寺開基。 表 話 編 歴 能見松平家第7代当主1643年 - 1692年宗家光親 重親 重吉 重勝 重忠 重直 英親 重栄 重休 親純 親盈 親貞 親賢 親明 親良 親貴 親信 親義 親分家支流 重則重則正 重利 | 断絶 勝隆流勝隆 重治 勝秀 勝文 勝興 広徳 表 話 編 歴 能見松平氏豊後高田藩2代藩主 (1643年 - 1645年)竜王藩松平重直1632-1639 陣屋移転 高田藩松平重直1639-1643 松平英親1643-1645 豊後杵築藩転封廃藩領地肥前島原藩飛び地に。 表 話 編 歴 能見松平氏杵築藩初代藩主 (1645年 - 1692年)小笠原家小笠原忠知1632-1645 三河吉田藩転封 能見松平家松平英親1645-1692 松平重栄1692-1708 松平重休1708-1715 松平親純1715-1739 松平親盈1739-1767 松平親貞1767-1785 松平親賢1785-1802 松平親明1802-1825 松平親良1825-1868 松平親貴1868-1871 廃藩置県

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松平親貞 (能見松平家)」の記事における「略伝」の解説

5代藩主松平親盈長男明和4年1767年8月14日、父の隠居により家督継いだ大坂加番役を務めた明和9年1772年)の明和の大火により江戸屋敷全焼し、その再建費用により藩の財政は更に窮乏した天明3年1783年)、親貞と改名した天明5年1785年5月23日、病を理由に弟で養嗣子の親賢に家督譲って隠居し寛政12年1800年7月29日50歳で死去した。 表 話 編 歴 能見松平氏杵築藩6代藩主 (1767年 - 1785年)小笠原家小笠原忠知1632-1645 三河吉田藩転封 能見松平家松平英親1645-1692 松平重栄1692-1708 松平重休1708-1715 松平親純1715-1739 松平親盈1739-1767 松平親貞1767-1785 松平親賢1785-1802 松平親明1802-1825 松平親良1825-1868 松平親貴1868-1871 廃藩置県

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松平親純」の記事における「略伝」の解説

常陸麻生藩主・新庄直詮十三男。早くから外祖父重栄の養嗣子となり、正徳5年1715年)におじで先代藩主の重休が早世したため、その跡を継いだ藩政においては享保9年1724年)から天候不順享保の大飢饉による大被害を受け、幕府から3,000両を借用してしのぐほどであったと言われている。元文4年1739年2月16日37歳死去し、跡を長男の親盈が継いだ。 表 話 編 歴 能見松平氏杵築藩4代藩主 (1715年 - 1739年)小笠原家小笠原忠知1632-1645 三河吉田藩転封 能見松平家松平英親1645-1692 松平重栄1692-1708 松平重休1708-1715 松平親純1715-1739 松平親盈1739-1767 松平親貞1767-1785 松平親賢1785-1802 松平親明1802-1825 松平親良1825-1868 松平親貴1868-1871 廃藩置県

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松平親明」の記事における「略伝」の解説

6代藩主松平親貞次男享和元年1801年4月13日松平親賢養子となる。同年5月15日将軍徳川家斉拝謁する同年12月16日従五位下備前守叙任する。後に志摩守に改める。享和2年1802年11月20日養父親賢の死去により、家督相続する文政元年1818年8月24日奏者番就任する。親明自身能楽秀でていたと言われているが、藩政においては百姓逃散や一揆、打ちこわし相次ぐなど多難極めた文政8年1825年11月12日41歳死去し、跡を長男の親良が継いだ。 表 話 編 歴 能見松平氏杵築藩8代藩主 (1802年 - 1825年)小笠原家小笠原忠知1632-1645 三河吉田藩転封 能見松平家松平英親1645-1692 松平重栄1692-1708 松平重休1708-1715 松平親純1715-1739 松平親盈1739-1767 松平親貞1767-1785 松平親賢1785-1802 松平親明1802-1825 松平親良1825-1868 松平親貴1868-1871 廃藩置県

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妙竜」の記事における「略伝」の解説

美濃国賀茂郡山上邑に生まれる。正徳元年神照寺道の仏弟子となり3年後得度して典・竺墳を学ぶ。享保元年美濃国三光寺の戒龍律師灌頂壇を開いた時に侍者として召される14歳の時から長安寺の岱戒律学び15歳真言密教四度加行しどけぎょう)を受けた17歳となったとき八事山興正寺入って享保13年に點阿和尚から具足戒を受け、同じ年に常照から浄土宗鎮西派白旗流の璽書を受ける。享保19年徳川宗春の命により、30歳八事山興正寺5世となった生涯通じて密教戒律浄土教学び、それらの復興尽力した

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児玉一造」の記事における「略伝」の解説

児玉一造は、明治14年1881年3月20日滋賀県犬上郡彦根町大字芹橋(現彦根市芹橋)で児玉貞次郎と美衛の子として誕生した。父貞治郎は美濃国養老郡高木利右衛門の子で、長浜(後の神照村)の児玉助三郎養子となり、江波伴三の娘美衛と結婚した後、彦根藩足軽を買い、明治維新後は家屋壊し屋家業としていた。 一造は少年時腕白で、彦根尋常小学校3年時先生墨壺投げつけたことから退校処分となったこのため一時愛知県知多郡大谷村(現愛知県常滑市大谷)の伯父竹内太郎預けられ大谷村立大尋常小学校通い国語朗読時間近江訛り笑われたところ、却って大きな声で近江訛り朗読行ったとの逸話残されている。3カ月復校許され彦根尋常小学校戻った腕白であった学業作文で賞をとり、成績学年ごとに優等賞を受けるなど頗る優秀だった明治28年1895年彦根高等尋常小学校(現彦根市立城東小学校)を卒業名古屋市内の菓子商に丁稚奉公出たが、仕事合わずすぐに辞め実家戻った。そこで偶々行員募集していた近江銀行採用試験を受け、同行就職し掛け金回収担当した近江銀行時代責任ある仕事を行うためには学歴が必要と痛感し銀行業務傍ら泰西学館通い日夜惜しみ勉強した明治31年1898年滋賀県商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)を訪問し当時波多野校長面会の上卒業試験応じたい」との前代未聞申し入れ行った商業学校は一造の申し入れ拒否したが、見所感じた校長2年への編入試験受験を一造に薦め見事に合格した一造は近江銀行退職し商業学校2年生となった商業学校時代の一造の話として、毎年恒例行われた大日本短艇競争大会商業学校売店出し大い好評得たこと。当時学生による教師ボイコットストライキが行われていたが、英語のスプーナー教諭排斥ストライキにおいてただ一人同調せず猛然と反対したこと。商業学校実地研修行商があり、商業学校生徒が行商などと小さなことを行っていることを馬鹿にた行先の主人大喧嘩をしたこと、などが伝えられている。 明治33年1900年3月商業学校卒業際し近江商業銀行から入行薦められたが、東京高等商業学校(後に東京商科大学経て、現一橋大学入学希望した当時滋賀県商業学校から東京高等商業学校には簡易入試での受験一つあり、これに応募した。しかし、一年上の先輩応募したため同人優先されることになり、一造の高等商業学校進学失敗した。そこで、滋賀県商業学校入学時の波多野校長頼り同校長が当時務めていた静岡県商業学校(現静岡県立静岡商業高等学校)に助教諭となった偶々三井物産合資会社支那研修生募集していることを知り波多野校長相談し同人推薦状得て面接臨んだところ、研修生採用されるになった。一造は、8月から三井物産厦門出張所研修を受けることとなった。なお、支那研修生同期には森恪もりかく)がいた。当時厦門にはジャーディン・マセソン商会事務所があり、彼らが流暢な中国語商売する姿を見て商売をするためには自由に中国語出来なければ話にならない悟り、一造は家庭教師雇い街中中国人とも頻繁に話をして中国語台湾語身に付けた。研修1年三井物産本採用されると、若手中国語堪能社員として知られるようになった三井物産中国ビジネス統括していた藤原銀次郎は、研修生の時から一造の仕事ぶり評価し本採用直後には厦門出張所を一造に任せた明治35年1902年台北支店長であった藤原は一造を台湾呼び翌年台南出張所責任者命じた日露戦争最中台湾総督であった児玉源太郎総参謀長として満州におり、児玉から台湾総督府民政局長官であった後藤新平に米20万石調達命令があり、藤原を介して一造が米の買い付けを行うこととなった。一造は台湾奥地にまで入り込み流暢な言葉交渉行い瞬く間20万石の米買い付け成功したまた、当時台湾発展為に製糖事業が重要との認識官民一体としてあり、一造は自分仕事ではないが進んで製糖会社土地買収協力していた。日頃一造の活躍を妬む人間が、一造は「いやがる土地所有者から無理やり土地売却させている」との噂を流し総督府まで噂が流れ一造の退去命令出されるに及び、一造は単身後藤民政局長に面談求め実情話しその結果大い後藤から信頼得たとされる中国での仕事評価され明治38年1905年6月ロンドン支店勤務命じられ、ドイツハンブルク出張所となったハンブルクでは、現地スタッフ叱った話が逸話として残されている。一造は、現地スタッフを叱る時、最初ドイツ語で、次に英語となり、いよいよ感情昂る日本語となった。これを現地スタッフ面白がり、よく一造の叱る姿が物真似されたと言うそれほど、一造は中国語加えてヨーロッパ赴任に際して徹底的に英語とドイツ語勉強行った明治41年1908年一時帰国ゆるされた一造は、第十五銀行頭取園田孝吉の3女米子結婚し同年6月再度ロンドン支店勤務命じられた。ロンドンでは、満州大豆着眼し新しビジネスとして満州大豆ヨーロッパ輸出事業構築した大正元年1912年8月ロンドンより帰国し12月にはわずか31歳名古屋支店長を命じられた。名古屋では豊田織機株式会社豊田佐吉服部商店服部兼三郎三重紡績岡常夫等と出会い自動織機発明者である豊田佐吉に対して物心両面にわたり支援行った。後に豊田佐吉は一造の弟利三郎婿養子迎え入れたまた、岡常夫は一造の異才注目し大阪綿業界進出することを強く後押しした大正3年1914年2月、岡常夫の強い推薦もあり大阪支店綿花部長就任した。ここでも一造の語学力大い活き大正8年1919年)にアメリカテキサス州ダラス中心として出張行った際は、現地子会社社員前に演説しまた、ビッグボス」と呼ばれ社員心を掴んだこの頃前年第一次世界大戦終結し各国経済不況となりつつあった。綿花相場乱高下危険性高く、一造は三井物産本社から相場リスクさらされている綿花部門切り離すべきとの考え持ち大正9年1920年4月三井物産綿花部を独立し東洋綿花(株)設立し専務取締役就任した自社業務精励するばかりでなく、綿花関連事業全体発展にも精力的に一造は活動した世界恐慌前に綿花事業者金融からの信用力得られ、かつ輸出事業をより促進させるために綿糸輸出組合設立にも奔走した会長就任後の昭和2年1927年インド視察に赴き、日印間の無電開通にも一役買った関西綿糸業界財界で幅広く活躍し豊田紡織三井物産取締役等を兼ね様々な公職歴任すると共に故郷滋賀県における県立工業学校彦根高等商業学校建設にも尽力した。これらの活動認められ大正14年1925年)に紺綬褒章受章し昭和3年1928年)には勲四等瑞宝章受勲した。昭和5年1930年1月10日東洋綿花会長として株主総会治めた後、1月20日腹痛襲われ一時持ち直した1月30日急逝した死因胃潰瘍

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市来四郎」の記事における「略伝」の解説

寺師正容の次男として城南新屋敷生まれる。のちに市来政直の養子となる。 青年時には高島流砲術など火薬に関する勉学修めたところを島津斉彬認められ側近となる。製薬掛、後に砲術方掛となり、集成館事業携わるなどの要職務める。安政4年1857年)に斉彬の密命により琉球渡りフランスとの交渉に当たる。目的フランスから戦艦購入することであったとされるが、斉彬の急死により頓挫した。これは琉球王府内部での政変つながっている(牧志恩河事件)。 斉彬の死後は弟の久光側近となり、引き続き集成館事業携わり大砲火薬製造担当文久2年1862年以降琉球通宝天保通宝鋳造にも関わった。 維新後は、主に久光の元で島津家関わる史料収集携わった

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略伝

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小泉斐」の記事における「略伝」の解説

下野国芳賀郡益子現在の栃木県芳賀郡益子町)に生まれる。父は鹿島神社神官木村一正、母は片岡氏。幼少より絵を好み11歳高田敬輔門人島崎雲圃入門。唐美人図図などを習う。師との関係から近江頻繁に出向き日野祭山車の見送幕の製作などをしている。 30歳頃、那須郡両郷村現在の栃木県那須郡黒羽町温泉神社小泉光秀の養子となり同社神官継いだ立原翠軒に就いて経学詩文修めその子立原杏所に画を教えた。また和歌音楽を嗜んだともいう。享和元年1801年)に、甲斐守に任ぜられ従五位叙される。 50歳の時に黒羽藩大関増業より城北の鎮国社宮司職を与えられその後旺盛に画の創作行った。 画は唐の王維敬慕した。各地から門弟雲集30年もの間、画技伝えたという。「小泉檀山門人録」には100名もの人名記され島崎玉淵・宇佐美奇などが育つ。高久靄厓画技受けたひとりという。図に飛びついたというエピソードが伝わる。 斐は立原翠軒従者として寛政7年1795年)に藤田幽谷などと吉原口から富士登山成功している。このときを元に製作した富嶽写真」は富岡鉄斎富士図製作に携わるとき大い参考にした。

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木村立嶽」の記事における「略伝」の解説

現在の富山市南田町に、木村定吉の第7子として生まれる。父は仏師として修行しながら、仏壇指物師宮大工生業にしていた。6歳頃から藩画師入門藩主前田利保推薦江戸へ行き木挽町狩野家の狩野栄信・養信に師事16歳藩士取り立てられ20歳狩野派修め、「雅」字を拝領し雅経と名乗る嘉永元年1848年)の時、藩命富山戻り殿中に「図」を揮毫する。藩主はその画技高く評価し地元の名岳(嶽)立山因んで「立嶽」の号を与えたという。最初江戸富山往復する生活だったが、嘉永4年1851年木挽町画所辞して富山帰り藩主に絵を指南するこの頃本草通串証図』(全94巻)の制作にも参加し極彩色花卉図などを手掛けている。万延元年1860年幕命江戸木挽町画所復帰し代替わりした狩野雅信師事同門の芳崖、狩野友信らと江戸城杉戸絵の制作担当する慶応4年1868年)、徳川家達駿府行き雅信随行したため同行。翌明治元年新政府の命で、奈良神武天皇陵へ派遣されこれを写生し荒廃した御陵域の修理あたったその後奈良社寺宝物取調掛として調査を行う。明治8年1875年9月内務省図書寮出仕し画図掛となる,神武天皇御陵図を製作、これを元に現在の神武陵が出来上がった。しかしその一方で生活には困窮し明治11年からは芳崖と共に精工社の陶器画や漆器下絵描いて糊口をしのぐ明治14年1881年)の第二回内国勧業博覧会では、陶器画で妙技二等受けている。翌年農商務省勧農局より植物写生掛を命ぜられ、日本中の産物写生図を描く。同年第一回内国絵画共進会褒状この頃フェノロサ出会いその意見取り入れた作品手掛ている。明治17年1884年第二回内国絵画共進会に「人物」と「山水」を出品し再び褒状を受ける。同年結成され鑑画会主力メンバー一人として新し日本画目指す活動加わった明治23年1890年横浜没した享年64長男木村立峰(1853年-1926年)も絵師となった

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顔輝」の記事における「略伝」の解説

顔輝英語版)の伝記初め載せる文献『画継補遺』(荘著、大徳2年1298年)の自序)によると、字は秋月吉州廬陵県の人、南宋末にすでに山水人物鬼神描いて名があり、士大夫は皆その画を敬愛したという。ただし、後世の『図絵宝鑑』や『画史会要』では、顔輝元代画家衢州江山県としており、現在も画風から元代道釈画家の代表と説明される大徳年間1297年-1307年)に江西省吉安市の順輔宮という道観水害被って補修する際、顔輝壁画担当し絶筆称せられ、御画師呼ばれたことが知られる御画師の意味不明だが、顔輝画院画家だった事、あるいは元代宮廷活躍した事を示しているとも考えられるまた、同じ吉安にある普閣寺の壁画制作し肖像画あるいは猿猴図の名手としても知られていたという。 日本でも明兆が「蝦蟇鉄拐図」の模写試みているように、遅くとも室町時代中期には日本その作品もたらされていた。能阿弥撰述した『君台観左右帳記』では上の部に記され、特に鬼神画家として評判高かったことが見える。

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大西椿年」の記事における「略伝」の解説

幕府手代勤め浅草鳥越付近(現・台東区浅草橋3丁目)に住んだ円山応挙高弟渡辺南岳一時江戸移り住んだとき入門し円山派画法習得江戸円山派広め役割果たした南岳帰京後谷文晁画塾写山楼入り様々な画派南画南蘋派北宗画大和絵狩野派など)の技法修める人物図・花鳥図など画作したが特に亀の戯画人気があった。渡辺崋山曲亭馬琴亀田鵬斎らと交友した。 行年60歳浅草金剛院葬られたが、現在墓所熊野山安泰寺大田区西糀谷)にある。門弟洋画家川上冬崖淡島椿岳がいる。

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浜村蔵六 (初世)」の記事における「略伝」の解説

祖父の道綜の代に伊勢度会から江戸移り住む。父通寿、母関岡氏の長子として生まれる。若いうちから篆刻著名な高芙蓉敬慕し、京都出て芙蓉門下となる。その印法を学び奥義究める。後に江戸戻り芙蓉古体派称される篆刻伝え、その指導的な役割を担う。篆刻技術すこぶる巧みで特に鋳造印を得意とした。法帖模刻にも巧みで、王寵の『白茆帖』の模刻絶技評された。朴訥社交的な性格だったという。 天明4年1784年)、芙蓉江戸出てすぐに没してしまう。蔵六大典禅師芙蓉墓碑銘撰文請い、それを韓天寿書し蔵六刻した。この墓碑なんらかの事情蔵六存命中は建立されず、後に稲毛屋山二世浜村蔵六によって江戸小石川無量院建立された。現在は天徳寺東京都港区虎ノ門3丁目)に移されている。 寛政6年11月江戸で没する享年61法名院壇誉蔵六大徳墓所霊山寺にあり、二世蔵六三世蔵六合葬されている。なお、この墓石は、関東大震災により紛失した

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一色氏久」の記事における「略伝」の解説

鎌倉公方からの譜代家臣通称源三郎古河公方家御一家として足利義氏ころから古河公方家実質的政務担当しており、「古河御所様御奉行」・「古河御奉公人」などとよばれ、足利氏姫の時は、「御連判衆」筆頭として後北条氏などとの対外的な折衝当たったとされる豊臣秀吉により小弓御所足利頼純嫡子足利国朝古河公方家当主足利氏姫婚姻をもって喜連川家四千八百石が起きた時の初代筆頭家老足利尊氏4代前、足利泰氏の子である一色公深家祖とする一色氏初代九州探題務めた一色範氏一色直氏親子嫡流早くから鎌倉公方家仕え関東一色氏といわれる一色長兼の養子となったといわれる足利義嗣の子である足利直明(一色直明)の嫡流であり、墓所主家と同じ栃木県さくら市龍光寺内の足利家墓所正門前に在する。 4代鎌倉公方足利持氏生母は、この一色家の娘であり、4代喜連川藩喜連川昭氏生母も、この一色氏久孫娘であるが、嫡子一色下野守刑部と孫の一色左京は、慶安元年1648年)に起きた喜連川騒動巻き込まれその後の動向不明である。 一説には、喜連川藩における特殊事情である、古河公方家臣と小弓公方家臣対立事件根底にあったといわれる。 そして、この時期徳川家康から徳川家光時代まで行われた徳川幕府確立施策として、多く外様大名家の改易取り潰し行い幕府権力増強成功したが、日本国内には4060万人ともいわれる徳川幕府への不平浪人存在することとなり、大きな社会問題となっていた。 すなわち、彼らが本来の源氏棟梁となる喜連川昭氏(7歳)と祖父伯父である一色刑部左京親子倒幕軍の神輿として担ぐならば、他の外様大名家さえも追従し徳川幕府倒壊危機となり得たといえる。 よって、幕府足利家嫡流となる喜連川家安泰と、さらに徳川幕府安泰の策として、4代喜連川昭氏7歳)の祖父叔父であり、足利将軍家流れでもある一色刑部左京親子吉良家今川家品川家・他の一色家などと同様に足利家庶家として徳川幕府旗本として、幕府体制内に取り込んだともいわれるまた、一色刑部実弟根岸五郎左衛門、別名連談)は事件後も喜連川残り事件のため隠居した喜連川尊信28歳)と4代喜連川昭氏7歳)に仕えたが、その後喜連川家安泰望み、兄一色下野守刑部家老屋敷をもって宿屋始め商人となり、根岸右衛門改名した藩主親族ありながら奥州街道にあり東北大名行列宿場となる喜連川の地で喜連川藩お抱え宿屋を営むことは、喜連川藩士であることより実質裕福であった根岸右衛門の墓は、栃木県さくら市喜連川浄土宗欣浄院専念寺内にあり、兄一色刑部の娘で3代喜連川尊信側室、そして4代喜連川昭氏生母戒名「欣浄院殿深誉妙心大姉」の墓のすぐ近く喜連川騒動事件後の3人の家老一人黒駒左衛門の墓と並んである。 同じく一色刑部実弟山野右衛門埼玉県幸手移住し幕府大身旗本となっていた親族幸手一色家仕えた

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堀直時」の記事における「略伝」の解説

元和2年1616年)、信濃飯山藩主・堀直寄次男として生まれる。寛永16年1639年)、父の死去に際し、3万石分与されて大名となり、安田藩立藩した。寛永19年1642年)、甥の直定が早世して本家村上藩断絶すると、村上藩遺臣によって跡継ぎ擁立されたが、幕府からは認められなかった。同年12月従五位下丹後守叙任する。 寛永20年1643年2月29日死去享年28。跡を次男直吉継いだ。 表 話 編 歴 堀氏村松藩初代藩主(1639年 - 1643年)安田藩堀直時1639-1643 堀直吉1643-1644 陣屋移転 村松藩堀直吉1644-1676 堀直利1676-1711 堀直為1711-1736 堀直堯1736-1785 堀直教1785-1795 堀直方1795-1802 堀直庸1802-1819 堀直央1819-1857 堀直休1857-1860 堀直賀1860-1868 堀直弘1868-1871 廃藩置県

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池田清緝」の記事における「略伝」の解説

天保14年1843年)閏9月11日第8代藩主池田清直の兄・池田仲諟の長男として江戸で生まれる。安政5年1858年)に叔父・清直が死去したため、その養子として家督継ぎ12月15日従五位下左衛門佐叙位任官する江戸城御門番駿府加番などを歴任した文久2年1862年8月24日江戸で死去した享年20。跡を弟で養子徳定継いだ。 表 話 編 歴 池田氏若桜藩9代藩主 (1858年 - 1862年)山崎家山崎家盛1601-1614 山崎家治1614-1617 備中成羽藩転封 一旦、鳥取藩併合されたのち、1700年に同藩の支藩として立藩池田家池田清定1700-1718 池田定賢1718-1736 池田定就1736-1768 池田定得1768-1773 池田定常1773-1802 池田定興1802-1807 池田定保1808-1847 池田清直1847-1858 池田清緝1858-1862 池田徳定1862-1870 鳥取藩併合

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池田清直」の記事における「略伝」の解説

文化9年1812年8月15日因幡鹿奴藩第7代藩主池田仲雅八男として江戸で生まれる。弘化4年1847年)に若桜藩第7代藩主・定保が死去したため、その養子として家督継ぎ12月15日従五位下淡路守叙位任官する幕命江戸城御門番歴任した安政5年1858年8月6日江戸で死去した享年47。跡を甥で養子の清緝が継いだ。 表 話 編 歴 池田氏若桜藩8代藩主 (1847年 - 1858年)山崎家山崎家盛1601-1614 山崎家治1614-1617 備中成羽藩転封 一旦、鳥取藩併合されたのち、1700年に同藩の支藩として立藩池田家池田清定1700-1718 池田定賢1718-1736 池田定就1736-1768 池田定得1768-1773 池田定常1773-1802 池田定興1802-1807 池田定保1808-1847 池田清直1847-1858 池田清緝1858-1862 池田徳定1862-1870 鳥取藩併合

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池田定保」の記事における「略伝」の解説

文化2年1805年7月29日、第5代藩主であった池田定常の六男として鳥取生まれる。定常は定保が生まれる前の享和2年1802年)に隠居し長男(定保の異母兄)の定興が第6代藩主となっていたが、定興文化4年1807年11月3日早世したため、定保がその養子として文化5年1808年2月4日幼くして家督継いだ江戸城御門番勤めた後、文化11年1814年)に二条城大番頭任じられた。文政5年1822年12月26日従五位下長門守叙位任官する天保3年1832年)に大坂城定番任じられた。弘化4年1847年7月17日江戸で死去した享年43。跡を養子の清直が継いだ。 表 話 編 歴 池田氏若桜藩7代藩主 (1808年 - 1847年)山崎家山崎家盛1601-1614 山崎家治1614-1617 備中成羽藩転封 一旦、鳥取藩併合されたのち、1700年に同藩の支藩として立藩池田家池田清定1700-1718 池田定賢1718-1736 池田定就1736-1768 池田定得1768-1773 池田定常1773-1802 池田定興1802-1807 池田定保1808-1847 池田清直1847-1858 池田清緝1858-1862 池田徳定1862-1870 鳥取藩併合

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池田定就」の記事における「略伝」の解説

享保9年1724年4月27日第2代藩主池田定賢長男として鳥取生まれる。元文元年1736年)に父が死去したため、家督継いだ12月16日従五位下下野守叙位任官する延享3年1746年7月5日甲斐守に遷任され、寛延4年1751年4月18日兵庫頭遷任される。 宝暦10年1760年9月駿府加番任じられその後江戸城御門番任じられた。明和5年1768年4月13日家督長男・定得に譲って隠居する。5ヵ月後の9月因幡戻り以後悠々自適隠居生活送り寛政2年1790年2月5日死去した享年67。 表 話 編 歴 池田氏若桜藩3代藩主 (1736年 - 1768年)山崎家山崎家盛1601-1614 山崎家治1614-1617 備中成羽藩転封 一旦、鳥取藩併合されたのち、1700年に同藩の支藩として立藩池田家池田清定1700-1718 池田定賢1718-1736 池田定就1736-1768 池田定得1768-1773 池田定常1773-1802 池田定興1802-1807 池田定保1808-1847 池田清直1847-1858 池田清緝1858-1862 池田徳定1862-1870 鳥取藩併合

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レフ・セミョーノヴィチ・ベルグ」の記事における「略伝」の解説

ユダヤ系公証人息子としてベッサラビア県ベンデル(現・モルドバ/沿ドニエストル共和国)に生まれる。1885年からキシナウギムナジウム通学し高等教育を受けるためルター派改宗する1894年モスクワ大学入学し地理学専攻する1905-1913年ペテルブルク科学アカデミー動物学博物館魚類両生類は虫類主任担当1913年からモスクワ農業研究所を経てレニングラード大学教授となり、自然地理学研究対象とする。分類学進化論足跡を残す)。

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松木松年」の記事における「略伝」の解説

松木武彦の子で、松木品彦の養子伊勢神宮禰宜務めた幕末正四位に至るが、明治維新後一旦返上し改め従七位叙される。画は谷口藹山松田雪柯学び篆刻福井端隠門下。また馬術大坪流師事した印譜に『香雲印譜』がある。享年75

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高橋源吉」の記事における「略伝」の解説

江戸佐野藩邸内生まれる。一には1男4女の子供がいたが、画業継いだのは源吉だけである。明治になると英学化学興味示したが、やがて父より油彩技法を学ぶ。1877年明治10年工部美術学校入学アントニオ・フォンタネージより、本格的な美術教育を受ける。フォンタネージ帰国後の連袂退学を共にし、十一(字)会を結成1889年明治22年)の明治美術会結成運営関わる一方、由一から引き継いだ天絵(てんかい学舎や、明治美術会運営する明治美術学校泰西美術学校)で指導を行う。1880年明治13年4月には天絵学舎内白受社が刊行した日本初美術雑誌臥遊席珍』の主幹務め同年8月5号終刊)、1882年明治15年浅井忠との共書図画教科書習画帖』を天絵学舎から出版、これが絵画的図画教科書として認められ1889年明治22年文部省編纂小学習画帖』として刊行された。更に、父を顕彰する『高橋由一履歴』の編集し、また由一の東北風スケッチ元に石版画制作行っている。 しかし、1901年明治34年12月明治美術会解散すると、画壇との関係を断つ。東京離れ、妻たかと放浪生活をおくる。特に山形には、少なくとも1902年明治32年)頃と1911年明治44年)の2度訪れ後者時には山寺立石寺根本中堂展覧会開いている。ただ晩年源吉は、酒害もあって寧ろ悲惨だったともいわれ、1913年大正2年石巻奥村松三郎宅で客死した。死ぬまで由一の作品資料携帯し続けたが、一部処置困った人太平洋流したとも伝えられる

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田中謙助」の記事における「略伝」の解説

鹿児島城下で誕生田中氏養子入っている。幼時より学問好み、また古示現流剣術砲術修めた藩政では造士館訓導江戸藩邸中小姓務めている。 江戸で伊地知貞馨とともに水戸藩士らと盛んに連絡取り、また幕府外交姿勢批判文久2年1862年大坂藩邸詰の永山佐一郎配下伍長となる。 しかし間もなく有馬新七らと九条尚忠酒井忠義らの襲撃を謀って大坂脱走し上洛して京都寺田屋入った。しかし島津久光派遣した鎮撫使激論となり、最後に謙助が「もう論ずことはない」と断じたために、鎮撫使道島五郎兵衛に「上意」と眉間を斬られて昏倒した。これが寺田屋騒動発端である。その後蘇生するが、翌日伏見藩邸自害命じられた。 明治24年1891年)、従四位追贈された。

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フランソワ・フェヌロン」の記事における「略伝」の解説

ペリゴール地方にある貧しいが古く高貴な家系一員として、サン・モンダン(Sainte-Mondane, ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏)のフェヌロン城に生まれる。祖先何人かはサルラ(Sarlat)の司教勤めたという。兄弟多かったので早くから聖職者となるよう期待され、幼い時には家庭教師からギリシア語古典を学ぶ。16歳の時、カオール大学送られそこで哲学修辞学学んだ聖職者ジャン・ジャック・オリエールやヴァンサン・ド・ポール友人であった叔父アントワーヌ紹介により、コレージュ・デュプレシスで神学を学ぶかたわらソルボンヌにも通い、そこで後にパリ大司教枢機卿となるアントワーヌ・ド・ノワイユと出会う1672年からイエズス会に近いサン=シュルピス神学校学び1677年カオール大学により神学博士認証され、同じ年にサルラ司祭任命される。そのすばらし説教評判となり、1679年にはパリ大司教任命される同時にカトリック改宗した若い女性教育する機関ヌーヴェル・カトリック(Nouvelles-Catholiques)の監督就任する1681年から95年まではカルンナック(Carennac)にある僧院住んでいた。 1686年から将来論敵となるボシュエ知り合い親交深めている。1685年ルイ14世ナントの勅令廃止して以来聖職者にはフランス全体プロテスタント誤り説いてまわるよう要請されていた。ボシュエにより、フェヌロンイエズス会士のルイ・ブルダルー、エスプリ・フレシエのような雄弁家とともに推薦された。フェヌロンはそれから3年間はサントンジュ(Saintonge, ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏)で、ユグノー対し改宗促す活動続け一方、王に書簡送りこの地方から軍隊排除しあからさまに住民抑圧しないよう説得している。1688年には従姉妹ジャンヌ・ギュイヨン(ギュイヨン夫人)と出会い1689年から1693年までの間、2人定期的に文通続けた1689年からブルゴーニュ公家庭教師となり、1695年カンブレー大司教叙任され1715年まで勤める。 1695年旧知ギュイヨン夫人異端信仰により国王命令ヴァンセンヌ城投獄されたことから、彼女を非難するボシュエ対し擁護論陣張りフランスのカトリック界を二分する騒ぎ発展したルイ14世ボシュエ加担したためにフェヌロン説教壇上で自分著書否認して決着がつくが、かえって世論フェヌロン支持するようになった。このキエティスム論争最中である1699年に『テレマックの冒険公刊プラトン由来する独特の理想国家提示しフェヌロンユートピア思想をあらわす代表作として知られる

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小島尚質」の記事における「略伝」の解説

代々幕府仕えた医家小島家第八代にあたる。父は御番医師小島春庵(春庵は小島家世襲通称)。母は前野良沢の娘であるので、良沢の外孫にあたる。下谷和泉橋通にある家に第三子として生まれる。享和3年1803年父の死去を承け、家を継ぐ。文化8年1811年)、献登城許される文化10年1813年)、17歳医学館調合役を命ぜられた。文化13年1816年11月奥医師山本宗英惟瑞の娘を娶る。同じ年の12月には医学館による聖済総録の校刻にあずかったという理由で銀を賜る天保11年1840年12月16日法眼叙せられる。将軍徳川家斉その子女の治療にあたる。多紀元堅とともに医学館指導的な役割果たした嘉永元年1848年没し三田貞林寺葬る。家は子息・春沂が継いだ

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クララ・ホイットニー」の記事における「略伝」の解説

ニュージャージー州出身商法講習所教師として明治8年1875年)に来日した父と共に14歳から5年間日本で暮らし明治13年1880年)にアメリカ帰国明治15年1882年)に22歳再来日。だがウィリアムは、行き違いから正式なお雇い外国人になれず、生活は困窮窮状見兼ね勝海舟好意で、ホイットニー家は勝邸内別棟に住む。 明治19年1886年26歳で、22歳梅太郎の子を身ごもり結婚した。しかし家計苦しく生計明治女学校教職に就いていたクララ担っており、海舟の死の翌年である明治33年1900年)、40歳で夫を置いて子供達と共に帰国ペンシルベニア州移り亡くなるまで過ごした1884年4月浜離宮開催され観桜会招かれクララ日記に、明治天皇について、『想像していたより、ずっとご立派』であり、『背丈は約5フィート8インチ(=170cm程度)か、多分もう少し低いかもしれ』ず、『明るオリーブ色でやや重厚な顔立ちに『小さい山羊ひげと口ひげが』あり、『快活温和な表情であった天皇各国使臣挨拶を受けると『優雅に頭を下げ微笑され』たと率直に記している。

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山川健次郎」の記事における「略伝」の解説

嘉永7/安政元年1854年)、会津藩士・山川重固の三男として生まれた万延元年1860年)、父の重固が没し、兄・大蔵(後の山川浩)が家督を継ぐ。 明治元年1868年)、会津戦争若松城開城後、猪苗代謹慎の後、越後脱走長州藩士奥平謙輔書生となる。明治4年1871年)、斗南藩再興のあと、アメリカへの国費留学生選抜されジャパン号渡米明治8年1875年)、イェール大学シェフィールド理科学校で物理学学位取得し帰国明治9年1876年)、東京開成学校翌年東京大学改編教授補になり、アメリカ人ピーター・ベーダー(ピーテェル・ベダル)の助手務める。明治12年1879年)、日本人として初の物理学教授になる。明治21年1888年)、東京大学初の理学博士号を授与された。 明治34年1901年)、48歳東京帝国大学総長となる。東京学士会院会員任命される明治37年1904年8月22日貴族院勅選議員(-大正12年1923年3月1日)。明治38年1905年)、日露戦争後に、政府非難した教授処分を受ける事件戸水事件)が起こり東大総長辞任明治40年1907年)、安川財閥安川敬一郎松本健次郎親子)の資金拠出による明治専門学校(現九州工業大学)の設立協力初代総裁となる。明治44年1911年4月1日九州帝国大学初代総長となる。大正2年1913年5月9日再び東京帝国大学総長となる。6月21日九州帝国大学名誉教授大正3年1914年8月19日澤柳事件承け京都帝国大学総長兼任する1915年6月15日まで)。大正9年1920年)、東京帝国大学総長退任昭和6年1931年1月16日化膿性中耳炎のため東京大学病院入院治療中1月23日胃潰瘍併発し吐血する。その中耳炎治癒したものの胃潰瘍改善せずに衰弱し6月半ばからは呼吸困難に陥り、6月26日池袋自邸死去戒名は希不踰院殿慎誉平久大居士

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丸山晩霞」の記事における「略伝」の解説

信濃国小県郡祢津村(現・長野県東御市生まれ。同じ長野生まれ彫刻家川村吾蔵遠戚本名健作1888年彰技堂に入門明治美術会展に出品1895年群馬県沼田付近で、写生をしている吉田博出会うその時吉田描いていた水彩画感銘を受ける1898年吉田博とともに日本アルプス写生旅行」を敢行飛騨方面まで巡る。1899年三宅克己交友三宅勧めから、1900年渡米同行した鹿子木孟郎満谷国四郎河合新蔵と、先発吉田博中川八郎で「日本人水彩画家6人展」をボストンアートクラブで開催大成功収めプロビデンスワシントンD.C.でも6人展を開催したその後鹿子木、満谷、河合とともにヨーロッパ巡遊シンガポール香港経由1901年帰国1902年明治美術会改め太平洋画会創立に加わる。小諸義塾水彩画教師となり島崎藤村交友1907年大下藤次郎らと日本水彩画研究所設立1907年文展に「白馬神苑」を出品1908年日本山岳会会員1909年絹本水彩描いた日本画調の作品を「和装水彩」として発表。1911-1912年再びヨーロッパに渡る。この滞欧中に大下藤次郎急逝する。 1913年日本水彩画創立評議員となる。水彩画庶民の間に急速に広まり日本各地講習会指導訪れた1923年関東大震災被災者救済目的に、中国東南アジアインド旅行内弟子の関晴風と、小諸・玄光院で慰霊のため「釈迦八相」を制作1936年日本山岳協会創立参加祢津村アトリエ羽衣荘」を新築太平洋画会日本水彩画会、日本山岳協会には毎年出品続けた1942年没、享年76内弟子小山周次が中心となって遺稿集水彩画家丸山晩霞」が日本水彩画会から刊行された。晩年画風に関して不評だった丸山晩霞だが、この遺稿集寄稿した顔ぶれからも、丸山晩霞存在当時日本美術界において大きかったことがわかる。 丸山晩霞の墓は、生家の裏山にあり、墓石には「水彩画家丸山晩霞 ここに眠る」とある。アトリエの「羽衣荘」には藤村碑文がある。 丸山晩霞世界各国から持ち帰った石楠花育てるなど、高山植物に関して博学であった。また俳句たしなみ選者でもあった。自らを田園画家と称し郷里風景愛した地元祢津村における丸山晩霞には、文化人としての存在もあり、地域振興活性化にも一役果たしている。 丸山晩霞画風は、吉田博三宅克己影響され初期1911年欧州旅行以後中期1920年代以降晩年と、掛け軸屏風表装された「和装水彩」に分類していだろう明治37年1904年1月の『新小説』に、島崎藤村が「水彩画家」を発表した内容水彩画家鷹野伝吉が妻の不貞発見しつつこれを許すが、別の女と親しくなって妻が苦悩するというもので、藤村実体験に基づくものだったが、『中央公論明治40年1907年10月号に晩霞は「島崎藤村著『水彩画家』の主人公に就て」を発表し抗議した小説モデル問題第一とされるが、見ての通り主人公水彩画家だというだけで、藤村自身体験描いたものであった平成18年2006年11月長野県東御市東御市文化会館内に市立美術館丸山晩霞記念館」が開館

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ミハイル・サルトィコフ=シチェドリン」の記事における「略伝」の解説

地方地主の家に生まれ幼少期から農奴対す地主横暴農奴制不合理経験しつつ成長プーシキン母校であるリツェイに学びベリンスキー耽読した1844年卒業して官職に就き、かつての同窓生であるミハイル・ペトラシェフスキーサークル加盟した1848年祖国記録 Отечественные записки』誌に『もつれた事件 Запутанное дело』という小説発表したことが勤務していた当局問題視されヴャトカ左遷されたがかえってこのためにペトラシェフスキー事件へ連座免れたニコライ1世死によって追放解かれ1856年ペテルブルク帰還許されたがヴャトカでの任務辞めなかった。その年に追放中の観察小説『県の記録 Губернские очерки』としてまとめ、『ロシア通報 Русский вестник』誌に発表され始めると、チェルヌイシェフスキードブロリューボフシェフチェンコなどの批評家絶賛された。その後リャザン県・トヴェリ県の副知事として農奴制改革の実施あたったが、1862年に職を辞し1863年から64年までチェルヌイシェフスキー逮捕された後の『同時代人 Современник』誌により、反動勢力との言論闘争行った1868年からはニコライ・ネクラーソフとともに祖国記録』誌を主宰し多く作品発表するかたわら、若い作家創作指導あたった1884年に『祖国記録』誌が廃刊となると童話形式警察国家ジャーナリストロシア正教会僧侶などを諷刺した晩年重病苦しみながら、死ぬまで執筆続けたという。

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本浄院」の記事における「略伝」の解説

母が慶長の役の際に清正伴われ朝鮮渡り同地懐妊慶長3年1598年11月朝鮮より撤退日本へ帰国途中の島(壱岐か)で生まれた出産時海女とりあげたので、清正によって「あま」と名づけられたという。 慶長11年1606年)、あま姫は9歳館林城榊原康政徳川家康側近徳川四天王)の嫡男康勝結婚熊本より館林輿入れする清正在世中であり、輿入れ壮麗な様子が「当代記」に記されている。康勝慶長20年1615年)、大坂夏の陣後に病没したため実家加藤家戻り江戸屋敷に入る。のちに大坂城代阿部正次嫡男・政澄に再嫁した。寛永4年1627年)に後の老中阿部正能を生み、同年30歳死去した。 墓は池上本門寺阿部家墓地にあり、本浄院先立って寛永2年1625年6月24日亡くなった生母浄光院の墓と同じ基壇寄り添うように並べて建てられている。現在の墓は本浄院三十三回忌にあたる万治2年1659年8月19日に、子の阿部正能によって再建されたものである墓碑銘)。法名本浄院日昌神尼。

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川之邊一朝」の記事における「略伝」の解説

江戸浅草永住生まれ通称源治(次)郎。12歳の時、徳川将軍家御用蒔絵師棟梁幸阿弥因幡長賢の仕手頭・武井藤助二代目)に入門し蒔絵修業に入る。1850年嘉永3年21歳独立、名を平右衛門一朝号した明治維新前将軍家御殿蒔絵方を勤め和宮天璋院調度制作にも参加した30歳の時、漆器商・新井半兵衛委嘱を受け始める。新井家明和頃から江戸幕府蒔絵器物調進していたが、維新後は海外万博積極的に出品一朝もこれに加わりそこで高い評価獲得していく。維新後、多く蒔絵師たちがパトロン失い没落していく中で、一朝制作続けられたのはこの新井家の関係に拠るものとみられる名声得た一朝は、明治20年代から明治政府委嘱受けるようになり1896年明治29年6月30日には帝室技芸員拝命翌年には東京美術学校現在の東京藝術大学教授となる。墓は世田谷区北烏山妙高寺烏山寺町内)。幸阿弥派流れは、一朝長男・川之邊一湖とその子川之邊一朋へと引き継がれていった

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裴度」の記事における「略伝」の解説

河東郡聞喜県現在の山西省運城市聞喜県)の名門河東裴氏出身789年進士及第し宏詞科に登り、制挙に応じて対策高等河陰県尉を授けられる監察御史遷り一時河南府功曹に左遷されるが、811年に司封員外知制誥より本司郎中になり、中書舎人御史中丞門下侍郎同中書門下平章事累進重ねた当時淮南西道節度使呉元済が横暴極め蔡州占拠して反抗続けており、憲宗は軍を派遣した鎮圧失敗していた。群臣多く撤兵進言したが、裴度だけは断固討伐すべきであることを論じ、自ら督戦することを請願し許され817年8月からの裴度処置により10月には乱が鎮定された。この功績より金紫光大夫弘文館大学士加えられ上柱国を賜い晋国公に封ぜられた。韓愈行軍司馬として、この呉元済の乱を鎮圧するに従っていたために、詔を受けて「平淮西碑」の文を撰述し、裴度称えている。 その後姦臣の程异や皇甫鎛と対立して819年河東節度使に左遷されたが、穆宗即位後の821年秋に幽州鎮州反乱起こり、さらに克融・王廷湊が河朔に乱を起こすと、鎮州四面行営招討使に任命され寝食を忘れて任務にあたり穆宗にその忠誠を嘉され中書侍郎同中書門下平章事とされた。しかし、逢吉との争いから山南西道節度使出されて、826年中央復帰し今度逢吉・牛僧孺らを追いやった。文宗即位した後、李徳裕宰相推薦するが、宗閔によって反対されて頓挫し裴度自身宰相辞めて襄陽節度使となって出向し834年には東都洛陽留守に遷った。 この頃邸宅洛陽集賢里に建て、午には別荘として緑野堂を造り詩人白居易劉禹錫詠唱し詩酒琴書を楽しみ、当時名士彼のもとに多く訪問するようになった文宗洛陽から長安に至る人士があれば必ず裴度安否尋ねたという。839年中書令拝命し、その年に75歳没する太傅追贈され、文忠と諡される。841年には太師の位を加えられ宣宗の代には憲宗の廟に埋葬された。

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ダヴィト・リャザーノフ」の記事における「略伝」の解説

オデッサ生まれ15歳の時からナロードニキ運動に参加したため逮捕され5年間の懲役刑を受ける。1887年からマルクス主義者となり、19歳にはロシア・マルクス主義者サークル入った1891年オフラーナ捕らえられ、カートルガ(強制労働キャンプ)に送られ4年間を過ごした1900年ヨーロッパへ亡命しマルクス主義文書普及努めるようになる1905年ロシア革命参加するが、それが失敗に終わるとふたたび追放されて亡命生活にもどり、そこで第一インターナショナル沿革史執筆し始める。1908年からレフ・トロツキー主宰していた「プラウダ」紙に、1915年にはトロツキーによって創刊された「ナシェ・スロヴォ」紙に寄稿した1914年第一次世界大戦の勃発反対し、1915年からツィンメルワルト会議参加した1917年ロシア二月革命の際に帰国し臨時政府に対してソヴィエト支持していたボルシェヴィキ加入する十月革命によりソビエト連邦成立してから、1920年マルクス・エンゲルス研究所設立されリャザーノフはその所長となった。『ドイツ・イデオロギー』や『自然弁証法』を含むマルクスエンゲルス未発表原稿蒐集し、その全集作ることが目的であり、この研究所マルクス主義哲学主要な権威となる。さらに、ディドロフォイエルバッハヘーゲルなどの著作集編集した1930年に「メンシェヴィキ・センター事件」と関係づけられて、研究所所長解任されロシア共産党からも除名される。後に赦免されモスクワに戻るものの、1937年に「右派日和見主義トロツキスト組織」と関連付けられて再逮捕され、翌1938年サラトフ銃殺刑処された。 1958年及び1989年に名誉回復された。

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曾鞏」の記事における「略伝」の解説

12歳時に『六論』を書いたという。1057年欧陽脩主催する科挙試験に、蘇軾蘇轍兄弟とともに合格し以後の文風を一新させたことで有名。太平司法参軍となり、中央入って編校史館書籍中央図書館)・館閣校勘集賢校理・英宗実録検討官となる。地方再度出て越州通州通判斉州襄州洪州福州明州亳州などの知州歴任し、よく民政心を用い治績をあげた。斉州知州をやめるときには民衆がこれを惜しんで壊し門を閉ざして去らせまいとしたので、夜に乗じてかろうじて去ることができたといわれる。ついで判三班院となったときに、国家財政近年になって膨張したことを憂い上奏し、経費削減の必要を説いた仁宗はこの意見嘉納し、「五朝治績は、曾鞏判断させるのがよい」と言い史館修撰任命した1082年中書舎人となり翌1083年4月没する遠縁姻戚関係にある王安石とは、1041年頃に直接知り合い以後終生親し交友続いた。ただ、弟の曾布新法党有力な一員であったが、曾鞏自身新法に対して批判的だった王安石直接懇切な手紙送りその反省うながしたこともある。地味な人柄手伝って官界ではあまり出世できず、その散文華麗さには欠けるが、堅実な議論の展開が特徴で、清の桐城派古文家の姚鼐は「曾公は能くその短とするところ避けて犯さず」と評している。唐宋八大家一人で、序跋や雑記の類で優れているものが多く古代典籍整理校勘従事した時代の作、『戦国策目録の序』が有名。詩文集に『元豊50巻・『続元豊40巻・『隆平集』30巻がある。 古典籍校訂保存にも尽力し現存する戦国策33本のテクスト曾鞏再校訂を施したのである

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スティーヴン・ランシマン」の記事における「略伝」の解説

ドクスフォードの初代ランシマン子爵ウォルター・ランシマン第二子として生まれ11歳にしてフランス語ラテン語ギリシア語ロシア語通じたという。イートン校およびケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ、前者では勅定奨学生で、後者ジョン・Bベリー指導受けた1927年から1938年までトリニティ・カレッジ特別研究員として研究続けそのかたわらケンブリッジ大学講師つとめた1940年ブルガリアソフィア駐在イギリス公使館の広報官となり、1941年カイロイギリス大使館転勤1942年から1945年までイスタンブール大学ビザンツ芸術東ローマ帝国史を講じ1945年から1947年までギリシアにおけるイギリス文化振興会(British Council)の代表であった1953年から1954年まではオックスフォード大学の聖メアリ・モードリン・カレッジでウェインフリート講義を、1960年1961年にはセント・アンドルーズ大学ギフォード講義それぞれつとめ、1965年からイギリスギリシア協会会長であった1958年ナイト授爵。その他、大英博物館評議員英国学士院会員[要出典]・アメリカギリシア学士院学界で名誉会員などを兼ねていた。

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盧仝」の記事における「略伝」の解説

范陽郡涿県出身出世の志なく、若いときから少室山現在の河南省鄭州市登封市)に隠棲して学問究めた諫議大夫召されたこともあるが辞して仕えなかった。かつて月蝕の詩を作って元和逆党李忠臣をさすとも、宦官の吐突承璀をさすともいわれる)を譏ったところ、韓愈賞され韓愈もこれにならった月蝕詩がある。甘露の変のとき王涯の邸で会食していたところを巻き込まれ逮捕された。盧仝宦官一掃計画となんの関わりもなかったが、問答無用とばかり殺された。

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土佐光文」の記事における「略伝」の解説

京都出身。兄に分家継いだ土佐光清がいる。宗家土佐光禄後継がいなかったため、嗣子となり土佐本家継ぎ禁裏所預となった文政11年10月13日1828年11月19日数え17歳従六位上肥後介、天保6年8月23日1835年10月14日24歳正六位下左近衛将監、同13年1月29日1842年3月10日31歳従五位下嘉永2年4月9日1849年5月30日38歳従五位上安政3年2月5日1856年3月11日45歳正五位下慶応2年8月10日1866年9月18日55歳従四位下・備前守叙される。 安政御所障壁画制作では、画工頭を務めた絵師としては東山春秋画会参加し解散後中島来章塩川文麟らと如社を創設し明治京都画壇架け橋となった明治維新後も、明治4年1872年)の京都博覧会賞状を受けるなど活動続けている。明治12年(1879)死去享年68墓所知恩寺。跡は息子土佐光章が継いだ弟子川辺御楯川崎千虎柴田真哉など。

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鄧石如」の記事における「略伝」の解説

父の鄧一枝博学で書や篆刻をよくし、石如は幼少より篆刻学んだ。しかし、家は貧しく科挙学習専念できず、餅や売り歩いて家計足しとした。やがて刻した印を各地売り歩く放浪の生活が始まる。32歳頃に巘に才能を見いだされ江寧名家鏐に紹介される家には金石拓本大量に所蔵されており、石如は30歳から8年間、ときに寄食してひたすら秦・漢碑文臨書明け暮れた最初5年間は篆書に、次の3年間は隷書専心したという。しかし家の家力が衰えたので石如は元の売書・売印生活に戻ることになった歙県にて程瑶田知りあい、儒学者金榜紹介される。またこの頃著名な学者張恵言と知遇得ている。金榜ところに一年間揮毫しながら寓居し、金榜推薦得て高級官僚の曹文植に会い、その才能を見いだされる。曹文植の要請で石如は北京に赴き、そこで劉文清・陸錫熊らの名士とまみえ、その書は大絶賛される。しかし、内閣学士にして文壇大御所である翁方綱ところに寄りつかなかったので翁が激怒しこれに付和雷同するものが現れる。これは性格清らかすぎて世俗まみれることができず人付き合い下手だったからとされる加えて文清失脚し、陸錫熊が急死する北京居られなくなった。再び曹文植の紹介で両湖総督畢沅招かれ幕客私設秘書)となり、3年寄寓した。しかし、ここでも銭坫・孫星衍などの文人たちと折り合い悪く51歳にして職を辞して放浪生活戻った。石如が書家として一躍名を成したのは書論包世臣との出会い大きい。石如60歳のとき、鎮江にて28歳包世臣出会う包世臣は石如の書に感激し、わずかの期間しか師事することができなかったが、生涯に亙り師と仰ぎ敬愛した。石如没後、「完白山人伝」を著し、さらに没後19年目に「国朝書品」を著し清代書家格付け行い、石如の書を清朝第一絶賛した。石如は当時あまり知られていなかったがこれにより一躍有名となったこの後にも康有為が石如を敬愛し、その著書の中で碑学派開祖とした。 石如は生涯3度の結婚をしている。最初18歳で同じの潘氏を妻としたがすぐに死別次の妻塩城の沈氏で二人の子授かった3度目懐寧の程氏を娶った。沈氏との子である鄧伝密は父の衣鉢継ぎ書に巧みであった

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来原治子」の記事における「略伝」の解説

兄の小五郎剣術修行のためを出る頃には、両親異母姉らはすでに亡く肉親は治子1人であった嘉永5年1852年9月小五郎高齢祖母を妹に託して江戸旅立った木戸松菊略伝)。 安政3年1856年9月25日来原良蔵嫁ぐ。翌安政4年1857年9月14日長男・彦太郎(孝正)誕生文久元年1861年次男正二誕生翌年文久2年1862年8月29日、夫の良江戸で自害し未亡人となる。結婚生活6年であった慶応2年1866年5月次男正二郎が兄・孝允の養嗣子となる。明治4年1871年1月に彦太郎アメリカ留学6月正二郎がイギリス留学明治7年7月に彦太郎帰国。翌明治8年1875年5月正二帰国次男帰国半年後の11月17日大阪にて死去。墓は夫良同じく東京都世田谷区松陰神社にある。墓碑の名は「和田春子」。

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宮部春蔵」の記事における「略伝」の解説

肥後国益城郡田代村(現・熊本県上益城郡御船町)に生まれる。文久2年1862年)、脱藩し長州へ行く。三条実美仕える。元治元年6月5日1864年7月8日)の池田屋事件で兄は殺害されるが、春長州藩邸へ逃げ込んで難を逃れた同年7月19日1864年8月20日)、禁門の変長州藩軍として参加し敗走真木保臣と共に天王山小屋立て籠もり皆で火薬に火をつけて爆死した。享年26

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武藤正明」の記事における「略伝」の解説

四境戦争第二大隊隊に属し芸州口で幕府軍戦った同年足軽銃隊編成に功があり、藩主より15両を賜る明治5年東京移り住み鉄道寮に勤める。明治7年開業した大阪駅初代駅となった以降鉄道官吏として勤め明治26年退官明治41年東京75歳没。 タケとの婚礼の日、綿帽子外した花嫁あまりにも面長なので仰天して腰を抜かしそのまま遊廓まで走ったという逸話子孫に伝わる。 妻のタケは、兄の晋作より先に結婚して子供産んでいる。兄妹中もっとも長命で、晋作の妻・雅子が、晩年受けた取材で、タケ青山原宿武藤家に住み最近は目が悪く医者通っている事を語っている。

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略伝

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渡辺幽香」の記事における「略伝」の解説

江戸久留米藩邸内生まれる。父親工房で、兄義から洋画を学ぶ。明治10年1877年)、第1回内国勧業博覧会油絵人物図」「野州霧降滝図」出品し褒状を受け、明治23年1890年)の第3回内国勧業博覧会でも「五姓田芳柳像」で褒状を受ける。 肖像画多く描いたが、明治17、18年頃から版画興味をもち、銅板松田緑山学んだ後、ビゴー風の西洋人好み日本風俗を描いた版画集「大日本帝国古今風俗寸陰漫稿」(石版画1886年)を緑山のもとで制作外国人向けに販売するその後日本の風俗を描いた大日本風俗漫画」(石版銅版1887年)や、「日本かがみ」(銅版1887年)を発表する。また長年華族女学校画学教師務めた1893年シカゴ万国博覧会婦人館に「幼児図」を発表。臼に縛りつけられながらも蜻蛉取ろう這い出すしたたかな表情赤子は、これから世界舞台へ押し出そうとする新興国日本はしなくも象徴している。

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狩野重信」の記事における「略伝」の解説

狩野永徳の弟・狩野宗秀門人とされる談山神社文書中にある「大織冠御宮繪師筆子請取」には、慶長3年1598年)「繪師宗原」が談山神社子院から合わせて画料23石5斗を受け取った事を記している。「宗原」と「宗眼」の同音なことから両者何らかの関係があるとも考えられ談山神社に「三十六歌仙扁額」が残っていることから宗眼重信本人とするのが自然である。また、慶長7年1602年)の加納城築城時には渡辺了とともにその画事を務めたという。 作品は約20点ほど確認されている。永徳・宗秀から引き継いだ桃山的な大胆さと、次代狩野光信的な繊細さ共存しつつも、未だ狩野探幽様式見られないという過渡期様式を示す。また、永徳様式整理図形化した海北友松画風とも同時代性感じられる跡取り弟子がいたかは定かでないが、寛文8年1668年)から寛文13年1673年)の間に可能は絵師たち36名が合作した牛馬双幅」に参加した一人鈴木宗眼守道が重信息子とみられる

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蘇轍」の記事における「略伝」の解説

眉州眉山県(現在の四川省眉山市東坡区)の出身嘉祐2年1057年)、19歳時にとともに進士及第し商州軍事推官となるが父の蘇洵首都で養うこととし、兄の蘇軾任地鳳翔府)から帰っててはじめ大名府推官となる。神宗時に三司條例司の属官となったが、王安石青苗法反対して河南推官に転出させられ斉州書記をへて著作佐郎となる。いわゆる「烏台の詩案」で兄の蘇軾が罪を得たときに連座して、監筠州酒税績渓知県落とされる新法・旧法の争い)。 哲宗即位して召されて秘書省校書郎となり、右司諫・起居郎中書舎人戸部侍郎累進し翰林学士となり吏部尚書御史中丞尚書右丞をへて門下侍郎まで昇進した。しばしば上書直言したが、帝の意にかなわず汝州知州左遷される。袁州知州とされたが赴任先に着く前に朝議大夫落とされ南京をへて筠州到る化州別駕雷州循州徽宗に代が替わって永州岳州地方回りさせられていたが、大中大夫復帰させられ、提挙鳳翔上清・太平宮として許州移った崇寧年間1102年 - 1106年)に官を辞し許州に室を築き、潁浜遺老称し交友絶ち終日黙座して経史諸子研究すること十年にして74歳没する。端明殿学士追贈され南宋淳熙年間に文定と諡される。

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依田竹谷」の記事における「略伝」の解説

竹谷前半生はよく伝わっていない。谷文晁門人花鳥山水人物虫魚など幅広く画作した。下谷御徒町居住琴棋書画の中で、碁・画・書・詩の順に得意だったという。 なんらかの理由文晁門を破門される。弟子高久隆古がいる。行年54歳四谷塩町長善寺葬られる

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新興蒙所」の記事における「略伝」の解説

父の政貞は堀田正俊儒官として仕えたその後浪人となっている。蒙所は幼少より書を能くし、とりわけ篆書・隷書優れた大阪に移ると堺に住み晩年肥前蓮池藩仕えた。書で名を成し今体派篆刻大坂もたらし初期浪華派を起した。門下牧夏嶽・泉必東・尾崎散木佚山都賀庭鐘などが一派をなした。 大徳寺源光庵墓所がある。碑文門弟都賀庭鐘刻している。

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フランツ・ブライ」の記事における「略伝」の解説

ウィーンの靴製造職人家庭生まれる。教育熱心な父親方針によりメルツ修道院附属学校入り、そこからウィーン戻り、さらにスイスジュネーヴチューリッヒで学ぶ。1893年18世紀神父ガリアーニにかんする論文提出しチューリッヒ大学卒業。同じ年に医学生のマリア・レーマンと結婚し一緒にアメリカ渡り、約2年間ほどペンシルベニア州フィラデルフィアに住む。 1900年ヨーロッパ戻り以後ドイツミュンヘンベルリンウィーン住み作家として活躍する1933年ナチス政権成立とともに亡命しスペインマヨルカ滞在するが、1936年にはスペイン市民戦争逃れてウィーン帰る2年後ナチス・ドイツオーストリア併合したためイタリアフランスをへて再びアメリカ亡命しニューヨーク近郊病院71歳死去したジッドワイルドクローデルチェスタートンピランデルロウナムーノなどの外国小説哲学翻訳紹介し無名だったカフカプルーストジョイスムージルいち早く評価した功績大きい。

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ヴィクトル・クザン」の記事における「略伝」の解説

パリサンタントワーヌ地区にある時計製造業者家庭生まれる。10歳からその地区のリセ・シャルルマーニュ(Lycée Charlemagne)に通い18歳まで学ぶ。貧し生まれであったが、エコール・ノルマル進学することができた。 エコール・ノルマルでは、ピエール・ラロミギエール(Pierre Laromiguière)から哲学学び、特にロックコンディヤックについての講義影響受けている。クザン哲学講師maître de conférences)の地位得てエコール・ノルマル教え始める。18151816 年哲学教授ロワイエ=コラールPierre Paul Royer-Collard)の助手となり、スコットランド常識学派重要性教えられている。同じ頃、メーヌ・ド・ビランから心理学について影響受けている。 ドイツ哲学中でもカントヤコービシェリング研究進み1817年にはハイデルブルク大学ヘーゲル会っており、その後ヘーゲルとは交友持った1815年王政復古時代からクザンコラール導かれ、「教理派〔純理派〕 Doctrinaire」という学派属していた。教理派は政治的に極右王党派〔ユルトラ〕と社会主義者中間自由主義者として位置しつつ、立憲王政擁護していた。1824年シャルル10世即位する復古王政はいっそう反動化してゆき、クザンギゾー大学の職を追われた。 1830年成立した立憲主義的な7月王政では、クザンギゾーと共に復権し、政治の中心担ったクザン国務院顧問官公教育大臣務めたアカデミー・フランセーズ会員となった

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前田孫右衛門」の記事における「略伝」の解説

藩校明倫館学び長州藩代官奉行歴任後、文久元年1862年)に上京して直目付に就任して軍備整備に当たるが、奉勅攘夷の為出奔文久2年1863年)の八月十八日の政変により直目付を罷免されるが、9月に表番頭用談役に登用され、後に直目付に復職元治元年1864年7月山田亦介天野謙吉らと共に東上するが京師の変の報を聞いて帰国し伊藤俊輔と共に応接使となる。禁門の変の後、直目付を再び罷免され謹慎処分処されるその後野山獄入れられ楢崎弥八郎松島剛蔵毛利登人山田亦介大和弥八郎渡辺内蔵太ら6人と共に処刑される

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酒井忠宝 (姫路藩主)」の記事における「略伝」の解説

旗本酒井忠讜(ただなお:「言に黨」、第4代藩主酒井忠実の5男)の長男本家男子がなく、先々代忠実の孫にあたることから、第5代藩主・忠学(忠讜の従兄弟にあたる)の婿養子となる。弘化元年1844年)、忠学の死去に伴い家督を継ぐ。嘉永6年1853年)、25歳死去し、跡を従弟養子の忠顕が継いだ

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三井親和」の記事における「略伝」の解説

最初禅僧東湖書法学び正徳元年1711年)、細井広沢に就いて書と篆刻学んだ広沢没後関思恭松下烏石平林惇信とともに細井門下の「四天王」と並び称された。寺社扁額祭礼の幟、商家暖簾など請われるままに書している。安永天明の頃に親和篆書草書反物に染出した親和染」が好事家の間に流行した。また印譜なども多く収蔵し、「親和広沢深遠な刀法ただひと受け継いだ」と評された。しかし、実際正しい篆法を学んでいないので書体用法過ちが多いと指摘される。 兄喜左衛門仕えた高崎藩主で当時老中昇り詰めた松平輝高気に入られ深川に地屋敷与えられた。旗本御家人の子息が挙って門を叩き多く門人集め馬術弓術指南と書教えた親和50歳過ぎまで妻帯しなかったが、人に勧められ40過ぎの農家の女を妻にした。しかし、子が出来ないので妻に請われ20歳ほどの女を妾とし、三人の子恵まれた一説には親和の妻は松平輝高臣下の娘だとも言う。 享年83門下著名となった者に林述斎亀田鵬斎などがいる。子の親孝も書家となった大成しなかった。甥の三井之孝による肖像画伝わっている。

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松本民治」の記事における「略伝」の解説

詳細な経歴不明1879年明治12年)頃、本多錦吉郎主催する洋画塾・彰技堂に入門して学ぶ。1884年明治17年永井建子に絵を教えたようだ。翌年11月、『新編普通画学本. 巻之4 鳥類之部』を編集している。1887年明治20年)頃三田住み画塾開いてたようだ確認されている作品少ない。風景画は、同時代光線画のような夜景をてらす光が印象的である。また、観音図」では絹地油彩写実的に日本的なモチーフ描いており、こうした作風明治初期洋画家にしばしば見られる

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沈括」の記事における「略伝」の解説

杭州銭塘県出身仁宗嘉祐年間進士神宗時に太子中允・検正中書刑房公事・提挙司天監などを歴任する。歴官としても業績上げ史館検討の職を兼任することになる。淮南飢饉があった時に察訪使として派遣され、穀価を下げさせ、廃田復興して水利治める。集賢校理となり、浙江水田監察する。さらに太常丞・修起居注となり、大い民政努めた知制誥・通進銀台司に昇進し河北西路察訪使となる。 遼の使者である禧が来て、黄嵬山(現在の山西省忻州市原平市)の地が遼の領土であることを主張した時、沈括枢密院古地図調査し長城が遼と宋の国境であることを主張、遼の要求撤回させた。その功により、翰林学士権三司使を拝命した。王安石の新法には賛成立場を採り、呉充が免役法(募役法)を批判した時には、不満を述べるのは(労役に関係のない)士大夫ばかりであるとこれに反論している。 集賢学士となった後に宣州知州となり、龍図閣待制・知審官院に任命され青州知州となるが、赴任する前に延州改められた。よく治績上げ名声広く伝わったが、ある事件連座して均州団練副使左遷された。 哲宗元祐初年に秀州に渡り光禄少卿となって南京応天府)に赴任する。後、潤州の夢渓園に隠居して8年後に没する

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オリーヴ・ヒギンズ・プローティ」の記事における「略伝」の解説

教育者製造業者の父ミルトン・プリンス、母キャスリーン・ヒギンズの娘オリーヴ・ヒギンズとしてマサチューセッツ州ウースター生まれ1904年スミス・カレッジ卒業し1907年にルイス・プローティと結婚1908年ラドクリフ大学大学院修了マサチューセッツ州ブルックリン移った共和党員でユニテリアン派五人の子産んだ詩作の上ではシルヴィア・プラス親しかった。「プラウティ」が正しいが日本ではプローティで通っている。 1938年、「ステラ・ダラス」の二度目映画化あわせて川村花菱が「愚かなる母」として劇に翻案し2月歌舞伎座森律子らによって上演された。

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明誉古磵」の記事における「略伝」の解説

出生地家系世俗名などの出自不明だが、大和郡山出身とする説がある。当時浄土宗僧侶なるには15歳でどこかの寺院所属し関東十八檀林での修学始めるのが普通なため、このころ出家した考えられる所属大和郡山西岸寺とする意見もあるが、『続緑山目次』の記述から称名寺 (奈良市)可能性がある。増上寺修行したとされ、貞享元年1684年32歳の時、敬神の証として自ら大黒天1000体描くことにした、というのが初めてわかる事績である。1680年代後半から20年ほど、京都画僧として活動してたようだ年次確実な最も早い作品は、貞享5年1688年刊行の『當麻曼荼羅白記撮要』(当麻曼荼羅についての必修概要)と『浄土十六祖伝』の木版挿絵で、以後もしばしば浄土宗関係の版本挿絵手掛けている。元禄10年1697年知恩院浄土宗祖法然が東山天皇から「円光大師」を追贈されたことを祝した記念式典が行われた際、古磵はこれを記録する円光大師贈号絵詞伝」制作任されており、既に画僧として名声得ていたことを物語っている。 元禄15年1702年)頃に大和郡山西岸寺移り、ついで正徳元年1711年)頃に西岩倉の専修院上京区浄福寺移り、後に報恩寺に移る。京都移住後奈良との関係は深く奈良大和郡山中心に多く社寺に古磵の作品残している。特に正徳2年1712年)から享保元年1716年)までの4年間は薬師寺頻繁に訪れ地蔵院逗留していた。晩年大和行き郡山西巌寺にて没す享保2年1717年示寂65歳墓所報恩寺とされるが、これは同寺の第25世来誉が天明の大火後に歴代住職顕彰のために建立した無縫塔である。実際の墓は現在確認できないが、浄福寺葬られたと考えられ薬師寺大基堂に位牌安置されている。

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松田緑山」の記事における「略伝」の解説

京都銅版工房玄々堂」を営む松本保居初代玄々堂、1786-1867年)の長男として生まれる。弟(八男)の松田龍山銅版画家で、実質上の玄々堂三代目と見做せる。父に銅版画学んだ緑山早熟で、12歳銅版画制作したとされ、「十三童」と記した13歳時の作品とも思われる物が幾つかある。この頃既に「松田氏」を用いているが、父の松本姓を名乗らなかった理由不明1858年安政5年紀州藩から摂津国河内国大和国伊勢国紀伊国5ヶ国通用銀札製造命じられる。ただし、これ以前より玄々堂藩札製造を手がけていたという。作品京都名所その他の風景画見られる。 その技術をかわれ、1868年慶応4年)閏4月太政官楮幣局から金札太政官札)を、翌年9月民部省から民部省札製造依頼され龍山とともに東京へ移住する。しかし、緑山銅版技法は殆ど保居の代から進んでいなかった。ほぼ同一の物を大量印刷するのは可能だったが、細かい差が生じるのは避けられず、近代国家紙幣として使用するには幼稚で粗雑すぎた。すぐに偽札が出まわってしまい役を降ろされるが、文明開化急速に進め明治政府は、その後竜文切手証券印紙新旧公債証書などの製造依頼する。ここでも贋造品に悩まされたため、明治7年1874年)に得能良介紙幣寮頭になると、銅版彫刻請負制度を廃止し玄々堂一派半ば切り捨てられてしまう。 紙幣寮離れた緑山同年東京京橋呉服橋石版印刷所「玄々堂」を開業明治初期銅版印刷石版印刷大きく貢献した玄々堂で職を得たり交流した人物として下岡蓮杖高橋由一山本芳翠石井鼎湖石田有年・才次郎旭山兄弟亀井至一・竹二郎兄弟渡辺文三郎・幽香夫妻彭城貞徳疋田志田翠、野村重喜松岡正識、平木政次中村文山細木緑雄、福富淡水水口龍之輔、若林長英山本龍玉、清水喜勝、舘道策などがいる。緑山洋画家支援する展覧会をしばしば開き洋画塾も設けて芳翠や疋田教えている。更に、1879年明治12年)には神奈川県翌年群馬県1884年明治17年)には東京都翌年には長野県に出庁し、石版印刷技術指導行っている。

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相田二郎」の記事における「略伝」の解説

1879年神奈川県足柄下郡早川村現在の神奈川県小田原市)に生まれる。神奈川県小田原中学校第四高等学校経て1923年大正12年)、東京帝国大学文学部国史学科を卒業同大大学院進学とともに同大学文学部史料編纂掛嘱託となる。1927年昭和2年)に史料編纂官補(同年有栖川宮奨学金を受ける)、1930年昭和5年)より、東京帝国大学文学部講師として古文書学講義1933年昭和8年)に史料編纂となった太平洋戦争のさなかの1944年昭和19年)、史料編纂掛図書疎開のため長野県出張し終戦間際1945年昭和20年6月に病に罹り49歳で歿した。 生涯史料編纂掛にあって、『大日本古文書』の編纂従事するとともに黒板勝美の傍にて、日本古文書学体系化つとめた(なお、黒板著作集である『虚心文集』に収録する古文書学概論」は、相田によって受講者ノート纏め上げて作られといわれる)。また、広島文理科大学九州帝国大学法文学部出向して古文書学講じ石清水八幡宮史・静岡県史・沼津市史の編纂や、皇室関係調査委員東山御文庫歴代宸翰調査委員臨時陵墓調査委員)、東京都史蹟名勝天然紀念物調査嘱託などを兼ねた。ほかに、史料の探訪調査余念がなく、その数は12府県にも及ぶ。特に彼の出身地である神奈川県下の中世文書調査・研究は、『新編相州古文書』に纏められている。

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瀬川如皐 (3代目)」の記事における「略伝」の解説

江戸生まれ。はじめ呉服屋営んでいたが、天保10年1839年)絞吉平の名で河原崎座入り歌舞伎狂言創作活動始める。のち絞吉平姥尉輔の名で五代目鶴屋南北師事するその後四代目中村歌右衛門後援を受け活動が活発となる。弘化2年1845年藤本吉兵衛一時澤村吉兵衛とも名乗る嘉永元年1848年11月中村座立作者となり、嘉永3年1850年三代目瀬川如皐襲名以後主に八代目市川團十郎四代目市川小團次のために台本を書く。行年75歳没す法名は徹寿浄肝信士本所牛島弘福寺墓碑があるという。

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仁阿弥道八」の記事における「略伝」の解説

初代高橋道八次男として生まれ、兄の早世により29歳家督相続、京・五条坂開窯奥田頴川宝山文蔵らのもとで修行積み青木木米と共に京焼名手として知られる仁和寺宮より「仁」、醍醐寺三宝院宮より「阿弥」の号を賜り出家名「仁阿弥」を称する45歳時に紀州藩御庭焼偕楽園焼立ち上げ参画以後高松藩御庭焼(賛窯)、薩摩藩御庭焼(磯御庭焼)、角倉御庭焼一方堂焼)、西本願寺御庭焼(露山焼)などの立ち上げ参画京焼技法全国頒布助力天保13年1842年)、伏見隠居するも、以後も「桃山窯」を開窯作陶続けた

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原在明」の記事における「略伝」の解説

原派の絵師原在中次男として京都生まれる。兄の原在正早熟画技優れていたこともあり、在明は寛政3年1791年)までに縫殿寮史生地下家伊勢家養子出される養家同年10月26日正七位下叙され、同5年1793年10月10日若狭目に任じられ、同12年1800年7月24日従六位下に進む。享和4年1804年2月7日に在明に改名文化3年1806年)兄在正が勘当されたため、在明が原家2代目継いだ。それからまもなく、養家家名伊勢から原に変えている。文化4年1807年)には江戸日光下っており、同年8月19日永代橋落橋事故では、近くにいたが幸い難を免れている。天保4年1833年10月東大寺別当勧修寺門跡済範入道親王近習として、正倉院開封立ち会い宝物記録制作行った(現在宮内庁書陵部)。 天保5年1834年12月22日史生官位辞め同日改め正六位下叙され内舎人任じられた。同年在明は、春日大社式年造替御用務める「春日絵所」職のを、同じ京絵師勝山山から第三者の手経て45両で譲り受けており(ただし名義は在照)、これが正六位下内舎人叙任作用した可能性がある。春日絵所は、在明以後原家引き継がれる。翌6年1835年大和介兼任するが、これには父・在中の強い意向があり、春日絵所獲得合わせこの頃原家大和志向がうかがえる天保7年1836年)には内匠大允も兼ね、同11年1840年孝明天皇立太子に伴い内舎人補され、同13年1842年正六位上進んだ有職故実松岡辰方山田以文学び故実精通した天保15年(1844)没、67歳。 在明に実子・在謙がいたが別の地下官人右馬寮大島家養子出しており、養子原在照が跡を継いだこうした変則的な相続理由は、地下官人養子となることで家格の向上を図り宮中貴族社会での地盤固めて、絵の御用獲得するためだと考えられる。また絵を発注するにとっても画技無論無視できない要素だが、それと同じくらい家格由緒も重要で、原家選択多く絵師ひしめく京都生き残るための一つ方策といえる

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土佐光清」の記事における「略伝」の解説

画法を父に習ってその跡を継ぎ禁裏画所務めた文化11年10月10日1814年11月21日数え10歳従六位上豊前介、文政4年2月30日1821年4月2日17歳正六位下、同11年2月20日1828年4月4日24歳従五位下伊勢守天保6年9月28日1835年11月18日31歳従五位上、同13年1月22日1842年3月3日38歳正五位下嘉永5年7月20日1852年9月3日48歳土佐守嘉永7年1月22日1854年2月19日50歳で従四位下に叙された。 宗家をついだ弟・光文共に多くの画事をこなし、安政御所造営でも活躍した病弱身ながら、父の教え受けて土佐派古画学び画風刷新努めた文久2年死去去年58歳。墓所知恩寺。跡は子の土佐光武継いだ

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略伝

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石濤」の記事における「略伝」の解説

父の亨嘉は明太祖の兄である興隆の孫で、桂林の靖江王となった守謙から10代目にあたる。明朝滅亡する監国称して空位となった明の帝位得ようとした。しかし、同族亡命王朝である福建唐王から反逆者として扱われ唐王派遣した両広総督の丁魁捕虜となり、福州連行され獄死した。そのときまだ4歳石濤臣下の者に背負われて靖江王府から逃れ湖北武昌において明の官憲や清軍から身を隠すために出家してとなった武昌では古典学び、書に興じた。暇さえあれば古法帖の臨模明け暮れていたという。特に顔真卿傾倒し古代書風啓発された。当時一世を風靡していた董其昌の書を嫌った山水画人物画花鳥画などの筆法この頃学んでいる。また荊州湖南長沙洞庭湖など各地遊歴している。 16歳のとき廬山移り、ついで杭州霊隠寺具徳弘礼に参じたその後具徳紹介江蘇崑山の旅本月知り21歳で旅法嗣となる。旅は木陳道忞とともに当時臨済宗指導的立場で、清朝から厚遇受けていた。旅らは石濤親族八大山人ら明の遺民支持する霊厳継起ライバル関係にあり、石濤姿勢遺民として節操がない批判された。 29歳のとき法兄にあたる喝濤とともに安徽宣城の敬亭山広教寺移った。この地の文人・名士たちと文雅交わり持ったとりわけ18歳年上清とは親しく交友した。この頃黄山幾度か登り、その景勝芸術的な啓発受けている。新安派の祖である弘仁の画蹟に触れ、跋を書き、自らも黄山図を多数画いた39歳南京に赴き、長干寺の一枝閣に住持した。戴本孝知己となり山水画影響受けた康煕帝が南巡したとき2度までも謁見かなった。このときの従者であった博爾都(ボルト)がパトロンとなり、生涯石濤庇護することとなる。揚州孔尚任披露宴出席したとき、晩年龔賢出会い、その画風影響受けている。 40代終りの頃に揚州得て北京在住。師の旅のように朝廷から寵遇得よう考えてのことだったが、康煕帝仏教冷遇したために望み果たされなかった。北京では北宋郭煕の画蹟に影響を受け気韻生動体得この頃禅僧としての地位捨て画家としての道を選んだ各地絵画の制作行ない51歳のときに揚州南京戻り晩年になって揚州に大滌草堂を建て終の住み処とした。揚州においては八大山人多く文人交友した。 著書に『苦瓜和尚語録』・『石濤画譜』がある。石濤生涯亙って画禅一如追究し理論でも実践でもそれを実現した評される晩年、腕を病んで制作続けた享年66石濤生涯晩年友人麟の著した「大滌子伝」(『虬峰文集』)によるところが大きい。その他に陳定九『瞎尊者伝』がある。

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市野迷庵」の記事における「略伝」の解説

6代前の祖先重光伊勢国白子から江戸出て神田佐久間町質屋開き屋号三河屋といった。黒沢雉岡学び市河寛斎林述斎北静盧らと交遊した。晩年松崎慊堂狩谷棭斎らの影響朱子学から考証学転じ、『正平版論語』などの校勘知られた。門人渋江抽斎などがおり、迷庵の死後彼の蔵書多くは抽斎の手帰した文政9年1826年)に死去行年62

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叡空」の記事における「略伝」の解説

良忍から大乗戒をうけて密教浄土教学び比叡山西塔黒谷住した。「往生要集」の講義学名高く大乗戒律と密教についても比叡山第一学僧称され大乗戒律では黒谷流の祖とされる多く公家対し授戒の師となり、その中でも特に久我家とは師檀関係にあった1150年久安6年)には浄土宗祖法然が入門し天台教学浄土教学を指導し大乗戒授けている。

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酒井鶯蒲」の記事における「略伝」の解説

築地本願寺末寺である市ヶ谷浄栄寺住職、香阪壽徴(仙)の次男として生まれる。抱一吉原身請し、事実上の妻となっていた小(妙尼)の願いで、文政元年1818年11歳庵に入る。『古画備考』には文政10年1827年国学者檜山坦斎からの聞き書きとして、抱一のことを「御父様」と呼ぶことを姫路酒井家から咎められたこと、しかし抱一をよく愛したこと、水戸公に会った抱一と共に席画などをした事、書を良くし、茶道好んだことなどが記されている。描いた浄土曼荼羅図」(個人)には、抱一箱書き手紙付属し世話をやく抱一様子がわかる。 早世しており遺作少ないとされたが、近年その印象覆す質・量作品発見されており、庵を託されるだけの力量持った絵師だったことが確認された。作風基本的に抱一倣ったもので、父子合作も多いが、天井画絵馬、扇・団扇極小絵巻といった工芸作品版本下絵俳諧摺物など多方面絵筆揮っている。庵は絵画工房ではあるものの、基本的に仏事を行う場所であるためか、早くから仏画修練積んでいる。しかし、天保12年1841年34歳早世戒名は依心院詮真法師 唯信寺墓所築地本願寺に子はなく、築地善林寺長子養子とし3世酒井一として継がせた。他の弟子に、斎藤一蒲など。

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三浦梧門」の記事における「略伝」の解説

長崎興善町乙名三浦総之丞の長男先祖平戸藩家臣代々興善町乙名任される。号の梧門は邸内植えた梧桐梧桐)の美しさ愛でたことに由来するという。梧梧門は本興善町乙名から長崎会所目付役となっている。 画は最初唐絵目利渡辺秀実石崎融思学びその後舶載される中国古書画・名品に臨んでその画法独学した米法山水を得意とし作品数も最も多く中でも雪景山水図」が目立つ。人物図・花鳥図能くし、他に土佐絵風の画も見られる。特に「鍾馗図」は、山水画次いで人気があり、病気除け平癒効果があると評判で、梧門も好んで描いた。更に伊藤若冲の「乗興舟」のような正面摺り正面版)の花卉図も確認されており、梧門の多様な作画当時長崎文化成熟ぶりが伝わってくる。 享年53墓所本蓮寺門弟伊藤深江がいる。

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喜多元規」の記事における「略伝」の解説

黄檗僧となり鉄牛道機嗣法したという。喜多長兵衛名乗った喜多道矩の子寛文3年頃に父が没する画業受け継ぎ長兵衛襲名した。主に長崎活動し隠元隆琦即非木庵頂相を手がけ、また京都尾張江戸にも往来し画作した。黄檗僧に限らず大檀越である大名在留唐人肖像多数手がけ、その数200点にも及ぶ。寛文3年(1663)から宝永6年1709年)頃までの46年間の活動確認できている。 はじめ作品落款・印章を欠いた寛文5年即非像に「元規」の印影がみえる。寛文末からは「喜多氏」・「元規」の二印が用いられた。 黄檗画像は、濃厚な彩色写実的な描写、特に顔貌の深い陰影特徴がある。明代江南地方活躍した肖像画家曽鯨流れを汲む様式であり、当時唐絵目利画家にその技法取り入れられた。ただ、1670年寛文10年)を境に暈中心から線中心に画風変化させていることが指摘されている。元規の画風その後、元喬・元香・元真・元高・元珍・元貞などに受け継がれた。

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広渡湖秀」の記事における「略伝」の解説

画は石崎元章について学ぶ。西村八左衛門の子であった広渡湖亭の養子となり、広渡家第6代当主となる。 宝暦12年1762年)に唐絵目利見習となり、翌年4月27日本役昇進。 後興善町長崎市興善町)にて死没享年48法号慧応、光永寺葬られる。墓は現存しない。実子湖月が跡を継いだ

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源伯民」の記事における「略伝」の解説

詩に巧み片山北海の『日本詩選』にその詩が選出されている。また書画もよくし、来舶清人伊孚九門下となり、篆刻も丁書厳・徐兆行に直接教え受けている。また董三橋にも刀法授かったという。明末編集された『酣古集』に掲載されている大印を摹刻し、古印屏風称され評価高まった。のちに京都古体派の人からも尊敬集めている。 篆刻門弟石崎融思がいる。大城石農は伯民に私淑して篆刻独学した

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宋紫石」の記事における「略伝」の解説

若い頃事績不明。ただし、楠本家の菩提寺紫石の代で宗恩寺から徳本寺変わっていることから、宗恩寺徳本寺絵仏師的な役割担ってたとする説がある。 40歳半ば宝暦年間長崎に赴き、熊斐に就いて沈南蘋画法修め、ついで来舶した清人画家紫岩にも入門した。この師の名から中国風に宋紫石名乗った。しかし画風沈南蘋の影響濃厚である。平明美し写実的花鳥画を得意とし鶴亭とともに南蘋派東西双璧とされる紫石は自然景に吉祥モチーフ散りばめた南蘋の画風から、自然景を取り除いてモチーフ整理して画面構成することで、日本人好み合った画風変換した平賀源内『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)全6巻の内第5巻産物図会」の挿図を手がけ、『ヨンストン動物図譜』を模写している。 著名な文人諸大名との交流知られる友人としては、儒学者村瀬栲亭がいる。とりわけ姫路藩酒井忠以酒井抱一兄弟からは重用された。また文人大名知られる松平乗完紫石から画を学んでいる。弟子司馬江漢旗本董九如・鳥取藩御用絵師土方稲嶺庄内藩藤田錦江安芸藩岡岷山松前藩家老蠣崎波響生花源氏千葉龍卜などがいる。実子宋紫山、孫の宋紫岡画業を継ぐ。 享年76菩提寺西浅草徳本寺

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海眼浄光」の記事における「略伝」の解説

長崎生まれ早い時期から聖福寺の僧となる。20歳の頃、岳宗元璋に嗣法したが、25歳に師が没するとこれをきっかけにしてか僧籍離れる。 既に黄檗僧として画の技量磨いていたもの思われるが、還俗後に沈南蘋直弟子である熊斐門下となり、彩色写生風の花画を学び、独特の画風確立作品の款記から、延亨4年1747年)頃には京都住んでたようだ。やがて大坂出て画業生計立てる。俗界にあっても禅の戒律守って清らかな生活を続けており、友人悟心元明は「禅友」と呼んで賞賛した。 宝暦末年頃には大坂名声確立し沈南蘋花鳥画広めたと言われる上田秋成あしかびのことば』)。一方で禅味のある墨竹図を好んで画いている。木村蒹葭堂が画の弟子となったほかに、柳沢淇園池大雅黄檗僧の大鵬聞中浄復などと親しく交友した。また、寿米翁と号し俳諧師狂歌師としても活躍した明和3年1766年)、再び黄檗僧に復帰し4年後の47歳時に萬福寺塔頭の輪流十三院のひとつ紫雲院第6代住持となり、隠堂の輪番塔主勤める。紫雲院で15年過ごし聖福寺住持請われたがこれを固辞し大坂向い、ついで江戸に出る天明5年1785年12月24日下谷池之端において入寂享年64墓所不明

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石崎元徳」の記事における「略伝」の解説

小原慶山師事本姓西崎だったが誤って石崎記帳されてしまい、ついには石崎改名した渡辺秀石門人であった上杉九郎次の跡を受けて享保9年1724年)、唐絵目利手伝いとなる。元文元年1736年)に唐絵目利本役就任黄檗僧の頂相などを描いた荒木元融石崎融思父子洋画技法ガラス絵付け伝えている。 明和7年1770年10月死没享年74後継養子の元章がなった

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広渡一湖」の記事における「略伝」の解説

熊本藩御用絵師末次弥次兵衛を兄にもつ。寛文年間長崎出て佐賀藩武雄御用絵師広渡心海法橋心海)に師事狩野派系の画を修め画才認められ広渡姓を譲り受け改名。後には清人画家陳清斎に画の教えを請うている。 元禄12年1699年)に長崎奉行所より唐絵目利に任ぜられる。一湖没後実子湖春が家督役職継いだ以降渡辺家石崎家・荒木家などとともに唐絵目利の職を世襲し、長崎派中心的な存在となる。広渡家はほかの三家比べて狩野派的な画風色濃い

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大神甚五平」の記事における「略伝」の解説

大神兵衛維春の次男として長崎八幡町生まれる。名は維孝、号は孝要。長兄出家したため継子となる。 文化4年(1807年)、山田兵衛古賀兵衛万屋次吉とともに亀山焼開窯。しばらく貿易不振続いたため文政2年(1819年)頃に甚五平単独経営となった中国産の良質な粘土顔料用いて作陶唐絵目利石崎融思崎陽三筆とされる祖門鉄翁木下逸雲三浦梧門南画家田能村竹田著名な文人下絵画いたその後亀山焼品格の高さが評判となり、寛政天保年間には全盛期迎える。 天保10年1839年)、没。息子二代目五平襲名し窯を継いだが、慶応元年(1865年)に経営不振で廃窯となった

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伊孚九」の記事における「略伝」の解説

兄の伊韜吉から信牌信任状)を受け継ぎ享保5年1720年)に初め長崎に来舶。以降延享4年1747年)までに6度ほど渡航した。主に馬を商う貿易商で、清朝国禁軍用馬幕府御用馬として舶載してきた功労により褒賞受けた記録残されている。 余技として南宗画風の山水画よくした長崎清水伯民門弟となっている。桑山玉洲は『絵事鄙言』で「舶來清人中の逸格」と絶賛。また『近世名家書畫三編』でも北宗画伝えた沈南蘋とともに最上位置かれている。池大雅野呂介石悟心元明らが、私淑し大きな影響受けた。 孚九の名を全国広めるに『伊孚九池大雅山水画譜』が大きな役割果たした。この冊子韓天寿が縮模し画譜としていた稿本を、天寿没後木村蒹葭堂を介して中野素堂刊行したのである。 なお、孚九と続いて渡来した費漢源張秋穀江稼圃合わせて来舶四大家と呼ぶ。 離合山水図 3幅(松阪市所有重要文化財)1幅ずつでも、3幅繋げても一つ山水画を成すように作画されている。 同左 同左

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浜村蔵六 (四世)」の記事における「略伝」の解説

20代中頃江戸出て万延元年1860年)には断絶していた浜村家を継いだ行政官記録係になるが讒言受けて退職し宇都宮教育者となる。廃藩置県後東京戻り須崎に住む。明治15年1882年)の「日本書画價額表」によればこの頃既に篆刻家として知られていた。 明治18年1885年)、依田学海らと白鴎社を結ぶ。明治20年1887年)、「墨堤植桜之碑」の碑文書しているが、後にこの碑は墨田区登録文化財登録された。 明治27年1894年4月15日火災遭い家屋焼失浜村家に代々伝えられ法帖金石印譜などの貴重な書籍もすべて失ってしまう。榎本武揚厚意により近所仮住まいする明治28年1895年2月没する享年71谷中天王寺墓所がある。

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佚山」の記事における「略伝」の解説

若いころから書を新興蒙所高弟牧夏嶽学びひたすら篆書・隷書をし、門下で最も名を成したという。元文2年1737年大学頭林信充入門寛延元年1748年)、長崎遊学。このときの師は不明であるが沈南蘋風の画法を学ぶ(師系不明)。宝暦4年1754年)に帰郷し天王寺東門黄檗宗見友寺に住し後に京都誓願寺中西庵に移った佚山篆刻装飾的評される。趙宦光の『説文長箋』によって篆文研究行っている。また、林信充縁故自著『古篆論語』・『金剪府』を幕府献上した花鳥図・墨竹図に巧み文房趣味持っていた。 享年77京都下立売の法輪寺葬られる

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木下逸雲」の記事における「略伝」の解説

長崎八幡町木下勝茂の3男に生まれる。文化14年1817年)、18歳木下家代々乙名名主)の役を引き継ぐも、文政12年1829年)にその役を兄の子譲り自身元来関心のあった医師生業とし、医門名を得生堂と称した蘭医オットー・モーニケによって伝えられ種痘術の普及努めている。「霧島山登るの記」(文政11年1828年))の小文がある。 画は、はじめ唐絵目利石崎融思学び、来舶清人江稼圃張秋穀からは南画技法修めたその後清人陳逸舟徐雨亭にその画風学んだ。さらに雪舟狩野派大和絵円山四条派などの諸派西洋画画法熱心に研究し様々な技法取り入れた画僧鉄翁祖門と画を共に学び生涯の友となった。逸は筆が早く遅筆翁と対極をなした。田能村竹田頼山陽広瀬淡窓など文人交わった。 逸多芸多才知られ書・篆刻能くし、琵琶演奏制作巧みで、煎茶たしなみ藤原相宰の名で優れた和歌詠んだ。また白磁染付知られる亀山焼発展尽くし、自ら絵付け行っている。長崎円山花月清譚会の世話役務め日中文化交流促した慶応2年1866年4月京阪江戸漫遊し同年8月横浜から長崎行きイギリス黒龍号乗船するも、玄界灘海難事故遭い帰らぬ人となった享年68門人に、河村谷・津田南竹・池島邨泉・長井雲坪など。また姉の小蘭、甥の秋塘も画家である。

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松浦静軒」の記事における「略伝」の解説

信濃国今井村生まれたので今井姓を名乗った。のちに安芸毛利家仕官その後、職を辞して母方の姓を名乗り、農商となる。長崎移住後出家して静軒と号する読書文芸好み、書や篆刻優れたとりわけ篆刻は、篆書・篆法に精しく、その奥義細井広沢伝授した。子の今井順斎鉄筆揮った

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広渡湖秀 (江戸)」の記事における「略伝」の解説

長崎生まれる。妻は大橋氏寛政3年1791年)までは長崎唐絵目利に就いており、傳平次のちに八左衛門名乗るその後なんらかの理由京都上り江戸に出る江戸では多惣太と名を改め画作行い大窪詩仏柏木如亭市河米庵太田蜀山人当代一流文人名士交流した濃厚アクの強い長崎漢画穏やかな円山四条派混交した独特の画風確立した享年56法名釋巌秀、墓所西応寺

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呉北渚」の記事における「略伝」の解説

先祖慶長年間に難を避けて長崎渡来した明人の呉東銘と息子の呉尚名といわれる。尚名は大坂移り住み大道氏を娶る帰化して大道以休と称した。その次男の尚宇が初代備前屋又兵衛となり唐物屋を営む。以来、尚理・東滴・尚甫・東甫と代々家業引継ぎ、北渚は第6代目に当たる。父東甫の代には中流富裕な商家成長していた。母は北村出自の冬(富遊)といった。 北渚は若いうちから学問好み、はじめ春田横塘に就いて経学詩文学んだ後、25歳の頃に篠崎小竹梅花社に入門。さらに中井竹山とも学縁を持ち、その関係から前川虚舟篆刻学んでいる。書は特定の師を持たなかったが若いうちより古法帖などをよく修めて独学し徐々に筆名高まり刊行物題跋墓碑銘揮毫依頼相次いだ。特に行書を得意としたが墓碑銘などは謹厳な楷書に隷味を持たせている。その書と篆刻頼山陽絶賛され角田九華田能村竹田福井端隠後藤松陰当時文墨界の名流交友している。篆刻弟子行徳玉江育ち、書の弟子に堀博・岡田竹窓川上泊堂・住友南汀がいる。 北渚は山中氏から幾世娶った45歳他界している。法名香雲夫妻には子がなく養子の東好が跡を継いだ享年66法名は、尚無。東淀川区南浜墓地葬られたが後に呉氏菩提寺である天王寺区金台寺改葬された。昭和33年後裔によって西宮市積翠寺に移葬され、遺骨四天王寺納められた。 印譜に『呉氏印譜』・『烏舟印略』がある。

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大城石農」の記事における「略伝」の解説

画を渡辺秀実1778年 - 1830年)に学んで写生好み篆刻源伯民私淑して自ら学び各地遊歴して売印生活をした。小曽根乾堂篆刻の師となる。筑前にて客死文献により没年天保2年1831年以降である。

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諸葛監」の記事における「略伝」の解説

江戸富裕な家に生まる南蘋派長崎派絵師だが長崎には遊学せず、中国古画沈南蘋などの画を集めて独学熱中しすぎて身代潰したという(『雲室随筆』)。画姓の諸葛1748年延享5年)に来舶した清人諸葛晋(南陽晋)に私淑したことから名乗った江戸で南蘋画風始めた最初期絵師であり、これは江戸で南蘋派代表する絵師宋紫石より早い岩村藩松平家御用勤め一時姫路藩酒井雅楽助家に仕えたともいわれる強烈な色彩と墨線、濃厚な陰影の画様で花鳥画を得意とした。1759年宝暦9年)頃刊行の『冬至梅宝暦評判記』では、唐画名手とされ、南蘋風の作品定評あったようだ。実際沈南蘋作品など中国画模写した作品残っている。また、細部へのこだわり強く感じさせる作品も多い。 性格剛毅で己を曲げず貧困のうちに没したという。享年74弟子に源卿など。子は渡辺玄対入門したが、画業は継がなかったらしい。

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行徳玉江」の記事における「略伝」の解説

行徳家の家祖桓武平氏流れを汲む熊谷直英とされ、筑後国にて眼科医開いた代々眼科医となり4代目の元亮が大坂出て開業した5代目元恭儒医として名高く浪華定住した玉江その子行徳6代目として生まれ英才教育受けた10歳にて篠崎小竹入門し経学詩文を学ぶ。その後父は浪華移り住んでいた広瀬旭荘詩才見込み13歳玉江入門させている。同門藤井藍田柴秋邨長三洲らと交友した。医術京都今枝夢梅学んでいる。 14歳頃に鼎金城に就いて南画指導を受ける。18歳ときには浪華画家名流』にその名が掲載され画家として認められている。京都にて貫名海屋からも画の教え受けている。篆刻呉北渚に就いて学び画名以上に名を馳せた叔父に「医業画業いずれかに専心せよ」と戒めを受けあっさり医を諦め九州各地遊歴し長崎では祖門鉄翁画法受けたその後も旅を続け越前伊予伊勢などに赴いている。新婚間も無い安政元年には出雲遊び3年間も滞在している。 南画将来憂い明治18年大坂画学校の創設企て府知事提案玉江館として設立される享年74法名は、南宗院画禅直逸居士。墓碑銘藤沢南岳が撰した。当初大阪市福島区妙徳寺葬られたが後に枚岡市額田に移葬された。 印譜に『風人余藝』、詩集に『停』、画譜玉江画譜』がある。

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荒木元融」の記事における「略伝」の解説

出島諸色売込人の荒木氏出身唐絵目利荒木元慶養子となり長崎鍛冶屋町に住む。画は石崎元徳師事しオランダ人からも西洋画法(遠近法陰影法)を習う。明和3年1766年)に元慶の跡を受けて唐絵目利就任。 師の石崎元徳後継がないことから実子元甫(周)を養子に出すが夭折したため、寛政元年1789年)に養子の融思を石崎家の後継に据え唐絵目利本役とする。融思とは居号の鳴堂・薛館を共有している。荒木家後継は如元に託すが短い間に家を離れてしまった。 天明8年1788年)に司馬江漢鍛冶屋町自宅来訪。「画鑑(エメキキ)の役にて画も少し描くなり、一向の下手」と酷評される。しかし、秘伝ガラス絵技法教えてもらえなかったことへの鬱憤晴らし捉えられている。 寛政6年1794年4月死没享年67法号圓山元融居士門弟鏑木梅渓がいる。

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鉄翁祖門」の記事における「略伝」の解説

長崎銀屋町桶職人日高勘右衛門の子11歳で父を亡くし華嶽山春徳寺13玄翁和尚養育される。 幼少より画を好み、はじめ唐絵目利石崎融思漢画を、文化元年1804年)からは来舶清人江稼圃師事して南画を学ぶ。 師が没した文政3年1820年)に春徳寺14住持となる。文政10年1827年)、51歳の田能村竹田春徳寺翁を訪問。ふたりはこの邂逅を「前世からの知己」と大い喜んだ天保年間には親友木下逸雲とともに清人陳逸舟門下となり、山水図蘭竹図の画法伝授された。 56歳ときには京都・大坂・江戸遊歴。特に京都では貫名海屋日根対山中西耕石安田老山金子雪操鼎金城前田半田らと交わった嘉永3年1850年)、60歳退隠すると東淵山雲龍寺移り居室を「太素軒」とし書画三昧日々を過ごす。この時代を特に太素軒時代といい墨蘭竹図・山水図などに名品が多い。蘭竹画、とりわけ四君子のひとつ蘭画第一人者として知られた。 維新後、再び春徳寺戻り最晩年を過ごす。81歳にて入寂。。明治16年1883年)に、門人倉野煌園により『画談』が上梓されている。

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黒田長清」の記事における「略伝」の解説

寛文7年1667年6月26日江戸麻布藩邸生まれた元禄8年1688年)、兄の綱政が本家福岡藩継いだとき、筑前鞍手郡内に5万石を分与され、福岡新田藩を立藩した。 綱政の死後本家家督その子宣政継いだが、宣政生来から病弱政務を執れず、嗣子もいなかった。このため長清長男・継高がその養嗣子となり、長清宣政後見人となった享保5年1720年2月23日江戸麻布藩邸にて死去した享年54。 継高は本家継いでおり、他に嗣子無かったため、直方藩廃藩となり、その所領福岡藩還付された。長清供養塔高野山奥の院にあるが荒廃し、現在は無残な姿となっている。 表 話 編 歴 直方黒田家4代当主1688年 - 1720年戦国末期まで(宗満 高満 宗信 高教 高宗 高政) 重隆 職隆 孝高 近世以降長政 忠之 光之 綱政 宣政 継高 治之 治高 斉隆 斉清 長溥 長知 長成 長長久 長高 分家支流 秋月黒田家長興 長重 長軌 長貞 長邦 長恵 長堅 長舒 長韶 長元 長義 長徳 長敬 長栄 長幹 直方黒田家 高政高政 之勝 長寛 長清長清 男爵家長和 長義 高正 表 話 編 歴 黒田氏直方藩藩主1688年 - 1720年第1期黒田高政1623-1639 黒田之勝1640-1663 黒田長寛1663-1677 廃藩 第2期黒田長清1688-1720 廃藩

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范道生」の記事における「略伝」の解説

官に仕え印官の職にあったことで印官范道生呼ばれた万治3年1660年)に、蘊謙戒琬招きに応じて長崎渡来し福済寺寓居して仏像彫った寛文3年1663年)、隠元隆琦請われ萬福寺上り弥勒菩薩像・十八羅漢像などを製作する。また隠元彫像チーク材製作している。仏像彫刻かたわら道釈人物図などを好んで画いた寛文5年1665年)、父賛公の70歳を祝うため長崎にから便船乗って広南帰省寛文10年1670年)に再来日したが、長崎奉行所入国許可せず、木庵性瑫図南や瑞峰を使い出して調停した不調に終わる。同年11月2日船中吐血し病没する。享年36崇福寺葬られた。

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細川林谷」の記事における「略伝」の解説

讃岐国大川郡寒川町石田東広(現在の香川県さぬき市)で生まれた。幼いうちに林村阿部良山(1773年 - 1821年)より篆刻を受ける。その後長崎京都遊学し江戸出て京橋中橋広小路に住む。その篆刻天下一と讚えられた。その後各地周遊し、浪華では文人墨客からの篆刻依頼引きも切らず、一冬滞在毎晩の酒溺で散財した。このとき頼山陽の印も刻している。竹をこよなく愛したという。詩画をよくし、山水画・墨竹図を得意とした。その清新な作風は子の細川斎、門弟頼立斎羽倉可亭山本竹雲らに伝えられた。阿部縑州(1794年1854年)が谷の伝を伝えている。

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中林竹渓」の記事における「略伝」の解説

文化13年1816年中林竹洞長男として生まれ幼年から父に絵を学ぶ。竹渓生まれた時、竹洞は数え41歳で、遅い男児誕生に竹洞は喜び、しばしば自作竹渓の名を記し父子合作も残る。日本の南画の元となった文人画南宗画とは、実情はともかく理念的には、中国文人生活を理想とするもので、世襲とは本来馴染まない。竹洞自身若い頃から画論出版し晩年には世俗離れ隠棲生活を送るなど、日本において最も文人らしい態度をとった画家である。しかし、その竹洞すら世襲望み自家流派として存続させたい願った事が端的に表れている。 20代竹渓繊細な楷書で「竹谿」と署名し、竹洞の山水画様式忠実に習っており、60代入り枯淡高潔な山水画様式完成させていた父の画風そのまま継承しようとした様子窺える反面大作が殆ど無い竹洞と違い竹渓には若年から晩年に至るまでしばしば屏風絵大作描いており、父との資質違いを見ることができる。 30歳の時、長崎旅行。同じ頃、父の親友山本梅逸師事した推測される落款楷書で「竹溪稀に行書で「竹渓」と記し花鳥画人物画にも作域を広げ、父や逸らのモチーフ手本にしつつも、それらを単に写すのではなく的確に構成し直して独自性打ち出そうとしている。 嘉永6年1853年)に父竹洞が亡くなると、落款30代のものに加えて楷書で「竹渓」と記す変化が起こる。絵も南画以外の円山・四条派南蘋派土佐派学び実物写生積極的に行ったと見られる一方で壮年期には江戸末期復古思潮からか、加藤清正楠木正成などの武将勇壮謹厳に描いた作品多く残っている。 40代後半あたりからの落款は、肥痩強く癖が強い「竹渓」となり、特に元治元年1864年以降は「竹渓有節」と記す作品があり、最晩年には「有節」と号していたと考えられるこの頃文人画風の山水画中国人物画が再び多く書かれる一方引き続き大和絵人物季節の草花動物なども書かれた。竹渓晩年山水画は、明治・大正期煎茶席の掛軸としてよく好まれ、またそれ以上身近な草花動物風景などを描く景物画は、手頃な掛けとして広く愛好された。明治間近に迫った慶応3年1867年4月死去享年52竹渓はしばし奇行でも知られる。これは、明治活躍した名古屋出身南画家兼松蘆門著した『竹洞と逸』(明治42年1909年)刊)による。その竹渓伝の元になったのは、竹渓異母妹中林清淑回想推測される。清淑は年の離れた竹渓複雑な感情抱いていたらしく、『竹洞と逸』には竹洞の遺産竹渓分けてくれなかったという愚痴長々載り、清淑が撰した竹渓墓碑には「人となり剛厲狷介、世と合わず、人徒にその絵の巧みなるを見、その志しのなお高遠なるを知らず」と、故人称えるべき墓碑に「巧みなだけで志が表現されていない」と断言するこうした清淑の竹渓像が、清淑びいきの門によって増幅され、これが諸書引用され広まっていった。こうした評は幾らか竹渓自身招いたものかも知れないが、竹渓作品を見ると、生き物夫婦親子描き込む作品かなりあり、自賛高名な文化人による着賛も殆ど無く俳画風の略画や他の画家との合作見られない等、心優しく生真面目画人想像とさせる

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高橋草坪」の記事における「略伝」の解説

豊後杵築城下富坂町現在の大分県杵築市)の商家屋(高橋氏)休平の次男として生まれる。幼い頃より絵を好み地元画家長谷部園に手ほどきを受けるが、田能村竹田訪れたとき迷わず竹田荘に入門以降、師・竹田伴って各地巡遊文政6年1823年)に京都上り以降帰郷することもあったが大半京阪で過ごす。頼山陽をはじめ篠崎小竹青木木米浦上春琴岡田半江大含小石元瑞小田海僊など著名な文人たちと親交深め、画を研鑽した。清初藍瑛元末四大家嗣法古画臨模熱心に行った竹田をして『竹田師友画録』の中で画作において優品は坪に及ばないと云わしめている。25歳年長浦上春琴はまだ面識のない草坪の山水画見て「この画は少なくとも乾隆以前明人清人作品江稼圃伊孚九などは遠く及ばない」と評し竹田から門弟坪の作と本人紹介される茫然自失となったという逸話残されている。それほど山水図明清風の巧み構図精緻な筆致画かれている。春琴は娘婿になるように頼んだが、高橋家断られている。その後坪は篠崎小竹の娘を娶った不縁となっている。 師竹田没する半年前の天保2年2月3日1835年3月1日)、大坂天王寺にて病没する。弟弟子帆足杏雨田能村直入らがいる。

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若江薫子」の記事における「略伝」の解説

若江家の8代再興後)当主若江量長次女として誕生幼名は「文子であったという説もある。 幼少時から学問好きの才媛として公家社会の中では有名人であったが、一方で野暮理屈っぽい醜女として避けている人も多かったようである。早くから岩垣月洲門下生となり漢学習熟156歳のころには経史百家を完読、数年後には文天祥著書指南集』の釈義書いて周囲驚かせと言われる。 その才女ぶりが宮中聞こえるところとなり、慶応3年8月9日1867年9月6日)には明治天皇女御となった一条美子(後の昭憲皇太后)の学問師範抜擢される。この時の教育ぶりについて後に昭憲皇太后は「(薫子の)厳し教育泣きそうになったこともたびたびであったが、自分学問薫子に負うところが大であった」と回想している。 明治維新後は皇后付き女官として政治的に絶大な発言力を誇るようになり、建白書多く書いたことから「建白女」とあだ名されるまでに至るが、儒教根本を置く彼女の理想は、欧米文化重視する新政府方針対立することが多く次第新政府要人から警戒されるようになる明治2年1869年)に東京遷都反対する建白や、横井小楠殺害した十津川郷士助命嘆願行い新政府不興を買い、参内禁じられる。更に明治5年1872年)に父・量長が死去急養子迎えられた範忠(平松時門四男)との不仲のため、遂に家を追われるその後門弟頼り西国転々とし、滞在先で婦道講義する流浪生涯送り1881年明治14年)、滞在先の香川県丸亀にて死去墓所玄要寺丸亀市)・西園寺京都市)。 1928年昭和3年11月10日生前功績により正五位位記贈られた。

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方西園」の記事における「略伝」の解説

西山を画の師とし、花卉図・翎毛鳥獣図・山水図などの水墨を得意とした。初来日明和元年1764年)とも安永元年1772年)ともいう。安永3年1774年)の来日記録はっきりしている。安永9年1780年)、45歳の時、元順号の副船主として渡海したが5月2日房総沖難破し安房国朝夷郡千倉漂着乗組員78名は全員無事だった岩槻藩唐人への待遇悪く問題となった。このとき杜澂華音中国語)に堪能であることから請われて通司を務めている。 日本船にて長崎移送される途中富士山実見西園は「目睹して実に大観なり」と感激して絵筆走らせたという。このほかにも日本各地写生。後に谷文晁により「漂客奇賞図」として模刻される。その遠近法当時大い注目される伊東藍田真村廬江東東洋が画の教えを受け、谷文晁渡辺崋山らも大きく影響受けている。

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鄭燮」の記事における「略伝」の解説

揚州府書画売りつつ科挙受験勉強続け雍正10年1732年)、挙人及第し乾隆元年1736年44歳)に進士特別試験合格して翰林院入った乾隆7年1742年)に范県知県として赴任し乾隆11年1746年)には濰県知県転任した当時から鄭燮詩書画は有名で、赴任地彼の書体流行したといわれる乾隆18年1753年60歳)、濰県一帯大飢饉みまわれ鄭燮農民救済尽力したが、これが富豪大官恨みをかう結果となり失職した。そして、故郷揚州帰って友人別荘のそばに擁緑園ようりょくえん)を構え、再び書画売って暮らした金農らと詩書画を楽しんで余生送ったという。乾隆24年1759年)には自らの書画の潤例を作り、「大幅は6両、中幅は4両、小幅は2両」とし、「支払い現金がうれしい。うれしいから書画出来よくなる」といい、評判になった当時揚州は塩の集散地として商業発達し商品としての書画需要多かったのである乾隆30年73歳没した

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帆足万里」の記事における「略伝」の解説

父は日出藩家老帆足通文1791年寛政3年)、14歳の時、脇蘭室脇愚山)に学び21歳時に父の通文につき従って大阪行き中井竹山に学ぶ。24歳時に筑前行き亀井南冥会い翌年25歳時に京の京都皆川淇園に学ぶ。その後30歳前後には一人前学者となって日出藩藩校教授任じられる藩主木下俊敦万里家宅内に「稽古堂」を設けさせ、藩士の子教育にあたらせる。のち15代俊程は城内学舎設立し致道館」と名付け稽古堂」で購読終えた後、藩校致道館入学するようにした。さて、帆足万里1832年天保3年日出藩家老となり財政改革行った当初藩主木下俊敦からの懇望受けた辞して承諾せず、「一度任せたからには、後から口出しをしない」という約束の下に、これまでの家老をやめさせ自分有能・公正を見こんだ人々役職につけ、倹約を旨とし、自ら算盤をとり藩の帳簿調べこれまでの役人の不正を明るみ出した改革3年後には、大い成績をあげ、藩が大坂商人借りていた金を返していく方針立った。 しかし1835年天保6年2月に、病を理由家老辞職することになる。実際家老辞職原因は、子孫帆足図南次が「根本は彼(萬里)の峻厳果断に過ぎた改革片っ端から壊わしていった藩状にあきたらなかったからであり、辞退動機一半忠誠剛直な彼と藩の機会主義者たちとの間に籍した感情対立である」と述べている様に厳し改革行った帆足萬里と、それに対立する内の抵抗勢力との間に軋轢生じたためである。 家老職辞した萬里は、中ノ町旧宅移り住みそこで家塾を開く。その後天保13年1842年)に65歳帆足萬里は、豊後南端村目刈(現在の日出町南端目刈)に私塾西崦精舎せいえんせいしゃ)を開いて子弟教育始める。しかし弘化4年1847年4月10日萬里にわかに門人引き連れて京都発ち翌年まで東福寺採薪亭に滞在する。これは京都大学興して教育によって朝廷威光を増そうと朝廷進言するためであった。 元藩主木下俊敦弟子説得により萬里は、日出に戻ることになり、再び西崦精舎数年教えていたが、嘉永4年1851年)に病気になり、西崦精舎岡松甕谷らの弟子任せて日出二の丸移り住む翌年嘉永5年1852年)に75歳没する。体は弱い方だったが、人一倍衛生重んじ食物気をつけて養生したので長命得たという。 明治45年1912年)、従四位追贈された。

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ユーリイ・アンネンコフ」の記事における「略伝」の解説

カムチャツカ半島ペトロパブロフスク生まれる。彼のパーヴェルは反ツァーリ運動参加して受刑している最中だった。サンクトペテルブルクギムナジウム終了し1907年からペテルブルク大学法学部に籍をおいていたが、同時にシュティーグリッツ男爵創立した美術学校へ通う。1909年からサヴェーリー・ザイデンベルクのアトリエ学んでおり、同窓マルク・シャガールがいた。1910年国立美術アカデミー教授ジャン・ツィオングリンスキーの生徒となり、師の忠告により1911年から1914年までパリ絵画修行続ける。フェリックス・ヴァロットン師事し当時友人たちシャガールオシップ・ザッキンモイズ・キスリングなどであった1913年初めアンデパンダン展出品した時にはヨーロッパ最先端主潮である未来派キュビズム吸収していた。 1914年ペテルブルク戻ったアンネンコフは、ミハイル・ラリオーノフカジミール・マレーヴィチ影響を受けつつも、画家立体造形家・装飾家として独自の手腕を発揮した同時にユーモア雑誌『サチリコン』に寄稿し作家としての活動始める。 1917年のロシア革命後、政府依頼によりレーニントロツキースターリンなどの指導者たちの肖像を描く。1920年国立高工芸研究所教授に任ぜられ、同じ年に国家プロジェクトとして2つ集団スペクタクル解放され労働讃歌』『冬宮奪取の上演を担当1914年から1925年のあいだに彼が舞台にのせた戯曲40篇に上る。この時期協力関係にあった芸術家としてニコライ・エヴレイノフ、フセヴォロド・メイエルホリドがいる。 1925年共産主義政権のもとでは芸術家として生存できない考えたアンネンコフパリに赴き、生涯ソ連帰ることはなかった。フランス・西ドイツ・イタリアなどを中心に演劇映画美術担当し、また本の装幀でも作品残している。

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佐々木文山」の記事における「略伝」の解説

江戸で生まれる。性質は頴敏爽邁、幼い時から書を善くし、長じて学を好み難解な王羲之王献之の書も読み解いたという。宝永6年1709年)に致仕するまで讃州高松藩の禄を受け、江戸西窪に住む。長野氏からの養子・嘉武を跡継ぎとするが早世したため晩年得た長男嘉隆(文生)を後嗣とした。その子孫書法をもって高松藩家臣として仕えた病を得圯の郷で没する享年77歳武州三縁山(増上寺)浄運院に葬る法号は「流芳院發誉墨花文山居士」。

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狩野松栄」の記事における「略伝」の解説

松栄の兄2人早世したため狩野家を継いだ天文期に元信に従って石山本願寺障壁画制作参加し作品現存せず)、門主証如より酒杯を賜っている。おそらく、当時最大顧客であった証如引き合わせるための元信配慮であろう続いて元亀年間は、宮廷公家交渉していた記録残っており、後の狩野派飛躍のために目立たぬ努力をしていたのが窺える永禄9年1566年)に永徳と共に描いた大徳寺塔頭聚光院障壁画が有名。この2年後には大友宗麟招きで旅に出ており、途中厳島年を越し絵馬奉納した天正に入ると永徳活躍目立ち松栄動静詳細をたどれなくなるが、おそらく永徳サポート徹していたのであろう永徳の死(1590年)の2年後天正20年1592年)に74歳逝去画才では、時代様式を創り出した父・元信や子の永徳に及ばなかったが、元信様式忠実に受け継ぎ狩野派伝統的な祖法として定着させた。その画風永徳のような迫力欠け鑑賞者にやや地味な印象をあたえるけれども、筆致柔軟温雅さがある作品残した門人に「豊国祭礼図屏風」や「南蛮屏風」で知られ根岸御行松初代狩野内膳築地小田原町家と金杉片町家の祖となる狩野宗心などがいる。

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狩野雅信」の記事における「略伝」の解説

狩野養信長男として江戸で生まれる。1844年天保15年父と共に火災消失した江戸城本丸御殿障壁画制作従事。翌1845年弘化2年法眼叙せられ、1861年文久元年)には法印上った14代将徳川家茂寵愛を受け、江戸北町奉行務めた鍋島直孝の娘を娶り、1863年文久3年)の家茂上洛にも付き従っている。しかし戊辰戦争時には旧幕府軍から江戸脱走勧誘されるも雅信はそれに応じず、その時書状焼き捨て新政府配慮している。 明治維新際し江戸狩野奥絵師四家のうち鍛冶橋狩野家は徳川宗家従い残り三家1870年明治3年御暇仰せ付けられ平民になったという。これを裏付けるように『太政類典』収録の「行政官支配姓名簿」に「高三百石 内百俵蔵米 狩野勝川院」の記載から明治初期には朝臣化し、「東京府・市文書」(東京都公文書館内の明治二年 朝臣姓名」から明治2年12月以降東京府所管になったことが解る。また明治2年夏には延遼館障壁画を、狩野永悳狩野董川と共に制作する一方朝臣化した幕臣として東京府内の警備治安維持仕事割り当てられ身分武士ではあっても武芸を殆ど習得していない雅信らはこれを免除するよう願い出た嘆願書残っている。 1872年明治5年)に火事木挽町家宅焼け、更に敷地上地となったため、飯田町にある妻の実家鍋島家に住む。軍部から製図制作勧められたが、「画家たる者何ぞ製図事とせむや」と御用絵師矜持からこれ固辞し晩年悠々自適の生活を送ったとされる。しかし新政府仕事を全く受けなかったのではなく博覧会事務局雇われている。明治5年には博物局編『古人肖像集』の挿絵を手がけ、1876年明治9年)のフィラデルフィア万国博覧会や、翌年第1回内国勧業博覧会関わる1878年明治11年)のパリ万国博覧会では手当15円を支給され翌年には大蔵省から月給20円で雇われている。他にも外貨を得るため、外国日本物産製品紹介する解説書日本製品図説 錦画』(高雲外編明治10年刊)の挿絵担当している。しかし、やはり生活は苦しかったらしく、木挽町狩野家の知行地のあった樋ノ口現在の埼玉県久喜市樋ノ口)の組頭に、米や下肥代金援助を頼む手紙残っている。 弟子に、狩野芳崖橋本雅邦木村立嶽狩野友信結城正明青野桑州柳田松原寛泉斎、陶山勝寂、三浦治作など。芳崖から「師は絵を知り給わず」と吐き捨てられたという逸話や、後の岡倉覚三天心)から厳しく評価されるなど、画才凡庸だったとされることが多い。確かに水墨画中心にそう評価されても仕方がない作品もあるが、着色画には豊かな色彩細密な描写見所ある作品残っている。

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略伝

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奥文鳴」の記事における「略伝」の解説

賀川玄悦弟子で、賀川流産科医・奥道栄の嫡男として生まれる。名は貞章、字は伯熙、通称を順別号陸沈斎。次弟は、父の跡を継ぎ産科医として名を成した奥劣斎。早世した兄弟が、他に3人いたようだ。文鳴が医師とならなかったのは幼少より絵が好きだったからとも、父道栄が絵を好んで応挙交流あったからとも推測される応挙の手紙は現在20通あまり確認されているが、その内5点が道栄宛で(他2点も道栄宛の可能性あり)、文鳴の弟子入り両者親密な関係によるもの考えられる1790年寛政2年)の内裏造営に伴う障壁画制作に、18歳参加与えられ仕事は、後常御殿杉戸に「戴安道」と「帰去来之辞」、御涼所取合間に「竹」、小壁「雀」という小さな仕事全て現存せず)だが、年齢考えれば異例抜擢といえる1795年寛政7年23歳大乗寺障壁画制作参加、「藤花禽鳥図」を描く。これは現在確認できる制作年判明する最も早い作品で、生涯最大作品である。若年でこれらの仕事任されたのは、父道栄の存在大きかったとも想定される版本挿絵もしばしば描き1797年寛政9年)に出版された『東海道名所図会』に1図、1799年寛政11年)『都林泉名勝図会』では23図、翌年の『源平盛衰記図会』では西村中和分け合うように30図を担当する1801年享和元年)に応挙伝記である『仙斎円山先生伝』を著し、これは今日最も信用できる応挙伝である。 書画会などの文人同士集まり盛んに参加するなか、41歳没する菩提寺上京区智恵光院通下立売上ルの昌福寺息子の文煥(玄道)は叔父の劣斎に引き取られ医師となり、賀川正系阿波賀川家)の8代として養子入った弟子に、信州出身で『在京記事』(国立国会図書館)を記した平賀岳や、岩崎渡辺)文陽など。

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鈴木華邨」の記事における「略伝」の解説

江戸下谷池ノ端茅町に、加賀藩出入り呉服商武蔵屋鈴木清次郎の長男として生まれる。明治7年1874年14歳菊池容斎高弟中島亨斎に師事した。翌8年フィラデルフィア博覧会事務局図画係に傭われ、明治9年1876年勧業寮編輯係を務める。また、このころ起立工商会社図案係として働き陶磁器漆器などの図案作成した明治10年1877年第1回内国勧業博覧会に 「金髹図案」 を出品し花紋メダル受賞明治14年1887年第2回内国勧業博覧会にも 「群亀図」 を出品し褒状その後画業専念し明治16年1883年龍池会主催第2回パリ日本美術縦覧会において選抜揮毫者として指名受けた翌年大船碇泊ノ図」 を出品明治19年1886年4月鑑画会第二回大会に 「山水」 を出品し受賞明治20年1887年)ごろから単行本雑誌口絵挿絵健筆振るい明治22年1889年)『新小説第一巻第一号の表紙任される同年親交のあった納富介次郎招かれ石川県立工業学校現・石県立工業高等学校)の絵画図案意匠担当する教諭就任。同26年まで在職し写実重んじる画風後進育成努めた明治31年1898年)に梶田半古松本楓湖とともに日本画会結成参加し同年日本美術院創設にあたって評議員となり、共進会審査員勤めた明治33年1900年パリ万国博覧会に 「山水」 「雪中鷹狩」 「月下魚網」 を出品し銅牌受賞明治34年1901年春の院展第5回で 「牡丹」 が銀賞翌年春の第7回では 「布袋」 が銀牌受賞明治39年1906年1月小林一三らが15名で邨、寺崎広業川合玉堂後援する鼎会を発足する。 また明治40年1907年)の第1回文展に 「平和」 を出品し三等賞。明治41年1908年巽画会審査員となる。明治43年1910年)の日英博覧会に 「雨中渡船」 を出品し金牌受賞大正8年1919年)、東京雑司が谷自宅肺炎療養中腹膜炎併発し死去した法名清廉永豊居士墓所港区宝生院文展博覧会での入賞の他、尾崎紅葉なにがし』 『不言不語』、幸田露伴新羽物語口絵天うつ浪第三口絵泉鏡花小萩集』 口絵錦帯記』 『照葉狂言口絵、など書籍口絵挿絵を手がけた。門下梶田半古とは最も親しく長男弟子入りさせている。

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鵜飼派」の記事における「略伝」の解説

鵜飼派は、備前国宇甘郷(うかいごう/うかんごう岡山県岡山市北区御津)で、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀工一派。 宇甘荘の地頭職は、承久の乱功績上げた相模国松田氏得ており、戦国時代末期まで松田氏支配続いた。特に建武の新政前後時期大きく活躍し軍記物語『太平記』にも松田盛朝という武将登場する。宇甘荘の近くには、長船派本拠地である長船という巨大な鍛冶町があるにも関わらず鵜飼派このような辺鄙な場所に鍛冶場構えていた理由について、福永は、松田氏からの招聘があったのであろう推測したその歴史的な出自については謎が多い。第一に江戸時代には、長船派国友国吉後醍醐天皇から雲生次の名を下賜されたとする説があったが、この説は実証的否定されている(#伝説)。第二説に、竹屋直正『竹屋正伝書』(慶長17年1612年))によれば長船派長船五郎守重という刀工がいて、二代守重の子入道して雲生名乗ったのが最初であるという。第三説に、『鍛冶銘集』(正安年間1299年 - 1302年))によれば出雲国島根県)から来た刀工であるという説もあり、福永酔剣は、鵜飼派には備前物らしさが無い点からして、この説は「傾聴値する」とした。 鵜飼派の祖である初代雲生には「嘉元六十一歳」の銘がある作が存在し嘉元2年1304年)に数え61歳から逆算すると、寛元2年1244年生まれ刀工となる。初代次は、古説では初代雲生の弟とされるが、石井昌国は、活躍年代からして実際に息子であろうとした。また、石井は、応永1394年 - 1428年)ごろの四代次の辺りで、鵜飼派長船派合流して消滅したではないか、と推測した鵜飼派屋敷跡と伝わる場所が、箕地峠を南に2キロメートルほど行ったところに存在し、「刀工雲生宅跡」の標柱が立つ。実際周辺を掘ると鉄滓が出るという。 2020年時点で、雲生名跡日本刀少なくとも在銘5振が重要文化財指定されており、無銘の伝・雲生日本刀も1振が重要文化財である。次も在銘6振、無銘の伝・次の1振が重要文化財指定

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安部井櫟堂」の記事における「略伝」の解説

近江国生まれた京都富小路押小路北・南に住む。篆刻の師は不明明治元年1868年)、印司に任命される60代半ばにして明治政府から天皇御璽大日本国璽刻印命じられ1年がかりで明治7年1874年)に拝刻した2つ金印強度を保つため合金製で、堂が繆篆を用いて刻して秦藏六鋳造した重さは4.5kgあり、現在でも公文書用いられている。

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稲毛屋山」の記事における「略伝」の解説

屋山先祖秩父畠山氏代々讃岐高松藩重臣として仕えた。父の稲毛重善もその家臣であり、屋山はその次子として生まれた幼少より病弱仕官免除され若くして京都遊学皆川淇園門下となりやがてその高弟となる。柴野栗山京都滞在中、淇園や池大雅との文雅交わり持った。この仲立ち屋山受け持ったがこのとき栗山屋山金石文字に詳しく篆刻も行うことを聞き知る及んで江戸赴いていた高芙蓉入門するように薦めた江戸において高芙蓉屋山温厚社交的な性格愛して、印を請う者があれば必ず屋山共同で製作に臨んだ芙蓉臨終のとき愛蔵してきた金石書画などを屋山伝えたその後篆刻家として著名となり印を請う者が列を成したという。柴野栗山は「芙蓉再来」と喜んでいる。高芙蓉墓碑橘茂喬浜村蔵六初世)が刻していたが理由があって建てられないままに茂喬が没してしまう。屋山はこれを浜村蔵六二世共同して小石川無量院建てた晩年不忍池畔に燕々居という庵を結び、悠々自適隠居となる。山本北山亀田鵬斎菊池五山文人墨客と交わることが多かったが、その交友から詠まれ詩文を撰して『采風集』(1808年)とした。 文政6年故郷讃岐帰郷する病を得没する享年69。なお、子の恭斎は市河米庵養子となっている。

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柳公権」の記事における「略伝」の解説

元和初年進士及第し穆宗敬宗文宗武宗宣宗の代に歴任した公権穆宗上奏した際、穆宗は、「以前そなたの筆跡見たことがあり、以来その書が忘れられない」と語り、すぐに公権を右拾遺翰林侍書学士任命したまた、どうすれば書が上達するか」との穆宗問い公権は、「用筆は心にあり、心正しければ正し」と答え穆宗はその筆諌に思わず居住まい正したという。 文宗の時、中書舎人翰林書詔学士となって工部侍郎転じ武宗の時、右散騎常侍集賢学士院事となり、宣宗の時、河東郡開国公、国子祭酒工部尚書太子少師経て太子太保累進した。その後、官を退き懿宗咸通6年865年)に88歳で没し太子太師追贈された。

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田中訥言」の記事における「略伝」の解説

尾張国名古屋出身(『鑑定便覧』)。幼少時日蓮宗の寺に入門し、のちに比叡山延暦寺天台宗修める。画を狩野派石田幽汀学び、幽汀死後還俗して土佐派土佐光貞門に入る土佐派内部での訥言評価高かったらしく、天明8年1788年)に22歳早くも法橋位を得る。寛政2年1790年寛政内裏障壁画制作に、光貞、狩野典信岸駒と共に参加し杉戸絵を描く文化3年1806年)光貞が没した後も土佐派留まり、光貞の遺児土佐光孚支えて活躍した文化14年1817年)には尾張藩奥医師林良益の尽力二百画会開催する。これは、単に生活のためだけでなく、眼病治療のための上費用医療費捻出するためと考えられる有職故実精通し当時土佐派形式的画風よりも平安時代大和絵への復古目指し、『伴大納言絵詞』や『佐竹本三十六歌仙絵巻』を始めとする古絵巻熱心に模写、のちに復古大和絵の祖として知られるようになった文政6年1823年)、視力失ったため舌を噛んで命を絶った伝えられ別号の晦存・求明は眼病暗示すると言われる享年57戒名安祥院訥言居士墓所京都市東山区日體寺。 現在確認される作品数300点以上、有年作品少ないものの落款の「訥」字の旁である「内」の一画目・二画目の変遷からおおよそ画風展開を知ることが出来る。 門人浮田一蕙渡辺清土佐光孚また、弟子ではないが冷泉為恭訥言私淑していたという。彼らの作品には、訥言倣った思われるものが複数残っており、訥言影響力大きさを見ることが出来る。

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中原綾子」の記事における「略伝」の解説

柳河藩であった曽我祐保の次女として、父の任地長崎生まれる。父の転任に従って大阪神戸朝鮮へと移るが、主として東京在住する1915年大正4年)に東洋高等女学校卒業後、作歌始めていたが1918年大正7年)から与謝野晶子師事し新詩社同人としてその歌を『明星』に発表するうになる同じく明星』に参加していた高村光太郎親交があり、妻の智恵子精神病を悲しむ内容の手紙を受け取ったことがある1929年昭和4年6月吉井勇秦豊吉とともに文芸誌相聞』(後に『スバル』と改称)を公刊、詩や戯曲発表する1931年昭和6年8月には歌誌『いずかし』を主宰して発行した1947年昭和22年3月第3期明星』に参加し顧問となる。1950年昭和25年2月には第73期『スバル』を創刊主宰。同じ年の3月にはロマンス社から『定本与謝野晶子全集』の刊行のため湯淺光雄とともに編輯し始めるが、ロマンス社の経営難紛糾のため第1巻中絶している。

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村越向栄」の記事における「略伝」の解説

父・村越其栄より絵を習う。慶応3年1867年)其栄が亡くなると、すぐに「東耕堂」を引き継ぎその堂主となった明治6年1873年学制頒布により「私立村越小学校」(通称村越学校」)と改称する明治1517年1882年84年第一回第二回内国絵画共進会に「光琳派」の画家として出品する明治28年1895年向栄村越学校経営手放す学校明治43年1910年大洪水被害によって廃校になるまで地域教育担った向栄その後絵に本腰を入れ地域商家地主など旦那衆と交わり、その経済力教養人的交流背景活発な文化活動行った明治31年1898年)に起工された清亮寺足立区日ノ出町)の本堂修繕寄進者名を記した扁額揮毫明治39年には酒井道一酒井抱一孫弟子四世)、稲垣其達(父其栄の師・鈴木其一門人)、野沢抱一高弟池田孤邨弟子と共に四皓会を結成する同年帝室技芸員岸光景入門大正3年75歳で没。戒名は不必庵向栄日欣居士墓所谷中本通寺だったが、その後谷中霊園経て、現在は東京都立八柱霊園移っている。

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道島五郎兵衛」の記事における「略伝」の解説

鹿児島城下で誕生薬丸自顕流剣術達人で、下級藩士組織精忠組加盟していた。 文久2年1862年有馬新七急進派藩士京都寺田屋結集すると、島津久光の命で大山綱良奈良原繁とともに鎮撫使任命された。道島は交渉決裂後、真っ先に「上意」と称して抜刀し、寺田屋騒動発端となっている。戦闘最中有馬斬り合いになって共斃れとなった。これは鎮撫使唯一の死者であった

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ホセ・カルロス・マリアテギ」の記事における「略伝」の解説

ペルー南部のモケグア市(フニン通り4番地)で生まれる。父は独立戦争指導したリマ旧家出身であったが、ホセ生まれたときには家を出ていた。生後すぐに母とともにリマ移転5歳時にリマ北方港町ウアチョに引っ越して小学校教育を受ける8歳時に血腫で左膝を痛め以来左足が不自由になる4年間の病院生活の間で、手に入る書物をすべて読みあさったという。 14歳からリマの『ラ・プレンサ』紙で働き20歳頃からファン・クロニケル(Juan Croniquer)のペンネームで詩を書きはじめた1916年『コロニダ』誌への参加をとおしペルー社会批判運動加わった。同じ年に親友とともに『エル・ティエンポ』紙の発行開始し政治への発言を行うようになった1918年には雑誌『ヌエストラ・エポカ』の発行たずさわる1919年の『ラ・ラソン』紙を発行しその中でアルゼンチンから大陸中に広がった大学改革運動支持し労働運動支援する。この新聞は「人民のための新聞」を目指すことを宣言し政府対決する姿勢見せたことで、その年の8月レギア大統領新聞発禁とマリアテギらの国外追放命じた大統領より政特派員という身分与えられ上で、マリアテギは1923年までイタリア・フランス・ドイツ・オーストリアをめぐり、マルクス主義知り社会主義への傾倒がいっそう強まった帰国後、ゴンサレス・プラダ人民大学講師をつとめ、学生連盟機関紙『クラリダ』を編集した。この雑誌にはアメリカ革命人民同盟創設者ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ(英語版)が関わってる。さらに1926年『アマウタ』誌を発刊し1928年主著ペルー現実解釈のための七試論 7 ensayos de Interpretación de la Realidad Peruana』を発表した。同じ年、かつての盟友アヤ・デ・ラ・トーレと路線対立により訣別し、9月16日ペルー社会党創立し、自らは書記長となった1929年ペルー労働総同盟(CGTP)の結成尽力するも、その年の5月ラテン・アメリカ労働組合会議6月第1回ラテン・アメリカ共産主義者会議において、ペルー社会党綱領コミンテルン派の非難浴び、すでに病床にあったマリアテギは反論するいとまなく、翌年4月没する

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鳥谷部春汀」の記事における「略伝」の解説

南部藩士・木村忠治の子として、陸奥国三戸郡五戸現青森県三戸郡五戸町)に生まれる。幼時より母方鳥谷部氏を嗣ぐ明治24年1891年)に東京専門学校(現早稲田大学)を卒業し翌年には島田三郎知遇得て毎日新聞社入社し社説担当する明治27年1894年)に退社し明治28年1895年)に近衛篤麿から雑誌精神』(後に『明治評論』)を託され人物評連載し始める。明治30年1897年)から雑誌太陽』の記者となり、人物評連載する明治33年1900年)に報知新聞社に移るがそこでも人物評続ける。明治41年1908年)、享年44没する東京本郷駒込吉祥寺葬る森銑三は、春汀のことを「明治硬派文人中でも最も敬意表せられる人」と書いている。

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鶴屋南北 (5代目)」の記事における「略伝」の解説

父は江戸深川八幡宮境内にある二軒茶屋主人松本右衛門その三男として生まれる。寛政12年1800年)、二代目勝俵蔵養子となり芝居世界に入る(四代目鶴屋南北娘婿・勝兵助養子の説もあり)。 享和2年1802年)、南北右衛門の名で江戸市村座の「當奥州壺碑」の舞台上がり道化役鶴屋南北家の家紋丸に大の字」を使用するその後舞台活動続けるが、文政4年1821年)頃、狂言作者転向。靏峯千助と改名同年5月江戸河原崎座敵討櫓太鼓』、7月玉藻前御園公服』など祖父四代目鶴屋南北脚本参加する。のち、鶴屋孫太郎改名たまさかに舞台に出るときは靏峯丑左衛門の名を名乗り四代目傑作絵本合法衢』に出演する。 こうして舞台活動続けながらも祖父スケとして活動『東海道四谷怪談』金幣猿島郡』などの傑作脚本執筆加わり文政12年1829年立作者となる。四代目死後創作活動続き天保3年1832年)に二代目姥尉輔四代目南北草双紙ペンネーム)を襲名天保8年1837年3月江戸中村座桜花大江戸舟』で五代目鶴屋南北襲名その後江戸大阪劇壇活躍する四代目区別するために『孫太郎南北』と呼ばれた主として旧作四代目作品補作改訂終始し独創性乏しかったが、三代目瀬川如皐二代目河竹新七(のちの河竹黙阿弥)ら幕末明治期にかけて活躍する逸材たちを育てた功績大きい。 行年五十七で没す深川心行寺葬る

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正阿弥勝義」の記事における「略伝」の解説

天保3年1832年津山二階町に住む津山藩お抱え彫金師中川五右衛門勝継の三男として生まれる。幼名は淳通称は淳勝義は工名。幼い頃から父に彫金を学ぶ。江戸出府方便として津山藩先手鉄砲隊小山家継嗣となり、江戸彫金家弟子入りしようとする果たせず、江戸から帰郷養子関係を解消その後18歳岡山藩御抱え彫金職人名家正阿弥家の婿養子となって正阿弥家の9代目を継ぐ。養子入り後は、江戸幕府お抱え彫金家後藤家門人で、自身江戸幕府及び朝廷御用職人務めていた実兄中川一匠や、その師・後藤一乗から手紙下絵や脂型、或いは相互に作品遣り取りして指導を受ける。勝義作品数多く所蔵する清水三年坂美術館にはこの頃刀装具や短刀拵も含まれ、既に勝義が高度な技術持っていたことが窺える正阿弥家は、藩主注文刀装具を作り安定した暮らしをしてきたが、明治維新後の廃藩置県岡山藩との雇用解かれたことによって生活の保障なくなり、更に廃刀令により刀装具の仕事なくなってしまった。多く彫金家たちが廃業する中、勝義はその技術生かして新たに花瓶香炉などの室内装飾品や彫像などの美術工芸品茶器などを制作し始める。明治11年(1878)職人30余名輸出産業起こし神戸貿易商濱田三郎紹介イギリス商人売買契約を結ぶ。ところが、奸商による粗製偽物出たため輸出中止職人少数絞り美術工芸専念する同年から、イギリスから大衝立注文を受け、加納夏雄海野勝珉十二支図案で、勝義金工彫、逸見東洋木工により3年がかりでを作り上げ、現在ボストン美術館所蔵している。その後勝義国内海外問わず精力的に博覧会美術展出品し各地高い評価受けた明治32年1899年67歳にして美術研究のため京都引っ越す。京の伝統文化正勝才能を更に昇華させ、正勝名声高めている作品多くは、京都移住後から死去まで10年間に制作されたものである晩年パトロン離れによる新たな顧客獲得のための慣れない営業で身をすり減らしこれまでの人生でした事も無い借金かさんでいった。明治41年(1908)に脳卒中京都逝去享年77墓所は、岡山東山墓地

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岡田閑林」の記事における「略伝」の解説

谷文晁門人渡辺崋山交友沈南蘋風の花画を得意とした。目白台組屋敷居住した享年76。孫の岡田鶴川画家になっている

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沖冠岳」の記事における「略伝」の解説

伊予国今治出身風早町かつては河田小龍著『吸江図誌』の校訂者に「冠岳人」の名があり、沖冠岳同一人物とされたことから小龍と同じ土佐出身とされた。しかし、他の資料冠岳自身印章「豫国之人東京居」から明らかな誤伝で、そもそも冠岳と「冠岳人」が同一人物かも定かでない中川家伊予名族越智氏流れを組むようだが、藩士ではなく檜物屋を営む御用商人だったという。しかし、父・中川正晴は松山医者をしていたともいわれ、本業医師の絵を得意とした山本雲渓入門したのも、医師繋がりだったとも考えられるまた、冠岳自身医師兼業だったとも想定され後年似顔絵では当時医師のならいで剃髪姿で掲載されている(畑銀現存雷名江戸文人壽命附』嘉永2年1850年)刊)。 いつ頃かは不明だ上京し岸派絵師入門し天保年間はここで画を学んだ推測される。ただし、岸派のどの絵師かは不明だが、後年の作品まで岸派影響見て取れる天保11年1840年)夏から翌12年1841年)春までの間に、中川から沖を名乗り始める。沖姓を用いたのは、中川の中と川(水)二文字合成して一字したためで、中国名風の一字姓を名乗るのは江戸後期文人の間でしばしば見られる現象である。なお以後冠岳の子孫は沖を本姓としている。嘉永初期江戸出て谷文晁大沼枕山らと交流を結ぶ一方江戸南画狩野派なども研究し多彩な画風を身に着けた。嘉永年間には、駿河台住み江戸文人たちの間に知られるようになっていた。 安政2年1855年3月から神戸藩仕え下屋敷のある高輪引っ越す。この際、前藩主本多忠升雅号が同じ「冠岳」だったためか、冠翠に改める。なお、「翠」の字を用いたのは、現藩主本多忠貫の号の一つ「翠洞」から貰ったとも推測される。ただし、この時期名鑑では一貫して冠岳改、冠翠」と記されており、世間では冠岳のほうが通り良かったとも推測される。。しかし、画業専念するためと幕末政情不安から、文久3年1863年8月神戸藩士のまま麻布市兵衛町引っ越す。画号冠岳戻し充実した作品数多く制作する画家仲間との交流続いており、松本楓湖とその門弟川上冬崖奥原晴湖といった次代文人たちとも接点持っている明治4年1871年)春、神戸藩から今治藩へ帰藩し、同年秋に今治帰郷郷里商人たち庇護を受け、晩年まで旺盛な制作続けた明治9年死去享年60戒名天眞冠岳居士墓所本郷大林寺と伝わるが、墓石現存しない。長男の沖冠嶺は、漢学者として名を成した門人同郷山下桂岳と、愛知二宮赤峯がいる。

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狩野永章」の記事における「略伝」の解説

備後国出身。後に上京し京狩野家入門し狩野姓と永章の名をもらった考えられる京都人名録『平安人物志』画の部には、文化10年1813年)版、文政5年1822年)版、文政13年1830年)版の3度掲載されている。更に、文化10年版と文政5年版の記述より、この間法眼位を得ているのがわかる。息子の永岳は京狩野新風起こし活躍した絵師であるが、その影には父・永章の支えがあったと想定される

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後藤一乗」の記事における「略伝」の解説

京都室町木下町で京後藤家分家後藤七郎右衛門重乗の次男として生まれる。幼名栄次郎。母は二条家家臣野間出身。兄・後藤光熈(みつひろ)、弟・光覧(みつただ)も金工家1800年寛政12年)頃同じ京の分家後藤八郎兵衛謙乗の養子となる。1805年文化2年15歳で謙乗が亡くなったため、八郎兵衛家第6代目当主となり、光貨(みつたか)と名乗る1811年文化8年)に光行(みつゆき)と改名し四郎兵衛宗家から大判墨書書改や分銅制作依頼を受け、京都における業務代行した。更に文政年間初め頃、光代(みつよ)と改名している。 1824年文政7年光格天皇佩用正宗刀装具を制作、その功績によって同年12月19日法橋叙される。この頃から、一乗名乗った1851年嘉永4年3月江戸幕府招き10扶持を受け江戸へ下り10年ほど幕府などの依頼刀装具を制作1855年安政2年)には第13代将軍徳川家定お目見えする栄誉受けている。1862年文久2年朝廷の命で京都戻り孝明天皇刀装具を制作翌年6月8日法眼叙された。 1866年慶応2年)から幕府御用は子の光伸に譲る。1868年明治元年朝廷から一代限り年米10下賜通知を受ける。一乗細工所経営し後述する優れた弟子多く輩出した。その名声在世より高く一乗より少し後の金工家加納夏雄は、「当時京都後藤一乗なる者あり、技量優れて世に用いられ、その勢力殆ど本家後藤家圧倒せしむありしかば」と評している。維新後は、京都府知事から勧業御用掛などに任命された。明治9年奇しくも廃刀令同年京都死去享年86戒名光代一乗日敬居士墓所後藤家歴代と同じ京都北区知足常徳寺

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吉田元陳」の記事における「略伝」の解説

鶴澤探鯨門人。諱は守清。京都豪商角倉家の縁者とされる1757年宝暦7年)に法橋上る翌年から禁裏御用勤め閏月の御月扇を進上している。1771年明和8年御所の太宋御屏風制作1777年安永6年法眼位を得る。探息子探索寛政禁裏御所障壁画制作参加した。跡は息子吉田大炊(元椿)が継いだ弟子木村元城、杉山元春、谷川元庸、吉城元陵など数多いものの、その活動については殆ど不明である。

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村松以弘」の記事における「略伝」の解説

幼少より絵を描くことが好きだったので、伊勢の僧・月僊学び長じる江戸出て谷文晁画塾・写山楼入門した文晁東海道往来するとき、以弘の家に滞在したという。渡辺崋山にも画の指導受けている。画力認められ時期不明だ掛川藩御用絵師となった。同藩の儒者松崎慊堂交流した門下福田半香平井顕斎村松弘道・僧思玄(尊永寺住持)・小栗浜松庄屋)などがいる。

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黒田長元」の記事における「略伝」の解説

文政11年1828年12月11日先代藩主黒田長韶養嗣子となる。文政13年1830年5月にその娘と結婚した上で同年10月6日家督譲られた。同年12月15日従五位下甲斐守に叙任する。 先代以来、藩内において専横限りを尽くしていた間小四郎一派流罪処している。嘉永6年1853年)、藤堂高聴とともに間取締の加談となる。万延元年1860年8月21日家督を六男の長義譲って隠居した同年9月19日、自笑庵と号する慶応3年1867年4月4日57歳秋月にて死去した。 表 話 編 歴 黒田氏秋月藩10代藩主 (1830年 - 1860年)黒田長興1623-1665 黒田長重1665-1710 黒田長軌1710-1715 黒田長貞1715-1754 黒田長邦1754-1762 黒田長恵1762-1774 黒田長堅1774-1784 黒田長舒1785-1807 黒田長韶1808-1830 黒田長元1830-1860 黒田長義1860-1862 黒田長徳1862-1871 廃藩置県

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海野勝珉」の記事における「略伝」の解説

常陸国水戸にて、伝右衛門の四男として生まれる。叔父にあたり水戸藩士だった初代海野美盛金属彫刻を学ぶ。更に美盛紹介で、当時水戸彫金界泰斗だった同藩士萩谷勝平から金属工芸の諸技術収めて、基平と名乗った。「勝珉」の名は、師・萩谷勝平の「勝」と江戸時代の名彫金家横谷宗珉の「珉」を合わせ後に名乗ったものと考えられる。また水戸時代には、安達渓に絵を、武庄次郎漢籍学び、高い教養も身につけている。 明治初年上京明治9年1876年駒込千駄木町開業した明治10年1877年第1回内国勧業博覧会明治14年1881年第2回内国勧業博覧会褒状明治23年1890年)、第3回博覧会で「蘭陵王」で妙技一等賞翌年東京美術学校助教授となり、先達同校教授だった加納夏雄師事し更なる研鑽を積む明治27年1894年)同教授翌年第4回内国勧業博覧会では審査員明治29年1896年6月30日には帝室技芸員拝命明治38年1905年加納続き勲六等瑞宝章受章大正4年逝去後は、従四位勲四等叙せられた。 加納同じく鋭角刃先を持つ小刀のような鑿で金属を彫る片切彫を得意とした。また象嵌にも優れ多種金属組み合わせる事で豊かな色彩表現を可能としている。 墓所豊島区駒込染井霊園

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黒田長義」の記事における「略伝」の解説

兄たち他家養子出ていたため、父の嫡子になった安政6年1859年12月1日将軍徳川家茂御目見した。同年12月16日従五位下近江守に叙任する。後に甲斐守に改める。万延元年1860年8月26日、父の隠居により家督継いだ。しかし2年後文久2年1862年正月26日16歳死去した嗣子がなく、その死は6月5日まで隠された。跡を弟の長徳継いだ。 表 話 編 歴 黒田氏秋月藩11藩主 (1860年 - 1862年)黒田長興1623-1665 黒田長重1665-1710 黒田長軌1710-1715 黒田長貞1715-1754 黒田長邦1754-1762 黒田長恵1762-1774 黒田長堅1774-1784 黒田長舒1785-1807 黒田長韶1808-1830 黒田長元1830-1860 黒田長義1860-1862 黒田長徳1862-1871 廃藩置県

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黒田長韶」の記事における「略伝」の解説

江戸新堀藩邸生まれる。文化4年1807年1月15日将軍徳川家斉御目見えする。同年12月16日従五位下壱岐守叙任する。後に甲斐守に改める。文化5年1808年4月9日父の死去により跡を継いだ宗家福岡藩藩主黒田斉清若年のため、長韶が補佐して長崎警備務めたが、長韶には家臣団統率できる力がなく、家臣の間小四郎らに専権振るわれ、不正を働かれるという有様であったこのため逆に福岡藩から監督的な指導受けている。 文政13年1830年10月6日婿養子長元家督譲って隠居した隠居後官名兵庫頭改めた天保3年1832年9月3日、韶翁と号する天保11年1840年2月26日秋月死去した。 表 話 編 歴 黒田氏秋月藩9代藩主 (1808年 - 1830年)黒田長興1623-1665 黒田長重1665-1710 黒田長軌1710-1715 黒田長貞1715-1754 黒田長邦1754-1762 黒田長恵1762-1774 黒田長堅1774-1784 黒田長舒1785-1807 黒田長韶1808-1830 黒田長元1830-1860 黒田長義1860-1862 黒田長徳1862-1871 廃藩置県

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黒田長邦」の記事における「略伝」の解説

江戸にて生まれた元文2年12月5日元服し、父長貞のかねての願いによって同16日従五位下叙せられた。宝暦4年1754年)、父の死去により家督を継ぐ。本家世子黒田重政江戸城登城東叡山参詣する際には多く随行し、また名代勤めた。このほか重政祝事がある際には決まって重要な役目担っている藩政では特に見るところも無く宝暦12年1762年2月23日江戸にて死去した享年41死後家督嫡男の長恵が継いだ。 表 話 編 歴 黒田氏秋月藩5代藩主 (1754年 - 1762年)黒田長興1623-1665 黒田長重1665-1710 黒田長軌1710-1715 黒田長貞1715-1754 黒田長邦1754-1762 黒田長恵1762-1774 黒田長堅1774-1784 黒田長舒1785-1807 黒田長韶1808-1830 黒田長元1830-1860 黒田長義1860-1862 黒田長徳1862-1871 廃藩置県

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庭山耕園」の記事における「略伝」の解説

兵庫県姫路市で、父恒三郎と母カツ次男として生まれる。庭山家は、雅楽頭酒井家姫路藩主として転封されてから代々藩に出入りし、恒三郎の代には大阪蔵屋敷勤めていたという。しかし、廃藩置県で職を失うと、一家をあげて大阪船場移住する以後何度引っ越すものの生涯船場離れることはなかった。小学校卒業後、働くため奉公出ようとするが、病弱だったため仕事につけずにいた。そこで13歳頃、近所住み大阪活躍した四条派上田耕冲弟子入りする明治21-22年1888年-89年)頃、船場素封家樋口三郎兵衛後援を受け、大阪画学校を作り、その助教となる。 明治23年1890年第3回内国勧業博覧会に《人物図》を出品、この時の記録からこれ以前から耕園の画名用いていたのがわかる。この頃のみ、耕園は展覧会積極的に出品しており、明治26年1893年日本青年絵画協会第2回青年絵画共進会三等受賞出品作不明)。明治28年1895年第4回内国勧業博覧会に《舞楽図》と《図》を出品前者褒状翌年日本絵画協会第1回全国絵画博覧会に《秋景山水図》を出品明治36年1903年)《舞楽図》と《図》を出品前者褒状を受ける。これらの活躍により、画家として社会的認知得た推測される。しかし、耕園の画風展覧会向きではなく以後地元大阪美術展覧会以外に出品しなくなる。明治43年1910年)耕冲が亡くなると、一時更なる研鑽のため鈴木松年塾に通い年が天龍寺金堂天井龍を描く際には、その手伝いをしたという。ただし、耕園の作品には年風のものはなく、回顧録でも入門一言触れていない。これは、大阪画家中央画壇進出する足がかりとして、京都大家入門する場合があり、耕園も同様だった考えられるこの頃から、大阪実業家素封家パトロンとし、経済的に安定する。更に、本名の慶の「慶」の音にちなん画塾桂花社を起こしプロなりたい書生の他に、趣味として絵を描く旦那衆やその夫人良家の子女に絵を教えたそのうち絵を専門とする玄人集まり庭社と称した弟子平田桂園乙馬耕秋、代谷耕外、山田香勢園、熊田耕風、春元章園、木村彩園らがいる。画塾はいつも賑わっていたが、日本画壇から離れた耕園の塾では帝展入選できないので、基本習った出奔する弟子もいたという。大正12年1923年大阪市美術協会設立されると、中川和堂矢野橋村水野竹圃、菅楯彦らと創立委員任命されるなど、大阪画壇長老として活躍した生涯通じて茶道趣味にしていたが、晩年は特に親しみ表千家茶会参加お茶道具としての掛物多く描いた表千家第12代惺斎第13代即中斎との合作も多い。現在でも大阪お茶世界では、耕園の絵は待合掛けとして今も使われ評価されている。昭和17年1942年7月に没。享年74阿倍野葬儀場葬儀には1000人を超える会葬者集まった作品花鳥画年中行事に関するものが多い。題材朝顔、雀、鴛鴦などが散見される。特に松村景文尊敬し瀟洒な感覚構図取り方が共通する鑑定もしていたらしく、当時大阪円山応挙の絵の鑑定は耕園に頼めと言われていたという。耕園は8人の子宝に恵まれたが、長男は「ミスター住専」と呼ばれた庭山慶一郎で、昭和63年1988年)から翌年にかけて耕園の生誕二十年記念して画集出版湯木美術館山種美術館展覧会開催尽力、また地元大阪市立美術館作品複数寄贈している。

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蘭谷元定」の記事における「略伝」の解説

京都衣屋の子として生まれ、父に従い黄檗山詣でていたが寛文7年15歳隠元隆琦侍者であった月潭道澂の弟子となる。 元禄7年1694年)、月潭が京都嵯峨野直指庵第2代住持となるに伴い首座となり山内の「含玉軒」に住した元禄16年には禅者としての修行終える。 宝永4年1707年)に示寂する。師月潭は愛弟子の死を悼み諸芸能くした」と祭文述べているが、画・篆刻彫刻秀でた仏像彫刻范道生から刀法学び、明様式装飾的写実的な作風であった。自らの父の七回忌には小さな肖像刻み直指庵納めている。また独立性易によって伝えられ篆刻をよくし、伊藤仁斎伊藤東涯細井広沢らの印を刻している。このころ篆刻芸術黎明期に当たり、後進影響与えた絵画は「黄檗画像」(特に頂相)に巧みで独照性円や月潭の肖像がある。萬福寺塔頭のひとつである真光院には無心性覚頂相伝わっている。また文人画風の墨画も得意としをはじめ四君子好んで描いた日本の初期南画家先立つ50年も前から和僧の手によってこのような画風があったことは注目される

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曽山幸彦」の記事における「略伝」の解説

鹿児島岩崎で、薩摩藩士だった父・曽山芳徳、母シズ次男として生まれる。父は早世し、家は貧しかったという。しかし、母の弟だった志士歌人高崎正風は、姉一家状況を見かねて、兄・厳彦と共に上京させ、日本海軍に入るべく教育受けさせる実際兄は海軍入り、後に主計大監まで昇進しているが、幸彦の絵の才能見抜いた正風は、1877年明治10年工部美術学校入学させる幸彦最初予科入学しヴィンチェンツォ・カペレッティ指導受けた思われ画風からはアントニオ・フォンタネージ影響うかがえない。フォンタネージ帰国後は、後任のプロスペッマ・フェレッティやそのまた後任のアッキレ・サン・ジョヴァンニに学ぶが、特に後者影響大きかった想像される。サン・ジョヴァンニは、形態正確に把握させるためのデッサン重視しており、幸彦も高いデッサン力を養った。ある時サン・ジョヴァンニが生徒たちの絵の不出来激怒し破棄するよう命じると、皆が躊躇する中、幸彦は刀を持って切断したという。そのため幸彦はサン・ジョヴァンニから信頼勝ち取り画学助手唯一務め徴兵免除願い出されるほど重んじられている。 1883年明治16年工部美術学校廃校になると、工部大学校現在の東京大学工学部)で、図学教場掛兼博物場掛の職に就く。一方翌年には同窓松室重剛堀江正章らと麹町私塾画学専門美術学校設立するが、経済的困窮などで1年足らず廃校になってしまう。1887年明治20年東京府工芸品共進会審査員翌年には工科大学造家学科建築学科助教授亡くなるまで務め建築学を学ぶ生徒たち写生風景画教える「自在画」の科目担当したという。廃校後自宅私塾開き絵を教えていたが、1890年明治23年永田町にいた親戚大野家養子となり、その屋敷内画塾開いた塾生には、藤島武二和田英作岡田三郎助中沢弘光矢崎千代治、三宅克己など、後の洋画界を牽引する人材多く含まれる。こうして教育分野活躍しつつ、いつか洋画本場ヨーロッパに渡るのを夢見ていたが、1892年明治25年腸チフスによりわずか数え34歳満年齢321ヶ月余り死去画塾弟子玉置金司、岡田三郎助中沢弘光らが再建目指し、かつての盟友松室重剛堀江正章らを招き玉置含めた3人の教授陣継続された。塾名は大野幸彦から取って大幸館」と名付けられた。この頃北澤楽天入塾している。しかし塾の経営厳しく堀江無給指導したともいう。1896年明治29年)に東京美術学校西洋画科ができると、主な塾生助教授生徒としてそちらに移ってしまい、翌97年明治30年)閉塾となっている。東京美術学校に移らなかった北澤楽天は、同じ道を選んだ堀江正章師事することになった

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坂本真琴」の記事における「略伝」の解説

静岡県田方郡三島町現在の三島市出身一家神奈川県横浜移住したため、共立女学校(現在の横浜共立学園)に学び英文速記者になる。1911年明治44年)頃、坂本勇吉(染料輸入販売業)と出会い同棲生活を開始、やがて長女出生この年発刊した雑誌青鞜』(せいとう)創刊号平塚らいてう巻頭言元始女性太陽であつた――青鞜発刊に際して」に感銘受けた真琴は、1913年大正2年)に青鞜社入社1916年大正5年)に入籍するその後、夫勇吉との間に5女を儲ける。同年雑誌ビアトリス』の出版元参加1920年大正9年3月平塚らが結成する新婦人協会」にも評議員(後に理事)として参画し、翌1921年(大正10年)に平塚市川あいついで幹部職を離れる協会本部坂本宅に移り機関誌編集部奥むめお自宅)、婦人運動身を投じることになる。特に、新婦人協会創立当初から最優先課題として取り組んでいた、当時女性集会結社の自由阻んでいた治安警察法改正運動治安警察法第5条改正運動)に献身協会支持議員選挙応援や、法改正案の議会上程後は連日衆議院貴族院での議会工作奔走1922年大正11年)の同法改正案成立へと導く中心的役割果たした1924年大正13年12月創設の「婦人参政権獲得期成同盟会」(翌年婦選獲得同盟改称)では中央委員会計理事歴任。婦選同盟理事として活躍した1932年昭和7年脱会1954年7月15日(1954-07-15)死没65歳

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文雄 (僧)」の記事における「略伝」の解説

丹波国桑田郡野村生まれる。幼くして同郡の玉泉寺剃髪し京都了蓮寺の誓誉に師事する江戸出て伝通院留学し内外の典籍を渉猟する太宰春台漢籍中国語の音で読むべきであると説かれ音韻学を学ぶ。以後韻鏡暦数研究進めて講話著述活動に励む。1751年桂林寺引退し1763年5月阿波讃岐遊覧してから京都戻った9月入寂した。行年64

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原在照」の記事における「略伝」の解説

山科家雑掌小林家出身。在明の実子・在兼(謙)は地下官人右馬寮大島(嶋)家を継ぎ大島友集と名が変わったため(ただし後に原家復縁)、在明の娘・幸(こう)の婿養子となって原家を継ぐ。在明の活動により、天保5年1834年春日絵所だった勝山琢文から、宝田治兵衛絵所仲間経て春日絵所を金45両で入手する天保8年1837年25歳正六位下内舎人近江介弘化2年1845年33歳正六位上内匠少允。なお住所中立売室町東。 翌年御殿修復孝明天皇即位に伴う屏風制作を行う。なおこの時在照は、多忙御用申し付けられても間に合わないと常御殿修復だけ出願した。しかし後日造営御用掛から、なぜ三代渡って御用務めているのに今回提出がないのかと問い詰められ、在照は急遽即位御用出願期限はとっくに切れていたにもかかわらず認められた。同様の例寛政5年1793年)の円山応挙にもあり、弘化3年時点原家円山家と肩を並べ存在になったと言える安政2年1855年)からの安政御所造営では、諸大夫の間、御拝廊下小御所、常御殿などの襖・杉戸彩管振るう万延元年1860年)からの和宮降嫁の際には屏風描き慶応3年1867年明治天皇即位では曲水の宴屏風を描く。原家在中以来有職故実に詳しい画系だとみなされており、在照の頃になると有識調査儀礼記録する仕事が更に増えていった。そのため終生禁裏御用画ばかり手掛けたため、その絵が世に流れることは多くなかったと言われる明治4年1871年)没、享年59墓所中京区天性寺。跡は養子原在泉継いだ

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アントナン・カレーム」の記事における「略伝」の解説

カレーム一生は、絶望的な貧困から、ヨーロッパの国々元首政治家食卓任せられるまでに立身出世遂げた驚異物語いえようカレーム父親石工職人をしていた16番目の息子として生を受けており、そのパリ子沢山貧し家庭生まれたカレームは、10歳になるかならないかのうちに、貧困にあえぐ両親によって、フランス革命余波揺れていたパリ路上放り出された。生きていくため安食堂に住み込んで見習いとして働き始めたカレームは、その刻苦勉励によってやがて頭角現し1798年、後にパトロンになるタレーラン邸にも出入りしていた有名パティシエパレ・ロワイヤル近所に店を構えていたシルヴァン・バイイに弟子入りし才能認められ出世への階梯登り始めたカレームは、バイイによってアミアンの和約成立記念祝宴デザート任されるという大抜擢を受け、またピエスモンテ工芸菓子)によってパリ名声を得る。ピエスモンテとは、全て食品砂糖マジパンペイストリーなど)からできており、これらの素材用いて建築物のように積み上げた精巧かつ装飾的な意味合い濃厚なもので、バイイ菓子店ショーウィンドーをも飾っていたが、カレームピエスモンテときには高さ数フィートにも達し道化師その上に乗って踊って王を楽しませることができるほどだったという。カレーム建築知識料理才能駆使し、また近くパリ国立図書館読んだ建築史の本から発想得て寺院ピラミッド古代遺跡象ったピエスモンテ創造したカレームは、タレーランナポレオンを含むパリの上社会宴会のメインコース料理請け負うようになった後も、雇い主邸宅台所パティシエ時代培った装飾技術応用している。 ナポレオン美食にはどちらかといえば関心であったが、食卓外交重要性はよく理解しており、タレーランヴァランセ城(英語版)を購入する際にも資金援助行なっている。ナポレオンタレーラン狙いヴァランセ城を食卓外交根城とする事だったと言われており、ヴァランセ購入に伴いカレームもそちらに異動している。 カレームにとってタレーランは、単にパトロンと言うとどまらず課題課され結果吟味する審判としての役割兼ねていた。カレームは、重複した料理のない、かつ季節物の食材のみを使用した1年間メニュー作る事をタレーラン命じられ台所試行錯誤させられたという。 ウィーン会議が終わるとカレームイギリス摂政皇太子(後のジョージ4世)の料理長としてロンドン赴くその後カレームは、サンクトペテルブルクロシア皇帝アレクサンドル1世ウィーンオーストリア帝国皇帝フランツ1世などに仕えた後、パリ戻って銀行家ジェームス・ロスチャイルド邸の料理長就任した料理文化普及にも努力し多数著作がある。 1833年パリにおいて48歳没する。「19世紀フランス料理術」を執筆であった遺体モンマルトル墓地葬られている。

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菊姫 (宗像氏)」の記事における「略伝」の解説

76代宗大宮司宗像正氏とその正室山田夫人との間に一人娘として生まれる。宗像氏古くより宗像三神を祭る宗像大社奉仕し宗像の地を治めてきた一族で、菊姫生まれた時代には筑前豊前守護中国地方大名大内氏属していた。父正氏は大内家への軍役を果たすために、菊姫親子宗像の地に残し山口三年間ほど出仕しており、この期間に大内家実力者陶隆房陶晴賢)の姪照葉第二夫人迎え菊姫異母兄弟となる鍋寿丸(氏貞)と色姫をもうけていた。 菊姫14歳の頃に伯父で父正氏が山口出仕の際に大宮司務めた氏続の子氏男結婚した。正氏の死後氏男宗像大宮司家督継承し、正氏と同じく山口出仕しているが、この結婚長くは続くことはなく、陶隆房蜂起した大寧寺の変により氏男主君大内義隆殉じて死亡している。 当主失った宗像家では氏男の弟千代松推す派と氏男未亡人である菊姫異母弟寿丸擁立する派に二分し家督を巡る争い生じた最終的にこの争いは、陶隆房後押し受けた寿丸側が勝利し千代松及びその父氏続は豊前逃れるも、討っ手差し向けられ千代松山口(宮若市)で、氏続は彦山討たれた。この家督を巡る争いには菊姫親子否応なしに巻き込まれることとなった天文21年3月23日の夜山田の館で、鍋寿丸側から命を受けた家臣により山田局、18歳菊姫四人侍女惨殺された。館内血の海化し、館に乱入した雑兵により財宝奪われたという。菊姫ら6人の遺体は館の裏側の崖下に穴を掘って埋められた。 詳細は「山田事件」を参照 この事件の後に、宗像家中では事件に関わった者たちが次々と怪死変死し、数々怪異起き宗像領内では山田事件怨霊ささやかれたという。また、事件七回忌にあたる永禄7年には、菊姫異母妹色姫が突然髪を振り乱し、母照葉咽喉笛に噛み付き発狂するということ起きている。山田事件の後に、鍋寿丸から名を改め、第70代宗大宮司相続した氏貞は、家内領内で起こる数々怪異や不幸が、幼少期におきた悲惨な事件原因だと考え多くの僧を呼んで菊姫ら6人の大法要を営み領内56のも寺院を建て6人の鎮魂慰霊努めたという。

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立原春沙」の記事における「略伝」の解説

立原杏所長女として、水戸江戸藩邸生まれる。当時、翠軒が門人宛てた書簡に「孫娘春日の誕生ゆへに当座にはると名付申候」とあり、「春」の命名春日生まれたためだとわかる。幼い頃から父祖より書画学び、やがて所と関係の深かった渡辺崋山弟子入りする崋山が春沙に宛てた手紙残っており、春沙が両親の手伝い忙しく画に没頭できないもどかさを崋山相談すると、崋山は「絵を描くことと世の中俗事別々に考えているからもどかしく感じるのです。私はどちらも分かち難く結びついている考えます。これはこじつけ理屈ようですが、そう割り切ら無くては、芸などというものは天下無用のガラクタになってしまいます。ですから、ご両親仕えて親孝行をしている時は、一幅の「孝経図」を描いていると思ってご覧なさい。絵を描いている時は教典倣っているのだと思ってご覧なさい」と、修身画道追求表裏一体だと説いている。 こうした崋山薫陶成果か、天保7年1836年)版の『江戸現在廣益諸家人名録』には、父と共に名前が掲載されており、22歳で既に画名世に認められている。その評判聞いた文人たちが春沙に結婚求めることも多かったが、春沙はこれを笑って断り生涯結婚しなかった。また、春沙は加賀藩13藩主前田斉泰正室溶姫侍女になり、彼女に17年仕えたと伝わる。溶姫とは春沙の方が1つ下と歳が近く溶姫自身も絵を嗜み両者の関係良好だった想像でき、春沙は溶姫後ろ盾によって独身で画を追求できたとも考えられる江戸城大奥着色花鳥図襖絵を描き将軍御台所より筆勢素晴らしさ賞賛されたとも言われるまた、春沙は月琴にも長じたという。墓は東京文京区本駒込海蔵寺

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池田仲庸」の記事における「略伝」の解説

享保6年1721年7月6日第2代藩主池田仲央長男として鳥取館で生まれる。 宝暦3年1753年)に父が死去したため家督継ぎ12月18日従五位下摂津守に叙位任官する江戸城常盤橋門番任じられ宝暦7年1757年)には大手組防火任じられる宝暦8年1758年2月公家接待役に任じられるが、間もなく病に倒れ6月12日鳥取館で死去した享年38。 跡を長男・澄延が継いだ。 表 話 編 歴 鹿奴藩第3藩主 (1753年 - 1758年)池田仲澄1685-1703 池田仲央1703-1753 池田仲庸1753-1758 池田澄延1758-1769 池田延俊1769-1771 池田澄時1771-1785 池田仲雅1785-1824 池田仲律1824-1850 池田仲建1850-1864 池田徳澄1865-1869 鳥取藩吸収され廃藩

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加藤泰理」の記事における「略伝」の解説

文化12年1815年11月21日第7代藩主加藤泰儔長男として生まれる。 天保2年1831年3月15日、父の隠居家督継いだ藩政においては児玉清徳を登用して文教政策軍備増強尽くした文久2年1862年12月20日家督長男の泰令に譲って隠居する慶応3年1867年3月20日江戸で死去した享年53。 表 話 編 歴 加藤氏新谷藩8代藩主 (1831年 - 1862年)加藤直泰1623-1682 加藤泰觚1682-1716 加藤泰貫1716-1727 加藤泰広1727-1756 加藤泰宦1756-1771 加藤泰賢1771-1810 加藤泰儔1810-1831 加藤泰理1831-1862 加藤泰令1862-1871 廃藩置県

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鍋島直晴」の記事における「略伝」の解説

文政4年1821年6月26日第9代藩主鍋島直彜長男として生まれる。直彜は直晴が生まれ前年隠居していたため、直晴は第10代藩主・直永(従兄にあたる)の養子となり、天保10年1839年6月4日の直永の隠居により家督継いだ聡明将来期待されていた人物とされているが、家督相続後8月21日参勤交代途上伏見急死した享年19。跡を養子(直永の弟)の直賢が継いだ。 表 話 編 歴 鍋島氏鹿島藩11藩主 (1839年)養子問題鍋島忠茂1609-1624 鍋島正茂1624-1642 佐賀藩主・勝茂の九男・直朝を養子とすることを拒否鹿島返還以後旗本養子問題後正茂に代わり、直朝が藩主に。 鍋島直朝1642-1672 鍋島直條1672-1705 鍋島直堅1705-1727 鍋島直郷1728-1763 鍋島直煕1763-1770 鍋島直宜1770-1801 鍋島直彜1800-1820 鍋島直永1820-1839 鍋島直晴1839 鍋島直賢1840-1848 鍋島直彬1848-1871 廃藩置県

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鍋島直彜」の記事における「略伝」の解説

寛政5年1793年2月21日肥前佐賀藩主・鍋島治茂の六男として佐賀城生まれる。寛政12年1800年)に義兄(姉の夫)で鹿島藩6代藩主鍋島直宜養子となり、4月21日に直宜の隠居により家督継いだ文政元年1818年)から倹約リストラ中心とした藩政改革行なった成功しなかった。文政3年1820年2月17日家督養子の直永(実兄佐賀藩鍋島斉直十三男)に譲って隠居する隠居後生まれた実子の直晴は直永の養子となった文政9年1826年7月より病に倒れ回復せぬまま11月19日死去した享年34

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田中日華」の記事における「略伝」の解説

京都出身通称は辯ニ、号に月渚、九峯堂。字は諸書で「伯暉」とされるが、実際に作品に捺された印文は「伯煇」である。岡本豊彦高弟一人同門塩川文麟弟子竹川友広談話によると、門人のなかで最も早く頭角現し大酒飲みだったという。文政度の東本願寺再建では、少宸殿及び白書院杉戸絵を担当、特に少宸殿では二之間寿合わせによる寄合天井画頭取任命され手腕振るったという。山水花鳥良くしたとされ、豊彦譲り山水画が多い。豊彦同年亡くなったが、どちらが先かは資料がなく判断できない弟子池田があり、師の没後郷里金沢で、日華生前計画しつつも果たせなかった『九峯堂画譜乾坤2冊を出版している。 生前は『平安人物志』に、文政5年1822年)、文政13年1830年)、天保9年1838年)の3度掲載されるなど、かなり知られ絵師だったようだ。しかし、今日では有名な絵師とは言い難く公共機関所蔵され作品少なく年記落款が伴う作品も殆ど無いなど、研究進んでいない。

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鍋島直知」の記事における「略伝」の解説

天明4年1784年5月4日第7代藩主鍋島直愈長男として江戸で生まれる。寛政6年1794年4月、父の隠居により家督継いだ寛政11年12月1800年)、従五位下紀伊守に叙位任官する文化元年1804年3月12日江戸で死去した享年21嗣子無かったため、異母弟の直堯が養子として跡を継いだ。 表 話 編 歴 鍋島氏小城藩8代藩主 (1794年 - 1804年)鍋島元茂1642-1654 鍋島直能1654-1679 鍋島元武1679-1713 鍋島元延1713-1714 鍋島直英1714-1744 鍋島直員1744-1764 鍋島直愈1764-1794 鍋島直知1794-1804 鍋島直堯1804-1850 鍋島直亮1850-1864 鍋島直虎1864-1871 廃藩置県

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鍋島直員」の記事における「略伝」の解説

享保11年1726年3月7日、第5代藩主鍋島直英次男として小城生まれる。寛保元年12月1742年)、従五位下紀伊守に叙位任官する延享元年1744年)、父の死去により家督継いだ宝暦14年1764年5月家督次男の直愈に譲って隠居する安永9年1780年6月24日小城死去した享年55。 表 話 編 歴 鍋島氏小城藩6代藩主 (1744年 - 1764年)鍋島元茂1642-1654 鍋島直能1654-1679 鍋島元武1679-1713 鍋島元延1713-1714 鍋島直英1714-1744 鍋島直員1744-1764 鍋島直愈1764-1794 鍋島直知1794-1804 鍋島直堯1804-1850 鍋島直亮1850-1864 鍋島直虎1864-1871 廃藩置県

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三村竹清」の記事における「略伝」の解説

小学校中途辞めて12歳丁稚奉公に出る。小遣い溜めて淮南子』を購入その後も本好きが高じて8年間で小舟1艘ほどの本を買い、読みあさった日露戦争看護長として従軍したときも本好きは変らず、『十三経』を行軍持ち込み友人背負わせて困らせている。経書以外にも洒落本など様々な本を読んでいる。すぐに下宿本棚溢れたそうするうちに気付いたことなどを書き溜めノート20冊を超え、それを整理して書き物始める。 一方で知識教養深める為に勉学始め経学漢学長坂或斎に学ぶ。また成瀬大域について書法を、池田琴峰、荒木寛畝には画法を受け後には松本楓湖にも画を学ぶ。篆刻浜村蔵六私淑した。こうして文人的な教養技芸を身につけ、文芸万般に深い造詣得た詩・書・画・篆刻のみならず和歌狂歌俳諧にも興じている。とりわけ篆刻一家を成すほど優れていた。 蔵書家の中川得知遇得て出入り繰り返すうちに、山中共古林若樹内田魯庵幸田成友大野洒竹などとの交流が始まる。稀書複製会(山田清主催大正7年創立)に第2期から加わり以降長期にわたり、稀覯書探索複製尽力する米山堂主人山田清作の仲介などで、坪内逍遥市島春城との交友生まれる。大正10年逍遥依頼され熱海水口村温泉の碑の題額書している。昭和10年1935年)、逍遥墓碑銘揮毫もしている。 古書古文書などから得た古人詳細膨大な知識蓄え伝記起し始める。著名な人物はわざと避けて歴史埋もれてしまった人物好んで取り上げた掲載する雑誌原稿料度外視しできるだけ目立たないものを選んでいる。それでもなお驚くほど膨大な著述残している。 書誌学森銑三は、三村竹清林若樹林研海の子)・三田村鳶魚を「江戸通の三大人」と評している。友人柴田宵曲交流があった。 昭和28年1953年)夏に、湯河原にて没す享年79

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鶴澤探鯨」の記事における「略伝」の解説

鶴澤探山の子として生まれる。10代前半頃に父とともに上洛し、禁裏御用務めた父と共に1708年宝永5年慶仁親王中御門天皇御所宝永禁裏御所1713年正徳3年近衛尚子女御御所1723年享保8年昭仁親王桜町天皇御所障壁画制作参加する1728年享保13年法橋叙任翌年に父・探山が亡くなった後も、1736年元文元年二条舎子女御御所や一条富子女御御障壁画手掛けた1747年延享4年61歳で父と同じ法眼進んだ1769年明和6年83歳で没した。墓は京都善導寺息子鶴澤探索が跡を継いだ弟子石田幽汀吉田元陳江村春甫、大森竹内重方、一説歌川豊春など。 画風は、探幽様式守った父と違って多彩である。江戸狩野様式基調としつつも、京狩野風、大和絵風、あるいは琳派風の作品描いている。これは京都の人々需要や、若年上洛した探京都に残る名品見て学ぶことができたからだと推測される。探多様な画風以後鶴澤画風基調として受け継がれていくことになる。

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浦上春琴」の記事における「略伝」の解説

戦国大名浦上氏末裔という。幼少の頃より父・玉堂より書画の手ほどきを受ける。寛政4年1792年)ころより如意道人によって玉堂とともに春琴の作品買い上げられている(「如意道人蒐集書画帖」)。14歳のころ母が死去寛政6年1794年)、玉堂脱藩し父子諸国歴遊する。寛政6年4月8日15歳のときに皆川淇園門人となり、父玉堂同年5月6日、淇園の受業生となる。 文化3年6月12日28歳)、熊本から東上途中、父の玉堂および弟の秋琴と一緒に広島頼家訪れた折、頼山陽邂逅する。 その後崎陽で来舶清人交流して舶載古画臨写し、長崎遊学文化6年文化8年)より平安(=京都)へ戻ると、上加茂祠官藤木大隅守数顕の娘滝(24歳)と結婚し文化10年1813年)より玉堂同居柳馬二条北)し、夫婦世話をする旁ら、本格的な画業専念するうになる以後平安定住して山陽グループ活動支え頼山陽田能村竹田岡田米山人岡田半江篠崎小竹貫名海屋柏木如亭武元登々庵著名な文人との交わり深める天保三年(1832)に頼山陽死去して以来弘化3年(1846)に亡くなるまで、その後継者たちの教育専念した一例挙げると、江馬細香詩稿には、春琴批正時期もある。後述する『論画詩にしても画塾における門弟教授した「論画十首」が発端となり、後日社友門人によって纏められ南宗画画論である。 弘化3年1846年5月歿、享年68墓所本能寺(=現在の本能寺会館裏)にあり、篠崎小竹著した碑が東山長楽寺山中建っている。

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松平直暠」の記事における「略伝」の解説

安永5年12月12日1777年)、播磨明石藩主・松平直泰の四男として生まれる。寛政3年1791年4月16日母里藩の第5代藩主松平直行婿養子として迎えられ寛政4年1792年10月27日直行隠居により家督を継ぐ。 寛政8年1796年7月27日死去した享年21。跡を実弟養子直方継いだ。 表 話 編 歴 越前松平氏母里藩6代藩主 (1792年 - 1796年)松平隆政1666-1673 松平直丘1673-1712 松平直員1713-1765 松平直道1765-1767 松平直行1767-1792 松平直暠1792-1796 松平直方1796-1817 松平直興1817-1843 松平直温1843-1856 松平直哉1856-1871 廃藩置県

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池田政和 (生坂藩主)」の記事における「略伝」の解説

文政4年1821年)、一族6000石を領した大身旗本池田喜長次男として誕生した生坂藩6代藩主池田政範には2人女児しかなかったため、養嗣子として迎えられ天保10年1839年正月23日に政範の隠居によって跡を継いだ安政元年1854年)、本家岡山藩8代藩主池田慶政と共に房総半島警備務めた安政2年1855年12月27日家督次男・政礼に譲って隠居した安政5年1858年2月4日死去享年38。 表 話 編 歴 池田氏岡山新田生坂)藩7代藩主 (1839年 - 1855年)池田輝録1672-1713 池田政晴1714-1748 池田政員1748-1767 池田政弼1767-1776 池田政房1776-1777 池田政恭1777-1822 池田政範1822-1839 池田政和1839-1855 池田政礼1855-1871 廃藩置県

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土佐光祐」の記事における「略伝」の解説

土佐光成の子として京都生まれる。弟に土佐光親祖父土佐派中興の祖土佐光起がいる。元禄9年12月28日1697年1月20日数え22歳で父の跡をついで画所預となり、正六位下左近衛将監に任ぜられる。なお、この時は「土佐光高」名で叙位任官されており、元禄12年1999年7月描かれ粉本でも光高署名なため、光祐を名乗るのはこれ以降である。宝永6年1709年)の宝永内裏造営では、狩野常信と共に障壁画担当し、常御殿御三間に《栄花物語図》、剣璽之間に《四季花鳥図》を手掛けた翌年に父・光成亡くすと、墓所知恩寺土佐家累供養塔建立するが、自身もその直後急死してしまう。享年36墓所同じく知恩寺。跡は息子土佐光芳継いだ弟子西川祐信など。夭折したため作品数少ないが、繊細華麗な色彩早熟の才を感じさせる

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俵屋宗雪」の記事における「略伝」の解説

俵屋宗達後継者で、その弟とも弟子とも言われる定かでない宗達存命中は、工房代表する画工一人だったと考えられる宗達没後は、工房印「伊年」を継承し自作に用たため、宗達混同される場合が多い。 寛永16年1639年養寿寺杉戸絵8の内4を描く。寛永19年1642年)ごろ法橋となり、同年加賀藩3代藩主前田利常の命で、利常の四女富姫八条宮智忠親王嫁いだ際、八条殿内に御内儀御殿造営し、その化粧之間、客之間の襖絵を描く(「今枝民部留書之内」成巽閣)。寛永20年1643年)から正保初め頃に金沢下り前田家御用絵師となる。慶安3年1650年)には狩野探幽と共に前田利治江戸屋敷草花図を描いている。 工房喜多川相説継いだと見られる金沢地方には宗後継者制作した多くの伊年印草花屏風残されており、その伝統は江戸時代末頃まで続いた金沢地方では、嫁入り道具に「たわらや草花屏風」を持参すると言われるほど、多く人々愛好された。

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土佐光貞」の記事における「略伝」の解説

元文3年1738年土佐光芳次男として生まれる。宝暦4年1754年分家して従六位上内匠大屬となり、本家の光淳と並んで禁裏絵所預となる。同11年1761年正六位下、同13年1763年内匠大允、翌明和元年1764年)左近衛将監、同5年1768年従五位下安永4年1775年従五位上土佐守天明2年1782年正五位下寛政4年1792年従四位下、享和2年1802年従四位上叙せられた。 明和元年、同8年1771年)、天明7年1787年)などに大嘗会悠紀主基屏風を描く。寛政内裏障壁画造営では、兄が亡くなっていたためその子土佐光時代わりに中心人物として活躍自身清凉殿障壁画描いた文化3年1806年死去享年69墓所知恩寺。跡は息子土佐光孚継いだ。 兄よりも長生きし画才優れていたこともあり、以後土佐家は本家より光貞の分家の方が繁栄することになる。弟子田中訥言など。

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略伝

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土佐一得」の記事における「略伝」の解説

一般に慶長年間(1596年-1615年)に活躍したとされる(『扶桑名画伝』)。しかし、『星野山御建立記』には、寛永15年1639年)に武蔵国川越喜多院客殿と書院に障壁画描いた記されている。また、信濃国飯田藩脇坂安元正保元年1644年4月から1年強の間、天領であった下館城在番であった頃に記した下館日記』に「斎(ちょさい一得」という絵師数回登場している。これが土佐一得だとすると実際活動時期少なくともこの頃まで伸びる考えられる。なお、「林和靖図」など一部作品に「法橋」の白文茄子形印が捺されており、一得法橋位を得ていたことが分かる何時頃得たかは不明だが、これは先の喜多院障壁画制作褒賞とも推測できる。 『下館日記11月21日条では、安元のもとに一徳訪れ安元その様子を記している。一得容貌魁偉背丈は4尺に届かず手足短く聾啞文盲無知で常に「覚ざゑもん」を後見人使っていた。しかし、絵の技量狩野探幽同等で、土佐派絵師ありながら漢画の手法も充分に身に付けており、安元はその怪異容姿関わらず、絵は心で描き一芸秀でることは素晴らしいことだと、一得称賛している。一得半月ほど安元のもとに滞在し安元求めに応じてしばしば絵を描き去り際に銀百両と「覚ざゑもん」は小袖一領拝領している。 現在確認されている作品10点ほど。中国宋の画院画家李安忠の「図」に学んだ写実的な図」が多く残るが、松花堂昭乗風の軽妙洒脱な作風取り入れ土佐派伝統情緒的な細密画こなしている。

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八田古秀」の記事における「略伝」の解説

姓は藤原、字は子(士)瑩、通称宮内、号に古秀、虎洲、古(固)琇。諸書では希賢も号とされるが、姓と合わせた賢」という印を用いていることから、こちらが名前だと考えられる羽林家園家17当主園基衡側室の子として生まれる。家系図調べると園基衡には6人の子がいる中に、「四、忠氏、従五位下天明年三五日返上位記。」とあり、古秀は基衡の四男忠氏と同一人物で、天明6年1786年)は古秀27歳に当たり、画家として自立する自信がついたため位を返上したとも考えられる円山応挙門人とされるが、村上東洲弟子とする説もある(『画乗要略』など)。初期の号だと推定される「虎洲」の「洲」の字は「東洲」に由来する考えられるので、最初の師は村上東洲だったようだ1801年享和元年以前法橋になっているが(『平安画家名字録』)、作品落款では確認できない1811年文化9年)に古秀唯一の画本『古秀画譜』を出版している。文政5年1822年)没、享年63墓所不明弟子平田玉蘊福智白瑛の2名しか知られていない作風はあまり個性感じさせず、円山派四条派折衷し時折南画風を加味し同時代京都ではよく見られるのである

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片山尚景」の記事における「略伝」の解説

京都出身。父は片山正信と言い狩野光信高弟狩野興以に絵を学んだ画人だった。祖父・立徳は眼医者だったが、光信学んだともいう。はじめは父に画を学ぶが、後に狩野探幽次弟・尚信についた。やがて一家を成すと、肥前平戸藩主・松浦鎮信350石という高禄召され、その御用絵師となる。 老後京都戻り老いてお京都の寺院など旺盛な画作をこなす。1704年宝永元年東山天皇の命で「松菊枯芦屏風描き翌年2月昇殿許され法橋叙せられた。1708年宝永5年松浦棟の命で平戸城障壁画制作従い、また同年炎上した京都御所再建に伴う襖絵制作でも一員加わった1713年正徳3年)再び平戸召され4年90歳で没した。墓は平戸本成寺片山家その後幕末まで平戸藩絵師として仕えた画風は師・尚信の大胆な減筆体に学びつつ、狩野派大成者・狩野元信私淑し、やや古風な味わいがある。

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狩野岑信」の記事における「略伝」の解説

木挽町狩野2代目狩野常信次男として生まれる。母は狩野安信息女、兄に家を継いだ狩野周信がいる。元禄元年1698年)後に六代将軍となる徳川家宣召し出され、同3年1700年15扶持与えられる宝暦元年1704年)家宣の西の丸入場従い宝暦4年1707年11月29日松本性を賜って松本友盛と名を改めた。この時、家宣自ら松平姓を与えようとしたが、岑信が憚って辞退したため松本姓を与えたという。更に翌年家宣の将軍宣下に伴い奥医師並、200俵7人扶持加増別家許され浜町狩野家を興し、更に狩野宗家中橋狩野家を凌いで狩野上席与えられた。なお、御用絵師奥医師並の職格を与えられたのは、住吉具慶と岑信のみである。しかし、家宣の将軍就任見ず宝永5年1708年12月3日、父常信先立って亡くなった享年47戒名覚樹院岑信日量墓所池上本門寺。家宣の御用多く務めた推測されるが、現在確認されている作品数20点満たない弟子伊予松山藩御用絵師豊田随園など。

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狩野探信 (守道)」の記事における「略伝」の解説

狩野牧守邦の長男幼名千千代、字は清夫、名は守道、号に興斎。百官名宮内卿、のち式部卿寛政5年1793年7月部屋住みながら御目見え寛政8年1796年)父の隠居に伴い家督を継ぐ。この頃鍛冶橋狩野家は、同じ奥絵師木挽町狩野家や中橋狩野家と比べて明らかに劣勢であったが、文政8年1825年法眼叙され亡くなる前年天保5年1834年御医師並になる。享年51弟子沖一峨目賀多信済、深川水場狩野家の了承賢信、探水守常など。 探信守道は家を再興するため、祖先狩野探幽学び、その没骨彩色法を復活させようとした。一方江戸時代狩野派忌避していた風俗画積極的に手がけ、浮世絵風の作品残している。そのため現存する探信守道の作品専ら大和絵で、僅かな水墨画遺品古画模写が殆どである。

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杉生十郎」の記事における「略伝」の解説

小倉藩での家禄200石。大阪兵学校学んだ新進兵術家で、戊辰戦争柏崎会津侵攻小隊長として出征同志征矢野半弥とともに秋月党や前原一誠親交深かった秋月の乱においては前原党の玉木正誼と共に秋月訪れて共に決起呼びかけたという説もある。しかし豊津では、島村志津摩有力者生駒九一郎、征矢野半弥も「暴徒加担せぬよう」と挙兵反対であった杉生同調したのは兄の大石半蔵や一部の若い士族くらいであった秋月の乱関連して豊津では杉生山川太郎、友淳一郎、山口九一郎、田中彦次郎名倉徳蔵捕らえられている。杉生はのちに「秋月済まない」と自刃した。29歳豊津では戦死した秋月17名が地元人々によって手厚く葬られ現代まで祀られている。

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費漢源」の記事における「略伝」の解説

初の来舶は享保19年1734年)という。その後南京船主として宝暦6年1756年)までの間、数回来泊した記録がある。商人であった山水図花卉図・人物図などを得意とし、建部凌岱や楊利藤太画法伝授した。後に建部凌岱自著漢画指南安永8年1779年)の「山水位置之法」において費漢源画法論じている。また鈴木芙蓉模刻による画譜『費氏山水画式』が天明7年1787年)に刊行されている。滞在期間比べ漢源の伝存作品少ない。同じく来舶清人費晴湖は漢源の同族とされる

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狩野探信 (守政)」の記事における「略伝」の解説

幼名は千(仙)千代。諱は守政、通称図書。探信は号で、別号に忠淵。探幽には既に2人男子がいたが、いずれも跡継ぎには相応しくなかった。先妻から生まれた長男五右衛門勘当され詳細不明)、八王子正徳年間死去。妾を母とする次男道信は、作品知られる早世した。探信・探晩年後妻晩から生まれた子であるため、探幽可愛がられと言われる。探信4歳5歳の絵に、探幽識語自身の絵を添えた作品現存している。反面、すでに探幽養子となっていた狩野益信別家余儀なくされている。万治元年1658年6歳で、4代将軍徳川家綱御目見えして御前揮毫探幽知行200石を弟と半分ずつ分知され、探幽没した翌年延宝3年1675年)に跡を継ぐ狩野常信狩野主信らと幕府御用多く勤め晩年正徳5年1715年)に法眼叙される。享年66。墓は池上本門寺いとこにあたる常信の娘との間に生まれた狩野探船が跡を継いだ1728年43歳で亡くなったため、次弟狩野探常が4代目となっている。しかし、弟の探その子狩野探牛が相次いで亡くなり知行取り上げられてしまう。このため他の奥絵師家に比べ知行高で劣る鍛冶橋狩野家の家運衰え同名7代目狩野探信守道とその弟子沖一峨以外に名手が出ることはなかった。なお、娘は儒学者荻生北渓嫁いでいるが、19歳亡くなっている。

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渡辺秀石」の記事における「略伝」の解説

肥後国菊池氏を祖という。商人岩川甚吉の子であった渡辺改姓正保元年1645年逸然について北宗画修め河村若芝とともに長崎漢画代表的な画人となる。ともに師と共通の画号である煙霞比丘襲名している。 元禄10年1697年唐絵目利職と御用絵師長崎奉行所に命ぜられ、唐絵目利派の元祖となる。逸然通じて中国から伝わった北宗画風の絵画が、公に長崎の独自な画風として認められのである。 秀石は長崎土産となるような異国情緒あふれる長崎の風俗図や細密な花鳥図画いている。作品は無落款のものが多く伝存作品少ない。その人柄は温厚慎ましく、画神と称賛された。 秀石の一族代々唐絵目利職を世襲し、2世3世元周・4世秀渓・5世秀彩・6世秀詮・7世秀実(洲)・8世元洲と続いた。秀石の弟の渡辺秀岳も画家法号仁寿院元章秀石居士。東林山深崇寺に一族と共に葬られている。

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長谷川左近」の記事における「略伝」の解説

等伯後妻妙清の子異母兄長谷川久蔵・宗宅、同母兄に長谷川宗也がいる。父に倣って「自雪舟六代」を称し等伯画業継承したという。兄達のうち久蔵や宗宅は早世しているが、兄の宗也や異母姉の娘婿長谷川等秀、長谷川等学らは健在であり、彼らとの間に何らかの確執があったことが想定される。そのためか宗也の菩提寺である信行寺過去帳や、3本ある長谷川家家系図などに、左近のことは一切記されていない等伯の子孫らの中では、比較多く作品残っている。作風晩年等伯画風をよく学んだ漢画風のものが伝存し、また俵屋宗達風の装飾的な作品も残る。弟子とされる絵師山口雪渓がいる。

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狩野常信」の記事における「略伝」の解説

京都出身1650年慶安3年4月父の尚信が没した後、15歳狩野派木挽町狩野家)を継いだ同年12月剃髪、養号し家光お目見え、後に家綱御用勤めた。父没後狩野探幽に画を学んだとされる古来より狩野元信狩野永徳狩野探幽とともに四大家一人とされ高く評価されてきたが、狩野派内での地位上がるのは遅かった。これは叔父妻の父でもある狩野安信疎んじられたからだと言われるその間中院通茂和歌学び幕末著された『古画備考』や『文翰雑編』には多くの歌が収録されている。また、徳川光圀愛顧得て近衛家熈言行記録した槐記』には、しばしば近衛家の画事を勤めた記事載る。その一方で探幽同様に古画学習努め、後に「常信縮図」(60巻、東京国立博物館)と呼ばれる膨大な古画鑑定控え粉本画稿残した印章にも凝り、その数は150夥にも及んだという。そうした甲斐もあってか、天和2年1682年20扶持拝領同年朝鮮通信使に贈る屏風二双を制作、更に訳官・洪世泰の肖像画描いた。洪世泰は常信の画を「絶代奇筆」と最大限賛辞送った宝永元年1704年10月12日孔子廟七十二賢像を描いた功で法眼叙される。同5年1708年内裏造営賢聖障子描き翌年1709年11月3日前年の画事と江戸城修理功績賞され中務卿法印位を得て翌年12月19日には200石を加増された。正徳元年1711年)の通信使来日の際には、前より増えた屏風三双手掛けた弟子常信門下四天王呼ばれた新井寒竹常償(津軽藩御用絵師)、長谷川養辰常時大石古閑常得、永井慶竺常喜(薩摩藩御用絵師)をはじめ、福岡藩御用絵師の上田永など。

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狩野益信」の記事における「略伝」の解説

彫金家後藤勘兵衛家の後立乗の長子として生まれる。伯父勘兵衛家を嗣いだ後藤覚乗がいる。幼少時、書を松花堂昭乗学び、画を好んだ。その画技見込まれ1635年寛永12年11歳探幽養子となる。後藤家狩野家とは共に幕府御用務め日蓮宗信者といった共通点持ち狩野元信の代に遡ると言われるほど古くから繋がりあったようだ。狩野安信可愛がられその娘を妻とし(『狩野五家譜』)、徳川家光寵愛された。しかし探幽実子・探信・探ができると、1659年万治2年35歳の時南光坊天海紹介別家し、1667年寛文7年新たに駿河台屋敷拝領し駿河台狩野家を興こす。1682年天和2年新たに20扶持得て、他の表絵師の5人扶持山下狩野10扶持を除く)より高い格式得た承応寛文年度の京都御所造営に伴う障壁画制作参加1665年寛文5年9月益信の絵を見た隠元隆琦から絶賛され、「洞」の号を与えられる以後作品には、「洞」印または「洞筆」などの落款が伴うことが多い。晩年1691年元禄4年)には湯島聖殿に「七十二賢及先儒ノ像」を描き住吉具慶北村季吟と共に法眼叙されたが、その3年後に没した70歳法名智光院法眼宗深居士墓所護国寺。跡は、探幽実子勘当されていた五右衛門勘当理由不明の子・洞春福信を養子として継がせた。弟子小原慶山佐久間洞巖清水洞郁、増井貞三など。

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狩野寿石」の記事における「略伝」の解説

狩野信政を父、狩野探幽娘を母として、その長男として生まれる。1654年承応3年)父信政西の丸御用勤めた際に父に同行して京都より下り徳川家綱お目見えその後御用勤めるようになる以後京都にありつつ、江戸城本丸御所障壁画制作にたびたび参加する1690年元禄10年12月5日京都より江戸下り徳川綱吉お目見え以後江戸住み3年後1700年元禄13年浅草屋町に屋敷拝領した以後その家系町代狩野呼ばれ、表絵師として幕末まで続く。また1711年宝永8年朝鮮への贈呈屏風制作も手がけ、同年徳川家宣から5人扶持与えられた。享年80法名は本是院壽石日空作品は以下に挙げる10点余り知られている。

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狩野春雪」の記事における「略伝」の解説

狩野元俊長男。父の跡を継いで山下狩野当主となる。4代目将軍徳川家綱幼少時に側御用務め日光東照宮参拝鷹狩りなどを共にした。江戸城本丸障壁画朝鮮通信使への贈呈屏風制作にも参加する延宝3年1675年家屋敷拝領している。元禄4年3月8日死去78歳山下狩野家は次男狩野春笑亮信が継いだが、長男狩野栄知信が深川水場狩野家、門人狩野春湖元珍が稲荷狩野家を興すなど一門繁栄した。しかし、稲荷狩野家は春湖の子狩野春賀理信は浮世絵師宮川長春一派画料めぐって諍い起こし断絶している。他に弟子思われる絵師大岡春卜など。

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木村徳栄」の記事における「略伝」の解説

木村徳応弟子で、「徳応二世」を名乗った。ただし、活躍時期にあまり差がなく、年齢近かったとも取れる。延宝4年1676年)頃まで、絵所左近・貞綱を名乗り、これ以降徳栄名乗ったとも取れるが、左近徳栄同時に記した作品も残る。 現存作品数も多く、現在確認されているのは以下の通りだが、実際にはさらに多いと推測される宗派としては、黄檗宗妙心寺派関係の仕事散見される一般に仏画平安時代が最も評価高く時代が下るに連れ質が低下していったとされるが、徳栄木村姓の絵仏師たちは江戸時代前期としては入念手慣れた描写見える。

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河村若芝」の記事における「略伝」の解説

肥前国佐嘉の豪族龍造寺家出自という。なんらかの理由隠遁生活送り長崎出て黄檗僧と交友するうち、逸然に就いて画を学ぶ。渡辺秀石とともに長崎漢画代表する画人となり、ともに師と共通の画号である煙霞比丘襲名逸然同じく道釈人物図を得意とするが、山水図花鳥画画き喜多元規風の頂相画いている。若芝画風風狂子の画号通り奇矯造形美有し、後の伊藤若冲曾我蕭白などの奇想先駈けともいわれる若芝流の祖となり、門下上野若元河村若軌・山本若麟塚若牛島若融・上野若龍(写真家上野彦馬の父)らがつらなり幕末まで続いた唐絵目利になった小原慶山一時若芝門下にあった。また紀州南画家祇園南海中国絵画添削指導行ない日本南画発展寄与した木庵から象眼金工技術学び若芝鐔工開祖となった二代目河村若芝はこの鐔工継承し優れた刀鍔を残している。 法号蘭渓若芝上座墓所海雲晧台寺後山。現在確認されている作品50点余である。

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権田直助」の記事における「略伝」の解説

武蔵国入間郡毛呂本郷(現・埼玉県入間郡毛呂山町出身幼名を玄常、号は名越廼舎(なごしのや)。医術野間廣春院、漢学安積艮斎国学平田篤胤学び相楽総三落合直亮とともに尊王攘夷運動関わる維新後は大学校設立等に尽力し大學博士となる。皇典講究所文学部教授神道本局顧問歴任晩年神社再興先駆者として大山阿夫利神社及び三嶋大社の長に任ぜられた。 明治40年1907年)、正五位追贈された。

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張琦 (画家)」の記事における「略伝」の解説

曽鯨師法肖像画を得意とし、嘉興では他に並ぶ者がいないと称賛された。波臣派の重鎮であるが伝世作品少ない。 費隠通容帰依し玉可張居士名乗った。「費隠通容像」は承応3年(1654年)に隠元によって日本もたらされ黄檗画像原点となったその後同門楊道真などがその画法日本広めた。 費隠の師密雲円悟曹洞宗の僧覚浪道盛などの禅僧頂相の他、文人肖像多く手がけた。

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松本山雪」の記事における「略伝」の解説

近江滋賀県出身松本姓から本貫大津松本村可能性が高い。家系図によると、山雪の父は黒田家家臣松本能登長光の弟・松本彌兵衛長則で、紀州藩仕えるも浪人し、後に藤堂高虎仕えたその後またも浪人したという。若き日山雪京都住み狩野山楽その周辺画技磨いていたと推測される。ただ、これはあくまで画伝類の記述画風からの推測で、これを裏付ける資料は全く見つかっていない。1635年寛永12年)に伊予松山藩愛媛県)主・松平定行に従って松山郊外浮穴郡土居村松本庵に移り2人扶持得て御用絵師となる。共に同様の扶持米貰っているのは、大工植木屋であることから、山雪は藩の正式な家臣というより、技能者の一員としてその都度画用を務め比較自由な立場だったようだ。その住まい地元で「松本屋敷」と呼ばれた時折定行立ち寄ったとされ、現在も居住跡が残る。松山藩藩主交代して定行仕え続け、跡取の養子山月共々東野御殿の吟松庵出向いてお茶相手をしたという。延宝4年1676年)に逝去し、庵近く万福寺境内葬られた。 跡目養子松本山月継いだ(3人扶持)。山月現存作品少ないが、代表作である「野馬屏風」(香川県立ミュージアム同名別図が金刀比羅宮にもある)や「八栗寺伽藍図」(高松市牟礼町八栗寺山雪画風受け継ぎつつも独自の展開を見せた力のある絵師だった。しかし、山月の子茂助則恒の代で絵師廃している。松本家その後6代目右衛門正純の代に松平定則小姓として取り立てられ最終的に百石取り小山奉行出世している。

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曽我二直菴」の記事における「略伝」の解説

扶桑名画工譜』『皇朝名画拾遺』『画乗要略』では、曽我直庵の子とされる。直庵から印章継承し明らかに直庵画の影響下にある作品や、「曽我署名のある二直作品もあることから、少なくとも直庵から二直への画系継承確実だと言って良い法隆寺図」の添状越前国曾我家系図」では、曽我蛇足末裔記しているが、書体作品落款とは隔たりがあり信憑性不明作画期間は17世紀前半から半ば過ぎ。直庵と同じくの絵を得意としたと伝えられ遺品も多い。また、花鳥画山水人物画にも優れた作品少なくない

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狩野元俊」の記事における「略伝」の解説

狩野元信次男狩野秀頼曾孫。乗真秀頼-真笑秀政-了承秀之-元俊秀信と続く絵師家系である。ただし、父・了承確実な遺作は現在確認されていない6歳で母・妙安と死に別れる慶長年間頃に徳川家康お目見えし、元俊の代から江戸幕府仕え始める。元俊が祖となる山下狩野家は、表絵師筆頭駿河台狩野家に次ぐ地位得た1623年元和9年狩野宗家狩野貞信臨終の際に作成した狩野安信宗家相続起請文では、狩野長信狩野探幽狩野甚之丞狩野尚信狩野新右衛門(貞信妹婿)と一族末席ながら名を連ねており(永俊の下には狩野興以のみ)、狩野一門重鎮1人だったことが窺えるその後幕府御用こなしていくが、『扶桑画人伝』の元俊の項目収録の『画事備考』の記述によると、一時画業廃し神職についたという。また、元俊の代表作本圀寺大幅涅槃図」にある銘記には、亡き母を慕い孝心満たすために母の五十回忌合わせて制作した事が記されている。寛文12年1672年85歳没した法名は常教院後日居士墓所墨田区横川にある本法寺だが、本法寺火災戦災過去帳喪失し、元俊の墓も残っていない。跡は長男狩野春雪継いだ。 現在確認されている元俊の遺品は、日蓮宗の寺院多く残り宗教的画題偏重している。これは山下狩野家の家職とも、元俊の宗教心反映しているとも取れるが、元俊に関する史料断片的判別しがたい。

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岡田米山人」の記事における「略伝」の解説

米山人の前半生事績については詳しいことは伝わっていない。その生まれについても大坂説、神戸生田村説、丹波八木説などがある。まだ両親兄弟先祖についても全くわかっていない。 若いころ播磨国神東郡坂村(兵庫県加西市西剣坂)の庄屋安積喜平治の寵愛を受け、同家寓居し、日がな米をつきつつ寸暇を惜しんで書を読み熱心に詩作する。この評判聞こえ郡代の前で幾たびか講義をすることもあった。妙齢になり大坂に出る意向を示すと喜平より金銭的な支援を受け米屋開業できた。この米屋寒山寺長池大阪市北区曽根崎一丁目曽根崎天神付近にあった思われる。また安積家に仕えた乳母喜平治の世話により妻に迎えている。画号米山人も稼業由来であろう大坂移っても米臼をひきながら読書し余技書画を嗜なみ、独学経学修め中国文人画精髄習得した。その評判大坂中に聞こえ、ついに藤堂高朗の知るところになった。天明2年1782年)のころ、商人ありながら伊勢国藤堂藩仕え藤堂藩蔵屋敷内(大阪市北区天満橋2丁目)に移り住んだ七里鎌倉兵衛蔵屋敷留守居藩邸最高責任者であったがこの者の下役であったようだ。蔵屋敷居宅一部画室として「正帆」と命名し、ここで多く文人墨客交わった稼業米屋廃業せず以降継続しのちに息子半江に引き継がれている。 39歳の時、長子半江が生まれる。妻は37歳高齢であった。半江の号に小米与えた米芾親子意識したものと思われる。なお半江はこの号の発音小便に近いことからあまり好まなかったようだ65歳前後下役致仕。半江にこの職を譲り自らは源八渡し大阪市北区天満橋2丁目近辺別宅隠居した懸案となっていた安積家の障壁画を半江と合作し完成させて安積喜平治の恩義報いた70歳超えた頃に飲酒煎茶嗜むようになったようだ。75歳の時、長年連れ添った妻を亡くし大きな衝撃を受ける。死を迎えるまでの遺された2年間に書画創作活動はもっとも旺盛となった享年77学問・画ともに独学であったそれだけ典籍書画蒐集品にこだわり明清元画・漢詩典籍日本古書画など膨大な量が息子半江に遺されている。

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勝部如春斎」の記事における「略伝」の解説

摂津国武庫郡西宮現在の兵庫県西宮市)で、酒造業名家雑喉(ざこ)屋勝部十郎兼唯の第三子(次男)として生まれる。天明7年1787年出版の『新撰和漢書画一覧』以来長らく姓は山本誤伝されたが、これは同じ西宮雑喉屋の屋号持った別の名家・山本家混同した誤りである。名は順。字は兼寿、後に典寿。初め容斎、後に如春斎と号した大坂狩野派絵師櫛橋春斎学んだといい、兄弟弟子森狙仙の兄・森陽信永春斎)がいる。後に狙仙如春斎に弟子入りしたとされるが、それもこうした師弟繋がりからだろう。摂津中心に活動、特に浄土真宗寺院作品残っている。明和元年1764年44歳の時、九条尚実から「如春斎」の号を贈られ以降「台賜如春斎」と署名する64歳で没。墓所は、大阪市天王寺区新清水寺にあった墓石無縁仏として移動され、現在は三田市大舟寺移されている。また、寛政12年1800年)に弟子たち建てた墓が西宮の茂松寺にあったが、後に同士の満池谷墓地移された。 如春斎の実子如春斎とり早く没したが、次兄・兼方の子絵師となり、その画系は明治時代まで続いた故郷西宮市太平洋戦争末期空襲大きな被害遭っており、如春斎の作品史料多く消失したが、西宮神社には画稿170点が残るなど西宮周辺にはまだまだ多く作品残っている。

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鶴澤探索」の記事における「略伝」の解説

宝暦6年12月21日1757年2月9日28歳法橋明和6年6月18日1769年7月21日41歳法眼になる。その翌年「御月扇調進、尤常式御用」を仰せ付けられ以降禁裏から「御扶持」を得たこれまで鶴澤家は禁裏お抱え絵師ではあったが、臨時御用務めて画料を貰うだけだった。しかし、これからは月扇料として扶持を貰うようになり鶴澤家の家格向上した天明の大火に伴う寛政禁裏御所造営に伴う障壁画制作では、御用願書提出した絵師たちに不備不相応がないか調べるため、絵所預土佐家の土佐光貞補佐命じられた。これにより、鶴澤家が土佐家に次ぐ家格認められていたことが分かり以後幕末までその家格維持することになる。 跡は養子または婿養子鶴澤探泉継いだ弟子に、伊庭玉洲、井上幽意、上田文、大森片山墨随、狩野之進、狩野宗三、河合索玩、小畑洞月、佐々木泉景武田索駿、土屋索進、堀索道、安良周篤、山田索隠山田作洲、山川千溪、吉村周圭、など数多い

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紀楳亭」の記事における「略伝」の解説

山城国鳥羽出身俗称立花屋九兵衛。楳亭は画号当初画室の号)で、俳号梅亭。名は時敏、字は子恵、仲文。大津移住以前は、「巖」姓と、名に「郁」を用いて巖郁と称し移住後は紀姓を名乗った還暦後は九老という号で署名しており、大津人々にも「九老さん」と親しまれている。 はじめ蕪村友人であった文人岩城藍田に、家僕として働いていた。藍田は楳亭の画才見抜き蕪村入門仲介したという。当初名乗った「巖」姓は、その恩義から岩城を1字に修めた名乗りとも考えられる蕪村に絵と俳諧学び松村月渓呉春と共に親しく仕えた安永7年1778年以前剃髪し、楳亭と称する。楳亭の史料上の初見は、天明2年1782年)版『平安人物志』で、画家の部の21番目に記載されており(蕪村4番目)、この時点で師から独立した画人として京で認知されていたことがわかる。翌年12月蕪村亡くなると、追善集『から檜葉』に「夜や昼や 涙にわかぬ くもり」と師を悼む句を寄せている。 天明8年1788年1月天明の大火焼き出されると、同門南画よくした大津石川町長寿寺住職龍賀元に身を寄せる近隣両替商俳諧嗜む中村愈鄂に借家世話してもらい、以後大津に居を定めた。ところが翌年同じく大津移ってきた娘さとを、大家罹災原因でか亡くしてしまう。楳亭作品寛政年間前期以前現存作品少ないが、大火以前手掛けた作品焼失と、移住後まもなくの身内の不幸が原因だと考えられるその後大津人々との交流通じて立ち直り多く作品残した享年77歳。墓は小関町共同墓地大津鍵屋町借家跡には、「紀楳亭居住之地」の標石建っている。

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黒川亀玉」の記事における「略伝」の解説

黒川家の祖は甲府黒川村出自という。父は周玉・母は稲垣氏二人の妹がいた。幼い頃誕生日不思議な老僧から藍色に輝く玉を贈られたことから、これは亀の生玉であるとして亀玉を画号にした。画は7歳のとき狩野休真(中橋狩野9代目狩野主信の門弟)につき12歳岡本善悦(木挽町狩野2代目狩野常信孫弟子)に学ぶ。しかし、納得できず中国明清古画独学で学ぶ。その後沈南蘋の画を中国古画延長として熱心に学んだ線描繊細すぎると不満を持っていた。江戸沈南蘋画風伝えた宋紫石長崎遊学中に既に南蘋風の画法取り入れていたことは特筆すべきである。 花鳥画を最も得意とした。また池大雅についで指頭画よくした伝えられ大和絵描いた画業一家支えたが、僅か25歳夭折心光寺小石川指ヶ谷町)に葬られる

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狩野愛信」の記事における「略伝」の解説

狩野美信の子として生まれる。号は洞白で、名前と合わせて洞白愛信とも呼ばれる百官名諸書大蔵卿とされるが、父と同じ式部卿名乗った時期あるようだ。父に絵を習い朝鮮通信使へ贈る贈答屏風寛永寺法王宮殿障壁画などを手掛けた文化10年1813年12月大蔵卿法眼叙された。文政4年沒、享年50。跡は同じ幕府御用絵師だった板谷家から養子入りした狩野洞益春信継いだ弟子福岡藩御用絵師尾形洞霄など。 現存作品は何点か知られているが、特に絵馬が多い。下記の他にも、厳島神社絵馬2点ある。

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楊時」の記事における「略伝」の解説

南剣州将楽県現在の福建省三明市将楽県)の出身経史研究し熙寧9年1076年)に進士となる。程顥と、ついで程頤師事する47年に及ぶ地方官生活のうち、秘書郎から国子祭酒に昇ったが、蔡京新法派非難して一時官を辞めさせられことがある南宋初めに瀏陽余杭蕭山知事となり善政をしき、高宗時に龍図閣直学士となる。退官後は東林学院設立して著述講学従事し胡安国往来し二程程顥程頤)の正統を継ぐものとして重んじられた。その学問羅従彦をへて李侗伝わり朱熹到った著書に『二程粋言』2巻、『亀山集』42巻、『亀山語録4巻がある。

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葛蛇玉」の記事における「略伝」の解説

蛇玉人となり片山北海による墓碑銘によって知られる木村宗訓の子孫が代々住職務め浄土真宗の寺・玉泉寺四代目・宗琳の次男として生まれる。後に長嶋喜右衛門なる者の婿養子となった長嶋氏の祖は谷八(やつ)氏で、長嶋家宗家小早川隆景の子孫であることから、小早川谷八と称したの姓は、この谷八の音「KOZU YATSU」を、KATSU」としたと推測される。画をはじめ橘守国、および鶴亭に学ぶ。後に宋元の古画模して一家成した明和3年1766年2月22日の晩、が玉を咥えて来る夢を見て目覚めるとそこに玉があった。これが何の吉祥か分からなかったが、この事件から自ら「蛇玉」と称するようになったという。この逸話裏付けるように、「蛇玉図」の賛文に木版でこの逸話記されており、同様の作品が他にもあることから、蛇玉は同図を名刺がわりに相当数描いて配り、自らを売り込もうとしたとも考えられる人柄風流閑雅で、有閑公子の風があった。晩年には南木綿町住み当時人名録にも名前が記載されている。「秋水鯉魚図」とともに紹介された「園雅集図」により、混沌社の詩人たちとの交遊があったことが確かめられた。享年46墓所は、下寺町大蓮寺だが、墓石残っていない。息子含(じゃがん)も絵師となったというが、その作品は全く知られていない蛇玉の方も現在確認されている作品極めて少なく10点しかない

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狩野雅楽助」の記事における「略伝」の解説

弁玉集』『丹青若木集』『本朝画史』といった江戸時代初期の画史・画伝類は、狩野雅楽助に関する項目を設けており、狩野派の重要画人だったと推測できる。しかしそれらの記述は豊富とは言い難い生没年に関しては、『画事備考』の天正3年1575年63歳没説と、『画工譜略』の文亀年中39歳没説がある。前者は父正信80歳の時の子となり現実性欠け、『丹青若木集』らにある「早年死」の記述矛盾する後者を取ると、兄の元信よりも年長になってしまう。美術史家松木寛は、『画工譜略』は後世転写本写し落とし写し間違いが多いことや、同著の正信元信永徳記述形式との比較から、「文亀年中生る……三十九而卒」と「に生る」を書き落としたのだと推定している。 以上の論点から、雅楽助は父・正信70歳近くもうけた子であり、兄・元信とは二十数歳以上と、親子ほどに年が離れた人物だと想定できる画風から雅楽助は、元信から画を学んだ思われ、甥の狩野松栄影響与えた。『本朝画史』では雅楽助画風を、元信によく似ており「風格高挙、気韻粛爽」な反面老成欠けると評している。しかし、晩年の作だと推定される鴛鴦屏風] (ボストン美術館)には、前景重視で中景・遠景圧縮され背景処理や、くねり巨木化しつつある、左へ流れ動感的な表現が、後の狩野永徳筆「花鳥図襖」(聚光院)と共通し、後の安土桃山時代豪壮な障壁画に繋がる過渡期表現認め意見もある。 確実な遺作10数点。「之信」「輞隠」の印をもつ作品もう少し多いが、モチーフがやや硬直化し、画の様式時代が下ることから、雅楽助息子・之季などの後継者作品だと考えられる。なお、川越喜多院の『職人尽図屏風』(重要文化財)の筆者である狩野吉信は、雅楽助の孫だと言われている。

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狩野美信」の記事における「略伝」の解説

狩野元仙長男として生まれる。宝暦5年1755年9歳で父が亡くなり駿河台狩野家を継ぐ。絵は、父の門人福岡藩江戸詰め絵師だった石里洞秀(父)に学ぶ。明和元年1764年朝鮮通信使へ贈る朝鮮贈呈屏風一双制作を手がけ、天明5年1785年家業励んだ功績法眼叙された。これにより家格上昇したらしく、帯刀許され奥絵師鍛冶橋狩野家と同等一時上席になることもあったという。奥絵師筆頭格だった狩野典信の娘と結婚し跡継ぎ狩野愛信生まれる。寛政9年1797年死去享年51

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長谷川久蔵」の記事における「略伝」の解説

能登国長谷川等伯長男として、先妻妙浄(?-天正7年1579年))との間に生まれる。江戸時代の画史『弁玉集』や『長谷川家系譜』などは、久蔵長谷川信春等伯若年時の名)の俗称と記すものがあるが、研究の進展今日これは否定されている。同母弟に長谷川宗宅(等後)、異母弟に宗也・左近(等重)。また、同母姉妹2人おり、等伯弟子思われる等秀、等学を婿に迎えている。 『太閤記』十三名護屋城襖絵触れた箇所に「山里御座の間児童色絵有、長谷川平蔵これを図す」とあり、この平蔵久蔵誤記だとすると、久蔵狩野光信狩野派絵師たちに混じって障壁画制作参加したことになる。『本朝画史』では、「画の清雅さは父に勝り長谷川派の中で及ぶ者なし。父の画法守り中略)、人物禽獣花草長じる」と高く評価されている。長男という立場画技の高さから、次代長谷川派棟梁として将来嘱望されていたと思われるが、父に先んじて26歳早世した。墓は本法寺法名は道淳(本法寺過去帳)。

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斎藤秋圃」の記事における「略伝」の解説

京都出身。姓ははじめ池上。名は相行。通称市太郎惣右衛門別号に葦行、双など。斉藤家言い伝えでは、秋圃は醍醐家庶子で、南禅寺の文禮和尚預けられ、のち池上相常の養子となったという。絵は円山応挙江稼圃らに学んだという。享和2年1802年35歳ごろは、亦介(又輔)と称し大坂新町幇間務めており、呉雀滝沢馬琴会っている。翌年氏(きし)艶譜』を出版3年後に『郭中艶譜』と改題され再出版)。姓は、母が殿と称したのが由来だという。 文化2年1805年秋月藩主黒田長舒に召さ出され、3人扶持12石で御組外絵家業仰せつかる文化10年1812年から斎藤改姓文政11年1828年隠居し大宰府に居を移す。天保9年1838年長男江戸で出奔秋月藩お家断絶する安政6年1859年)没、享年92。墓は光明寺家業次男夭折してたため三男斎藤圃が継いだが、圃の作品は殆ど残っていない。 福岡活躍した仙厓義梵交流深く一説仙厓義梵の師とも言われる謹直画風から軽妙洒脱な絵まで多様な作品こなしたが、動物画、特に鹿の絵を得意とした。ただし、晩年乱作気味で質の良くない作品混じる弟子に吉嗣仙、萱島など。福岡市博物館2階展望ロビーの壁には、秋圃の「博多太宰府屏風」が刻まれている。

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児玉果亭」の記事における「略伝」の解説

果亭は信州渋温泉生まれ育ち郷土愛の強い画家として知られる祖父要道信仰心篤く仏門帰依し道釈人物図を能く描いた。父常松は3男であったので分家して温泉宿商いする雑貨商であった文武両道秀で剣道達人であった幼少期の果亭は近隣より神童として知られソロバンを得意とし絵や書を好んだ佐久間象山は丑少年習字するところをみて将来モノになると賞めたという。また人から貰い受け南画家日根對山画帖宝物のように大切にして常日頃模写励んでたらしい。 果亭は15歳になると佐久間に就いて本格的に画技学んだ毎朝4時起きて隣村まで片道6里を歩いて通ったという。師窓は谷文晁孫弟子にあたり沈南蘋風の花画を得意とした。 その後興隆寺参禅畔上楳仙より漢学経学・禅の指導を受ける。文人として素養培うとともに人生指南役として楳仙を強く慕い以降様々な形で楳仙の援助を受ける。楳仙の勧め受けて果亭は京都田能村直入入門帰郷後に出品作明治天皇天覧浴し、また絵画共進会など中央の展覧会高い評価得て画業順風満帆となる。画室仙山房を結んで画禅三昧過ごした。 果亭の下には菊池契月小坂芝田山本凌亭青柳琴僊など多く優れた門人集まった。画友に長井雲坪加藤半渓寺崎廣業町田曲江がいる。 果亭は音楽好み友人長井雲坪より月琴手に入れ酒宴などで弾じたという。ただし日清戦争開戦する戦地兵士思い娯楽楽器封じたという。また小林一茶慕い俳句も嗜んだ。俳号を花庭とした。

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佐々木泉景」の記事における「略伝」の解説

加賀国江沼郡大聖寺永町現在の石川県加賀市)で紺屋営んでいた、鹿角右衛門屋号敦賀屋)の長男として生まれる。幼少より絵を好み大聖寺来ていた京都狩野派絵師石田幽汀・友汀父子に絵を習う。さらに1790年寛政2年)に上京し鶴沢探索・探泉父子入門1801年享和元年)探泉が禁裏御用務める際、泉景も画筆振るうのを許され翌年法橋を得る。この機会角鹿姓から先祖佐々木姓に改めた同年郷里大聖寺戻り大聖寺藩から御医師格を受ける。 1807年文化4年)から加賀藩11藩主前田治脩から屏風衝立などの御用を手がけ、2年後には金沢城二の丸御殿障壁画制作参加、他の絵師より抜き出て多くの場所を担当している。これ以来加賀藩御用増えたため、1811年文化11年金沢移り1819年文政2年)には藩から7人扶持を受け、お抱え絵師となった1821年文政4年)位も法眼進み翌年には一門とともに12藩主前田斉広隠居所・竹沢御殿御用勤めた1842年天保13年10扶持加増されて御細工小頭になる。これは家格面では50取り藩士同格で、芸の巧拙禄高決め加賀藩細工制度では、上中下の3ランクのうち、上と同格俸禄を受けることを意味した1847年弘化4年)には御医師格に格付けされ加賀画人頂点上ったといえるが、翌年76歳で死去法名彩雲法眼居士。墓は金沢野田山にあり、貫名海屋墓碑銘書いている。 泉景の一族は、長男佐々木泉玄、次男佐々木泉龍、泉玄の長男佐々木泉山泉山長男佐々木泉溪、泉龍の長男佐々木泉石多く絵師となった門人多く早川泉流松波泉栄、田辺素山中浜汀らがいる。

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原鵬雲」の記事における「略伝」の解説

生地家系不明。字は士龍、通称市助、のちに覚一介または介一。号は、隺亭のち徳島藩鉄砲足軽で、現在の徳島市秋田町住んだ1847年弘化4年徳島藩鉄砲方出身御用絵師守住貫魚入門し住吉派学んだ1854年安政元年ペリー再来日の際は、徳島藩の銃卒の一人として大森羽田警護参加、「徳島藩大森羽田出陣絵巻」を描く。

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ジョン・ウィルモット (第2代ロチェスター伯)」の記事における「略伝」の解説

清教徒革命亡命していたチャールズ2世従い騎兵隊長・寝室係侍従として仕えた初代ロチェスター伯ヘンリー・ウィルモットの一人息子として生まれた1653年から翌1654年にかけて母アンと共にパリ滞在1656年までに領地であるディッチリー・パークに戻る。10歳頃からバーフォート文法学校入学しギリシャラテン古典作家通暁するようになった1660年オックスフォード大学ウォダム学寮自費学生となり、1661年には14歳文学修士となる。その年の11月フランスイタリアへの大旅行赴く帰国した1664年暮れから、チャールズ2世愛妾遠縁にあたるバーバラ・パーマー大法官クラレンドン伯爵エドワード・ハイド通じて年収2000ポンドもの大財産の相続人であったエリザベス・マレットに求婚始めた。しかし1665年5月26日の晩、一団の男を指揮してチャリング・クロスエリザベス誘拐しアックスブリッジ逮捕5月27日チャールズ2世命令ロンドン塔長官送られた。6月19日保釈金支払い釈放7月15日からイングランド艦隊義勇兵となり、8月1日ノルウェーベルゲン港でオランダ共和国との交戦経験した戦闘では非常に勇敢にふるまい周囲賞賛を得ると共に、魂の不滅について深刻な疑念抱いたといわれる9月帰国し10月31日国王から海戦での勇敢な行動対す褒賞として750ポンド賜る1666年3月国王寝室侍従任命6月英仏海峡海戦参加し11月帰国する1667年1月29日にエリザベス・マレットと結婚10月5日上院召還され議員になると共に11月には下院による「クラレンドン弾劾決議支持せよ」という抗議文に署名している。 その後13年間では、ロンドン出て大酒放蕩身を持ち崩し田舎にある領地戻り妻子団欒を過ごすという生活の繰り返しであった主な出来事次のとおり。 女優のエリザベス・バリー、ボウテル夫人国王愛妾ロバーツ夫人と恋をし、特にバリーとは一人娘もうけている(1677年)。 1669年11月末、マルグレイヴ伯爵決闘するところだったが、ロチェスターからの「身体弱っているために馬に乗らずには戦えない」という申し出で中止になった1675年、酔っぱらったあげく、御苑中央に立ち、ヨーロッパ随一貴重品とされていた日時計抱えて引き倒した1676年6月エプソム治安官喧嘩をし、仲間ダウンズ夜警殺された。翌7月間中医者占星術師変装してタワーヒル開業していたという。 1678年末、ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の王位継承認めないという下院からの王位排除法案について、上院反対演説行った1679年12月12日起こった詩人批評家ジョン・ドライデンローズ小路襲撃され重傷を負うという事件に関与していたという。 1669年から治療始めていた梅毒1677年から悪化、それに従って公的な事柄関心を向け始め外国官職に就きたいとも考えていた。1679年10月バーネット博士(Gilbert Burnet)の『宗教改革史』を読みキリスト教信仰に心ひかれ、バーネットと神の本性理性奇跡について対話始めた1680年の春、母の礼拝堂牧師が読む「イザヤ書」第53章を聴いて不意に改心し5月の末から6月初めに正式に改悛し秘蹟授かった6月19日には「自分悪しき手本示して罪を犯させたかも知れないすべての人」に対し、「末期忠告」を書き署名し1月後の7月26日33歳死去息子チャールズロチェスター伯位を継いだが、翌1681年10歳亡くなりウィルモット家は断絶ヨーク公義弟クラレンドン伯次男ローレンス・ハイド新たにロチェスターとなった

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略伝

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西道仙」の記事における「略伝」の解説

肥後国天草(現・熊本県天草)に生まれる。17歳時に帆足万里に学ぶが、同じ年に祖父父とともに急逝したため学資続かず医家居候しながら医術学び代診つとめたりして各地転々とする。1863年長崎酒屋町医者開業するとともに読み書き児童教え生計支える。その頃弟子に後の漢学者足立敬亭がいる。1873年に瓊林学館という私塾長崎桶屋町光永寺に開く。瓊林学館は谷口藍田という漢学者館長迎えとともにイギリス人デントを英語教授招き道仙自らは督学となり、生徒300名を数えたその頃から道仙新聞発行計画し1876年2月復刊された『長崎新聞』の編集長となる。そこで投書スペース多くとる編集行い民衆民生重視する立場をとり、次第民権思想明らかに示すようになった1877年1月に『西海新聞』と改称し郡区町村会を開くよう建議し国会急進論を7回連載したことが新聞紙条例触れ1ヶ月私宅禁固処された。 1878年2月西海新聞社去り、『長崎自由新聞』を創刊し、自ら社長となった。その年には西南戦争進行中であり、道仙西郷隆盛ひそかに応援するつもりがあったという。9月24日西郷らが城山自殺するにおよび、翌月道仙は会を催し課題詩を賦していわく 孤軍奮闘 囲み破って還る 一百里程 堅塁の間 吾が已に摧(お)れ 吾が馬斃る 秋風骨を埋む 故山の山 この詩はすぐに『長崎自由新聞』に掲載され後年になって生還が『古今名家詩抄』を編纂したときに誤って南洲の作として採録したため西郷隆盛城山での絶詩として広く知られるようになった西郷敗れてから気落ちした道仙は、『長崎自由新聞』を廃刊ようとしたが、社員懇請により発行続けたという。 1879年3月東京へ行き三条実美成島柳北勝海舟大沼枕山などを訪問する長崎帰り西南戦争について事実と違う書が出回っているのを『近時筆陣』を書いて批判しようとしたが、この出版官憲許されなかった。その年末公選により長崎区長になり「これぞ自治制基礎」と喜び1日出勤しただけで辞職する1892年に「長崎文庫」を創立し古文書蒐集発刊した町会議員区会議員区会議長市会議員医師会会長歴任し激し反対押し切って水道敷設実現した晩年には門を閉じて人を避けひたすら読書にふける日々送りかたわら求められるままに長崎市中に多く金石文残し78歳没する墓所長崎市寺町大音寺墓域

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游酢」の記事における「略伝」の解説

建州建陽県現在の福建省南平市建陽区)の出身。兄の游醇とともに学問実行世に知られる若い頃から天下英傑の子交わり程頤開封に来たときに游酢賢明さ見て将来必ず大成することを予言したという。程顥扶溝知県として赴任し学校開いて地方の子弟を教えた時に游酢招いて教授担当させた。元豊6年1083年)に進士登第し、越州蕭山県尉となる。河南府判事だった范純仁と知り合い、范純仁が潁昌府転任するのに従い府学教授となり、范純仁が宰相となる大学博士となる。范純仁が宰相退官する斉州泉州の籤判となった徽宗即位する監察御史任命されその後和州舒州濠州知州となり、官を辞して故郷没する享年71游酢は常に時弊論じ士風刷新の必要を唱えた。「論士風」では、礼儀廉恥がゆきわたらなければ国家存立危殆に瀕する力説した。その門下には呂本中・曾開・陳侁がいる。

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長沢芦洲」の記事における「略伝」の解説

丹波国国領現在の兵庫県丹波市春日町国領)、または姫路市木場出身伝えられる。姓は上田と言われる定かでない。妻は、京都・淀の福富家出身。 花山院家家臣だったという証言があり、実際文化7年1810年芦洲催した芦雪十三回忌書画展の出品目録東京都立中央図書館冒頭には、花山院家厚が絵を描き、その父・愛徳が賛をした「図」を載せている。続いて錦小路頼理、小倉豊季、勘解由小路資善、豊岡治資日野資愛船橋師賢、岩倉家具ら7名の公家作品並び芦洲花山院家ならびに他の公家たちとの繋がり窺わせる。 『平安人物志』では、文化10年1813年)、文政5年1822年)、同13年1830年)、天保9年1838年)版に登場住所はいずれ柳馬四条上。弘化(こうか)4年10月29日死去享年81。墓は長沢家菩提寺である上京区回向院。跡は息子長沢継いだ。他の弟子に、無款の作品芦洲作品間違われたという足立月がいる。画風人物花鳥画良くし、芦雪譲り画法受け継ぎつつも穏やかにまとめている。

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島津忠承」の記事における「略伝」の解説

公爵議員として貴族院議員長年務める。また、日本赤十字社副社長経て1946年昭和21年)から日本赤十字社社長務め当時国断絶していたソビエト連邦中華人民共和国残留した日本人救出尽力したまた、1946年昭和21年)には結核予防会副会長から会長昇任した1965年昭和40年)の献血事業関わる職員汚職事件責任をとり、辞任追い込まれた。1987年昭和62年)、高松宮宣仁親王斂葬儀の司祭長就任

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土佐光芳」の記事における「略伝」の解説

土佐光祐(光高)の子幼少より画技認められていたが、宝永7年1710年数え11歳の時、祖父土佐光成その4ヶ月後に父光祐が相次いで亡くなり幼少にもかかわらず従六位上絵所預となって家督を継ぐことになる。正徳6年1716年17歳正六位下左近衛将監享保10年1725年26歳従五位下翌年大蔵少輔享保16年1731年32歳で従五位上元文2年1737年38歳正五位下元文4年1739年弾正少忠、寛保3年1743年左京少進順調に位階上げており、以後土佐歴代では光芳が先例となって安定した位につくようになる。また土佐光起以来絵所預には任じられてきたものの安定した家禄はなく、仕事応じた画料のみ受け取る状態だった。しかし、享保9年1724年)光芳の嘆願認められ、御月扇料として御台所10扶持方となり安定した財政基盤を得ることになる。更に、幼少経験から、長男・光淳が本家継いだ後、次男・光貞に分家させ組織拡大する方策取った。これらの方策により土佐家は以後安定した基盤を得ることになり、幕末まで続くことになる。 一方享保19年1730年徳川吉宗依頼老中松平忠周用人山村源八なる者から書状遣わされ、光芳は土佐家に伝えられ絵巻屏風粉本目録土佐家所絵巻目録」を提出するこの際光芳は書状届いた7日後に返信していることから、将軍求めに応じて慌てて作成したというより既に整理されいたもの清書しただけの可能性高く、光芳が自家の粉本をよく把握していたことを物語る。その後、この目録元に吉宗求め粉本送ったらしく、その目録将軍御覧絵本目録」も残されている。また、土佐派系図」という家系図作成血縁時系列的に辻褄合わない箇所見られるものの、自家の正当性確認する意図があったと考えられる元文3年1738年桜町天皇大嘗会悠紀主基屏風を描く栄誉授かる延享3年1746年眼病患ったため職を辞し剃髪して常覚の法名名乗る明和9年1772年)没、享年73法名は貫綜院安誉練諦常覚居士墓所知恩寺

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小曽根星海」の記事における「略伝」の解説

小曽根乾堂嫡男幼少より家庭にて英才教育を受け、13歳のときに父・乾堂と越前に赴き、松平春嶽謁見17歳のときに中国上海渡って雑貨商い1年後長崎帰る明治18年の乾堂没後小曽根第14代当主となり、精力的な事業活動を行う。汽船業、鉄工所製陶所起業山野開墾海浜埋め立てなどの土木事業、百個以上の家屋改築工事などである。このうち製陶所亀山焼再興という父・乾堂の遺志引き継ぎ邸内に窯を開いたことが始まり明治24年から同32年まで続いた長崎富豪となって市議会議員・県議会議員選出され赤十字社特別社員にもなった。貧困救済育英事業惜しみなく寄付をしたが、とりわけ小曽根小学校発展尽力したまた、有志募って浪平神社山腹を拓いて遊園地とした。 画技好み篆書・隷書能くし、篆刻巧みであった明治37年死去享年54墓所浪の平町太平寺

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樺山久言」の記事における「略伝」の解説

文化2年1805年)、島津斉宣の命により、家老就任。但し一門家重富島津家当主親族島津忠貫藩主名代命じる。 30歳家老就任当時としては若年での就任であり、異例のことであった。この抜擢には久言が属していた派閥近思録」派の人材が緊急の財政改革において必要と思われていたからと考えられる。久言は、「近思録」派の首領であり下級藩士であった秩父季保を斉宣に推薦しその後文化4年1807年)~文化5年1808年初頭において薩摩藩財政改革リーダーとなった。しかし、その改革内容島津重豪不興を買う原因となり、文化5年5月8日に重豪に隠居命じられ私領のある藺牟田(現 鹿児島県薩摩川内市祁答院町)に蟄居させられるその後も重豪より親族対す嫌がらせをたびたび受け、同年9月26日自害追い込まれた。 久言は私領では領民慕われ領主であったらしく、死後、重豪の圧力で久言の墓が作られなかったため、領民地蔵建てて久言を供養していたという。

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張巡」の記事における「略伝」の解説

南陽出身若くして兵法通じ開元29年741年)に進士となる。この頃、兄の張暁は監察御史就任しており、すでに兄弟ともに名声得ていた。太子通事舎人となり、県令として清河赴任内治功績挙げ任期満ちた後に楊国忠推薦する人もあったがこれを断り、真源へ県令として赴任する。その地でほしいままに振る舞っていた大吏の華南金を誅し、民から慕われた。 天宝15載(756年安禄山反乱起こし張巡は兵を集めて雍丘にて、安禄山側の令狐潮李廷望戦い何度も打ち破り寧陵移ってからも、楊朝宗破り河南節度使任じられた。 安慶緒安禄山殺し、尹子奇に睢陽攻めさせた。睢陽太守許遠援軍求められ睢陽入り一手となった許遠上官であったが、張巡実力認め主将位置を譲る。睢陽城は初め1年分の蓄えがあったのを河南節度使の虢王巨に無理に召し上げられ4月から10月にかけて賊軍囲まれ食料困窮した。臨淮に駐屯していた御史大夫の賀明に援軍を頼むが、賀進明は敗北することと友軍背後襲われる怖れまた、張巡名声妬み援軍断った。 ついに、睢陽落城至り張巡屈せず南霽雲雷万春姚誾幹部30余人捕らわれて処刑された。許遠洛陽連行された。援軍の張鎬が到着したのは、落城後、3日後だった。だが、睢陽城の頑強な抵抗唐軍別働隊行動を容易としたために、落城10日にして賊軍大部分敗亡し、尹子奇も殺された。敵兵12万人殺したと言われる死後睢陽に廟が建てられている。

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西郷従理」の記事における「略伝」の解説

駐日ロシア公使シャール・ド・スツルヴェに従って7歳で渡露、皇后マリア・フョードロヴナや、皇弟アレクセイ大公ロシア語版英語版)(アレクサンドル3世の弟)に可愛がられ皇弟皇后代父母として正教会洗礼まで受けた聖名:アレキセイ)。その後、スツルヴェが駐米公使転任したに伴いワシントン移ったが、腸チフス感染し1884年明治17年12月10日ワシントン死去した10歳2か月)。

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前島宗祐」の記事における「略伝」の解説

畿内活躍した狩野派主筋異なり関東活動した小田原狩野派」の代表的な絵師であり、後北条氏お抱え画工だったとされる関東狩野派画人の中では、最も本格的に狩野元信絵画様式踏襲しており、その骨法確かさから元信直弟子だった可能性が高い。少し前までは狩野玉楽と同一人物とされていたが、現在は別人とされる作品は、山水人物花鳥など20点余り確認されており、体の作例圧倒的に多い。作画期は、印章から三期分類出来る。初期は、元信様式基調しながら狩野正信意識した情趣漂う古朴なものであるが、中期には元信様式全面現れ後期には、元信様式硬質化たような謹直画風変わっていく。 宗祐がもたらした元信画法は、関東画壇何らかの影響与えたらしく、反対に、宗祐も関東土着の画風影響受けた作品残している。

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石崎融思」の記事における「略伝」の解説

唐絵目利荒木元融の子として生まれる。父から漢画洋風画学びガラス絵絵付け法も習得。父元融の師である石崎元徳からも洋風画を学ぶ。 父の師・石崎家では初代元徳明和7年1770年)に没し安永7年1778年)には二代元章が世継ぎのないまま48歳没する元融実子元甫を養子としたが、この三代元甫までもが夭折してしまう。元融意向で融思は石崎家の養子となり、21歳にして石崎四代家督継いだ一方荒木家養子荒木如元が継ぐがなんらかの理由で家を離れる。 融思は長崎漢画南蘋派画法に、オランダから伝わった遠近法陰影法をうまく取り入れ、独自の写実的画風生み出すことに成功画才長け長崎画壇中心的な存在となった文化文政期には門人270余名になったという。木下逸雲鉄翁祖門三浦梧門らも入門している。 漢詩吉村迂斎、篆刻清水伯民に学ぶ。寛政11年1799年)から一年間にわたり大坂伊勢などを遊歴木村蒹葭堂本居宣長交友する。 14歳唐絵目利見習いとなり、20代頃にで唐絵目利本役昇進時期不明)。32歳のときに唐方俗式絵図認掛に任ぜられ「清俗紀聞」を制作55歳のときオランダ船に船載されてきた象を写生し、『全象活眼』を刊行天保3年1832年)、64歳のとき松森神社職人尽絵彩色し修繕尽くした翌年52年勤めた職を致仕するが、その功労認められ死没する79歳まで毎年300目が送られた。融思の人生順風満帆見えるが、29歳のとき若妻失い37歳とき子の融済が夭折55歳のとき愛娘エイ亡くしている。 弘化3年1846年)没。孫の融吉が後継となった隠居後名勝図などを盛んに画いており、川原慶賀の「慶賀写真」(天保7年1836年)に序を寄せていることから、町絵師との交流があったことがわかる。交友のあった田能村竹田は『竹田師友画録』で「西洋画善くする」と融思を記している。

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水島竹堂」の記事における「略伝」の解説

1937年昭和12年)、兵庫県姫路市生まれ明石市で育つ。水墨心象風景表現した作品1982年日仏現代国際美術展入選1985年には大賞受賞1988年にはフランスで画家登竜門であるクリティック賞を受賞水墨画から出発した水島だが、1980年代頃より徐々にアクリルサインペン使った独自の画風確立。線や点、図形機械のように複雑に交差し重なり合う抽象性が高い作品多かった2019年6月 死去ウィキメディア・コモンズには、水島竹堂関連するカテゴリあります

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謝良佐」の記事における「略伝」の解説

蔡州上蔡県出身程顥、後に程頤学問授けられ游酢呂大臨楊時あわせて程門の四先生呼ばれる元豊8年1085年)に進士となり州県官を歴任し応城知県となる。建中靖国元年1101年)に徽宗召されるがその意に逆らって西京竹木場の監に左遷される。讒言により獄に下され官職解かれた。

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鼎金城」の記事における「略伝」の解説

画家著名な鼎春嶽の子として生まれるが、生後数ヶ月でこの父が没してしまい親戚によって養育される。寡黙温和な性格であったとされる経学詩文広瀬旭荘に就いて学んだ。画の研鑽精励し岡田半江金子雪操画風調和させ独自の画風確立した。半江は金城若い頃作品見て「鼎氏に子有り、春嶽瞑すべし。」と嘆じたという。浪華では田能村直入並称されるほど画名高かった門下森琴石などがいる。 享年53墓所福島妙徳寺にある。墓碑銘橋本香坡が撰した。25回忌のとき弟子行徳玉江によって『金城遺稿』が編まれている。

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葛子琴」の記事における「略伝」の解説

代々医師家系で、曽祖父の玄甫は細川忠興医師として仕え祖父真相同じく医師として摂津尼崎藩4代藩主青山幸秀仕えたが、青山氏信濃飯山藩移封するとき致仕して浪華住んだ。父貞淳も医師となり浪華開業する。子琴はこの父と母天野氏の間の長男として生まれるが、幼少の頃両親ともに病没する。父の門弟碓井逸翁養育され甘谷門下となり古文辞学を受け、その門人兄楽郊(えのらっこう)に詩文を学ぶ。同門篠崎三島や岡公翼らがいる。20歳前後上洛医業学び高芙蓉門下となり篆刻を学ぶ。逸翁促されて帰坂。玉江橋畔に御風構え、医と篆刻生業とした。 明和元年1764年)、詩文結社混沌詩社創立メンバーとなり、京阪文人墨客交流するとりわけ7歳年下頼春水とは昵懇となり、春水は『在津紀事』の中で「子琴無ければ楽しまず」とさえ述べている。その詩才天賦のもので詩韻平仄などを自家薬籠中のものとし、詩作滞ることは全くなかったという。擬唐詩陥ることなく後の宋詩流行の魁となるような詩風だった。菅茶山はその『茶山先生行状』にて子琴の詩を絶賛している。 篆刻芙蓉門の傑出した存在芙蓉正統受け継ぎ古色端麗な印風であった同門曽之唯がその『印籍考』に印賢と評し大典顕常もその技を讚えている。門弟京都三雲仙嘯浪華赤松眉公などがいる。 笙や篳篥もよくし、文人らしく多芸であった晩年木村蒹葭堂出入りし文雅交わり深めている。 天明4年4月に師の高芙蓉江戸没した僅か10日後、46歳病没。妻大城氏との間に2男3女がいたが、篠崎三島田中鳴門養育し長男医業継いだ墓所大阪市北区天満東寺町曹洞宗宝樹山栗東寺にある。諡は園詩老といったという。

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鼎春嶽」の記事における「略伝」の解説

池大雅門人福原五岳師事。画に巧み篆刻も嗜んだ。岡田米山人らと交流がある。稲毛屋山印譜『江印影』にその刻印掲載されている。子の金城画家となっている。享年46墓所大阪天満専念寺南画家であるが、代表作の「四季耕作図屏風」のように身近な題材テーマとする絵も多い。

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中村水竹」の記事における「略伝」の解説

京都西洞一条下ル中立売北に住み代々近衛家仕えている。篆刻三雲仙嘯学んだ書・画巧みであった慶応3年1867年)に幕命によって御璽国璽刻している。ほかに有栖川宮熾仁親王の印も刻した。自印の印譜水竹丹篆』がある。

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狩野永悳」の記事における「略伝」の解説

江戸木挽町生まれる。本名立信幼名熊五郎、晴雲斎とも号した狩野宗家中橋狩野家・狩野祐清邦信の養子となり、後に宗家中橋第15代となった嘉永元年1848年幕府御用絵師となり、安政4年1857年法橋翌年法眼除す徳川家斉から徳川家茂までの4代将軍仕え弘化年間江戸城本丸御殿再建における障壁画制作など、幕府御用多く手がけた。 明治維新後も皇居造営の際に、皇后宮御殿御杉戸や小襖に多く作品を描く。明治11年1878年)に来日し日本美術研究始めたアーネスト・フェノロサに、古画研究鑑定法を教授する。甥の狩野友信と連書で、フェノロサ一代狩野姓を許し狩野永探理信」の名を与えるなど、日本における美術史学形成にも間接的に寄与した明治17年1884年)の第二回内国絵画共進会には審査員として虎渓三笑図」を出品銀賞を受ける。鑑画会には古画鑑定委員として設立当初から参加しているが、フェノロサ関心が新画工育成に移ると次第離れていく。明治20年1887年明治宮殿杉戸絵を揮毫し、同22年1889年臨時全国宝物取調臨時鑑査掛となる。明治23年1890年10月2日帝室技芸員となり、「狩野鑑定法ニ就テ」(『国華12号)を著したが、翌年77歳亡くなった戒名は永悳院殿雪斎立信日善大居士墓所池上本門寺弟子に、一時養子となった武内桂舟同じく養子となり中橋狩野16当主継いだ狩野忠信鑑画会中心画家として活躍した小林永濯田中狩野)永また、川辺御楯最初永悳に学び河鍋暁斎晩年狩野派継承するため、永悳に入門し直している。

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略伝

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藤茂親」の記事における「略伝」の解説

幕末期には弓・刀剣の術、和漢の学を修め平野国臣意気投合して勤王倒幕唱えた安政6年1859年)に脱藩翌年5月脱藩の罪で大島流される文久3年1863年7月許される生野の変加わり敗走したのち長州逃れ奇兵隊身を寄せた慶応元年1865年)、月形洗蔵の命で喜多岡勇平暗殺加わった福岡藩尊王攘夷派である筑前勤王党内紛よるものであったが、喜多岡は平野国臣友人であり、幕府による長州征討回避奔走した人物であったことを、はのちに長州知り苦悶したという。そのことから、喜多岡や平野同志であった野村望東尼囚われの身から救い出しその最期まで看取った五箇条の御誓文布告されたのち朝廷召し出され京都大属となる。廃藩置県後隠岐県大参事となり、竹島開発にあたっている。47歳没。 大正4年1915年)、従五位追贈された。

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ブラム・ストーカー」の記事における「略伝」の解説

1847年11月8日グレートブリテン及びアイルランド連合王国のアイルランド・ダブリンでアイルランド政庁公務員である父母3人目として生まれた。6人の兄弟がいる。病弱7歳まで歩けなかった。16歳ダブリン大学トリニティ・カレッジ入学オスカー・ワイルド知り合いで、クリスマスワイルド両親招かれた事もある(後にワイルド恋人だった女優のフローレンス・アン・レモン・バルコムと結婚する)。 劇に興味持ち劇評書いたりしてヘンリー・アーヴィング知り合う大学卒業政庁就職文筆活動継続カレッジ先輩シェリダン・レ・ファニュ女吸血鬼小説カーミラ』を読む。30歳アーヴィング劇団秘書になったアーヴィングライシーアム劇場のビーフ・ステーキ・クラブの運営手伝う。 43歳、アーヴィングの家でハンガリーブダペスト大学東洋言語学教授アルミニウス・ヴァーンベーリ出会うある図書館で『ワラキア公国モルダヴィア公国物語』に「串刺し公」ヴラド・ツェペシュ記述みつけた1897年に『ドラキュラ』を出版。ただちにアーヴィング演劇化したこともあり、この小説はよく売れた。その収入アーヴィング死後ライシーアム劇場焼失した際の処分為の費用使われたという。1912年4月20日死去64歳没。

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橋本忠太郎」の記事における「略伝」の解説

明治19年1886年7月3日滋賀県蒲生郡北比都佐村大字十禅師(現滋賀県蒲生郡日野町十禅師)にて誕生明治39年1906年滋賀県彦根中学(現滋賀県立彦根東高等学校)、明治44年1910年滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部二部卒業したその後郷里の北比都佐小学校(現日野町立必佐小学校)の教員となり、大正10年1921年中学校教員試験検定合格し11年1922年)より滋賀県女子師範学校県立大津高等女学校教諭となった昭和16年1941年定年により両校を退職し退職後は故郷十禅師にて悠々自適の生活を楽しみ、昭和35年1960年2月5日死去した忠太郎は、学校の教員として勤務しながら植物係る研究続け、県の天然記念物調査にも携わった郷土植物誌作ることを志しくまなく県内回り滋賀県固有植物の標本採取した忠太郎採集した標本は、現在も貴重な資料として東京国科学博物館京都大学総合博物館収蔵されている。昭和11年1936年)には近江博物同好会発会し、会誌発行して博物教材研究連載すると共に県下各地採集会を開催して会員への指導行った忠太郎は、活動通じてサヤマスゲ」・「ワタムキアザミ」など39種の新種植物発見した忠太郎目指し郷土植物誌は、原稿完成させたものの未出版のまま死去した

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松平直哉」の記事における「略伝」の解説

嘉永元年1848年2月29日第9代藩主松平直温長男として生まれる。安政3年1856年)に父が死去したため家督継いだ元治元年1864年)の第1次長州征伐に藩は消極的な立場をとった。後に幕府懇願して10万石の格式許されている。 明治2年1869年6月25日版籍奉還により母里藩知事任じられ明治3年1870年)の藩政改革では士族帰農政策推進した失敗した明治4年1871年7月15日廃藩置県藩知事免職されて東京へ移ろうとしたが、領民反対にあっている。明治17年1884年7月8日華族令より子となった1890年明治23年7月10日貴族院子爵議員就任し死去するまで在任した明治33年1900年1月3日死去した

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広瀬臺山」の記事における「略伝」の解説

美作津山藩藩士広瀬義平の長男大坂蔵屋敷生まれた大坂では池大雅高弟福原五岳に就いて画技を学ぶ。安永4年1775年)、25歳の時父を連れ立って津山に帰藩。このとき師・五岳より「画石三面法図」を贈られている。 同8年1779年29歳家督相続し翌年9月京都御留守居見習となり京都上った天明元年1781年4月31歳のとき江戸詰命じられる寛政3年1791年)、大夫改称享和3年1803年53歳のとき、病気理由致仕し、藩邸から離れた麻布長坂に棲み、画作励んだ文化8年1811年9月61歳故郷津山戻り、しばらく上原家仮託するが、12月新田村居宅構えた画作続けたが、文化10年1813年10月63歳にて病没臺山は、松平楽翁上杉鷹山増山雪斎諸大名雲室片桐蘭石松崎慊堂谷文晁木村蒹葭堂など名だたる文人交友した。 津山帰ったわずかの間であった門弟飯塚竹斎画技伝えている。

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羅従彦」の記事における「略伝」の解説

南剣州剣浦県現在の福建省南平市延平区)の出身初め仕官し恵州博羅県主簿となったが、その地の学者楊時二程程顥程頤)の学に通じていることを聞き、その門下となったしばらくして同門千人第一称せられるようになった。後に程頤学風慕い財産売り払いその下で学問続けることにした。学業成就して故郷帰ると、仕官をやめ羅浮山中に一室築いて学問精進した紹興年間没する学者たちは羅従彦豫章先生称し、さらに淳祐年間文質と諡された。潛思力行、其学一世に冠たりといわれる。かつて祖宗故事編纂して『遵堯録』を著し靖康年間中に朝廷献呈ようとしていたが、金が来襲してきたために果たせなかったという。その他の著として『豫章文集』『春秋毛詩語解』『中庸説』『春秋指揮』がある。

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アンドルー・ラング」の記事における「略伝」の解説

スコットランドセルカーク(Selkirk)で生まれる。ロレット校(Loretto School)、エディンバラ・アカデミー(Edinburgh Academy)、セント・アンドルーズ大学をへてベリオール・カレッジ教育を受ける1868年卒業後、オクスフォードマートン・カレッジフェローとなる。 詩は主としてフランスのバラードなどの古詩学び、"Helen of Troy"(1882年その他の著書がある。民俗学では"Myth, Ritual, and Religion"(1887年)、歴史的研究にはスコットランドに関するものが多い。またギリシア語学者としてテオクリトス英訳完成し、他にホメロスの『イリアス『オデュッセイアー』英訳し古典数えられる小説童話随筆をあわせると60余種となり、その趣味神話・伝説心霊学にわたり、1911年から心霊現象研究協会理事務めている。『ロングマン叢書 Longman's Magazine』の編輯携わっていたこともあり、多能学者として世界中愛読者がいた。

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大曲駒村」の記事における「略伝」の解説

福島県相馬郡小高町生まれる。1892年小高小学校卒業し桑野中学現福島県安積高等学校)へ入学する病気退学1900年小高銀行就職1901年友人鈴木余生と「渋茶会」を結成し俳句始める。1906年余生が死ぬと新たに浮舟会」を結成した。駒小高俳壇草創期リーダーであった1911年福島県関連する句を選び出した『雙巌集』を刊行1917年小高銀行倒産して失職する。後に山八銀行仙台支店勤務し福島支店代理営業部長転じるこの頃自選句集句集』を刊行1921年上京して安田銀行浅草支店長に就くが、1923年関東大震災遭遇する当時惨状ルポルタージュ東京灰燼記』として刊行した。のち安田貯蓄銀行田島町支店主任から大崎支店長となる。1926年2月辞職後、『浮世絵志』を主宰同年誹風末摘花通解』を刊行し古川柳研究する1939年、『川柳辞典第1巻配本する。 1943年脳溢血のため、死去

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浜村蔵六 (五世)」の記事における「略伝」の解説

三谷大足次男として生まれ東奥義塾洋学修めた23歳のとき上京金子香に篆刻学びその後四世浜村蔵六門下となる。四世蔵六継嗣がいなかった為請われてその養子となり、明治27年1894年5月浜村蔵六を嗣ぎ、永らく向島に住む。各地遊歴後、二度わたって清国訪問康有為政治家親交した。また呉昌碩徐三庚交わり、その奥義伝えられるこのため浜村家に代々伝えられた印法が変容したとされるが、四世蔵六のとき代々伝えられ印籍類が火災焼失したことが原因とも考えられる初世蔵六以来最大の印人と称された。石印以外にも陶印金印制作巧みであった印面・鈕形・色彩のすべてに優雅な味わいがあり人気博した犬養毅幸田露伴などの名流がその印を用いた門下石井雙石がいる。 明治42年1909年11月25日腸チフスのため病没享年45谷中天王寺に墓がある。

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北蓮蔵」の記事における「略伝」の解説

岐阜県厚見郡北一色村現在の岐阜市北一色)の香厳寺に、北淳心と房衛の次男として生まれる。幼少期には両親読経教えようとしても覚えず、絵ばかり描いていたという。1889年明治22年東京女学校教員をしていた姉を頼って上京同郷山本芳翠合田清らによって設立された生巧館画塾に入る。蓮蔵は芳翠の書生をしていたと後に回想しており、また時に「芳翠二世」を名乗り蓮蔵と芳翠を「親戚」とする同時代資料もある(真偽不明)ことから、両者単なる画塾師弟とどまらない深い関係にあったようだ。更に蓮蔵白滝幾之助和田英作和田三造岡田三郎助といった同時代の画家とも交流重ねた。 芳翠が画塾帰朝した黒田清輝託すると、蓮蔵後身天真道場学び1897年明治30年東京美術学校現在の東京芸術大学選科入学翌年卒業白馬会展には、大画面旧派的な色彩描いた構想画を出品するが、良い評価はなかなか得られ次第出品数も減っていった。この時期博文館から出版された『少年世界』などの挿絵手掛け初めており、蓮蔵以後昭和初期まで多く挿絵描いている。 明治30年半ばになると、芳翠の助手として舞台背景画の制作携わり同じく芳翠が企画した思われる日露戦争描いた戦争画展覧会にも参加した当時こうした戦争画展覧会人気博したらしく、1905年明治38年)には芳翠の従軍に従って大陸わたっている。戦争後は再び舞台背景仕事携わり1911年明治44年)には帝国劇場入社背景主任として多く舞台背景手掛けるうになる1914年大正3年)には薄拙太郎背景主任譲り帝劇退社するが、大正期には背景制作のみならず舞台全体指導行ったようだ。他にも1907年明治40年)の東京勧業博覧会1914年大正博覧会建てられパビリオン設営装飾にも参加している。 帝劇退社後は、同時代の画家比べて遅まきながら文展帝展出品入選し画家としてのキャリア重ねていく。1927年昭和2年7月、師・芳翠に倣ってフランスに渡る。フランスでは美大後輩帝劇では部下でもあった香田勝太の世話になる2年後1929年昭和4年9月帰国帰国後も官展出品続けるが、一方で皇国三千年歴史絵画によって知らしようとする国史絵画館関連制作関わり海軍とも関係を深めていく。代表作一つ提督最後」も「海軍報道班員」の資格で、1943年昭和18年第二回大東亜戦争美術展海軍作戦記録画として出品した作品であり、同展では審査員務めている。戦後間もない1949年昭和24年恵比寿自宅食道癌により逝去享年74蓮蔵アトリエは、姪の北八代引き継いだ八代叔父影響日本画から洋画転向し光風会会員女流画家協会委員として活躍している。

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神山鳳陽」の記事における「略伝」の解説

美濃生まれ京都移り私塾開き文墨客盛んに交流した経学詳しく詩・書巧みだった。明治2年1869年)、西園寺公望開いた私塾立命館招かれ江馬天江谷口藹山広瀬青邨松本古堂富岡鉄斎とともに講師となったその後鳩居堂熊谷直孝の肝いり創立され上京30小学校現在の京都市立柳池中学校)の教官となっている。 『明治三十八家絶句』(明治4年)・『皇朝百家絶句』(明治18年)にその詩が収録されている。また古法展観会には「曹全碑」・「集王聖教序」を出品している。

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横山清暉」の記事における「略伝」の解説

京都出身。名は清暉または暉三、字は成文通称主馬・詳介、号は霞城、吾岳、奇文。初め江村春甫から手ほどきを受け、ついで呉春松村景文学んだ景文没後誓約書では筆頭署名があり、景文一番弟子だったと目される文政3年1820年華道家元池坊専定が、自ら選んだ生花100瓶の画集挿花百規』の挿絵景文と共に担当している。文政度の東本願寺再建においては白書院杉戸絵を担当文政12年1829年)には祇園祭長刀鉾軒下絵《百鳥図》の彩色任された。こうした働き認められてか、青蓮院尊超入道親王お抱え絵師となる。幕末期には平安名家謳われ画壇取りまとめ役として様々な書画展館に際して主催者重責担った。『平安人物志』では文政13年1830年)から嘉永5年1852年)版まで登場住所六角室町東、新町四条北生前の評価は非常に高く嘉永3年1850年)の『帝京画家給銀位定』では970両の<大上上吉>、『平安画家評判記』では980両の<極上上吉>と岸岱狩野永岳次いで第3位ランクされ、「四条派の総親玉記されている。ただ、晩年の作品には衰えが目立つとされている。享年73戒名蓮華院清輝日妙居士墓所は『京都名家墳墓録』によると、東山区安養寺左京区本妙寺中京区天性寺3つ記載されている。安養寺の墓は、一周忌弟子村瀬双石加納黄文建立したのである弟子に、横山春暉、村瀬双石岡島清曠加納黄文耕雲有山旭峰、島田雪谷奥村石蘭など。

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岡八朗」の記事における「略伝」の解説

父は喜劇役者幼少から芸事触れる。 1958年昭和33年)、宝塚映画製作所大部屋に入るが1年退社花菱アチャコ師事師匠薦め1959年昭和34年4月吉本新喜劇第1期生として入団入団当初本名の「市岡輝夫」のまま吉本新喜劇前身である吉本ヴァラエティやステレオコントの舞台上がる1960年昭和35年4月漫才転向しコンビ解消して一人になっていた浅草四郎コンビを組む1968年四郎自殺一時千土地興行移籍したこともあったが、後吉本興業戻り役者諦めきれず復帰して座長就任。主に花紀京船場太郎山田スミ子原哲男、のちには木村進間寛平と共に活躍した。 その風貌から「奥目の八ちゃん」と親しまれ、「くっさー」、「えげつなー」、「隙があったらかかってこんかい!」、「ガオーっ」等の定番ギャグ多数持つ。明石家さんま間寛平らはこれらの定番ギャグを現在でも使用している。 新喜劇では、昔ながら大衆食堂店主、あるいはの工事現場労働者などの役回り多く二枚看板の花紀とは特に息の合ったかけあい披露して多くファン魅了した。 しかし舞台上で立ち振る舞いとは逆に、実は極度のあがり症で、出番前の極度緊張紛らわすために多量飲酒することが多くなり、私生活でも「一にも二にも三にも健康法は酒です」と本人が語る程の酒好きであった結果的にこれが祟り長年アルコール依存症患うこととなった。またアルコール依存症の他にも私生活でのトラブル多く30歳結核患い1993年平成5年)には胃癌1995年平成7年)には急性膵炎1996年平成8年)には自宅転倒し脳挫傷に、さらに妻の自殺長男(もアルコール依存症だった)の急死と不幸が続いたアルコール依存症克服後も娘の裕子会い渡米した帰り機内飲酒し、これを知った裕子絶縁宣言されたこともあった。 脳挫傷後遺症記憶障害という喜劇役者として致命的なダメージ背負うことになり、台詞覚えられず、以後事実上の引退状態になったとはいえ岡の舞台立ちたいという本人意志強く2002年平成14年12月18日芸能生活45周年記念リサイタル岡八我王ガオー伝説」をなんばグランド花月行った。この公演では弟子オール阪神・巨人巨人らとの新喜劇帰国した裕子との父娘漫才披露した2003年平成15年)には心機一転芸名を「岡 八郎」から「岡 八朗」に変えるなど、舞台対す意欲をみせていたが、2005年平成17年7月26日肺炎による呼吸器不全のため、兵庫県尼崎市内の病院死去した戒名笑輝一道圓居士。 死去する直前2005年7月16日には大阪市開いたオール阪神・巨人漫才コンビ結成30年記念公演出演舞台で阪神・巨人、けんた・ゆうたらの思い出話披露した。これが最後の舞台であった

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山元桜月」の記事における「略伝」の解説

山元桜月は、明治22年1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元三郎庄子夫妻三男として誕生した。父治三郎山元家の入婿で、母庄子末弟近代京都画壇代表する画家一人山元春挙である。治三郎夫妻子宝恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月四番三男として生まれ三郎名付けられ叔父である春挙は幼い桜月画才見抜き明治33年1900年桜月入門許し春汀の名を与え以降厳しく実写の道を教えた伝えられる桜月才能遺憾なく発揮し大正3年1914年第8回文展において『奔流』が初入選し以降文展その後帝展連続入選果たし昭和3年1928年)には帝展推薦無鑑査)と順調に地位固めていった。その後昭和8年1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年1935年)には名を春汀から桜月改め帝展退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合い断った桜月が描く対象一般風景から山岳画へと変わり昭和14年1939年改組文展に『早春芙蓉峰』を出品し以降富士山描き続け、翌15年1940年)には山梨県山中湖村移住し富士山観察スケッチ没頭した桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士真の姿描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し昭和30年1955年東京開かれた桜月個展において川合玉堂は、多く期待持って個展楽しんだ伝えられる桜月自著神韻』の中で富士山を描くことに対して芙蓉峰調和は他の高山比類なき美の極地」、「先変万化景観は、宇宙無限大等しく意義を示す世界無比神秘」と称し、また後年富士山見ていたらその崇高な姿に魅入られ誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすうになる。」との信念から、富士描いた作品世界指導者に対して数多く寄贈した昭和60年1985年)に死去した

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島琴陵」の記事における「略伝」の解説

前半生はよくわかっていないが、元々南部藩士だったという。本籍江戸だったというから、江戸詰だったようだ。ところが、江戸で人を殺めてしまい、長崎逃げてそこで画を学んだという。ただ、師は不明で、長崎何年居たかは不明である。後に文雅好んだ姫路藩筆頭家老高須隼人(号・書山)の招き姫路に来たという。姫路城の西にある薬師山の別名「琴丘(岡)」から、琴陵と名乗った姫路では、亀山本徳寺接客として、この周辺住んでたようだ姫路行き時期不明だが、文政12年1829年)には琴陵と名乗っていた記録があり、先述逸話確かならこの頃には薬師山住んでいたことになる。ただし、この時高須隼人未だ13歳少年にすぎない墓所本徳寺御山廟所息子の島琴江も絵師となっており、廟所には二人の墓が並んでいる。 全国的な知名度がある絵師とは言いがたいが、姫路その周辺には作品多く残り、「琴陵さん」と親しまれている。作品大半花鳥画でたまに山水画見られるが、人物画は殆ど無い。

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池田泰真」の記事における「略伝」の解説

三河国愛知県西尾藩士・池田新五郎の第5子として、江戸赤坂生まれる。幼名七五郎。幼少より画を好み1835年天保6年11歳柴田是真入門以後25年近く内弟子として過ごし、画と蒔絵研鑽努めた1841年天保12年17歳の時、師に従って日光奥羽名所旧跡巡覧1845年弘化2年21歳時には小田原江ノ島など湘南地方写生旅行出掛けている。これが縁となって1850年嘉永3年)に鶴岡八幡宮什宝修理携わっている。更に師より旅費貰って1856年安政3年2月から1年余りかけて京都和歌浦琴平小倉長崎などを遊歴して写生している。 1859年安政6年35歳独立浅草榊原住し袋物商丸利などの注文受けて印籠煙管筒などを制作した明治維新後は、1873年明治6年ウィーン万国博覧会蒔絵額を出品し進歩賞牌受けたのを皮切りに内外博覧会受賞重ねる。日本美術協会委員務め1890年明治23年日本漆工会の発足にも関わった。同年第三回内国勧業博覧会翌年日本美術協会美術展覧会では審査員務め1891年明治24年)に師の是真が亡くなると、漆工界の第一人者となった1886年明治19年)には、是真の次男柴田真哉自身長女娶せることで真哉を婿養子としたが、是真の死の直後離縁している。1896年明治29年6月30日には帝室技芸員拝命1903年明治36年)に病没墓所浅草今戸称福寺にあり、師是真や一時は養子にした真哉の側で眠っている。 弟子多く養成し、その一派住んだ場所から薬研堀派と称せられた。鏑木清方は『こしかたの記』で泰真に触れ、「丈の高い、江戸生き残りの人によく見る長顔で、半白というよりは白髪の多いのを伸ばしたまま掻き上げた、温顔物静かな見るから名匠と呼ぶにふさはしい好い風格具えてゐた。工人芸人、その職の何たる問わず、道を究めて至り尽くした人のみに見られるゆたかさを、今にしてかへり見ると、先づこの人表情思ひ浮かぶ」と好感をもって記している。しかし、現在確認されている泰真の作品少ない。

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林忠五郎」の記事における「略伝」の解説

水戸藩士正清の子文久3年1863年)、水戸藩主徳川慶篤の上洛に随行水戸藩一橋家警衛世話役として京に滞在し禁門守衛する。 当時公武合体派諸侯中心人物一橋慶喜であり、その仲介実行役で攘夷派駆逐しよう図っていたのが一橋家家老平岡円四郎見られていた。元治元年6月16日江幡広光数名とともに平岡京都町奉行所与力長屋千本組屋敷)外で斬殺した。 平岡即死だったが、一橋家使役家人川村恵十郎により、江幡広光とともに殺された。

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李侗 (南宋)」の記事における「略伝」の解説

南剣州剣浦県現在の福建省南平市延平区)の出身14歳時に、同じ郡にいた羅従彦宋学大家である楊時より程氏(程顥程頤)の学を承けたと聞いて弟子となり、学問究めて従彦が賞賛するほどになった。後に山田住居定め40年間も世間との交わり絶って一心に学問精進した宋学大成した朱熹弟子である。世は延平先生称し71歳没する。明の万暦年間孔子廟に従祀された。著に『延平問答』と『語録』がある。また清の張伯行が編纂した李延平集』4巻があり、問答の他に詩文載せている。

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秋月種時」の記事における「略伝」の解説

延徳2年1490年)、13当主秋月種朝の子として誕生永正9年1512年)に父が戦死したため、家督継いで14当主となった種時は、豊後肥後筑後 守護職大友義鑑からの自立目論んで管領代で、筑前豊前・守護職大内義興接近したが、この背反行為怒った大友義鑑攻撃受けて敗れ結局大内義興仲介受けて降伏した。なお、家督相続前永正6年1509年)には美奈宜神社社殿再建している。 享禄4年1531年)、死去享年42家督子・文種が継いだ。 表 話 編 歴 秋月氏第14代当主1512年 - 1531年) 種雄 - 種幸 - 種家 - 種頼 - 種資 - 種貞 - 種高 - 種顕 - 種道 - 種忠 - 種氏 - 種照 - 種朝 - 種時 - 文種 - 種実 - 種長 - 種春 - 種信 - 種政 - 種弘 - 種美 - 種茂 - 種徳 - 種任 - 種殷 - 種 - 種繁 - 種英 - 種明 - 種久 - 種高

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亀井茲尚」の記事における「略伝」の解説

天明6年1786年5月16日第7代藩主亀井矩貞の五男として津和野生まれる。文化7年1810年7月に兄で第8代藩主の矩賢の養子となり、文化8年1811年2月に第11代将徳川家斉御目見し、12月従五位下大隅守叙位任官する文政2年1819年5月16日の矩賢の隠居により家督継いだ文政6年1823年)、勅使接待役を務めた文政9年1826年)には桜田防火役を務めた文政10年1827年)には神田橋門番役、文政11年1828年)には大手組防火役を務めた文政10年1827年)、80歳で幕府暦局を辞した堀田仁助が帰藩。天球儀地球儀伊能図(小図)の藩主献上を受ける。茲尚は仁助藩校養老館助教任じ関流数学教導務めさせると共に献上品天球儀地球儀養老館へと貸与教育資源とした。 天保元年1830年12月25日江戸で死去した享年45。跡を三男の茲方が継いだ

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中村孝也」の記事における「略伝」の解説

1885年明治18年1月群馬県高崎生まれる。父は士族小学校教員中村勝弥、母は小学校嘱託教員中村とく。「孝也」の名は、『孝経』を典拠とした。幼少の頃から漢籍造詣深かった父より漢学学び5歳の時、母が勤務する神戸尋常小学校見学児として通学以後複数学校転校するも、いずれも抜群成績進級した1899年明治32年)、14歳時に小学校准教員検定試験合格桐生尋常小学校教員となった群馬県師範学校東京高等師範学校経たあと、1909年明治42年)、東京市京橋区明石尋常小学校就職。その傍ら東京外国語学校夜学)に入学ドイツ語専攻し1912年明治45年)に修了している。 1910年明治43年)、東京帝国大学文科大学国史学科に入学勉学励み特待生選ばれる一方明治中学校講師家庭教師などで忙し毎日過ごした1913年大正2年)に東京帝国大学文科大学国史学科を卒業卒業式の際、恩賜の銀時計を受ける。大学卒業後、直ち大学院進学大学院では指導教官三上参次のもとで、江戸時代文化史専攻した大学院在学中文科大学卒業論文をまとめた『江戸幕府鎖国史論』や、一般向けに著した源九郎義経』を出版また、指導教官三上参次からも数多く仕事与えられ静岡県教育会から委嘱され徳川家康伝記編纂や、徳川三百年祭記念事業研究者委嘱された。これが後年発表する徳川家康文書研究』の基礎となった1918年大正7年)に東京帝国大学大学院修了したのち、第一高等学校日本女子大学などで教鞭をふるう一方東京帝国大学経済学部入学し経済学学んだ。そして、1924年大正13年)に文学博士学位請求論文である「元禄及び享保時代における経済思想研究」を東京帝国大学提出美濃紙原稿2500大著であったその後1926年大正15年)に文学博士学位取得中村学位論文合格知らせを、当時史料編纂掛事務主任東京帝大教授であった辻善之助から聞いた。その一方で1924年には、月刊誌歴史趣味』の刊行をはじめ、その主幹となって全冊の執筆担当太平洋戦争激化して紙の配給停止される1944年昭和19年)まで続けた1925年大正14年)に史料編纂官となり、1926年には東京帝国大学助教授兼任本官史料編纂であったため、講座担当はなかった。1935年昭和10年)に東大組織改変により東京帝国大学助教授史料編纂官となり、文学部勤務が主となった。そして、1938年昭和13年)に東京帝国大学教授就任国史学第二講座担当し江戸時代史と近世社会史講じた中村教授昇任したとき、東大国史学科は平泉澄主任教授であった平泉が「朱光会」や私塾青々塾で、いわゆる皇国史観説いていたが、中村はこうした平泉行動一線を画し国史学研究室にも足を向けないであった平泉反発する学生中村のもとに集まり1940年昭和15年)には中村が会の代表とする「国民生活研究会」という研究会結成された。 太平洋戦争終結した1945年昭和20年10月中村東京帝国大学教授依願退官した。中村は、東京帝国大学退官後も大学教員として教壇に立つことを希望していたが、GHQにより教員不適格者判定されてしまった。そのとき心境を「中村孝也昨日を以て死去した」と日記綴っている。 1951年昭和26年)に教職追放解除となってからは、明治大学教壇に立ち、いっぽうで徳川家康文書蒐集調査進めた1957年昭和32年)には文部省研究成果刊行補助金支給をうける)。その成果大著徳川家康文書研究』にまとめられ、これは戦国大名発給文書に関する研究先駆として評価されており、1962年昭和37年)には日本学士院賞受けた明治大学退職後の1960年昭和35年)に、雑誌歴史趣味』を年4回の季刊誌として復活1968年昭和43年)まで続けられた。また翌1969年昭和44年)からは雑誌『静苑』を創刊して文章書き続けていたが、5号編集終えた1970年昭和45年2月5日脳梗塞のため東京都文京区自宅にて死去享年85歳

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田能村直入」の記事における「略伝」の解説

岡藩三宮伝右衛門三男として生まれる。伯父渡辺蓬島田能村竹田幼児期の師であったことから紹介され文政5年9歳のときに竹田画塾入門才能を見いだされ養嗣子となる。兄弟子には高橋草坪帆足杏雨がいた。 画のほか儒学角田九華漢詩広瀬旭荘学び表千家茶道香道東軍流剣術も身につけた天保5年1834年)、竹田伴って大阪入りし、大塩平八郎洗心堂で陽明学学び、佐武理流の槍術免許を得る。藤沢東畡篠崎小竹後藤松陰広瀬旭荘岡田半江などと交わった天保6年1835年)、師竹田没した後しばらくは京阪遊歴して過ごしていたが、27歳で堺に落ち着く詩社吟社設立門人300人以集まったという。 35歳のときに黄檗僧天沖真一参禅印可居士号授かる大坂天王寺修復折り羅漢五百幅を画いて寄贈万延元年1860年)、46歳のとき高麗橋移り竹田25回忌難波瑞龍寺にて執り行い師の供養努めた。 また竹田意志継ぎ煎茶普及尽力した文久2年1862年)、売茶翁百年忌に淀川下流の青湾にて「青湾茶会」という煎茶席を主催。このとき百幅の肖像画きその場頒布している。1200人が来場活況だったという。この模様は『青湾茶会図録』にまとめられている。また慶応元年1865年)には青湾茶寮営み高野山でも茶会催した岡藩中川久成請われ藩士として仕える。これは久成の絵の師で文人画家春木南溟計らいあったようだ。ほかにも土佐藩山内容堂伊勢津藩藤堂高猷恩顧受けた明治10年1877年)、63歳ときには京都博覧会開催尽力出品し受賞している。天皇行幸のとき御前にて揮毫する栄誉浴している。翌11年1878年8月京都府画学校設立幸野楳嶺らと京都府知事槇村正直建議した明治13年1880年)、開校となり直入摂理校長)に就任。しかし、各画派衝突絶え明治17年1884年)に責任をとって辞職する。なお、京都府画学校はのちの京都市立芸術大学前身である。 退職後も私塾南宗画学校設立明治23年1896年)には富岡鉄斎谷口藹山とともに日本南画協会設立私塾協会合併した明治32年1899年)、86歳にして黄檗山塔頭獅子林住持となる。竹田65回忌書画会や煎茶抹茶席を設け書物宝物展の開催など精力的な活動行っている。しかし、前官長との確執高じて明治40年1907年)、僧籍離れる同年1月死没享年95門弟田近竹邨児玉果亭田中柏陰服部五老川村清雄などがいる。

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杉田成卿」の記事における「略伝」の解説

杉田玄白の孫、杉田立卿の子として江戸浜町生まれる。幼時より学業優れ儒学萩原緑野、蘭書名倉五三郎などに学ぶ。20歳の時から坪井信道蘭学学び人格的にも深い感化受けた1840年天文台訳員に任命され1843年老中水野忠邦の命でオランダ政治書(国憲)を翻訳したが、水野失脚によりこの書は日の目を見ないことになった。同じ年に『海上砲術全書』を訳述している。 1844年オランダ国王から幕府開国勧めた親書翻訳1845年には父のあとをついで若狭国小浜藩主の侍医となる。1853年ペリー来航の際はアメリカ大統領からの国書翻訳翌年天文台役員の職を辞し主として砲術書などの訳述従い1856年には蕃書調所教授迎えられた。本格的蘭和辞典編纂などに力を尽くしたが、生まれつき病弱に加え心労により43歳で逝去する。 辞世は「死にたくもまた生きたくもなしの花 ちるもちらぬも風にまかせてであった

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阿仏尼」の記事における「略伝」の解説

桓武平氏大掾氏流の平維茂長男である平繁貞の子孫である奥山度繁の娘(または養女)。安嘉門院仕え出仕10代初恋失恋失意から出家決意しとなったが、その後世俗との関わり持ち続けた30歳頃藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産む。 為家の没後播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子二条為氏争い1279年弘安2年幕府訴えるため鎌倉下った。このときの紀行鎌倉滞在のことを記したのが『十六夜日記』である。訴訟結果がわかる前に鎌倉没したという説と、京都帰った後に没したとの説がある。「弘安百首」などに参加し関東にある10社に勝訴祈願して奉納した安嘉門院四条五百首」や「安嘉門院四条百首」などもある。 歌論書に『夜の鶴』がある。また若い頃書いたうたたね』は失恋顛末記した日記である。『続古今和歌集』以下の勅撰和歌集に計48入集しているものの、阿仏尼の孫である冷泉為秀参画した『風雅和歌集』や阿仏尼親しかった京極為兼選者務めた玉葉和歌集』では入集数が多い一方で冷泉家対立した二条家選者務めたときは入集数は極端に少なく当時歌壇政治的対立状況反映していると考えられる。 『続古今和歌集』 3首(藤原為家撰) 『続拾遺和歌集』 6首(二条為氏撰) 『新後撰和歌集』 1首(二条為世撰) 『玉葉和歌集11首(京極為兼撰) 『続千載和歌集』 1首(二条為世撰) 『続後拾遺和歌集』 1首(二条為藤二条為定撰) 『風雅和歌集14首(光厳院親撰、冷泉為秀らが寄人務めた) 『新千載和歌集』 2首(二条為定撰) 『新拾遺和歌集』 3首(二条為明撰) 『新後拾遺和歌集』 1首(二条為遠二条為重撰) 『新続古今和歌集』 5首 鎌倉市扇ヶ谷に伝・阿仏尼の墓が残る。

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狩野永泰」の記事における「略伝」の解説

狩野永章景山洞玉、1762年-1830年?)と俳人白絲生没年不詳の子として生まれる。兄に狩野永岳がいる。妻は俳人北川價の娘織乃。その三男が冷泉為恭である。父永章は狩野元信憧れた復古調京狩野絵師で、中々力量持った絵師だった。 『平安人物志文政5年、同13年天保9年版に載り、その記述から初め泰と名乗り、父を次いで二代景山洞玉、やがて狩野姓を受け其同、永泰称した想定される。また一時大阪住み大坂絵師和田呉山らと交流した。更に大坂城障壁画御用参加大坂人名録『続浪華郷友録』にも名前が載り伊勢守であったことが知られる

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包世臣」の記事における「略伝」の解説

5歳の頃から父に経学学び始め8歳で詩を詠む13歳のころに兵家法家興味を持つ15歳初め科挙を受けるが合格できず、43歳にしてようやく郷試合格し会試受験する失敗しその後科挙による出世諦める。この頃はすでに兵法家書家として名を成していた。26歳科挙試験会場張翰風(張琦)に出会い生涯の友となっている。 28歳のとき、揚州にて旅の途次にあった鄧石如出会い十日間だけ書の指南を受ける。29歳のとき再会鄧石如の書と生き方強く感銘を受け、生涯の範とする。鄧没後19年目に「国朝書品」を著し清代書家格付けを行うが、鄧の隷書楷書神品とし、八分篆書草書妙品挙げいずれも清朝第一に据えた41歳のとき、黄乙生に出会いその書に影響受けた58歳のとき、王羲之書法忠実な継承作として著名な孫過庭の『書譜』を研究し書譜弁誤」を著す。この中で王献之の書を従来のような低い評価与えない姿勢をみせている。またこの頃書法に「気満」という概念もたらしている。形にとらわれない自由で活き活きとした書家思い作品から伝わることをさす。 『芸舟双楫』において六朝碑文を学ぶことの大切さ述べているが、この論は後に康有為によって法帖否定し碑学を尊ぶ主張繋がっていく。 門弟呉熙載など多く門人が育つ。子に包誠がいる。 『続碑伝集』巻79・胡轀玉「包慎伯先生年譜」・『安呉四種序文などに包世臣生涯伝えられる

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何震」の記事における「略伝」の解説

南京住んだとき、印学(篆刻芸術)の開祖とされる文彭師友の関係を結び、燈光石に篆刻することを学ぶ。漢印への復古唱える文彭をよく継承しのびやか枯淡のある作風確立した文彭名声斉しく、「文・何」と並称され、名士こぞって彼の印を買い求めた何震文彭以上に詞句印や室名印を好んで刻し後進もこれにならった。また著書『続学古編』は吾丘衍の『学古編とともに印学を志す者のバイブルとなった何震死後20年、程原・程父子により『何氏印選』(忍草堂印選)が刊行される何震優れた篆刻芸術はやがて徽州一派成した。この一派中国の印学における二代流派のひとつである新安印派(黄山派・徽派・皖派)と呼び蘇宣梁袠朱簡加え「歙四家とされる程邃汪肇龍巴慰祖胡唐などの優れた篆刻家育った因みにもう一つ流派を西泠印派(浙派)という。 周亮工の『印人伝』に何震業績がよく伝えられている。 披石 蘭雪堂 雲中白鶴 沽酒漁歌 呉之印 聴鸝深處 邊款

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呉咨」の記事における「略伝」の解説

陽湖派の兆洛(申耆)の門下学問広く学んだ。書は篆書隷書優れ、画は惲寿平影響受けて趣のある作品画いた金石文精しく秦・漢碑文研究をし、篆刻はゆったりとした趣の印を刻した元朝吾丘衍倣って『続三十五挙』を著した。非常に優れた篆刻家だったが早世したので伝存する作品少ない。

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毛奇齢」の記事における「略伝」の解説

紹興府蕭山県出身幼少より聡明で、推官の陳子龍に才能愛され諸生挙げられた。明が滅び乱賊起こったときには身を城南山に隠し土室築いてその中で読書していた。人を譏る癖がありそのために多くの敵をつくった殺人の罪逃亡し王士方という変名使って流浪していたことがある。後に施閏章に招かれ江西鷺洲書院教授した1679年博学鴻儒科に選挙され翰林院検討授けられ明史編修事業参加したが、やがて病気になったので郷里帰り述作いそしむ94歳で没する晩年弟子多く李塨はその一人であった

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甘暘」の記事における「略伝」の解説

南京鶏籠山隠遁した金石文精しく書法巧みでその篆書盛名得た篆刻は、秦・漢の古印を好み銅印玉印作成した。自然な趣で重厚な風格であった新安印派に属する。

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蘇宣」の記事における「略伝」の解説

蘇宣は、王世貞などと交際し文壇知られた眉陽先生の三男として生まれたが、幼くして孤児となり呉派頼って生活した文彭師事し何震影響を受けながら篆刻学んだ若い頃より読書好み六書中心に経学を博く学び、その文才示した。しかし、二十歳の頃不公平なことに遭い敵討ちをして人を殺めてしまったことがあった。しかし、その後心を入れ替え学問篆刻打ち込んだ明代の大収蔵家である顧従徳項元汴のところで秦漢の古璽を悉く観て研究し明るく爽やかな作風確立した当時文彭何震らと並称されるほどに有名であり、新安印派(黄山派・徽派・皖派)の代表的な存在となる。自らの印影納めた『印略』(万暦45年1617年))は広く読まれ江戸時代中期には高芙蓉によって日本紹介され大きな影響与えた門弟には陳彦明・何不違・姚叔儀・顧奇ら、いわゆる泗水印派が育つ。 蘇宣之印 嘯民 深得酒仙三味 流風 李流芳印 映讀書我思古人實獲我心 我思古人實獲我心邊款壬戌季鞦望篆嘯民

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林皋」の記事における「略伝」の解説

清初装飾性に走るあまり停滞した篆刻にあって林皋汪関私淑し時代流されずひとりその法を遵守した。おだやかで、なお精巧な作風確立し惲寿平筆頭当時大家多く林皋の印を用いている。莆田派に属する。 康熙12年1673年)、『宝硯斎印譜』を出版する

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胡唐」の記事における「略伝」の解説

巴慰祖外甥。程の『古蝸篆居印述』(1824年)に巴慰祖とともに模刻がある。胡唐はこの印譜序文寄せている。また、『還香室印存』に原鈐が確認できる従兄にあたる巴樹穀・巴兄弟切磋琢磨し篆刻の技を磨いた趙之謙巴慰祖胡唐絶賛している。

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程瑤田」の記事における「略伝」の解説

江永戴震を師とし、漢学宋学をかねて研究する乾隆35年1770年)に挙人となり、嘉定県教諭拝命する。 篆刻詩作を得意とする清代詩人の劉大櫆はその詩を「五言陶淵明学んで力あり、最も高妙。七言古楽府倣い律詩宋人の作を好む。絶句江西詩派の域に迫り黄庭堅に近い」と評した。また清代画家文人の史震がその詩を「清高絶俗。仙と比すべし」とも評している。友人王念孫程瑤田生涯について「身を立てる醇なること、学問努め持論精緻なること、所見すぐれていることは、比類絶している」とまとめている。

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池大雅」の記事における「略伝」の解説

享保8年1723年)、京都銀座役人下役の子として生まれる。父を早く亡くし経済的に苦しい中、6歳素読始め7歳から本格的に唐様の書を学び始める。習い始めたばかりの頃、萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから神童」と絶賛された。 柳里恭柳沢淇園)に才能見出され文人画伝えられた。中国故事名所題材とした大画面屏風日本の風景軽妙洒脱な筆致描いた作品など作風変化に富む大雅中国渡来画譜のみならず室町絵画琳派更には西洋画表現取り入れ、独自の画風確立した川端康成蒐集品として著名な十便十宜図」は、中国・清の李漁の「十便十宜詩」に基づき山荘での隠遁生活便宜便利さ、よろしさ)を画題大雅蕪村共作した画帖である(大雅は「十便図」を担当)。小品ながら、文人理想とする俗塵離れた生活を軽妙な筆遣いと上品で控えめ色彩活写している。

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略伝

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米芾」の記事における「略伝」の解説

米家のルーツ昭武九姓一国米国(マーイムルグ)に住むソグド人で、中国移り住んで「米」を姓とした。この西域米国は唐の高宗時代大食滅ぼされ住民シルクロードから中国亡命したといわれる米芾皇祐3年1051年)、襄陽生まれた先祖代々山西太原住み、後に襄陽移った。母の閻(えん)氏が英宗皇后(宣仁聖烈高皇后)の乳母として仕えていたことから、米芾科挙受験しないで官途につくことができた。宋代科挙至上主義であったので、これはかなりの特権だったといえる。しかし、彼の墓誌銘に、「科挙の学に従うを喜ばず、…」とあり、故意受験しなかったとも考えられる地方低級役職転任するものの南方多く米芾江南山水愛した。彼は非常に書画うまかった上に鑑定秀でていたため、崇寧3年1104年)の書画学(宮廷美術学校設立の際には書画博士となった。そして、徽宗側近仕えて書画鑑定にあたり、のちに礼部員外郎に抜擢された。徽宗厖大書画コレクション自由に利用できたことにより、古典徹底的に組織的に研究した。彼は名跡臨模し、鑑定をし、収集をし、そして鑑賞した書画についての多く記述残した。その著録きわめて科学的であり、今日でも正確で信頼のおけるのであるこのように彼の書は古法探求土台にしているため、品位規模において南朝初唐大家匹敵しこの後、彼以上の書家はついにあらわれなかった。その書は初め唐の顔真卿褚遂良学び、のち東晋王羲之魏・晋の諸名家遡って研究すすめた古来、彼ほど臨模のうまい者はいないといわれ、その精密さ古人真跡区別がつかなかったと伝えられる。よって、今日に伝わる唐以前作品中には彼の臨模混じっている可能性もある。 彼の書について『宣和書譜』には、「おおかた王羲之学んでいる。」と記されている。また、米芾正書なし。」といわれるように、行書草書多く名品を遺した。しかし、董其昌は『画禅室随筆』に、「米芾自身、最も自信をもっているのは小楷であり、彼はそれを大事にしたので多く書かなかったのだ。」と述べている。 蘇軾黄庭堅交友関係にあり、米芾が一番若かったので彼らは米芾可愛がっていた。米芾傍若無人で、徽宗の前でも「黄庭堅は字を描くだけで、蘇軾は字を画くだけである。」などと貶しているが、彼らが腹を立てた形跡はない。また、米芾奇矯性格で、古書名画貪欲に蒐集するばかりではなく奇石怪石蒐集趣味とし、名石出会う手を合わせて拝み、石に向かって「兄」よばわりするほどであった伝えられる。よって、しばしば狂人扱いされて「米顛」(べいてん米芾変わり者)とか「米痴」(べいち)などと呼ばれさまざまな逸話生まれた服装唐代ファッションかたくなに守ったという。 崇寧5年1106年)に知淮陽軍(ちわいようぐん)となり、翌年淮陽軍の役所没した57歳)。『宋史』(巻444)に伝が立てられている。

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丁雲鵬」の記事における「略伝」の解説

丁雲鵬士大夫出身ありながら画人として宮廷仕えた詹景鳳に画を学んだ後、董其昌との交友から画法受けている。山水能くしたが、呉道子師法仏画人物画を得意とし、その着色元代銭選技法によったものとされる。また北宋李公麟画法を採り入れ白描画精通しとりわけ羅漢図は秀逸であった明代山水図全盛であったため人物図は永らく停滞していたが、丁雲鵬らの活躍によってようやく大きく進展した。師の董其昌はこの業績を「300年来の快挙」と称賛し、方薫は『山静居画論』でその人物図を「容姿颯爽筆力雄偉」と評している。 丁雲鵬故郷である徽州は彫板や製墨業が発達し出版事業が盛んであったことで多く挿絵描いている。方于編集した『墨苑』に精妙挿絵描かれている。またこのような出版の関係から木版画発達にも貢献した著作に『丁南羽集』がある。

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丁敬」の記事における「略伝」の解説

家は貧しく酒屋生業とした。若いうちから書籍好み収集する深く鑑賞し書画鑑別家として著名となった広く学問修養し博学鴻詞科推薦されたがこれを辞退生涯仕官することなく布衣として過ごした何震興した新安印派は装飾性追究明け暮れ、すでに本源失い停滞して勢いがなかった。浙江莆田派の林皋影響であった同じく衰退しつつあった。丁敬は、何震朱簡影響を受けるも各方面長所取り入れ篆刻芸術バイブルとなっていた吾丘衍学古編』に必ずしも従わず、自らの研究した金石学を法とした。生気満ちた篆刻復活し停滞感を打破した。この主張は魏錫曽の『論印詩』に寄せられ彼の1首に要約されている。またその功績汪啓淑の『続印人伝』に詳しい。 丁敬継いだ黄易蔣仁奚岡併せて西泠四家称され、さらに後の陳豫鍾・陳鴻寿趙之琛銭松加えて西泠八家称する西泠印社出版した『西泠四家印譜』(1965年)に丁敬の印が集められている。なお、この印譜は何元錫・何父子拓本が元となっている。

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易熹」の記事における「略伝」の解説

科挙受験資格である童試合格し秀才となった後に広州広雅書院入学一新・張延秋・廖廷相らから考証学学び優れた成績修めたその後上海震旦書院入り日本の師範学校にも留学したフランス語日本語堪能だったという。帰国後、陳伯陶の招きに応じて曁南大学上海音楽学院教官務めた。またこの頃楊仁山から浄土宗学び、その思想学問研究大きな影響を受ける。主に北京上海住んだ。 詩・詞(宋詩)・作文巧みで、詩文草稿作ることなく即興詠んだ填詞歌曲作成にもマニュアル本を必要とせず、韻律知り尽くしていた。書においても篆書・隷書草書楷書のすべてに優れ誰か特定の書家倣ったわけではなく金石文に範を持った。画は山水画花卉画を得意とした。 最も得意としたもの篆刻填詞であると自ら認めている。篆刻黄士陵を範としたが、周・秦・漢の古印を独学学び古拙味わい深い作風であった填詞は、徹底して格率遵守しながら古人の詞を一句ずつ抜き出して集め原義守って配置しているにも拘らず、全く自然な詞を構築した。また訓詁学声韻論にも非常に造詣深かった。 さらに韋斎の号で、音楽家蕭友梅と共に時代性民族性富んだ楽曲作曲した上海にて逝去享年69

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高玄岱」の記事における「略伝」の解説

玄岱の祖父である高寿寛は渤海出身福建省漳州の人で日向国都城渡来しその後帰国した。父である高大誦(和名を深見久兵衛、または休兵衛)は、16歳で父を訪ねて帰国し各地遍歴した経験があり、寛永6年1629年)に長崎移り住んで唐通事通訳)として活躍した石橋寄進し、また隠元隆琦招聘メンバー名を連ねる名士であった。 玄岱は父が47歳のときに次男として生まれる。黄檗独立性易師事して経学医学学び、その傍ら書法篆刻をも会得する天和貞享年間に噂をきいた薩摩藩招かれ儒医となったが病のために致仕その後20年間は長崎で暮らす。流麗な草書林道栄とともに長崎の二妙と謳われ、後に唐様書家として市河米庵などが賞賛している。 宝永6年1709年)に新井白石推挙によって江戸出て室鳩巣三宅観瀾とともに幕府儒官として仕える。正徳度の朝鮮通信使詩文応酬し称賛された。『大清会典』の翻訳を手がけている。友人榊原篁洲らに篆刻指南し、初期江戸派形成に関ったと目されている。この頃池永一峰の『一刀万象』に序文寄せている。 享保3年1718年)、平林寺埼玉県新座市野火止)に師独立記念して戴渓堂を建立独立持仏祀り木牌行状(『明独立禅師碑銘幷序』)を記した。同6年儒官退いたのち、翌年8月74歳にて没し上野東叡山護国院葬られた。 長男儒者として家を継いだ深見有隣次男高頤斎玄融)も書家篆刻家として多く門人育てた

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奚岡」の記事における「略伝」の解説

早熟子供時には八分書を書き長じて行書草書名声得た山水画にも巧み董其昌王時敏らに師法し、花卉画は惲寿平衣鉢継ぎ秀逸である。篆刻丁敬直接師事し、自由で清らかな作風であった

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王石経」の記事における「略伝」の解説

殷・周代の青銅器銘文研究し隷書優れた篆刻は、古来の印法を遵守し落ち着いて味わいのある趣だった。北京住み、呉陳介祺潘祖蔭などの当時名士の印を刻している。

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張燕昌」の記事における「略伝」の解説

丁敬入門するとき巨大なカボチャ手土産にして受け入れ許されたという逸話がある。飛白書に優れた書法をもち、花卉のうちでも特にを得意とした。篆刻浙派属す

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浜田杏堂」の記事における「略伝」の解説

幼いときに儒医浜田家養子となり、長じて名医評された。医業傍ら池大雅門人福原五岳に就いて画を学び中国元・明の花鳥画山水画研究し一家成した。また書は行書優れ詩文能くした。木村蒹葭堂森川竹窓篠崎小竹十時梅厓大坂文人江戸谷文晁釧雲泉などと交流している。 享年49高津中寺町法寺に墓所がある。

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陳衡恪」の記事における「略伝」の解説

陳年(陳半丁)を師とした。日本留学後美術教育携わる詩・文・書に巧みとりわけ絵画篆刻優れた呉昌碩直接指導仰いだこともある。斉白石とは師友となり、互いに影響し会ってその芸術高めた

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董洵」の記事における「略伝」の解説

早いうちに篆刻習い始める。童試臨んだ及第せず科挙による出立諦める。某に仕え平楽県赴いたときも余暇詩文究め篆刻励み、画は蘭竹図、書は篆書・隷書修めた南充県主簿に任ぜられ、官吏として努力して功績積んだが、些細な失敗から罷免されてしまう。落胆し各地遊歴し詩書篆刻はますます巧みとなり、特に篆書名声得た。また琴の名手でもあった。 揚州八怪一人である羅聘との交わり深く、その印を多く刻している。羅聘の自用の印を集めた『衣印存』(『羅両峰印存』)に董洵の印が28方もある。 董洵巴慰祖胡唐との交わり知られることから徽派に属す見られたが、羅聘印の側款から浙派の祖である丁敬師法していることが判明した

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趙叔孺」の記事における「略伝」の解説

外祖父の家は古銅器収蔵富み、子どもの時より入り浸って研究し、やがて殷・周銅器銘文秦・漢の古印に深い造詣を得る。書は趙孟頫趙之謙学び篆書・隷書楷書草書いずれも優れた。画は花鳥画を得意としたが、特に八駿という馬の絵は一頭につき黄金一笏と言われた。篆刻ははじめ浙派学び中年以降鄧石如趙之謙師法秦・漢印を範とした。当時呉昌碩並び称され名士こぞって印を求めた。褚徳彝『金石学録続補』・為銘『広印人伝』に賞賛されている。また古文字研究分野でも著述残した篆刻門弟張魯盦・陳巨来・方介堪・露園、画の門弟に徐邦達・戈湘嵐・趙琴などが育った

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鄧散木」の記事における「略伝」の解説

篆刻趙古泥に、書は蕭退闇に学び、ともに蘇州常熟県の人だったので「廬山弟子」(ぐざんでし)と号している。その上に封泥や陶文などを範として人に左右されることなく独自の篆刻芸術構えた。書においても隷書は張遷碑を、行書章草基礎とし、晩年王羲之柳公権師法した。 31歳の時、糞翁号して売書・売印生活を始めると、奇怪な号とその書・印の精緻さにたちまち注目集めた。糞を用いた理由問われ食料と深い関係があることと、『荀子』などに不浄のものを洗い清めるという意味がある述べている。ユニークな室名をもち、「厠簡」・「三長両短之斎」などがあるが、後者篆刻と書詩文を得意としたが、塡詞と画は不得手だからという。また印文風刺込めた遊印多く刻しているが、雅を好む文人からは敬遠された。 晩年北京住み著述と書専念した

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黄易」の記事における「略伝」の解説

詩人である黄の子で、詩を家学とした。また篆書・隷書を得意とし山水画巧み董源関同師法している。父の死後一時貧窮したが、山東省兗州府済寧運河同知官吏となる。金石文探して収集し「訪碑図」を画いている。金石家である阮元王昶翁方綱孫星衍らと交流した山東にある後漢遺跡武氏祠嘉祥県武氏の祠)の石室荒れるに任されていたが、黄易努力によって保護された。 篆刻丁敬直接師事した丁敬黄易作品をみて非常に喜んだという。秦・漢の印に学び独自の境地を拓いた。金石学に詳しいことから「丁黄」と並称される。

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銭松」の記事における「略伝」の解説

金石文字に精しく漢印を2000鈕も模刻したという。趙之琛銭松絶賛している。胡震・范守和ら交流した。 厳荄が『銭叔蓋・胡鼻山両家刻印』を、高邕が『未虚室印譜』をそれぞれ編集している。

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李塨」の記事における「略伝」の解説

保定府蠡県出身1690年挙人となり、60歳通州学正となるが、80日間勤めて病気のために辞任して郷里帰る。よく知られ親孝行で、父と育ての母のもとに居住していたが、毎朝早く起きて25里離れ生母ところへ歩いて行って4人の弟に読書教え夕方には父のもとへ戻って拝し、また生母ところへ行って生母拝す、という風だった。父が亡くなった後、3日間食断ったともいう。75歳没する

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胡钁」の記事における「略伝」の解説

書・詩・篆刻優れた。竹に印を刻む刻竹も巧みであった碑文法帖模刻にも優れた技を示した

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蔣仁」の記事における「略伝」の解説

艮山(浙江杭州城東北にある門の名)の門外にある四阿住んだ孤高性格で人との付き合い少なく一度仕官することなく布衣として過ごした。 書は米芾王羲之王献之孫過庭顔真卿・楊凝式に学び、その行書楷書当代第一謳われた。また格調高い詩文詠んだ篆刻丁敬直接師事した力強く素朴な風格ある作風だったが、人に渡ることが少なく作品はあまり伝存ていない

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王禔」の記事における「略伝」の解説

父の王同伯は金石研究家多く著述がある。幼い頃から家学を受け、印を刻し書法得た数学製図を得意とし、鉄道従事したこともある。1904年20代にて丁仁・銘・呉隠とともに西泠印社設立した1913年各地遊歴した後、北京印鋳局の技師となり、同時に故宮博物院古物陳列所の鑑定員となる。このとき羅振玉印譜『金留珎』の編集携わっている。1930年上海に戻ると書や印を売って生計立てた晩年には浙江省文史館員上海国画院の画師となり、また中国金石篆刻研究社籌委会主委員を任ぜられる。 篆刻ははじめ浙派学び、のちに鄧派(鄧石如派)と趙派(趙之謙派)を併せて学んだ王禔正しい刻法を遵守し素朴な作風であった門弟にも刻法を遵守させ基礎固めた後、独自性持たせる指導法だった。書は金石文小篆について当代第一とされ、後年隷書楷書にも高い格調得た。 古印の収蔵家としても知られた。享年82

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呉熙載」の記事における「略伝」の解説

父の呉明煌人相見をして生計立てていたが家は非常に貧しく、譲之は諸生段階科挙による出立諦めた幼い頃から印章好み15歳のときから漢印をひたすら模刻し、20歳のとき父の人相見の客となった包世臣所有する鄧石如篆刻作品見て強い衝撃受けた以来包世臣入門し30年ほど就いて書と篆刻学び並外れた天分示した金石精しく碑帖模刻をよく行い、特に高翰の『硯史』を刻して世に伝えた。画は花卉画を得意とした。篆刻鄧石如私淑し師法遵守しながらも独自の小粋なスタイル生んだ55歳のとき太平天国の乱避けて揚州から60キロ程東にある泰州に居を移し、姚正鏞(仲海)の食客となった泰州には蘇州常州から多く文人避難しており、譲之は敬愛対象となりその書画印を求められた。65歳の時、趙之謙訪問を受け、お互い尊敬しあった。以来30歳年少趙之謙は譲之の印法を敬慕している。同行した魏錫曽はそのときの譲之を、白髪で背が高く、徳がきわめて高く見えをついていたと述べている。魏錫曽はこの後呉譲之印譜』を編集している。66歳の冬、郷里揚州帰り(平斎)の家で過ごした享年72後年呉昌碩斉白石にも影響与えている。譲之の伝は包世臣揮毫した父呉明皇の墓碑銘に詳しい。

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趙古泥」の記事における「略伝」の解説

父の趙少游は薬屋を営んだが非常に貧しく趙古泥薬箱傍ら勉学励んだ早くに母を亡くすと悲しみ余り剃髪して出家しようとして家人押しとどめられた。20歳頃に硯の製作や篆刻生計立てながら、友人の沈瑾の家に出入りして所蔵され書画自由に閲覧し鑑賞眼養い、後には金石文精しく書画通じた呉昌碩沈家食客となったときその篆刻才能を見いだされた。その後呉昌碩指導受けて篆刻打ち込み優れた才覚発揮した特筆すべき当時発掘されはじめた封泥徹底的に研究し、ついにその神髄得て書や篆刻取り入れたことである。40年にもわたり篆刻続け自由自在古色帯びた作風人気があり、伝存作品少なくない。古泥の篆刻一派廬山派と称した門下鄧散木のような大家が育つが、多く門弟金石学ぼうとせず装飾性囚われて俗悪となったために勢い失い、やがて絶えてしまった。 書も優れ顔真卿を範とした。同郷書家である晩年翁同龢代筆をしている。また詩文もよくし詩集著した

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陳鴻寿」の記事における「略伝」の解説

贛楡県及び溧陽県知県歴任した後、淮安府海防同知歴任した文章詩文優れ、書は特に隷書優れ創意があった。溧陽知県であった時、隣接する宜興県は砂壺の生産知られていたが、自身十八種類の砂壺のスタイル考案しまた、砂壺の本体装飾として銘文刻することも考案し、そうして制作されたものが、後に「曼生壺」と呼ばれて人気呼んだ篆刻丁敬黄易宗とし、その師法基礎に自由で堂々とした作風だった。印刀はまるで筆を使うがごとくだった

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趙之琛」の記事における「略伝」の解説

陳豫鍾の高弟金石学通じる。書はすべての書体優れ、画は山水画花卉画を得意とした。篆刻陳豫鍾に受け、また陳鴻寿から刀法学んだ。玉を刻する方法によって有名となる。伝存作品多く戴熙・釈達受・張廷済・沈寿などの名士の印を刻した2007年180年余り時間経て日本国内歴史的大発見された、阿片戦争時の欽差大臣中国清代政治家林則徐の印1833年 趙之琛 刻:印譜所載)を、横浜市在住写真家柴田小兔の手により撮影され柴田サイト掲載されている。

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徐三庚」の記事における「略伝」の解説

篆刻は主に鄧派に学び柔和細密な朱文陽刻)を得意としたが装飾的すぎるという批判もある。書は篆書・隷書優れた日本から中国わたった円山大迂秋山白巌教え受けている。画家張熊・任薫・任頤黄山寿・らの印を刻している。

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斉白石」の記事における「略伝」の解説

白石湖南省長沙府湘潭県杏子星斗塘(現在の湘潭県白石鎮)の貧農生まれ幼い頃から絵を描くことを好んだ7歳数カ月間、私塾通い初等教育受けた家計貧窮したため学業継続できず放牧などの手伝いしながら独学で絵を描いて過ごした少年期は体が病弱で鋤などを使う農作業ができず、12歳大工見習いになり1年後家具職人指物師となった10年余、木工として生活したが、その並外れた技能によって全郷に知れ渡ったという。木工傍ら表具師出身伝鑫(薌陔)について肖像画習い後に美人画描いた27歳になってからようやく文人画家の胡自倬(沁園)に就いて本格的に画の勉強始め精緻な花鳥画鳥獣画を学んだ。また詩文を陳作塤(少)、山水画地元画家の譚溥に学んでいる。30歳になると同郷詩友と「龍山詩社」・「羅山詩社」を結び、書法篆刻独学し文人的な資質培った篆刻大工だったこともあり鑿を使うように大胆に鉄筆を揮るい、拙劣な枯れた作風とされた。後に鄧散木白石の印法を敬慕している。 40歳以後7年間で「五出五帰」といわれるように5度にわたり中国全土巡遊名山大河堪能した同時に過去名家真筆銘文などを実見し芸術的な視野広げたその後10年を「家居十年」と呼び故郷にじっくり腰を据え読書耽り詩書画印の製作に没頭した。「借山図巻」・「石門二十四景」などの大作この頃作品である。 故郷での争乱事件避けて55歳北京居宅定め、売画・売印で生計立て始めた当時北京臨模や倣古を重んじ文人素養第一とするような保守的な風潮色濃く農民出身木工だった白石白眼視され、ときに排撃された。このような辛い状況にあって高名な画家日本留学経験のあった陳師曽白石才能見出し芸術的な交流深めるとともに様々な形白石支援した1922年東京開催され日中共同絵画展白石作品出典したのも陳師曽だったが、これをきっかけ白石国際的な評価高まったまた、後にその膨大なコレクション知られるうになる外交官須磨弥吉郎は、中国駐在時代白石重要な後援者となった北京芸術専科学校教授中国美術協会主席歴任した。陳半丁陳師曽凌文淵と共に京師四大画家称された。

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石田幽汀」の記事における「略伝」の解説

播磨国明石郡西浦辺組西岡現在の兵庫県明石市魚住町西岡)に衛門の子として生まれる。兄弟多かったため、京都石田右衛門養子となる。半右衛門家業は明らかではないが、町年寄務め有力者だった。半右衛門養子をとった理由不明だが、菩提寺過去帳石田夫妻実子に関する記述がないことから、夫妻子供出来なかったからだと推測される狩野探幽系譜を引く鶴沢探鯨に絵を学んで禁裏御用絵師となり、宝暦7年1757年7月5日37歳法橋、さらに安永6年1777年9月28日法眼叙せられている。天明6年(1786年)郷里明石没した享年66。墓は京都中京区錦大宮町の豐休務寺(淨土宗西山禪林寺派)。 鶴沢派の技法基礎に、京狩野琳派風の豊かな装飾性写生的な描写加えた濃彩緻密な画風展開した。家は石田遊汀(守善)が継いだ早世し、門人だった栢半兵衛養子入りして石田友汀(叔明)と改名し石田家継いだ。しかし、歴史的に重要なのは円山応挙田中訥言原在中江村春甫、金工家一宮長常らの師という点である。江戸初期流行した江戸狩野と、写生装飾大和絵復古といった多様な展開をみせる江戸中期以降京都画壇の間をつなぐ絵師として注目される

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顔元」の記事における「略伝」の解説

保定府博野県出身。父の顔昶は兵乱のために生死不明となり母は他家嫁いだため蠡県で母の養父育てられる順治年間1644年-1661年)に諸生に補せられたが、のちに捨て去って、漳南書院の主講となって文事武備経史芸能の課を設け指導あたった。その友人には陸亭・刁文孝・張仲誠・王法乾、門下として李塨王源などがいる。

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レオ・ヨギヘス」の記事における「略伝」の解説

ポーランドヴィルノ比較裕福なユダヤ人の家庭に生まれ、その町の高等学校学んだあと、ロシア「人民の意志」派つながりのある青年社会主義者組織属したヴィルノにおけるこのグループは、後のメンシェヴィキ指導者ユーリー・マルトフや「ブント」の共同設立者たちフランス労働運動指導者のシャルル・ラパポールなどを輩出し、さらにレーニンの兄アレクサンドル・ウリヤーノフポーランド革命家ピウスーツキ兄弟とも接触持っていたという。この異常な環境鍛えられたヨギヘスは、1887年失敗したロシア皇帝暗殺計画に関わったペテルブルクメンバー国外脱出させる仕事任され成功させる。彼自身ヴィルノとどまり民族主義傾向をもつポーランド同志マルクス主義組織へと導くと同時にローザ・ルクセンブルク所属していたワルシャワ・グループと結びつく1888年逮捕され翌年5月行政的に禁固4ヶ月判決を受け、刑の終了後警察監視下におかれることになったトルキスタン軍区懲罰として送られる直前1890年6月集合地でツァーリ役人の目をくらまして逃亡スイスジュネーヴ、後にチューリヒ居住する亡命先におけるロシア・マルクス主義中心であった労働解放団接触持とうとするが、プレハーノフ衝突したため、自分資産とすでに熟知していたロシアへ密輸網を活用して独力でマルクス主義古典出版配布した(1892-96年)。ジュネーヴローザ・ルクセンブルク秘密の結婚生活を始めたのも1890年代からのことである。1893年の夏にポーランド王国社会民主党(SDKP、後のSDKPiL)を共同設立。ヨギヘスの役割は、組織作りや党機関紙労働問題編集などの表に出ないものにとどまり、彼自身多く偽名使い黒幕であることを好んだ1896年ポーランド王国配布網が壊滅したために『労働問題』が刊行停止してからは、ポーランド労働運動非合法活動従事する1900年8月ローザがいたベルリンへ移住1901年12月から3ヶ月間、結核進行していた兄を療養させるためにアルジェリア滞在1905年4月にはポーランド王国・リトアニア社会民主党 (SDKPiL) のクラクフ代表部指導するために、ポーランド国内潜入12月からローザワルシャワ住み始めるが、1906年3月6日ロシア帝国秘密警察逮捕され12月強制労働8年判決を受けるが、1907年4月にモコトフスキ監獄から逃亡し国外へ脱出することに成功した5月からドイツ亡命生活再開するが、この時からローザとは別居している。 1908年12月、SDKPiLの第6回大会で、ロシアにおける真の革命勢力ボルシェヴィキのみという政治報告発表するこの頃からヨギヘスとポーランド国内での活動家との対立表面化し1911年12月には「幹部派」と「分裂派」という党中央組織不一致発展した第一次世界大戦始まってからの1916年9月20日、ヨギヘスが編集したスパルタクス書簡第1号発行されスパルタクス団帝国政府対す非合法闘争に入る。ヨギヘスは自分では文章を書かなかったが、編集配布という危険な分野担当し、その卓越した組織力陰謀才能発揮することができた。ウロンケ監獄ブレスラウ監獄収監されていたローザ連絡取りながら1917年のロシア革命迎え1918年3月ベルリン逮捕され11月ドイツ革命にさいして釈放された。ポーランド共産党ドイツ共産党創立関わるが、後者設立意義については懐疑的であり、スパルタクス団指導者として最後まで反対票を投じている。 1919年1月15日ローザカール・リープクネヒト義勇軍殺害されてからは、スパルタクス団指導をひきついでいたが、3月10日ベルリン警察逮捕され即座に射殺された。

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内藤信親」の記事における「略伝」の解説

世子だった兄の信方文政5年1822年)に死去したため、嫡子となる。文政8年1825年)、父の死により家督継いだ幕府要職務めた父と同様、幕閣では寺社奉行大坂城代京都所司代老中歴任した嘉永4年1851年)から11年にわたり老中務め幕政中枢担ったが、文久の改革公武合体失敗責任などを問われお役御免となる。皇女和宮親子内親王)が降嫁した際、同じ字を使うのを憚って「信思(のぶもと)」と改名したまた、晩年雅号として「翁(とうおう)」と名乗った実子信任早世していたため、岩村田藩内藤家から信民を養子迎え元治元年1864年)に隠居して家督を譲る。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟加わり明治新政府軍に抵抗したちなみに、対応に苦慮した信民は自害している。そのため岸和田藩岡部家から信美を改め養子迎えた戦争終結後明治元年1868年)、明治政府から罪を問われ謹慎処分受けた明治7年1874年)に63歳死去した

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ヘンリー・チャールズ・オットー」の記事における「略伝」の解説

ヘンリー・オットー1807年ダービーシャー生まれた 。彼は1822年1月イギリス海軍加わり1828年試験合格しすると水域測量局(Hydrographic Office)に配属された。 1832年中尉昇進するとともにイングランド北東海岸測量するマイケル・スレイター中尉副官任命された。その後測量スコットランド移り1842年2月スレーター測量船から転落して亡くなってしまうと、オットーが代わって指揮した20年間の月日費やし40枚超える水域地図完成させ、発行した1842年11月王立天文学会フェローとなり、1844年測量船スパロー号、1847年測量船エイボン号、1856年測量船ポーキュパイン号を指揮しスコットランド海域海岸だけではなく内陸3マイルを含む地形をも測量しスコットランド島嶼部全域地図完成させた。政府測量局(Ordnance Survey)はまだスコットランド及んでいなかったため、海軍水域測量局による測量は、スカイ島のクイリンヒルズやスモール諸島を含む多く島嶼部最初正確な地図となったバルト海測量 ロシアとの戦争中、オットーは、HMSアルバン艦隊作戦支援するために、バーソロミュー・スリバンの指揮の下でバルト海測量作戦参加した。最も成功した作戦は、1854年8月フィンランド湾ボスニア湾バルト海合流する場所にあるボマルスンドでの砦の占領破壊だったた。また、さまざまな島々の間の水路測量は、フランス軍イギリス軍の上陸所へ物資輸送可能にする上で非常に重要だった 。彼は1854年9月海軍大佐昇進した翌年オットーHMSファイアーフライ号を指揮し6月9日クロンシュタット要塞近く測量している間、同行していたファイアーフライ号とマーリン号は機雷(「地獄機械」)に襲われた。両方の船が損傷しどちらも活動停止しなければならなかった 。これは、海戦における機雷最初の成功した使用法1つとなった8月初旬ファイアーフライ号はヴァサ近くの港と造船センターであるブランドン爆撃し弾薬庫破壊しいくつかの船と工廠占領したスコットランド島嶼部測量 オットーイギリスに戻ると、 1856年5月測量船ポーキュパイン号でのスコットランド測量再開した 。この測量加わった契約技術者たちのコリン・マクヴェイン、ウィリアム・チーズマン、ヘンリー・シャボーは、後に明治政府測地測量指導することになる。 大西洋横断ケーブル敷設測量 スコットランド島嶼部測量途中1858年オットー測量船ポーキュパイン号を指揮して大西洋横断電信ケーブル敷設測量担当した。ブルアーム、トリニティ湾、ニューファンドランド沿岸測量しケーブル敷設船の安全航行助けた 。すでに、トリニティ湾のケーブル駅とカナダおよび米国ネットワーク接続はすでに確立されており、この敷設工事完了とともにロンドンニューヨークの間で通信ができるようになった。しかし、数週間後、通信信号弱まりその後消えてしまった。ケーブル絶縁が不十分であることが原因であったケーブル断絶してしまったが、敷設問題はなく、プロジェクト実用性確立さた。技術の進歩により、1866年再度ケーブル敷設が行われ、成功した 。 セントギルダ島救護活動 1845年オットーと妻のジェミマスコットランドオーバンマナーハウス購入したオットー夫妻休暇中にセントキルダ島訪れることが多く、ある年の冬漁船難破しているのを見つけたオットーはその乗組員救助するとともに島民のために本土販売し収益を彼らに返した1860年10月大嵐セントキルダ島襲ったとき、オットー島民助けるためにグラスゴースコットランド西部救援基金立ち上げ、それを島に届けたオットー1870年海軍少将階級引退し1876年イギリスハンプシャー亡くなった

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良全」の記事における「略伝」の解説

古く可翁仁賀同一人物とする説もあったが、本覚寺所蔵良全筆『仏涅槃図』(重要文化財)に嘉暦3年1328年)の款記が発見され可翁仁賀よりも前の世代に属す絵仏師考えられるようになった東福寺の乾峯士曇による賛が付いた作品多く東福寺所蔵絵画模倣作品も多いことから同寺ゆかりの人物とする説が有力視される。少し後に活躍する東福寺画僧明兆前任者的な画僧だとするのが妥当であろう仏画水墨画、共に作品を残すなど幅広く活躍した李龍眠様などの伝統的な図様に依りながらも、新たに請来された中国仏画水墨画法を取り入れており、古代的絵仏師中世的な画僧への移行期属す絵師考えられている。

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細井広沢」の記事における「略伝」の解説

万治元年1658年10月8日遠江国掛川において細井佐知治(松平信之家臣)の次男として生まれた。母は山本氏。 父は主君である松平日向守移封された播州明石従い、父が江戸詰めになった後、寛文12年1672年)から朱子学坂井漸軒に学び延宝5年1677年)から書道北島雪山都筑道乙に学んだ。ほかにも兵学歌道天文算数などあらゆる知識通じ博学をもって元禄前期柳沢吉保200石で召抱えられた。また剣術堀内正春学び、この堀内道場師範代赤穂浪士堀部武庸親しくなった。 赤穂事件でも堀部武庸通じて赤穂浪士協力し討ち入り口述書の添削おこない、また『堀部安兵衛日記』の編纂託された。吉良邸討ち入り計画にかなり深い協力をしており、武庸からの信頼厚さ伺える。 この事件の間の元禄15年1702年)に柳沢家放逐された。広沢幕府側用人松平輝貞高崎藩主)と揉め事抱えていた友人弁護のために代わりに抗議した結果、輝貞の不興を買い、広沢放逐せよとしつこく柳沢家圧力をかけるようになり、吉保がこの圧力屈したというのが放逐原因である。しかし、吉保は広沢学識惜しんで浪人後も広沢毎年50両を送ってその後も関係も持ち続けたといわれる享保20年1735年12月23日死去著書に『国字国訓弁』『紫微字様』がある。 明治30年1897年)、従四位追贈された。

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島津啓次郎」の記事における「略伝」の解説

安政4年1857年)、佐土原にて誕生する。第11佐土原藩主島津忠寛三男で、母は側室3歳時に家老家に当たる町田氏養子出される10歳の時、鹿児島遊学翌年さらに東京移り勝海舟門下生となる。啓次郎才能見抜いた海舟により推薦され明治3年1870年)、薩摩藩藩費留学生として兄・大村純雄と共に渡米アナポリスニューヘイブン (コネチカット州)、グリンブルドなどで英語、フランス語文学数学等を学ぶ。アナポリスではアナポリス海軍兵学校に籍を置いていたこともある。留学中明治6年1873年)、留学資格都合上理由町田家との養子縁組解消島津家復籍する明治9年1876年4月帰国する明治政府では名門の出身である啓次郎に、当時設立準備中だった学習院ポスト準備し意見聞いたが、この内容に反発し帰郷する反発した理由は、学習院設立意図あまりにも旧態依然としたもので、アメリカ式自由主義感化されていた啓次郎に耐え難い物だったからといわれる。この時、師匠である海舟に西郷隆盛宛の紹介状書いてもらったことから隆盛面識を得る。郷里では廃仏毀釈により廃寺となっていた寺を利用して私塾開いた設立から3ヶ月後には周囲奔走により「しょう文黌」という私学校発展する。この学校全寮制で、啓次郎自身食事当番務めるなど、アットホームな雰囲気だったようである。 ところがそれと時期同じくして、西南戦争勃発する以前から明治政府有司専制やり方反発していた啓次郎は、家族の反対押し切り西郷隆盛元に駆けつける。しかし、隆盛も啓次郎参戦拒否した理由は啓次郎若かったことと、主家島津氏一族だったことなどによるとされる。しかし、啓次郎有志200と共に押し掛け参軍した。啓次郎率いる「佐土原隊」は熊本城攻防戦などで活躍するが、次第薩軍側は劣勢となり、田原坂の戦いでの薩軍大敗北により、啓次郎佐土原と共に宮崎撤収したその後単身上京し、つてをたどって隆盛助命事態の打開務めたが、うまくいかなかった。再び郷里戻り薩軍合流可愛岳三田井椎葉米良小林転々とし、最期城山にて戦死した享年21。墓は東京都渋谷区東北寺佐土原島津家墓所

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長次郎」の記事における「略伝」の解説

長次郎茶の湯大成者である千利休創意に基づき赤茶碗、黒茶碗を生み出す。その独創的な造形には千利休の侘の思想濃厚に反映されており、禅、あるいは老荘思想流れを汲む極めて理念的なものといえる。長次郎茶碗特色は、装飾性造形的な動き変化、あるいは個性的な表現可能な限り捨象重厚で深い存在感を表わしている。出自については、未だに不明な点が多いが、楽焼技術中国時代華南三彩」に繋がることから、阿米也は南中福建省あたりの出身考えられている。低火度釉の施釉陶器である交趾焼技法をもつ人であったとも考えられている。 現存中最も古い作品は、「天正二年春 寵命 長次良造之」という彫の入った二彩獅子像(樂美術館)である。これは現在の京都市中京区二条城付近土中から発見されたと伝えるもので、平成17年2005年)の一部緑釉化粧掛け白泥施された上に二彩釉三彩釉がかけられ中国南部華南三彩共通する手法見られる。なお、この作品については留瓦とする意見があるが、底部形状から否定する見方もあり結論出ていない。 現存する茶会記記録内容から天正年間宗慶を介して利休知り合った推定されるそれまで国内茶会主流であった精緻端正な中国製天目茶碗などよりも侘び風情を持つ茶道具を好む利休によって、轆轤(ろくろ)を使わず手捏ねてづくね)で成形行なう独自の工法認められ、のち注文によって茶碗納めるうになる長次郎茶碗素地は、聚楽第建設の際に掘り出された土(聚楽土)を用いていたとも伝承されており、「樂家」「楽焼」の名もこの「聚楽」から興ったと伝わる。 天正17年1589年)に死去二代長次郎(長祐)が跡を継ぐが、早世した。

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全祖望」の記事における「略伝」の解説

寧波府鄞県現在の浙江省寧波市海曙区)洞鎮沙港村出身生まれつき異常な天稟持ち14歳時に博士弟子員に選抜され16歳郷試応じその古文を査初白に認められ19歳時に天一閣登用され、そこの書物研究した1729年貢生推挙され北京おもむき侍郎方苞上書したことで知られ順天郷試あげられ侍郎李紱はその文を大い嘆賞したという。1736年博学宏詞科に推薦され、その春に進士となり、翰林院庶吉士となったが、博学宏詞の試験はふたたび受けなかった。1737年知県左遷されたので故郷にもどり、二度と官職には就かなかった。以後は病と貧困合間学究生活続け天一閣・戢山・端渓などの諸院で諸士教育努めた。後に病で逝去した。享年51

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喜多道矩」の記事における「略伝」の解説

隠元隆琦随って渡来した画人楊道真師事し黄檗画像技法学んだ。はじめ長崎隠元即非木庵頂相画き、「隠元かきの長兵衛」と称された。明暦3年2月1657年)の木庵自賛像が確認できる最も早い時期作品である。作品には「長」の印を用いている。寛文元年1661年)、隠元萬福寺晋山随って黄檗山上った。同3年没して黄檗山万松岡に葬られた。子の喜多元規黄檗画像代表的画家となった

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平沢屏山」の記事における「略伝」の解説

奥州稗貫郡大迫現在の岩手県花巻市、旧大迫町)に生まれた平沢家は裕福だったが、7歳の折に父を失って以降家産が傾いたらしく、弘化年間(1844-47年)に弟と共に函館移住し、船絵馬描いて糊口しのいだ当時屏山は、「絵馬屋の飲ンだくれ」と呼ばれたという。やがて、函館本拠とする商人福島屋こと杉浦嘉七と知り合い、後にその請負場所であった幌泉場所・十勝場所でアイヌと共に暮らしつつ、彼らの風俗描いたとされる屏山アイヌ風俗画評判となり、幕末には多数注文受けた。特に函館開港後は、在留外国人から蝦夷土産として屏山の絵を求めないものはいないほど需要があったという。トーマス・ブラキストン1枚100円という高額画工料で制作依頼し明治元年1868年)にはロシア領事依頼したが、屏山遅筆甚だしく運上屋厳談して筆を執らせたという逸話が残る。こうした事情のため、屏山晩年秀作多く海外確認されている。明治9年1876年函館没した(「過去帳」)。 アイヌ絵描いた絵師浮世絵師除いて10余り知られているが、その中で屏山作品数群を抜いている。彼の画歴はっきりせず殆ど独学とも推測されるが、画風から文晁系の諸派折衷的な表現認められるまた、アイヌ風俗表現として先行する村上島之允が描いた蝦夷島奇観』を模写して換骨奪胎した作品残っている。屏山は独自のアイヌ人描写打ち立て力作生み出した一方で粉本用いた類型的な表現や、同工異曲作品も多い。これは、屏山多数図像パターン駆使し顧客注文答えた当時典型的な町絵師だったことを物語っている。また、屏山作品には、「屏山の青」と呼ばれる合成ウルトラマリンエメラルドグリーンのように、1800年代ヨーロッパで人工的に合成され顔料用いられオムスク造形美術館にある「種痘図」「斬首図」「ウイマム図」は西洋紙描かれるなど、西洋画材取り入れた痕跡見られる弟子木村巴江など。また、開拓使函館支庁御用係の沢田雪渓という画工屏山の絵を残している。

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河野恕斎」の記事における「略伝」の解説

肥前蓮池藩儒官岡白駒の子。岡氏は旧姓河野であったので白駒は恕斎をその旧姓に復させた。四、五歳で読み書き覚え十歳詩文作り神童称された。学統ははじめ父岡白駒同じく古注学を宗としたが、後に朱子学転向した長じて備前蓮池藩仕えた。恕斎は賈誼陸賈人となり敬慕しており「儒者経世済民治国泰平為に行動する」ことを標榜していたことから、藩主鍋島直寛に「弊を救う五策」を建白した。このことが藩主の意に叶い気に入られ大坂居留守を命ぜられる。 大坂では混沌詩社参加。妻の野村氏ともに客好きでよく自宅に人を呼んで自慢料理振る舞って詩会を行った。また書を好み夫婦古法帖を臨模表装製本をよく行っていたという。社友曽之唯編集した野史詠』(天明6年)に恕斎の漢詩掲載されている。妻に先立たれ恕斎も僅か37歳没した墓所光明寺大阪市)。

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松本奉時」の記事における「略伝」の解説

本職表具師だが絵師としても活動愛しを飼うだけでは飽き足らず係る様々な物を集めの絵をよく描いた。特に水墨蝦蟇図を好み、得意としていた。同時代絵師盛んに交流江戸時代中期活躍していた伊藤若冲とも親しく若冲晩年隠居していた石峰寺訪れていたほか、若冲から影響受けた作品残されている。 奉時を代表する作品である蝦蟇図には、大きくかつ勢いのある筆致描かれた同じ構図水墨画複数存在する。これらの作品中には大阪狂詩人、畠中観斎(銅脈先生)が賛を付けているものが多くみられ、観斎と奉時の書画組み合わせが、特に好まれていたと考えられている。 奉時は、天明年間見た龍の夢を奇瑞とし、それ以降書画収集盛んに行うようになった集めた作品を「奉時清玩帖」などの画帖仕立て当代一流書家絵師文人揮毫求めて愛蔵していた。「諸名家合作松本奉時依る)」には、若冲の他に慈雲飲光日野資枝、西依成斉、中井竹山六如慈周、細合半斉、皆川淇園墨江武禅福原五岳中江杜徴森周峯圓山応瑞奥田元継、森祖仙木村蒹葭堂伊藤東所長沢芦雪月僊上田耕夫篠崎三嶋、呉春ら京、大坂豪華な顔ぶれによる寄せ書き見られる画面中央左には蒹葭堂が、謹厳とも思えるしっかりとした筆使いで「竹に」を描いている。画面左下には奉時の所蔵印が捺されている。

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呂祖謙」の記事における「略伝」の解説

祖父の呂弸中は呂本中の弟。父の呂大器は右朝散郎であった陸游渭南文集』巻32「曽文清墓誌銘」)。弟は呂祖倹。子は呂延年中国語版)(末子)ら。孫に呂似之・呂守之ら。 学者の家に生まれ之奇・汪応辰・胡憲などに学ぶ。隆興元年1163年)に進士となり、同時に博学宏詞科にも合格する太常博士国史院編修官・実録検討官となり、領土回復孝宗説き聖学について論じ、『徽宗実録』では政治について述べている。 当時出版界では『聖宋文海』という誤謬の多い官書が出回り孝宗臨安府にこの本の校正刊行命じたが、側近の周必大はその事業が困難であると説いた。だが呂祖謙仕事完成させ『皇朝文鑑』の名を賜った淳熙5年1178年)に官著作郎任命され国史院編修官を兼ねていたが、その年に54歳没する同時代張栻朱子を友とし、東南三賢並び称された。博識文辞が豊かであり、詩書春秋では古義究め十七史通じていた。朱熹対立する学説主張する陸象山とを仲介し対論させた(鵝湖の会)。 呂祖謙の家(河南呂氏)は名族として知られる呂蒙正宋王朝科挙合格者最初宰相となり、その従兄弟の子である呂夷簡仁宗朝で、その子呂公著哲宗朝で宰相至り北宋で3名の宰相輩出した呂公著の孫呂好問南宋成立期尚書右丞に至った政争失脚しその子呂本中秦檜憎まれ官僚としては不遇であった学者として名高かった。呂好問呂祖謙曾祖父呂本中大伯父祖父の兄)にあたる。呂公著旧法党中心人物であり、その子孫秦檜韓侂冑反対したことから政争巻き込まれてたびたび失脚憂き目をみた。呂祖謙進士となったが、学者として地位歴任したために失脚こそはしなかったものの正七品の地位に留まっている。その結果河南呂氏政治家・官僚家系としては衰退したものの、学者文人一族として名声を得るようになった

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程邃」の記事における「略伝」の解説

若いうちから黄道周・楊廷麟に遊学し経学考証学などを学び詩・書・画・篆刻の四芸を研鑽した。明朝では諸生として過ごす。民族意識が強い文人画家として著名で、詩に『会心吟』がある。 篆刻朱簡師法し、漢印の刻法をよく研究し考証学研究から金石文取り込み古風素朴な作風打ち立てた。特に朱文印に優れた側款草書記し重厚で力強い。文彭何震流れはすでにマンネリ化し停滞していたが、これを断ち、徽派に新風興した巴慰祖胡唐が後に続いた周亮工清標などの名士の印は程邃が作印した。程の『古蝸篆居印述』に程邃の印が模刻されている。

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ニキアス」の記事における「略伝」の解説

アテナイ名家生まれラウリオン銀山由来する遺産継承していた。民衆指導していたペリクレス対し貴族派先頭立って政治対立していたが、紀元前429年ペリクレス死後政治家首位となり後のアリストテレスからはアテナイ代表する市民一人として数えられた。民衆指導者となったクレオン政敵となるが、その用心深さ慎みによって民衆からも好意もたれたという。ニキアス政見穏健であり、クレオン好戦的な政策反対し、アテナイ有利な条件スパルタとの和平確立することを目的としていた。 ペロポネソス戦争将軍としてニキアス歴史登場するのは、離反したレスボス島アテナイ制圧した紀元前427年7月に、海軍率いてミノア島を攻略した時である。前426年の夏にはミロス島出撃タナグラの戦い勝利する。前425年8月ピュロス方面でのスパルタ勢の攻勢のさいにニキアスクレオン指揮権譲り渡すという局面もあったが、9月にはアテナイ軍が押し返しコリントス領を攻撃するのに参加している。前424年の夏、キュテーラ攻略に加わる。前423年の夏にスパルタ1年間は有効となる休戦条約加盟し儀式に加わる。その直後スパルタ将軍ブラシダスについていたメンデー市を奪回する。 紀元前421年初頭から和平交渉気運アテーナイ高まり提唱者中でもニキアスは最も積極的だった和平条約はその年の3月頃に発効し、「ニキアスの和約」と呼ばれる。 前416年アテーナイシケリア遠征企て、その6月末にニキアスアルキビアデスラマコスとともに司令官として出発するが、もともと作戦には反対であったアルキビアデスシケリア上陸前本国召還されラマコスもシュラクサイを包囲中に戦死したスパルタはシュラクサイ救援のために将軍ギュリッポス送ったアテーナイデモステネスエウリュメドン率い増援軍を派遣する。しかし、アテーナイ軍はスパルタ・コリントス・シュラクサイ連合軍壊滅的な敗戦被りエウリュメドン戦死ニキアスデモステネス投降しギュリッポス身をゆだねる捕虜7000とともにシュラクサイ近郊石切り場送られギュリッポス命令反してデモステネスニキアス処刑された。

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オースティン・オスマン・スパー」の記事における「略伝」の解説

スパー1886年12月30日ロンドン市警察官を25年勤め上げたフィリップ・ニュートン・スパーとイライザ・アデレード・オスマンの息子として、ロンドンのスミスフィールド・マーケット近くスノーヒルにて生まれた。5人兄弟姉妹4番であった母親によればスパー4歳にしてはじめてその才能兆し見せたまた、彼が自分作品を売ることにあまり乗り気でなかったことはよく知られているが、この頃からすでにその徴候があった。 1899年スパー両親は彼をランベス美術学校夜学入れた。彼はそこでフィリップ・コナードの指導の下で技を磨いた14歳のとき10ポンド州議会奨学金獲得し線画1点パリ万国博覧会英国美術部門入選した15歳のとき学校去り働き始めた短期間ポスターなどの商業アート製作する Causton's でポスターデザイン仕事をし、ホワイトフライアーズ街の James Powell & Sonsステンドグラスデザイン仕事をした)。あるステンドグラスデザインか前途有望とされた彼は推薦により無償奨学金得て王立美術学校入学、そこで正規美術教育受けた。彼がデザインし仕事仲間のトーマス・カウエルが製作したステンドグラスは現在ヴィクトリア&アルバート美術館にある。その後ほどなくして父親の強い勧め渋々ながら英国美術院出展検討材料として線画2点送った結果1点寓意画が認められた。英国美術院がわずか1617歳少年作品展示したということちょっとした話となった。この青年期においてすでにスパー自分秘教思想作り上げることに沈潜していた。 1907年10月スパーロンドンウェストエンドにあるブルートン・ギャラリーにて初め本格的な展示会開いた。この展示内容はじつに印象的で、深遠かつグロテスクでもあり、賛否両論となった。これらの要素前衛的なロンドンインテリたちの目を引きおそらくはそれによって、イギリス悪名高い登山家にして魔術師であり詩人であったアレイスター・クロウリー見出される至った。彼らの出会いがどうであれ、二人たしかに互い知っていた。彼らの交流1907年1908年頃から始まったようで、スパーからクロウリー向けられ1908年日付入り献呈辞が書き込まれ1907年版『半獣神たちの書』が、ある個人コレクション中に存在すると言われている。二人文通するようにもなった。スパーアレイスター・クロウリーとジョージ・セシル・ジョーンズによって創設された "A∴A∴"(銀の星)のプロベイショナー〔仮参入者〕となったことはほぼ確実である。スパークロウリー定期刊行物 The Equinox(『春秋分点』)に小さな線画4点寄稿しているし、クロウリー書物ローブ被り物とともに写っている1910年有名な写真同じように、両手こめかみ当てたポーズ取った若きスパー写真残っている。 クロウリースパー間柄どのような性質のものであったにせよ、その関係は長くは続かなかったようで、スパーの『快楽の書』の一節から、彼が儀式魔術英語版)や魔術師らを好意的に見ていなかったことは疑い余地がないまた、スパー性魔術日本花瓶直系9cmを利用したという話をZos Speaks!!から黒野忍は引用し、またスパー本人クロウリー法の書に対して嫌悪感持ちスパー法の書を書くとケネス・グランドに述べていることを紹介した。 「またある者らは儀式魔術賛美する。彼らは耐えきれぬほどの法悦享受していると思われいるようだ!われらが精神病院には人がたむろし舞台には人が溢れ返っている!われわれが象徴的存在となる、それはたんに象徴化するがゆえにだろう?自分自分王位即けるとするなら、わたしは王となるだろうか?むしろ嫌悪憐れみ対象となるはずだ。これら魔術師なる者たち、その不実さは彼らの無難さだ、売春宿出入りする無為徒食スカシ野郎にすぎない。」 1911年12月4日スパー女優ダンサーのアイリー・ガートルード・ショーと結婚した二人何年前に出会っていた。スパー作品に彼女が及ぼした影響いかばかりであったにせよ、正式に離婚することはなかったものの結婚生活長続きしなかった。二人1918年1919年頃に別れた。「画家とその妻の肖像1912年3月26日 AOS」と署名日付入り記されスパー作品知られている。色チョーク鉛筆仕上げられスパー頭部がそこに見られる。ほんの数本のおぼろな描線仕上げられ片方の側には、俯きかげんに頭を傾げ目を閉じた秀麗な女性の顔を見ることができる。 1913年秋、スパーは『快楽の書』を自費出版した。この本は彼の秘教思想全面的な開陳となった第一次世界大戦中1917年スパー英国陸軍徴用され、英軍医療部隊衛生兵としてロンドン病院働き1919年には公式の戦争画家任命された。この資格をもって彼はフランス戦場訪れ英国軍部隊働き記録した遅くとも1927年にはスパー現代社会への嫌悪露わにした態度を取るようになっていた。彼が戦争おぞましさの情景記録して過ごした年月その後経済的安定時期事業の失敗、それに加えて彼の作品思想がたびたび酷評されたこと、そうしたことどもが彼をかかる心境へと追い込んだのかもしれない原因何であれスパー嫌悪同年出版された『ゾスの詛〔のろ〕い-偽善者たちへの説教』にはっきりと表現されている。これが彼の最後出版物となる。 「犬たちよ、自分嘔吐したものを貪り食うがいい!おまえたちみな詛いあれ!後ろ向きな者たち、姦夫たち、おべっか者たち、屍体食い物にする者たち、こそ泥たち、薬漬けの者たちよ!天国病院と言ったおまえたち信じるか?」 イギリスジャーナリスト、ハネン・スワッファーの伝えところによると、1936年スパー国際的な名声を得る機会があったがこれを固辞した一人ドイツ大使館員がスパー自画像1点購入してヒトラー送ったと彼は言う。スワッファーによれば総統はいたく感銘を受け(この記事によれば、目と口髭ヒトラーのものにどことなく似ていたためである)、自分肖像を描かせるべくスパー招待したスパー代わりにその複製一枚作り、それはスワッファーの所有するところとなった。スワッファーの述べるに、スパーが「ヨーロッパ征服し人類支配することを望んだ男へ送った返答肖像画の上部に記されていた。その返答次のように読めるものであった。 「否定側立場からのみ、あなたのことを考えるに心穏やかでいられるのです。あなたの野望最終目標我慢できるほど自分忍耐強くないからです。あなたが超人だというのなら、わたしを永遠に動物のままでいさせて下さい。」 このエピソードは、かつて流布し今も伝えられているスパーをめぐる数々の噺の中では、とびきり信じがたいものの内に入らないスパーその人生についてはいくつものの逸話語られてきた。魔術的現象について述べたものや、占いもしくは予知的中魔法具現化といったものが多い。こうした物語の真相についてはさまざまな見解あり得るが、いずれにせよそれらはスパー自らが主張したこととすっかり整合しているということは言っておかねばならない1941年焼夷弾スパーアトリエ自宅フラット全壊させ、彼から住処と健康と道具とを奪った両腕使えるうになるまでの3年間の苦闘の末、ようやく1946年ブリクストン狭苦しい地下室ではぐれ猫たち囲まれながら絵画製作を再開したその時の彼はベッドもなく、古い軍用シャツぼろぼろジャケット着て作業していた。それでもなお彼は一枚の絵につき平均5ポンドほどしか金を取らなかった。 1956年5月15日ロンドンにて彼は死去した69歳であった

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荒木如元」の記事における「略伝」の解説

一ノ瀬氏に生まれたが、荒木元融養子となり荒木改姓元融を師として画を学び養子融思からガラス絵の技を嬉々として学んだ分限帳によると天明元年1781年)から同7年1787年)の間に、融思が石崎家の家督を継ぐことになったため、急遽荒木家3代当主として唐絵目利職を引き継ぐひたすら本格的な洋画制作傾注したという。しかし、寛政3年1791年)までに、理由不詳ながら短い期間で荒木家家督後継譲って一ノ瀬姓に復す。 自らは町絵師となって洋画制作励み長崎版画下絵ガラス絵付などで生計をたてた。蹄斎北馬描いた狂歌摺物紅毛男女額絵」(1枚神戸市立博物館)の画中ガラス絵下辺には「ARAKI ZEZURO」とあり、如元によるガラス絵江戸にまで知られていたことがわかる。 今紺屋町にて没する享年60墓所海雲晧台寺後山法名安山了養信士

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前田錦楓」の記事における「略伝」の解説

江戸浅草田島町現・東京都台東区西浅草)で薬種商を営む浅間栄七の次女として生まれる。本名浅間理恵(里ゑ)。1876年明治6年11歳で、洋画亀井至一亀井二郎入門し洋画を学ぶ。10代石版画画工として作品を遺し、1881年明治14年)の第2回内国勧業博覧会では浅間里ゑの名で油絵婦人半身の図」を出品している。1883年明治16年21歳より日本画転じ、容斎派の歴史画松本楓湖入門し日本画基礎学び、この湖より雅号「錦」を授与された。今村紫紅速水御舟らを育てた優れた教育者でもある湖は錦資質見抜き、「もうこれ以上教えことはなにもない」と、錦23歳のころ、明治18年には狩野派巨匠狩野芳崖への入門勧めた。それを契機に、芳崖、岡倉覚三天心)、フェノロサ橋本雅邦らに巡り会い日本画壇「鑑画会」で頭角顕し近代日本画の女流の魁としての道を切り開いた。書は明治16年頃から高橋泥舟から学び明治17年18年頃からは泥舟義弟山岡鉄舟にも就いている。明治19年第2回鑑画会大会では「花鳥」が賞状得ており、同年4月東洋絵画共進会にも出品三等褒状受けている。 1887年明治20年速念寺名古屋市中川区)の住職前田學に嫁し名古屋移住1888年明治21年10月鑑画会関る銀地鏡縁打出模様図案会にはフェノロサ岡倉天心審査員加わりビゲロー賞が設けられは「ツナギ」の図案出品一等賞獲得する。その翌11月狩野芳崖没した後は橋本雅邦に就き研鑽重ね、雅邦、永邦、静水らと交友洋画日本画との調和努め至心に自然の美を表現して女性らしい絵画世界展開した。また錦師友にも恵まれ維新三舟といわれる高橋泥舟山岡鉄舟前田學らに書や詩文学び高い精神性にも精通した1889年明治22年1月2回目ビゲロー賞がかかった銀地模様図案会において岡倉秋水とともに二等となった一方この年8月日本美術協会通常会員となり、同協会研究会展覧会にも花鳥画作品出品しており、行幸の際には川端玉章高橋応真とともに御席画を描くほどとなった。また1890年明治23年)の第3回内国勧業博覧会には「菊花図」を出品三等妙技賞を受け門下生画技指導もする充実した制作活動展開した1891年明治24年10月濃尾大震災襲われてからは倒壊した速念寺復興尽力することとなった1896年明治29年)に天心結成した日本絵画協会第1回絵画共進会に「秋草図」を出品三等褒状受賞パリ万国博覧会には「総洗朱浦千鳥蒔絵書棚図案」を出品して活躍している。ただ、1907年明治40年以降文展などの展覧会には出品していない。1913年大正2年)に錦創作活動理解者であった夫が死去するそれ以降寺院経営奔走する制作量は減って入った晩年まで絵筆をすてることはなかった。享年83文化功労者前田惠學、および東京大学名誉教授前田專學祖母

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李成桂」の記事における「略伝」の解説

1335年李成桂双城総管府咸州咸鏡南道咸興市)で李子春永興崔氏(中国山東半島登州人で咸鏡道移住していた懿恵王后の子として生まれた

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陳豫鐘」の記事における「略伝」の解説

詩・書・画・篆刻巧みであった金石文字に精通していたので大篆小篆ともに古来書法則っている。篆刻丁敬宗とし、その師法忠実に守った印款緻密な細字用いて秀でた当時陳鴻寿と「二陳」と称揚された。

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下村観山」の記事における「略伝」の解説

1873年明治6年)、和歌山県和歌山市小松原通5丁目に、代々紀州藩仕え小鼓方幸流能楽師の3男として生まれる。1881年明治14年8歳のとき、一家東京へ移住。父は篆刻輸出象牙彫刻を生業とし、兄2人も後に豊山栄山名乗る彫刻家となった観山祖父友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受ける。常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山託す観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けたとされ、1883年明治16年観山10歳の頃にはもう使用していたとされる1886年明治19年)芳崖が制作忙しくなると、親友である橋本雅邦紹介して師事させる。1889年明治22年東京美術学校(現・東京藝術大学)に第一期生として入学卒業後は同校教えていたが、1898年岡倉覚三天心)が野に下ったときに行動を共にし横山大観菱田春草とともに日本美術院創設参加した1903年2月21日文部省留学生として渡英のため横浜出航12月10日帰国1906年天心日本美術院茨城県北部五浦海岸移した際、大観春草木村武山とともに同地移住し画業深めた1917年6月11日帝室技芸員となる。1930年 死去

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王累」の記事における「略伝」の解説

劉璋忠実な家臣で、その才能認められ従事任じられた。 211年劉璋張魯対抗するため、劉備益州に招こうとした時、城門自分身体逆さ吊りにして諫言した。しかし、劉璋彼の言葉受け入れなかったため、王累は縄を解いて門前で首を掻き切って自決し反対意志貫いたこのため『華陽国志』では、彼のことを「忠烈公、従事王累」と崇められている。 小説『三国志演義』第六十回でも、逆さ吊りとなって劉璋諫めるが、聞き容れられなかったため、大いに叫ぶこと一声、自ら縄を切って地面落下死している。

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横山華山」の記事における「略伝」の解説

名は暉三、または一章、字(あざな)は舜朗。通称主馬中国名風に黄華山」と署名する例もある。京都出身越前出身説あり)。福井藩松平家藩医の家に生まれる。白井華陽著『画乗要略によれば若い頃は家が貧しく生計立てるため、北野天満宮砂絵描いてその日暮らしをしていたという。西陣織業を営む横山家分家横山惟馨の養子となり、本家支援した曾我蕭白私淑始め養父の師である狩野派絵師江村春甫や村上東洲についたとされるが、直接師事した形跡はなく、養父惟馨から学んだ推測される長じて岸駒師事、のちに円山応挙四条派呉春影響受けた一般に絵師晩年になると筆力衰えとされるが、華山例外最晩年に至るまで雄渾大作を手がけている。 本画以外にも、俳諧摺物も手がけている。文化5年1808年)「華洛一覧図」(木版一枚摺)を出版鍬形蕙斎の一覧図に影響与えた。この逸話から華山鳥瞰図創始者と言われる近年の研究ではこれに否定的であるが、当時江戸で華山そのように思われていたのも確かである。また斎藤月岑交流があり、月岑から『東都歳事記』の校訂頼まれている。酒好きだったらしく、古い書画辞典などでは華山は常に詫び状懐中入れ酒席失敗するとそれに署名しその場席画描いて詫び状と共に相手渡したという逸話載っている(『画家逸事談』)。 享年54もしくは57)。墓所京都市上京区瑞雲院

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玉隠英璵」の記事における「略伝」の解説

信濃国東部武家滋野氏出身と言われている。鎌倉禅興寺明月院の器庵僧璉に学びその後継者として同院宗猷庵に居住した応仁の乱後鎌倉五山代表する文人として知られ漢詩や書に優れたまた、太田道灌親交厚く道灌通じて万里集九とも親しくした。文明18年1486年)に万里集九鎌倉訪れた際には、玉隠の宗猷庵を宿所としている。延徳3年1491年)に行われた金沢文庫検査封鍼の際に立会人務め明応7年1498年)には将軍足利義高によって建長寺164住持に任ぜられた。後に明月院退いて禅興寺再建尽くしたまた、安房国里見義豊若年ながらその器量高く評価して親交深めた大永4年1524年)に93歳の高齢示寂。後に朝廷より「宗猷大光禅師」の諡号贈られた。 明月院宗猷庵に墓所があり、生前玉隠自讃記され肖像画明月院のこされている他、玉隠作成による建長寺所蔵西来庵修造勧進状浄智寺所蔵西来庵修造勧進状はともに重要文化財指定されている。前者勧進帳には、パスパ文字で「玉隠」の音を表記した落款が捺されており、玉隠海外関心への高さを物語っている。また、晩年まで自身言行記した玉隠和尚語録』を遺し、東京大学史料編纂所には『文明明応年間関東禅林詩文抄録』という仮題付けられ手稿本所蔵されている。更に親交のあった画僧賢江祥啓の「巣雪斎図」(静嘉堂文庫美術館所蔵重要美術品)や「喜江禅師像」(建長寺所蔵重要文化財)に画賛記し、また雪舟等楊の「漁斎図」(根津美術館所蔵)にも画賛記している。

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土佐光起」の記事における「略伝」の解説

寛永11年1634年18歳で父に従い京都移り承応3年1654年38歳従五位下左近衛将監叙任されるが、この時に永禄12年1569年)の土佐光元戦死以来失われた朝廷絵所預職に85年ぶりに復帰した考えられる。この職を取り戻すのは土佐家の悲願であり、光起を「土佐家中興の祖」と呼ぶのもこれ故である。同年からの承応京都御所造営では如慶と共に参加し襖絵杉戸絵を制作した後水尾天皇覚えめでたく、光起は改め自邸絵所称号勅許され、「勅許画院」の印象用いるのを許可された。のちの延宝9年1681年息子光成絵所預の職を譲り5月29日法橋となり剃髪法名を常昭とし、春可軒と号す。貞享2年1685年)には法眼となった元禄4年1691年)、京都で没。享年75法名寿光院霊誉常照居士墓所知恩寺容貌祖父土佐光吉似ていたといい、子の光成による肖像画が残る(京都国立博物館)。 大和絵主流だった土佐派あきたらずライバル狩野派宋元画学び従来温雅なやまと絵に克明な写生描法取り入れ江戸時代土佐派様式確立した。特に南宋院体画李安忠の「図」(国宝。現在は根津美術館)を父譲り細密描法用いてしばしば描き、後の土佐派絵師たちに描き継がれている。江戸中期国学者有職故実家である橋本経亮は著書梅窓筆記』(享和元年1801年))で、光起のの絵に飛びかかったという伝承記している。また画題の面でも、風俗画草木図などそれまで土佐派が描かなかった題材取り上げ清新な画風作り出し土佐派再興成功した

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中江丑吉」の記事における「略伝」の解説

中江兆民長男として大阪生まれた小石川竹早小学校旧制早稲田中学校旧制第七高等学校造士館経て1913年東京帝国大学法学部政治学科卒業する翌年8月袁世凱憲法制定顧問となった有賀長雄博士助手として北京赴く。これは当時官界にあった曹汝霖章宗祥日本留学中に中江家寄寓していたという機縁よるものである。期限満了した1915年夏に日本帰り数ヶ月後に再び中国渡り30年にわたる北京での生活を始める。1919年五四運動のさい曹汝霖章宗祥救出し、その前後から中国思想研究に励む。 1925年から「中国古代政治思想史第一巻」、「衛鞅の商邑と張儀の商於とに就いて」「中国封建制度に就いて」「商書般庚に就いて」「公羊傳及び公羊學に就いて」「書廿九篇に関する私見に就いて」の論文次々発表された。『順天時報』紙に時評書いたこともあるが、主に西園寺公望南満州鉄道庇護を受ける他はほとんど門外出ず在留邦人の間では奇人噂されていた。1935年初めに突然北京引き上げ1ヶ月満たない東京での生活の後に北京舞い戻ることがあったが、「書廿九編」の続編である「洛誥系統諸篇を論ず」を未完成のままにして、以後中国学に関する論文を自ら発表することはなかった。 潜行中の片山潜佐野学をかくまい、中国革命協力者鈴江言一学習助けたりはするが、自らはカントヘーゲルカール・マルクスマックス・ウェーバー原書繰り返し読み直すという厳し日課行い専門分野では小島祐馬京都帝国大学教授)に認められていた。1937年盧溝橋事件知り、この紛争日華事変)が、やがて「世界戦争序曲となると断定し知り合い今田新太郎中佐対中戦争遂行失敗すべきことを説き拡大防止するよう勧告したという。 太平洋戦争大東亜戦争)中は近衛文麿首相岡村寧次総司令官招きにも応ぜず日独枢軸側の必敗を確信し周囲人々にも憚りなく公言したために北京憲兵隊には「聖戦白眼視するスネモノ」としてマークされていた。重度肺結核診断され1942年5月帰国し九州大学病院入院し同年夏に死去妻子はなく、中江家断絶することとなった

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略伝

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桑名鉄城」の記事における「略伝」の解説

幼時のころ郷儒小西有義に素読と書習い、のち遠江山岡鉄舟剣術学んだ。さらに金沢行って北方心泉に篆法金石学授けられた。いったん京都出たが、明治30年頃に渡して趙之謙徐三庚呉昌碩の刻法を身につけて帰国円山大迂とともに京における新作風の大家称された。印譜に『九室印存』・『天香閣印存』がある。 巖谷一六江馬天江永坂石埭・田能村直入富岡鉄斎文人交遊した。

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帆足杏雨」の記事における「略伝」の解説

豊後国大分郡戸次村現在の大分県大分市)の庄屋の四男として生まれる。帆足家は江戸期通じて臼杵藩戸次市組の大庄屋務めた領内でも有数豪農で、庄屋としての公務傍ら造酒業で家産成した。父統度と長兄は、俳諧たしなみ書画収蔵家で知られ居宅田能村竹田が度々出入していた。このような芸文的な雰囲気の中で育ち15歳時に竹田画塾竹田荘に入門経学広瀬淡窓咸宜園門戸叩き帆足万里にも学んだ19歳のとき同門高橋草坪大坂に赴き、翌年には上洛。「富春館」を構え、師の田能村竹田のほか、頼山陽篠崎小竹浦上春琴らと交遊天保元年1830年)、21歳のとき竹田伴われ京都から豊前大含訪ね、墨竹図を指南された。翌年3月頃に京都医師小石元瑞の用拙居に寓居貫名海屋岡田半江中林竹洞らと出会う7月にはいったん帰国翌年6月大坂で師竹田死没天保9年1838年)、九州各地遊歴し長崎では鉄翁祖門木下逸雲・来舶清人陳逸舟らと画論交えた表立って国事奔走することはなかったが、の甥に当たる勤王志士で後に初代岩手県知事となる島惟精美濃大垣藩家老小原鉄心など尊皇攘夷思想を持つ人物交流した明治10年(1877)、68歳のとき、薩軍峠へ侵攻してきた当時製作した紙本淡彩山水幅「嶺図」(文人画研究会)が現存し西南戦争進路裏付ける史料となっている。70歳の冬に右目を失明する画作続け75歳没した門弟小栗布岳 (小栗憲一) ・加納甲斐虎山などがいる。影響受けた画人多く、大分の文人画豊後南画)の盛況貢献した竹田画風徹底的に倣いその上で元末四大家黄公望や明の唐寅浙派作品師法し、50以降雅意満ちた独自の様式形成した

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谷口藍田」の記事における「略伝」の解説

医師三宅省蔭の二男佐賀藩谷口寛平の息子、母は儒学者清水龍門の姉・縫。天保11年1840年)、英彦山玉蔵坊に易経学び、また広瀬淡窓咸宜園入って塾頭務める。この期間に大村益次郎藍田教え受けたという。天保14年1843年)、江戸出て羽倉簡堂入門し佐藤一斎佐久間象山坪井信道伊東玄朴らと交流した高野山京都では仏典の研究にも当たった嘉永元年1848年)、佐賀藩校・弘道館入り草場佩川武富圯南に学び江藤新平副島種臣らと交流した嘉永4年1851年)、私塾を開く。長崎訪れた際に大隈重信らと王政復古運動にも関与したり、グイド・フルベッキ対面するなどした。明治2年1869年)、鹿島藩鍋島直彬招聘され藩校弘文館教授、および藩の大参事務めたその後沖縄熊本・大阪などの各地経書講義行ない、また明治26年1893年)には北白川宮能久親王招きを受け、宮家子弟教育行なった明治29年1896年)、東京私塾藍田書院開いた明治35年1902年11月14日麹町相模屋入浴後に脳溢血倒れ死去明治44年1911年)、正五位追贈された。

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翁方綱」の記事における「略伝」の解説

1752年19歳進士及第し翰林院に入る。各省提督学政歴任後、内閣学士就任多く俊英育て銭大昕黄易らと交流する経学史学文学詳しく詩論肌理説を唱道した。文壇大御所として君臨し当時北京赴いた碑学派鄧石如排除した碑文法帖考証学研究多く優れた業績を残す。 書はすべての書体優れ、劉墉・同書王文治らと帖学派四大家称揚される。

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細合半斎」の記事における「略伝」の解説

書は松花堂昭乗流れを汲む滝本流私淑し、のちにこの流派中興の祖とされた。京都から大坂転居し甘谷門下となる。 詩文結社混沌詩社加わり多く文人墨客交わった木村蒹葭堂婚姻のとき媒酌人務めている。私塾である学半塾を主催し門下篆刻家曽谷学川画家桑山玉洲などが育つ。 また半斎江嶋庄六あるいは細合八郎衛門の名で書肆として活躍同じく書肆藤屋弥兵衛親交する。滝本流啓蒙為に男山栞』・『滝本栞』などの法帖出版に力を注いだ篆刻嗜み安永8年1779年)には息子の長庵の編集により『半斎百信』が出版された。 享年79

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池田政保」の記事における「略伝」の解説

第9代鴨方藩主で岡山藩第10代藩主となった池田章政(政詮)の長男正室池田慶政の娘、継室戸田氏良娘。養子池田政鋹(弟・詮政の次男)。官位従五位幼名満次郎慶応4年1868年3月15日、父・章政が宗家岡山藩継承したため、その跡を受けて幼くして鴨方藩主となる。明治2年1869年)の版籍奉還藩知事となり、明治4年1871年)の廃藩置県免官され、9月東京へ移った明治17年1884年7月には華族令より子爵となる。 昭和14年1939年2月10日、満74歳死去した法名高雲院。

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江幡広光」の記事における「略伝」の解説

水戸藩士・江幡矩美の長男文久3年1863年)、水戸藩主徳川慶篤の上洛に随行水戸藩一橋家警衛世話役として京に滞在し禁門守衛する。 当時公武合体派諸侯中心人物一橋慶喜であり、その仲介実行役で攘夷派駆逐しよう図っていたのが一橋家家老平岡円四郎見られていた。元治元年6月16日林忠五郎数名とともに平岡京都町奉行所与力長屋千本組屋敷)外で斬殺した。 平岡即死だったが、一橋家使役家人川村恵十郎により、林忠五郎とともに殺された。広光は重傷負ったのち自害したといわれる

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秋月種殷」の記事における「略伝」の解説

天保14年1843年8月21日、種任から家督譲られ当主となる。治世30年に及び、教育振興尽力した文久元年11月1日1861年12月2日)に弟の種事を高鍋藩家老上席とする。また、文久3年6月26日1863年)に弟の種嗣子とした。 明治2年1869年)の版籍奉還後は高鍋藩知事となり、明治4年1871年)に廃藩置県が行われて高鍋藩終焉迎え美々津県合併される男子がなかったため、弟で養嗣子の種家督継いだ明治7年1874年)、58歳で没した大正4年1915年)、従四位追贈された。

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高久靄厓」の記事における「略伝」の解説

厓は、幼少の頃より画才片鱗を示し8歳頃に画いた天神像の板木残されている。馬方煙草職人をする傍ら18歳黒羽藩画員の小泉斐入門続いて郷里壬生藩御用絵師平出に就いて書画を学ぶ。その後下野鹿沼移り池大雅伊孚九私淑し文人画独学した。やがて鹿沼儒医松本松亭画才認められ、その親族である鈴木水雲大谷山口安良、柿沼廣運らの庇護を受ける。支援者勧められ仙台遊歴すると、ここでも仙台藩一条正道庇護を受ける。このほかにも葛生吉澤堂・佐野須藤圃、古賀志北條翠峨らが支援者となっている。 文政6年1823年27歳のときついに江戸に出ると、鹿沼支援者たち縁戚にあたる菊池淡雅から惜しみない援助得られた。淡雅とは豪商佐野屋のことで、文雅好み書画の大コレクターで、谷文晁立原杏所渡辺崋山巻菱湖大窪詩仏らと交友し、江戸文人パトロンとして聞こえていた。 江戸で画家として評判高かったが、気位高く儲けのために画くことがなかったので生活は貧窮した。淡雅のはからい谷文晁画塾写山楼門下となり、文晁弟子厓の絵を売り出したという。弟子思い文晁らしい行動だが、それほど画の力量があった。同門安西雲烟書画和泉屋虎吉)、相沢石湖、大竹将塘らと借家を「梁山泊」として画業続けた文晁高弟のひとりと目されたが南北合派と肌が合わず笑社(のちに真社と改名)の浦上春琴山本梅逸花鳥画学び池大雅傾倒する。さらに中国元明の南宗画家である沈石田呉鎮深く研究した南宗画探求のために北陸東北など各地盛んに旅し古書画の調査模写盛んに行っている。特に仙台三度訪ねている。40歳念願京阪向かい細川林谷岡田半江らと交友その後伊勢桑名旅する天保8年1837年42歳のとき、それまで鹿沼拠点をもって行き来繰り返したが、江戸永住決意する同門渡辺崋山蛮社の獄投獄されたとき、椿椿山とともに救出尽力したという。 天保14年1843年4月8日江戸両国薬研堀アトリエ晩成山房急逝享年48死因脳溢血肺病とされる葬儀菊池淡雅大橋訥庵取り仕切り未亡人助けた養子高久隆古後継となった谷中台東区谷中4)の天龍院厓の墓がある。

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大久保満寿子」の記事における「略伝」の解説

安政4年1857年暮れ利通27歳時に結婚利通藩主側近として京都鹿児島行き来する間、満寿は鹿児島で家を守った明治維新後も鹿児島暮らしていたが、盟友であった西郷隆盛との対立表面化し以降大久保家立場厳しくなり、明治7年1874年)に上京し利通と暮らすようになる明治11年1878年5月利通紀尾井坂の変暗殺される。満寿は体調崩して病床につき、半年後の12月死去した。『明治天皇記』では12月6日死去し9日葬儀宮中から勅使差し遣わされたとする死亡日は17日とする年譜もある。 夫・利通と共に青山墓地葬られた。

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穂波半太郎」の記事における「略伝」の解説

福岡藩馬廻り600石喜多村家の出身で、喜多村家が穂波郡に住む際に、穂波名乗り、名を幼名重四郎から半太郎改めた幕末には筑前勤王党一員で、明治4年撮影写真残っている。 秋月の乱際し元福岡藩士県令招集され派遣にあたって官職を必要としたため、この時初め一時的な便宜上、「福岡県警部」となった現場派遣され穂波出陣様子偵察していた所を反乱軍発見され捕らえられた。明元寺(朝倉市千手)の隊列前に引き出され後ろ手捕縛されひざまづかされる元福岡藩士である事を名乗ると、首領今村百八郎佐賀の乱福岡藩士江藤新平討伐向かった事などを詰問し穂波同志なるが故協議のために来たと弁明するが、今村は刀を抜き穂波が「しばらく、しばらく」と逃げようとしたところを斬殺された。29歳。 「首の皮一枚垂れ下がった頭をゆらせながら穂波身体2,3メートル歩いて倒れた」との目撃証言が明元寺に伝わる。 穂波を斬ったのは今村弟・宮崎哲之介ともされる今村はのちの供述では、「一刀斬りつけ候処、逃げさんとする壮年兵士数人にて惨殺した」と述べている。 穂波秋月藩内の対立暗殺され臼井亘理の妻・清子の甥にあたり今村百八郎亘理暗殺者であった。 明元寺に穂波半太郎殉職の跡、朝倉警察署管内慰霊碑がある。

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島崎雲圃」の記事における「略伝」の解説

島﨑家は近江国日野(現・滋賀県蒲生郡日野町)の出身で、島﨑左衛門長男利兵衛が、下野国茂木(現・栃木県芳賀郡茂木町)に酒造業興したことに始まる。その当主代々利兵衛」と名乗ったが、その三代目利兵衛が圃である。日野高田敬輔師事し絵画学んだ圃の作品は、茂木島﨑家を中心に滋賀県内(日野町野洲市)に伝えられている。絵画のほかには、刀剣を非常に好み、刀の真偽鑑定よくしたとも伝えられている。また天明4年1784年)、日野町地蔵堂近くから湧出する湧水通称若草清水」)の直ぐ傍に、これは蒲生氏郷煎茶点てるために用いた由緒あるである旨を記した碑文建てている。圃の没後水戸にいた友人立原翠軒は、日野川原田墓地に「島﨑翁墓喝銘並序」と題し圃の生涯記した石碑建てた。現在は、日野町大窪霊園島﨑家の墓所の脇に移設されている。 圃の技法特筆すべきは、没骨もっこつ)法である。輪郭線を用いず水墨彩色によって制作する方法で、圃はこれを人物画応用する努力重ねた弟子には下野活躍した小泉斐や伸山操らがいる。小泉斐弟子である島﨑玉淵は、七左衛門次男仙右衛門を祖とする遠縁にあたる。圃から数えて七代の子孫が島﨑泉治商店営んでいるほか、圃の孫に当たる代から分家し子孫が、栃木県那須烏山市島崎酒造営んでいる(外部リンク参照)。

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紫式部」の記事における「略伝」の解説

藤原北家門流越後守藤原為時の娘で、母は摂津守・藤原為信女であるが、幼少期に母を亡くしたとされる同母兄弟藤原惟規がいる(同人生年不明であり、式部とどちらが年長かについては両説存在する)ほか、姉がいたこともわかっている。三条右大臣藤原定方堤中納言藤原兼輔はともに父方曾祖父で、一族には文辞以って聞こえた人が多い。 幼少の頃より当時女性求められる上の才能漢文読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』宮仕え中の日記紫式部日記』を著したというのが通説で、和歌集紫式部集』が伝わっている。 父・為時は30代東宮読書役始めとして東宮花山天皇になると蔵人式部大丞出世したが、花山天皇出家する散位となる(位禄はある)。10年後、一条天皇に詩を奉じ結果越前国受領となる。紫式部娘時代の約2年を父の任国で過ごす。 長徳4年998年)頃、親子ほども年の差があり、又従兄妹でもある山城守藤原宣孝結婚して長保元年999年)に一女藤原賢子大弐三位)を儲けた。この結婚生活長く続かず間もなく長保3年4月15日1001年5月10日)に宣孝と死別した寛弘2年12月29日1006年1月31日)、もしくは寛弘3年同日1007年1月20日)より、一条天皇中宮・彰子藤原道長長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼(現代でいえば)家庭教師役として仕え少なくとも寛弘8年1012年)頃まで奉仕し続けたようである。 なおこれに先立ち永延元年987年)の藤原道長源倫子結婚の際に、倫子付き女房として出仕した可能性指摘されている。『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書今鏡』には紫式部経歴として倫子付き女房であったことが記されている。それらは伝承の類であり信憑性には乏しいが、他にも『紫式部日記』からうかがえる新参女房対するものとは思えぬ道長倫子からの格別な信頼配慮があること、永延元年当時は為時が散位であったこと、倫子紫式部はいずれ曽祖父藤原定方持ち遠縁に当たることなどが挙げられる。また女房名からも、為時が式部丞だった時期彰子への出仕20年も前であり、さらにその間越前国国司任じられているため、寛弘2年初出仕したのであれば父の任国越前」や亡夫任国役職の「山城」「右衛門権佐にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期寛弘2年以前であるという説である。 『詞花集』に収められ伊勢大輔の「いにしへ奈良の都八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌宮廷献上され八重桜受け取り中宮奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集によればこの役目当初紫式部役目だったものを式部新参大輔譲ったのだった藤原実資日記小右記長和2年5月25日1014年6月25日)条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守時女』なる女房取り次ぎ役を務めた」旨の記述紫式部残され最後のものとし、よって三条天皇長和年間1012年 - 1016年)に没したとするのが昭和40年代までの通説だったが、現在では、『小右記寛仁3年正月5日1019年2月18日)条で、実資に応対した女房」を紫式部本人認め、さらに、西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文に「おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…」とある詞書和歌を、岡一男説の『頼宗集』の逸文ではなく、『定頼集』の逸文推定し、この直後死亡したとする萩谷朴説、今井源衛説が存在する。 現在、日本銀行券D号券2000円札の裏には小さな肖像画と『源氏物語絵巻』の一部使用している。

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細井九皋」の記事における「略伝」の解説

細井広沢の子書家生業とし、広沢名声継承した著書に『墨道私言』がある。また篆刻巧みで、明の何震師法したとされる明清卑俗な装飾趣味陥った印風を嫌った印譜広沢と共に作成した奇勝印譜』がある。墓所東京都世田谷区等々力の致航山感応院満願寺にある。

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中西石焦」の記事における「略伝」の解説

安永年間浪華住んでいた。尾張藩仕える。岡田米山人交流があった。印譜に『諸名公名譜』。他に『石焦遺稿』がある。享年75墓所天満竜海寺

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円山応震」の記事における「略伝」の解説

円山応挙次男木下応受の子として生まれるが、後に伯父円山応瑞養子となる。姉小路室町東入に住んだ祇園祭郭巨山見送「唐山水仙人図綴織」(文化13年1816年))や、月鉾水引「双霊獣刺繍」(天保6年1835年)の下絵書いたと言われる。画域は広く人物山水花鳥を得意としたというが反面粉本主義弊害指摘されている。 墓所応挙応瑞と同じ悟真寺。応震には子がなく、円山応立養子として4代目とした。弟子に、応震の妹の子国井応文など。

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石崎光瑤」の記事における「略伝」の解説

富山県西礪波郡福光町現在の南砺市)で、素封家石崎和善の五男として生まれる。本名石崎四一石崎家は和泉屋屋号本業麻布業だったが、江戸時代から蔵宿業を営み町役人務めた豪商だった。幼少より画才があり、明治29年1896年12歳東京から金沢移り住んだ琳派絵師山本光一師事する。光瑤の「光」は師から貰っており、この頃の光瑤は福光金沢近郊写生し廻ったという。これに飽き足らなくなると、師の薦めもあって同36年1903年19歳京都竹内栖鳳門に入る新古美術品展で受賞重ねるなか、明治42年1909年吉田孫四郎河合良成野村義重ら4人と、ガイド宇治長次郎らの案内で、民間人として初め剱岳登頂成功する初登頂柴崎芳太郎)。 大正元年1912年第6回文展に《薫園》が初入選、以後文展帝展出品続ける。大正5年1916年)から翌年にかけてインド旅行ヒマラヤ山脈登った後、アジャンター石窟群エローラ石窟群などの古蹟を巡る。帰国後に第12回文展出品した熱国妍春》と、翌年第1回帝展の《燦》が特選となり、無監査となる。大正111922年11月から翌年にかけてにはヨーロッパ外遊している。 その後帝展出品続け大正14年(1925年)から昭和20年(1945年)まで京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教員務めた昭和8年1933年高野山金剛峯寺から障壁画制作依頼を受け再度インド行きヒマラヤ山脈登り帰国貴賓室に襖40枚に及ぶ大作制作している。昭和17年1942年)に師の竹内栖鳳亡くなると、石崎画塾開いて後進育成務めた。しかし、昭和21年1946年脳溢血倒れ床に伏すようになり、翌年死去した享年62。 なお、光瑤の次男石崎宏矩は父が写生のため集めた昆虫標本に魅せられ、昆虫ホルモン等を研究して学士院賞受賞した名古屋大学名誉教授地元南砺市立福光美術館では、光瑤の作品を約660収蔵しており、専用展示室にて展示されている。

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中川久昭」の記事における「略伝」の解説

文政3年1820年4月4日伊勢津藩主・藤堂高兌次男として生まれる。天保11年1840年12月6日、第11藩主中川久教死去により久教の養女栄子婿養子として跡を継ぎ同年12月28日には従五位下修理大夫叙任された。 幕末の動乱の中で岡藩尊王派勢力大きかったが、親徳川家藤堂家から養子として入った久昭は天保12年1841年)に柳井次郎小河一敏尊王思想家を岡藩中枢から排斥した(岡藩七人衆の変)。後に小河真木保臣らと結託して寺田屋騒動にも関与し、久昭に対して尊王訴えたが、久昭は動乱傍観するのみにとどまったまた、藩でも大火風雨による被害が相次ぎ、藩財政困窮した慶応4年1868年3月11日上洛した。明治2年1869年2月18日駿府への派兵の遅れから謹慎命じられた。同年6月19日版籍奉還行い知藩事就任した同年9月23日隠居し長男久成家督譲った明治22年1889年11月30日死去した享年70

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略伝

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大須賀清光」の記事における「略伝」の解説

先祖蒲生旧臣で、蒲生家が会津去った後に商人となったという。清光裕福な商人出身で、幼少から画を好み旦那芸として佐藤香斎に書画学んでいたが、後に画道熱中するあまり家産傾けたという。一方漢学山内穆斎、和歌相川功垂に学んだという。 代表作としては、下記のように複数確認されている「若松城下絵図」が挙げられる。これらは作品ごとに書き込まれている武家屋敷の名称が変わっていたり、藩の施設寺院描写変化認められる。このことは清光が単に同じ作品量産していたわけではなく内容正確さ求めて常に質の向上図っていたことを伺わせる。他にも会津生まれ教訓書『万民心の鑑』、会津歴史地理紹介した会津千代松紬鑑』、若松中心とした会津文人名鑑鶴城風雅集』、会津何でもランキング若松高名五幅対」などの挿絵手掛けており、会津人・物風景出来るだけ正確に複合的に記録しようとする、清光会津への強い想い感じさせる

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略伝

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グレープ・ウスペンスキー」の記事における「略伝」の解説

モスクワ南方トゥーラ市の小官の子として生まれる。トゥーラ学びその後チェルニーゴフに移る。1861年ペテルブルク大学入学し翌年モスクワ大学転じる1863年中退する。そのころから地方都市職人小官吏の生活を描いた散文を«ヤースナヤ・ポリャーナ Ясная Поляна», «Библиотека для чтения», «ロシア言葉 Русское слово», «Зритель», «Северное сияние», «Искра», «Будильник», «Женский вестник», «Новый русский базар», «同時代人 Современник»などの雑誌載せ文名確立1870年代には「ヴ・ナロード運動身を投じるためにロシア東南部サマーラ県に赴く農奴解放否定的影響あらわれ商業主義犠牲となった農村共同体目撃したウスペンスキーは、の生活についてペシミズム彩られスケッチを描く。その後北部ロシアノヴゴロド県に移り記録文学著述続けた80年代におけるナロードニキ大量逮捕反動動き憂鬱症をわずらって1889年発狂し、死ぬまでの13年間は精神病院過ごしている。

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矢田一嘯」の記事における「略伝」の解説

武蔵国久良岐郡現在の神奈川県横浜市金沢区)に日高兵衛次男として生まれる。本名は乕(虎)吉。1872年明治5年15歳頃、菊池容斎に学ぶ。1877年明治10年矢田甚平養子入りする。1880年明治13年菊池家離れ横浜市弁天通引っ越す。ここで画塾構えとともに横浜貿易商長谷川商会依頼輸出用刺繍下絵描き行ったこの頃、客の外国人婦人走り書きした迫真肖像画驚き洋画への転向決意したという。明治10年代後半サンフランシスコ渡りパノラマ館活人画接する。一嘯のサンフランシスコ時代はよくわからない点が多いが、元工部美術学校教師カッペレッティ師事したとされ、サンフランシスコ日本雑貨店Ichi Ban Studios」の専属作家「Forachechi YATA」と同一人物とも考えられる1887年明治20年2月10日渡航旅券返却されており、翌月には虎ノ門工科大学校(現・東京大学工学部)で開催され日本初活人画背景画制作していることから、おそらく前年には帰国していたと思われる1890年明治23年第3回内国勧業博覧会会期中に日本初パノラマ館上野パノラマ館」が開館し、一嘯が制作した欧州白川大戦争図」(戊辰戦争での白河小峰城での戦い取材)が興行される1893年明治26年九州渡り翌年熊本出来た九州パノラマ館で「西南戦争」を制作同年末旧福岡藩士の、吉村彦臣に招かれ福岡に来る。1895年明治28年1月福岡警察署長元寇記念碑設立目指す湯地丈雄会い、その計画賛同し元寇図を描いて協力した。一嘯の元寇図は最低でも7種類あったことが資料確認されており、それぞれ趣向変えて制作している。また、この頃福岡には本格的に洋画修めた人物は殆どおらず、美術関わる人々刺激与えた博多人形師の研究会・温故会に招かれ長きにわたり解剖学依拠し人物造形着色法など多方面助言指導与えた博多人形歴史上、一嘯はその近代化貢献した人物として紹介されることが多く美術史等閑視されてきた一嘯の業績履歴現代に伝わるのも、人形師たちの功績大きい。 1913年大正2年胃がんのため九州帝国大学附属病院死去戒名光風院一嘯日優居士墓所博多区蓮池妙典寺弟子に、笠木次郎吉新嶋嘯風(伊三郎)など。

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曽根寸斎」の記事における「略伝」の解説

唐津藩仕え馬廻役から累進して奥役となり、江戸桜田住んだ幼少ころから書を愛好し、特に篆刻熱中した益田勤斎門下となり、晩年になってますますその技量進み名声高まった硬玉に印を刻む技術持ち、独特の味わいがあったという。益田遇所とともに浄碧居派に属す詩歌好んでよくしたその人柄は風流洒脱お金頓着しなかった。当時名流交わり訪問客絶えなかったが、勤め怠ったことはただの一度無かったという。享年55

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岡田魯人」の記事における「略伝」の解説

天保11年10月14日1840年11月7日近江国蒲生郡船木村(後の岡山村、現滋賀県近江八幡市船木町)に生まれる 。本名存修、別に台、梅下庵、泊船居椿斎、種々宗碩号した青年多く勤王家と交わり明治維新後、兵部省勤め糾問使、陸軍省軍務局理事軍務局録事歴任した。 幼い時より俳諧親しみ寛揚、柴人師事し陸軍省退官した明治18年1885年東海道山陽道西海道などを俳諧行脚し近江八幡草庵を結ぶ。 明治26年1893年芭蕉2百回忌芭蕉句碑五月雨鳰の浮巣を見に行ん)を建立した大津義仲寺無名庵が荒廃したままになっていることに心を痛め明治27年1894年6月無名庵に幹事として入庵し、粟津芭蕉翁本廟(無名庵)庵主14世を継いだ明治28年1895年)には義仲忌兼平忌を再興し、また境内や本廟の修繕散在していた宝物収集努めた明治38年1905年5月8日死去した餐霞初号とし、種々宗碩最晩年用いた号である。 魯人逸話として、無名庵にある「木曽殿と春なか合せ寒さ哉」の句碑抜いた話が残されている。人々魯人の乱暴を糾したが、魯人は「これは芭蕉翁の句に非ずして、実は伊勢又玄が翁の碑を詠みたるものなり然るを人々謬りて翁の句となすのみならず、碑にも其の旨を示せり、是れ後世謀るものなり。」と答えた魯人剛毅にして所信曲げない性質を表す話として語り継がれている。

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松下烏石」の記事における「略伝」の解説

幕臣松下常親の次男として生まれる。書は佐々木玄竜文山兄弟学んだ欧陽詢流れ汲んだ唐様書法だったという。また詩文服部南郭学んでいる。表面カラス模様のある天然石磐井神社東京都大田区大森)に寄進したことで知られる。この石は「烏石」と呼ばれ評判となり、多く文人墨客見学訪れたという。 江戸古川住んでいたが明和年間京都移り西本願寺賓客として晩年を送る『消間印譜』、その他多数法帖刊行している。門弟韓天寿などがいる。

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中島来章」の記事における「略伝」の解説

近江国甲賀郡柞原あるいは大津出身初め画を渡辺南岳学び、後に円山応瑞に従って一家成した安政度の御所造営に伴う障壁画制作にも参加している。花鳥画、特にを得意とし、円山派伝統守った作品が多いが、より洒脱な感覚を持つ。『平安人物志』では文化10年1813年)版から文政13年1830年)版まで並河源章の子並河次郎として登場するが、天保9年1838年)から姓が中島変わっており、この間養子に入るなどの変化があったと考えられる。『平安画家評判記御造営御絵、東山春秋展観世評役者見立)』では、「此先生はいつもお出来変わらぬ優しき御綺麗御老年に似合わぬ感心感心」と評している。明治4年1871年76歳で没する墓所下京区光縁寺門人息子中島有章のほか、幸野楳嶺川端玉章藤井松林加納夏雄らがいる。

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堀野文禄」の記事における「略伝」の解説

日本橋榑正町江戸橋3丁目、日本橋東中通)にあり、江戸時代からの老舗紅屋である花田屋に生まれる。坂本小学校通っていたが中途でやめさせられ小僧として他の商家勤める。17歳時に父が病気になったので、実家帰り製造従事する。「寒紅榑正町人通り」と俳句詠まれるくらい繁盛したという。ところが読売新聞雑文投書したのをきっかけ小説戯作川柳に凝るようになり、ついに1888年明治21年)頃、同好仲間と「自笑酔誌」を刊行し続いて月刊雑誌一分線香」を発行するまでになった。同じ頃に顧問として落語家三遊亭圓朝小説家尾崎紅葉迎えて書肆文禄堂構え出版業始め1912年明治45年)には東光印刷合資会社起こし代表社員となっている。晩年講釈師初代悟道軒圓玉(浪上儀三郎)のもとへ通って資料調査などを手伝い長唄雑俳を楽しむ毎日だった。胃がん生涯幕を閉じ本郷湯島両門町の講安寺葬られる

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山本守礼」の記事における「略伝」の解説

京都富商茗荷亀岡五良右衛門次男として生まれる。宝暦14年1764年2月25日兵庫寮下司鉦師となる。明和7年1770年)の仙洞御所造営初め宮中御用務めたが、この時はまだ山本家養子入りていない先代山本探川安永4年1780年)に亡くなった翌年山本家継ぎ、更に翌年鉦師を引退している。ただし、山本家家屋敷継がず、または譲られず、生家近く住み墓所山本家代々とは別である。天明2年1782年)版の『平安人物誌』に「藤守礼 号 山本主水」とあることから、既に一家成していたことがわかる。山本探川には早世した男子の他に、もう一人男子がいたが画業継がず地下官人野村家養子出て野村嘉業となっている。実子いながら養子取って跡を継がせる理由不明だが、似た例は原在中その子原在明にも見られ、絵の技量などを考慮して養子取り実子には安定した地下人の道へ進ませたとも考えられるいつ頃から応挙門に入ったかは不明だが、かなり早くからだと考えられる天明4年1784年)閏1月尾張の旧明眼院書院(現東京国立博物館応挙館)、更に天明7年1787年)には香美町大乗寺で、共に応挙にしたがって障壁画を描く。この時大乗寺障壁画参加した門人は、島田元直秀雪亭亀岡規礼守礼の4人だけであり、守礼応挙門下中では早い時期の主要画家だった。寛政度の禁裏御所造営に伴う障壁画制作にも出願し採用されるも、師に先立って早世死因病気だった守礼が自ら井戸汲み行き誤って落ちたためだという。墓所上京区妙蓮寺守礼の跡は、しばらく後に亀岡規礼継いだ人物花鳥優れたと言われるが、短命だったため現存する作品10点満たない

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土岐定義」の記事における「略伝」の解説

長兄早世したため慶長2年1597年)の父の死後家督継いだ所領下総国守谷1万石。徳川秀忠仕え関ヶ原の戦いでは秀忠に従って真田昌幸が守る信州上田城攻め参加した慶長7年1602年)、常陸国佐竹義宣秋田減封されたとき、水戸城守備務めた慶長17年1612年)には大番頭就任慶長19年1614年)からの大坂の陣では、冬の陣では秀忠に従って参戦したが、夏の陣では江戸城守備任じられた。元和3年1617年)、摂津国高槻2万石に加増移封され、元和5年1619年1月8日40歳死去した家督長男の頼行が継いだ

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范仲淹」の記事における「略伝」の解説

蘇州呉県出身2歳時に父を失って母が長山県朱氏再嫁したのでその姓に従い、名を説と改めたが、成長して生家を知るとともに本姓もどした応天府行って苦学し1015年大中祥符8年)に進士及第して広徳軍司参事となり晏殊薦められ秘閣校理となり、つねに天下のことを論じて士大夫気節奮いたたせていた。 仁宗親政時にあたって中央採用され吏部員外となったが、宰相呂夷簡抗論して饒州左遷された。以後、彼を支持した余靖・尹洙・欧陽脩次々と朝廷去り、自らを君子朋党称した1038年李元昊西夏をたてると、転運使として陝西をその侵攻から防ぎ辺境を守ること数年号令厳明にして士卒愛し、羌人は仲淹が龍図閣直学士であることから「龍図老子」と呼び、夏人は戒め合ってあえて国境侵すことなく「小范老子胸中自ずから数万甲兵あり」と恐れはばかった。そうした功績により諫官をしていた欧陽脩推薦し枢密副使参知政事となった。 仲淹は富弼とともに上奏して、1.黜陟明らかにし、2.僥倖抑え、3.貢挙精密にし、4.長官厳選し、5.公田均一にし、6.農桑厚くし、7.武備修め、8.恩信を推し、9.命令重んじ、10.徭役減ずる、などの十策を献じ施政改革図ったが、当時はすでに朋党争い弊害あらわしており彼の案も悦ばれず、河東陝西宣撫使として出向し戸部侍郎などを歴任した潁州赴任する途上没する兵部尚書追贈された。 宋代士風形成者の一人で、六経・易に通じ常に感激して天下論じ一身顧みなかったという。散文優れ岳陽楼記』(岳陽楼の記)中の「天下を以て己が任となし、天下憂い先んじて憂え天下楽しみにおくれて楽しむ(先憂後楽後楽園由来)」は特に名高い著書に『范文正公詩余』『范文正公集』24巻がある。

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中井清太夫」の記事における「略伝」の解説

宝暦10年1760年評定所出仕し日光山御霊修復御用関東郡代伊奈忠宥の差添役などを務め明和4年1767年支配勘定となり、同8年1771年勘定に移る。安永3年1774年甲斐国上飯田代官となり、同6年1777年甲府代官転じた天明4年1784年)には谷村代官兼務し、7万石管轄した。同7年1787年陸奥国小名浜代官転じ、同8年1788年江戸詰め関東代官となった寛政元年1789年飛騨郡代大原正純の代検見をする。同3年1791年代官職罷免され切米絶たれる。 罷免理由は、前勘定奉行赤井忠晶への金子用立て不都合追放者井部右衛門の手召抱え、甲州での検地での粗略な扱いなどだったとされる一方、清太夫治績農民側に立ち、幕府からすれば年貢増徴に結びつかなかったためとも言われる。『よしの冊子』では、清太夫他人功績奪い奸智を働く者で、金銀蓄えが多いから小普請入りしても困らないだろうから、中には遠島にすべきだという者もいる、と清太夫幕府内の評判伝えている。 その後剃髪し旧圭と名乗り4年病死した。

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林逋」の記事における「略伝」の解説

杭州銭塘県出身若くして父を失い刻苦して独学する恬淡性格衣食の不足もいっこうに気にとめず、西湖孤山に廬を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年およんだ真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人時折見回るよう命じた。薛映・及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に植え飼い、「梅が妻が子」といって笑っていた。行書巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず廬のそばに墓を造り、「司馬相如のように封禅書を遺稿として用意してはいない」と詠み国事関心がないことを自認していた。その詩が都に伝わると仁宗は和靖先生と諡した。

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小曽根乾堂」の記事における「略伝」の解説

小曽根家の遠祖武田勝頼家臣とされるが、家祖江戸時代初期平戸道喜である。道喜は博多・平戸と移り慶長年間長崎博多町住み古物商外国貿易生業とした。出島南蛮屋敷建設眼鏡橋修復瑞光山永昌寺建立など様々な事業行ったこの道喜の代に小曽根姓に変わったその後家運衰え、乾堂の祖父の代には貧窮陥ったが、父・六左衛門幕末頃、越前藩佐賀藩御用商人となり、長崎屈指の豪商になった。乾堂はこの父と母中山氏第一子として生まれた。 六左衛門文芸にも造詣深く、竹影と号しているが篠崎小竹因んだと言われる古書画や古器物愛玩し印癖があった。乾堂に対して文芸の道に秀でることを望み、その教育に熱心だった。乾堂はこれに応え詩・書・画・篆刻加え音楽陶芸にも造詣得た。 書は春老谷水野眉川に就いて学び、来舶清人の銭少乕からは隷書書法伝えられた。後に日清修好条規締結のため全権大使伊達宗城随員として清国向かった折りに、清国側全権大使李鴻章にその書を認められて「鎮鼎山房」の額を贈られている。 文人画鉄翁祖門師事木下逸雲三浦梧門にも教え受けた。来舶清人陳逸舟交わり文人画画法伝授されている。花鳥画山水画を得意とし、逸村尾万載興した長崎書画清壇会(後の長崎南画会)を継承しその発展寄与した若き日富岡鉄斎小曽根家に招かれ所蔵され中国元明清書画名蹟をみて文人画家志したと云われる。 篆刻長崎派源伯民流れを汲む大城石農就いたとりわけ篆刻優れた技能発揮17歳時には名士求めに応じて刻印している。21歳のとき自刻印印譜『乾堂印譜』・『乾堂印』を刊行した篠崎小竹広瀬淡窓草場佩川らがその序文大い賞賛している。また印籍百花印箋』がある。30歳江戸遊歴し14代将軍・徳川家茂謁見し、鉄筆隷書献じ親書下賜されている。明治4年1871年)、明治政府から御璽国璽刻印拝命される。従前御璽国璽正しい印法・篆法に則っていないことを嘆き、乾堂自身政府に対して建白していた。しかし乾堂の拝刻した印は漢字時代誤りがある上に両印の書体統一されておらず、「艸卒ノ刻、字體典雅ナルヲ得ス」「早卒ニ際シ石刻相成且刻面モ不宜様ニ相見候」と不評だったため京都秦藏六合金製で鋳造し同じく京都篆刻専門家である安部井櫟堂が拝刻した。なお、新し御璽国璽に関して乾堂が布字したという風説があるが、印の新制に対しての乾堂の御璽国璽制作拝命願書明治6年9月叱責の上却下返却され資料はあるものの、布字を示す資料証拠一切無い。 音楽月琴好み三宅門下となり明清楽を学ぶ。これは来泊した得建より伝えられ中国伝統的な音楽である。後日、乾堂とその一門東京離宮において、この明清楽御前演奏栄誉浴している。「小曽根明清楽」と呼ばれ長崎から各地伝わり浸透した。この流れは現在長崎無形文化財指定されている。 名陶亀山焼発展尽力し、自らも鉄翁祖門木下逸雲と共に絵付け施している。亀山焼廃窯後は長男・晨太郎再興するように託した。この意思受けて太郎は、明治24年1891年)頃に陶工各地から招き自宅邸内に窯を開いた小曽根もしくは山焼呼ばれ明治32年1899年)まで続いた。 乾堂は文人としての活動ばかりでなく事業家として大い活躍した松平春嶽援助受けて父とともに浪の平海一帯埋立事業をして港湾整備し貿易進展尽くしている。 坂本龍馬勝海舟と関係があった。海舟と長崎妻の間に生まれた子の世話もしている。ちなみに海舟の印は乾堂の作である。龍馬亀山社中出資者となり、亀山焼工場跡地本拠地斡旋した。のちに海援隊となってからもその本部は小曽根家に置かれた。また、龍馬の妻・お龍月琴教えたのは乾堂の長女キクといわれている。 晩年小曽根小学校創立寺院神社創建桟橋架設高島炭鉱三菱への譲渡斡旋などの業績がある。 享年59諡号大器院白厳乾堂居士。浪平太平寺に墓所がある。

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片山楊谷」の記事における「略伝」の解説

本姓は洞、名は貞雄、通称は宗馬。楊谷は号で、初号に洞勸、別号は画禅窟。一説に「名は温、一に義夫、字は玉如。父は長崎医者をしていた洞雄山、あるいは洞雄敬の子として生まれる。一説に父が中国人で、母は日本人とも言われる定かではない幼少時に父を亡くしている。 1772年安永元年13歳諸国巡歴して、19歳時には既に5人の弟子がいるほどの腕前だった。17歳鳥取興禅寺逗留して絵を描き、のちに法美郡桂木医師中山東川の娘を妻とする。若桜藩主・池田定常に絵を気に入られ、貞経は楊谷を引き止めるため、1792年寛政4年鳥取藩士で茶道役の片山家夫婦とも養子とした。翌年家督継ぎ亡くなるまで9年務めた1795年寛政7年湯治のため藩の許し得て京都行き画名得たという。円山応挙弟子入り請うと、応挙はその画才見て驚嘆し弟子ではなく友人として迎えたまた、学芸好んだ妙法院門主真仁法親王の前で席画披露する。更にその兄・光格天皇は楊谷を宮中招き従五位下位階与え楊谷に数十幅の画作依頼する。楊谷が画を完成させ披露すると、天皇はその出来満足し褒美としてと名硯・石王寺硯を与えた。楊谷はこれを愛用し一生肌身離さなかったいわれる。1800年寛政12年但馬山路寺数多く障壁画手掛け、現在兵庫県指定文化財になっている。ところが、但馬湯村温泉入浴中、突然発病してにて死亡享年42菩提寺鳥取興禅寺、または長崎大音寺画風費漢源近く、その弟子画法学んだ推測される。しかし、沈南蘋や他の長崎派画風摂取していったことが観察できる。特にその虎の絵は、虎の毛を細い線で丹念に表し、「楊谷の毛描き」と呼ばれている。

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ニコライ・グミリョフ」の記事における「略伝」の解説

1903年グミリョフツァールスコエ・セローへ通う中学生時代の頃に後に妻となるアンナ・アフマートヴァ知り合う当初グミリョフ熱烈なプロポーズをするもののアフマートヴァはこれを無視し絶望したグミリョフ自殺未遂まで起こした最終的に1910年4月25日にアフマートヴァが渋々結婚至ったグミリョフ大学生の頃はペテルブルク大学パリ大学学び新婚旅行訪れたフランスパリ長く住む。しかし新婚旅行から戻ってグミリョフはアフマートヴァを残して一人アフリカへ旅立った1912年4月息子レフ・グミリョフ生まれる。だがグミリョフは再び妻子置いて一人アフリカへ旅立ったため、家庭事実上崩壊していた。 第一次世界大戦の時は義勇兵として参戦した。 しかし1921年8月25日反革命陰謀加わったとして銃殺された。

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森山新五左衛門」の記事における「略伝」の解説

森山家元来商家であったが、弘化4年(1847年)父の代に豪商森山新蔵私費東方大丸太鼓橋竣工させたことや、鹿児島藩財政再建貢献した功績によって、森山武士取り立てられ士籍に列することになったその後西郷隆盛大久保利通など幕末活躍した多く藩士資金面助けた新五左衛門武術好み薬丸自顕流剣術達人でもあった。 文久2年1862年尊王攘夷志して坂本右衛門山本四郎指宿三次大脇左衛門らと鹿児島脱し有馬新七田中謙助らと関白九条尚忠京都所司代酒井忠義襲撃企てるが、島津久光派遣した鎮撫使京都寺田屋衝突して重傷を負う(寺田屋騒動)。翌日藩命背いて抵抗したことを咎められ切腹させられた。20歳明治24年1891年)、従四位追贈された。

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略伝

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橋口壮介」の記事における「略伝」の解説

鹿児島城下で誕生幼少より大山綱良より薬丸自顕流学び、後に造士館教導となる。また尊王志して柴山愛次郎奈良原幸五郎らと交流した文久2年1862年柴山江戸詰め命じられ参府途中で島津久光率兵上洛根拠九州諸士糾合。また京都では清河八郎田中河内介らと交流し江戸着任後も有馬新七連絡取り合った。しかし思うよう同志が集まらなかったため遂に江戸出奔し大坂有馬田中らと合流して九条尚忠酒井忠義襲撃計画する。しかし京都寺田屋での集合中に久光派遣した鎮撫使襲われ負傷し、その翌日切腹した。一説には寺田屋騒動当日に闘死したともいう。享年22明治24年1891年)、従四位追贈された。

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余延年」の記事における「略伝」の解説

延享3年1746年)、尾張国知多郡八ツ屋新田(現・愛知県大府市共和町八ッ屋)に生まれる。また、先祖代々大高村住んだとも言う。造り酒屋営み大高村中心近く居宅構えて地元焼かれ大高焼(根焼)にも関わった。壮年になって篆刻凝り京都遊学し高芙蓉入門し技を習得した左大臣二条斉信に印を納め、成修処士の号を賜った。また久村曉台俳句を、増山雪斎に墨学び元明文人画家私淑蘭竹図を得意とした。 印譜に『印鐫』があり、『宣和集古印史』を模刻した。また随筆に『風塵随筆』がある。文政2年病没享年74墓所春江院にある。子孫によって春江院に「山口墨山碑」が建てられたほか、かつて自宅があった大高町内の明公園には宅跡を示す石碑建てられている。

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柴山愛次郎」の記事における「略伝」の解説

鹿児島城下高馬場誕生。兄に尊王志士柴山良助、弟に海軍大将柴山矢八がいる。幼少より文武修め藩政では記録書書記造士館訓導歴任するその後尊王攘夷志して諸国遊学し見聞を広める文久2年1862年橋口壮介らと鹿児島脱し大坂有馬新七らと九条尚忠酒井忠義襲撃謀議する。しかし島津久光派遣した鎮撫使襲撃遭い山口金之進に斬殺された。寺田屋騒動悲報聞いた西郷隆盛橋口柴山の死を悲しんだと言われている。 明治24年1891年)、従四位追贈された。

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橋口吉之丞」の記事における「略伝」の解説

文久2年1862年)兄や有馬新七とともに大坂佐幕派九条尚忠関白京都所司代酒井忠義襲撃企て京都伏見寺田屋謀議めぐらせる。 しかしそれをよしとしない島津久光派遣した奈良原繁大山綱良鎮撫使公武合体藩論告げられ出頭促されるが、同志田中謙助これ以上議論無用断じたために寺田屋騒動発生する真っ先抜刀した鎮撫使道島五郎兵衛田中斬り倒したために激昂し有馬が道島と斬り合ってこれを押さえつけ「おい(俺)ごと刺せ」と叫んだため、至近にいた吉之丞は有馬ごと道島を刺し殺したと言われている。 しかしこの騒動では、兄壮介らが斬り殺され鎮圧されたため、その他の志士たち鎮撫使投降したその後、他の藩士とともに鹿児島送られ謹慎処分となった明治元年1868年事故があったために切腹させられ大円寺葬られたという。

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加納夏雄」の記事における「略伝」の解説

京都柳馬御池米屋生まれる。本姓伏見7歳刀剣商の加納治助の養子となると、ごく自然に鍔や柄の美しさ魅せられる見よう見まねで鏨を握るようになった。その才能認めた養父母勧め12歳の頃から彫金師奥村庄八の元で修行し、線彫り象嵌などの技法を身に着けた。14歳円山四条派絵師中島来章師事し写実極める1846年19歳金工師として独立安政元年1854年)に江戸へ移り神田に店を構え小柄や鐔などに生命宿すことに心血を注ぐ。 鏨を斜めに方向片側彫ってゆく片切彫を得意とした。明治維新迎えた後、明治2年1869年4月皇室御用命じられ刀剣愛好家でもあった明治天皇太刀飾り担当した。 さらに同年7月新政府から新貨幣原型作成依頼され門下生と共に試鋳貨幣作成担当した当初はそれを元にイギリス極印作成依頼する予定だったが、見本見たイギリス人技師ウォートルスがその完成度の高さから「これほど名工が居るのにわざわざイギリス依頼する要はあるまい」と驚嘆させ、そのため新貨幣デザインから型の制作まで全て加納および門下生一任された。 明治5年1872年)に行われた正倉院宝物修理の際、明治天皇宝物一つ聖武天皇佩剣したとされる8世紀直刀気に入り手元収めた加納明治天皇からこの直刀に合う拵え作成命じられ、翌明治6年1873年)に完成させ、明治天皇はこれを「水龍剣」と号して佩用した。なお、昭和32年1957年)に「直刀 無銘(号 水龍剣) 附 梨地水龍瑞雲宝剣」として重要文化財指定されている。 1876年廃刀令交付される多く同業者廃業追い込まれるが、加納注文引きも切らず煙草入れ根付名品作り続ける。またその気品ある作品海外でも人気博し、その名は世界中知れ渡った1890年第三回内国勧業博覧会百鶴花瓶一等妙技賞を受賞しその後宮内省買い上げとなり、明治宮殿桐の間飾られたと伝えられる。またこの年東京美術学校教授就任し、さらに第1回帝室技芸員選ばれる

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島津忠辰」の記事における「略伝」の解説

豊臣秀吉の九州平定では肥後国方面にあり八代南方高田(こうだ 現在の肥後高田駅近辺)を守っていたが、肥前国島原有馬晴信の裏切りによって本領出水撤退天正15年1587年4月秀吉に降伏本領安堵された。 文禄2年1593年)、朝鮮出兵の際には島津義弘属して出兵することになっていたが、義弘陣立別にしてくれるよう秀吉直訴秀吉は忠辰の願い聞き入れなかったため、やむなく義弘と共に玄界灘渡ったものの病気称して上陸しなかった。この忠辰の行動秀吉激怒をかい、同年5月1日肥後宇土城主の小西行長身柄預けられ幽閉され上で改易申し渡された(忠辰の領地細川幽斎石田三成分与された)。それからほどなくして朝鮮加徳島小西陣中にて病死した。享年28

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悟心元明」の記事における「略伝」の解説

悟心伊勢松坂中町外科医松本駝堂の子として生まれる。父駝堂は伴蒿蹊の『近世畸人伝』に取り上げられている。また出生地中町韓天寿養子入った中川家とは同じ町内であり、この地縁が後の交流繋がっている。11歳伊勢多気郡相可村天照法泉寺衝天元統について出家した近江京都での修業の間も詩文好み新興蒙所篆刻学んだその後江戸出て服部南郭詩文を、細井広沢に書を学ぶ。延享元年1744年)に京都金戒光明寺門前一雨庵を構えている。このころ同じく黄檗僧の終南が隣に住んだ宝暦5年1755年)に法泉寺の第6代住持となるが数年後これを辞して、ふたたび一雨庵に戻っている。その後にも宝暦13年1763年)に近江正瑞寺東近江市五個荘日吉町)の住持となるが10年後、辞して帰郷し浄光庵(伊勢多気郡熊村)を結んで隠棲した。 悟心は、売茶翁池大雅韓天寿高芙蓉・僧鶴亭大典顕常六如慈周木村兼葭堂宮崎イン圃など当時名流文人たちと盛んに交流しいわゆる文人僧として詩・書・画・篆刻文芸秀でた活躍をした。とりわけ池大雅とは深く交流しその影響伊孚九私淑している。大雅作品悟心が賛を加えたものが多くみられる。なお、高芙蓉の『芙蓉山私印譜』に悟心刻した印が掲載されている。寛保3年1743年)に明の一元巨山の『連珠印譜』を模刻した。この模刻黄檗山におよそ一年籠もってようやく完成された。印の刀法極めて精緻評価が高い。後に曽之唯芙蓉門の葛子琴や崖良弼並べて悟心を印賢と讚えている。

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赤松眉公」の記事における「略伝」の解説

詩文と書能くした。とりわけ篆刻巧み高芙蓉葛子琴と並ぶ程の技量だったが知る人少なかった性格無口で人と広く交わることを好まなかった。最初医師として浪華大阪南堀江三丁目)に住んだが、後に奈良移った貧窮した意に介さず釣りなにより好み魚石子と自ら称した印譜に『魚石印譜』がある。また没後友人越智子方の子である越智士礼が印箋を集めて『眉公印譜』三巻つくった享年52

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富取益斎」の記事における「略伝」の解説

越後地蔵堂現在の新潟県燕市地蔵堂)に生まれる。父の富取正則村上領地粗の大庄屋で、妹の里佐は隣家中村家嫁いだ。この家には若い頃良寛下宿しており、子のない里佐に可愛がられていた。益斎は早く京都出て四条高倉西に住んだ。医を生業とし、傍ら篆刻よくした篆刻の師は杜澂思われる天明の大火天明8年1月30日(1788年))で家を焼失し一時筑紫に住む娘婿大村藩士加藤鹿洲を頼って身を寄せその後江戸に出る医業認められ江戸幕府の上士と交流した文政初年頃、三島郡北部にある円上寺潟の干拓事業の賀記を書している。 益斎が書き残した印章備正』は大正2年山田寒山刊行するが、三村竹清によって杜澂『澂古印要』の写しであると指摘されている。 越後日蓮宗常昌寺葬られる法号清山院宗游益斎居士越後画家富取芳斎同族である。

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源惟良」の記事における「略伝」の解説

学問好み文章が巧かった。また篆刻嗜むうちに高芙蓉門下となりついに奥義極め、その高弟となる。芙蓉没する芙蓉収蔵していた古銅印集めた芙蓉山私印譜』百部作り関係者配布した。また芙蓉十三回忌には余延年とともに全国芙蓉門下呼びかけ68人の名家の印を集め高芙蓉追善印譜』を制作した大酒飲みである夜に過って河に転落し自身ではそれに気が付かなかったが翌朝目覚める引っかかって助かっていたという逸話がある。天明の大火天明8年)の後に田必器を訪ねて伊勢山田遊歴。このとき24歳小俣蠖庵篆刻伝えた

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紀止」の記事における「略伝」の解説

幼少ころから学問好み永田観鵞門下で書の手習いよくしたほか、篆刻も嗜んだ。若いときに方寸の凍石の印面に「仁義礼智信」の五文字刻し天明2年1782年)には一寸八分印面千字文刻し有名になる前川虚舟並び細字篆刻第一人者見られ、釈六如には技を絶賛され七言絶句贈られている。寛政3年1791年)には丸山にて賀宴催し数百人以上が来場した。その宴の中で105方の印を刻し、『利其器斎印譜』とした。他に印譜『利其器斎印稿』がある。

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林十江」の記事における「略伝」の解説

水戸にて酒造業を営む高野兵衛之茂の長男生まれる。高野家屋号は升屋といい、代々組頭名主役、町頭などを歴任した豪商だった。婿養子だった父は御目見格をもち、文が風流好んだという。のちに父の実家で、同じ町内醤油醸造業伊勢屋を営む伯父市郎兵衛茂の養子となった。なぜ長男であった十江が養子出され、弟の長吉高野家継いだのかはよく判っていないが、父・之茂は林家から高野家婿入りしているため、両家の間に何らかの約束事があったことが想像される。 画に生来的な才能持ち12歳頃立原翠軒の家に出入りするうちその画才示し、翠軒を驚かせている。この頃9歳年下のまだ幼い立原杏所絵筆握らせ画の指導をしている。年々その技量高まり、ついに江戸出て谷文晁画才認められ文晁代筆となって金屏風画いた奔放大胆な構図特徴とりわけ花鳥画画に優品が多く、十江梅花大い賞賛された。文化10年1813年)、生活に貧窮し水戸帰るが病に倒れた享年38。墓は水戸市元吉田町浄土宗清巌寺墓碑銘は翠軒が撰文し、所が書した。十江はまた篆刻にも巧み没後に『立原杏所林十江印譜』が発行された。

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田辺玄々」の記事における「略伝」の解説

東寺外山吹町の富裕な家に生まれる。幼い頃より書画好んだ武元登々庵に就いて書を学び高野僧空居よ太師流の書法授かる。画は中林竹洞師事した篆刻巧みで、中年以後は磁印の創作没頭粘土で鈕式を作って印文刻し焼成して磁印を製作する法を開発している。その精妙さは大い賞賛された。東寺候人として仕え、のちに法眼位に叙されている。頼山陽青木木米、僧大含などの当代一流文人交流している。享年66南部狐塚京都市南区唐橋)に埋葬される

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杜俊民」の記事における「略伝」の解説

伊勢相可金剛坂現在の三重県多気郡明和町)の豪家生まれる。篆刻高芙蓉の門。源惟良編集した芙蓉山私印譜』にその印影掲載されている。 随筆に『印道諸家確論』があり、印譜に『杜俊民印譜』・『石斎印譜2巻がある。享年67

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三雲仙嘯」の記事における「略伝」の解説

京都嵯峨野河東丸太町などに住み代々医を業とした。読書詩文俳諧点茶などの文芸好み篆刻葛子琴学び特に優れた嵯峨大覚寺性法親王要請で『文館詞林』の模刻を行う。印譜に『快哉心事』など多数門弟中村水竹壬生水石などがいる。 享年77墓所寺町十念寺浄土宗山号宮山)。法名僊嘯院義空宗孝居士

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島崎柳塢」の記事における「略伝」の解説

江戸牛込生まれる。本名は又輔、通称は友輔(本名説あり)、字は子文別号黒水漁史、湘々亭、栩々山人春岡外史など。曽祖父大田南畝実弟多田人成。父は酔山と号する清水赤城門下漢学者で、東京では名門一つとして知られていたという。幼少から父より漢学学び、書は高田忠周に、詩を植村蘆洲学び小学生時代夏目漱石親しかった明治12年1879年桜井謙吉に洋画を、竹本石亭に南画学んだあと、松本楓湖師事する。しかし、明治14年1881年第2回内国勧業博覧会川端玉章の「浜離宮秋景図」を見て感動し、その門人となる。玉章主催天真画塾で学ぶ傍ら明治18年1885年)『十八史略講義大全鼇頭参説』を著す。同年から同25年1892年)まで大蔵省印刷局勤務し製版印刷技術身につける。この時紋様図案熱心に研究したことが、後の風俗美人画でも活されることになる。 明治20年1887年)頃から日本美術協会展などで作品発表し始める。明治24年1891年村田景・丹親子と、同塾の若手福井江亭らと日本青年絵画共進会創立尽力する翌年の同会主催の第1回青年絵画共進会では審査員推挙されその後も同会の指導者存在だった。明治29年1896年三井呉服店から委嘱を受け、染色意匠図案を手がける同年発足した日本絵画協会にも参加し有職故実則した近世風俗画発表するうになる明治30年1897年)の第3回絵画共進会では、「春園」で二等褒状を受ける。しかし、日本絵画協会次第東京美術学校若手占められるようになり、翌31年1898年望月金鳳らの呼びかけに応じて日本画会設立参加し、その幹部となる。以後日本美術院には参加せず、むしろ旧派日本美術協会へ移る。日本美術院観念的理想主義対し自然主義唱えた无声会結成参加し、ここで力作発表した明治34年から翌年には同時代女性描いた画集『好美百態』を刊行する明治40年1907年東京勧業博覧会では「美音」で最高賞の二等賞を受賞明治45年1912年)『半切畫集』を画報社から出版文展には毎回出品したが、帝展改組後関わりを持たなかった。昭和12年1938年日暮里自宅腎臓病により没した享年72

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二村楳山」の記事における「略伝」の解説

若いうちに高芙蓉門下となる。43歳『依竹堂印譜』を刊行57歳のとき『十二刀法詳説』(文化12年1815年))を著し刀法や鋳法を詳細に説明した。この書には頼山陽序文掲載されている。 享年78

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藪井星池」の記事における「略伝」の解説

二条角倉家に仕えた俳諧狂歌をよくし、傍ら篆刻を嗜んだ。印譜に『星池印譜』・『白雪歌堂印譜』がある。京都河原町東に住んだが、文化年間浪華住んだ享年69

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牧夏嶽」の記事における「略伝」の解説

新興蒙所門下で書と篆刻学んだ。のちに蒙所の嗣子となって新興氏を名乗っている。門弟佚山がいる。寛保元年刊行され都賀庭鐘編集の『全唐名譜』の校正行い、その刻印掲載された。

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森川竹窓」の記事における「略伝」の解説

大和国高市郡鳥屋村生まれ17歳江戸出て佐竹家仕えたが、しばらくのちに浪華に移る。常日頃から古法帖の臨模精励し書名すこぶる高まった。また傍ら篆刻嗜み、画も巧みとりわけ墨竹図に優れていた。文化4年1804年)には浦上玉堂竹窓の家に逗留している。また書画骨董収蔵にも富み松平定信が『集古十種』を編纂したとき竹窓協力要請された。備後町壱丁目高麗橋丼池私塾開き、書を教えた上田秋成親交が深い。 京都没する享年68墓所木村巽斎と同じ大応寺大阪市天王寺区餌差町)にある。

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前川虚舟」の記事における「略伝」の解説

懐徳堂学び木村蒹葭堂出入りした岩倉家具源具選)に家臣として仕え大坂の佃もしくは塩町住んだ懐徳堂とは関係が深く中井竹山陶印刻し中井履軒連れ立って服部永錫の手製の顕微鏡覗いている。虚舟今体派初期浪華派に属し鉄筆巧みで特に細字篆刻の技を讚えられた。安永6年1777年)に方寸の石に独楽園記と年月署名刻している。また「後赤璧賦」や「蘭亭序」などの細字篆刻手掛けて紀止の「千字文」と並称される。頼春水はこの技を絶賛している。しかし、なんらかの形で石鼓文見て感化され高芙蓉晩年弟子となり、努力して古体派転じて石鼓館と号した法帖模刻なども手掛け天明5年趙陶斎『新百家姓』の版木刻している。友人曽之唯没しその遺稿印籍考』を上梓する際、その序文岩倉家具依頼している。 その印風は芙蓉一門中でも独自色が強い。虚舟門下呉北渚長谷川延年行徳玉江などおり一派をなした。息子前川寿山1807年 - ?)も細字を得意とした。 墓所は伝わらず現在も不明である。

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林煥章」の記事における「略伝」の解説

京都住んでいた年少の頃、高芙蓉篆刻学び、煥章の号を与えられる。しかし、その印風は初期江戸派に近いとされる当時その篆刻の技は海内無双称された。浪華関東遊歴後、東武八王子吉祥寺住持となり、善知識としてその名が聞こえた印譜に『煉金集印譜』(宝暦3年1753年)がある。

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韓天寿」の記事における「略伝」の解説

京都青木家に生まれたが、伊勢両替商中川家養子となった33歳家業を継ぐ。屋号田丸屋といった。 書ははじめ松下烏石に就いて文徴明書法を学ぶが、40歳頃に沢田東江魏晋古書法を薦められ研究。特に二王王羲之王献之)に師法し書の研究没頭した。また古法帖の臨模双鈎にも精通細井広沢らが開発した正面刷り技法駆使して曹全碑皇甫府君などの法帖精巧に模刻している。 山水画臨模盛んに行い伊孚九池大雅山水画縮小して模刻した『伊孚九池大雅山水画譜』を製作している。画は文人画風の山水図画き篆刻巧みだった。 池大雅高芙蓉親しく交わり三人富士山白山立山登山したことから、三人ともが三岳道者号している。なお、青木夙夜従弟にあたり天寿通じて大雅門弟となっている。 中川家には蔵書多かったが、その上に更に古い法帖や墨籍の蒐集続けた。しかし、国内法帖劣悪でみるに堪えなかったので高価な金額でも中国から舶載されたものを購入した隣家火災延焼したときも何よりもまずその蔵書守ったという。収集癖高じすぎて晩年貧窮した伊勢松阪清光寺葬られる。また京都東山通妙寺にも墓所がある。享年69

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植田華亭」の記事における「略伝」の解説

書を伊藤岡に学び篆刻高芙蓉門下芙蓉の印を多く収蔵した。安永5年1776年)に『釆真堂印譜』を編集したが、これによって高芙蓉古体派の印風があることが広く知られることになる。他に印譜『静正居印譜』がある。

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略伝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/26 00:26 UTC 版)

尾崎散木」の記事における「略伝」の解説

清兵衛母相馬氏の子として生まれる。新興蒙所高弟となり佚山並び称されその書名高かった。蘐園学を河鹿門(河野恕斎?)に学びその後老荘思想傾注し禅に参じた石見津和野藩亀井矩貞散木書風敬慕し書の師として招聘した。剣術弓術をはじめ篆刻・琴・菊花園芸)や養禽などの諸芸通じた享年74墓所は浄春寺(大阪市天王寺区)。自印譜に『南龍先生印譜』がある。

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略伝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/27 08:27 UTC 版)

円山大迂」の記事における「略伝」の解説

名古屋造り酒屋生まれる。熊本など各地住み京都にて貫名海屋門人となり、経学・書などを学ぶ。明治11年上海渡り徐三庚・楊峴に師事し篆刻学んだ帰国後、この新しい印風を日本伝える。詩・書・画にも巧みであった東京駿河台甲賀丁に居宅構える。

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