略伝とは? わかりやすく解説

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りゃく‐でん【略伝】

読み方:りゃくでん

主要な経歴だけを記した伝記簡略な伝記。「ゲーテの—」⇔詳伝


略伝

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曾幾」の記事における「略伝」の解説

贛州贛県出身で、のちに洛陽移住する特命によって吏部考試受けて太学上舎を賜り校書郎となる。のちに河南府少尹となる。高宗時代江西提刑・浙西提刑を歴任。兄の曾開が抗戦主張し宰相秦檜対立したため、連座して免職となり、転運使判官の職があったが固辞する江西茶山寺に閉居していたが、秦檜死後、浙西提刑に復帰し台州知州となる。のち秘書少監となり、『神州宝訓』編纂の旨を受け、書を完成させて礼部侍郎となる。たびたび隠退申し出て許され、玉隆観の提挙となり、隆興2年1164年)に官を辞する乾道2年1166年5月平江府にて83歳で死去

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小原慶山」の記事における「略伝」の解説

丹波生まれ京都住んだ。諱は雅俊、字を光、はじめ渓山と号した狩野益信に画を学んだが、中年になって長崎遊学し河村若芝門弟となる。1705年宝永2年)に絵をもって長崎奉行仕え唐絵目利の手伝いになったとも、元禄年間唐絵目利御用絵師を命ぜられたとも言われる定かで無い。渡辺秀石などと唐絵目利派を形成。のちに石崎元徳の師となった人物図・花鳥図のほかに喜多元規風の頂相残している。子に、儒学修め中国語堪能だったという小原巴山がいる。

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山本竹雲」の記事における「略伝」の解説

備前児島郡裕福な家に生まれ煎茶盛んだった高松に遊ぶ。その後京都出て御池柳馬場に住んだ篠崎小竹門下儒学を学ぶ。花卉画をよくし、煎茶通じた篆刻高松にいるとき細川林谷学び各地で売印して生計立てている。文房趣味詳しく煎茶器鑑定もした。 江馬天江、谷如意山中静逸浅井柳塘熊谷鳩居堂山中箺皇堂らと交友した。また三条梨堂松方海東杉聴雨長三洲など当時名流印章多く刻している。 福井には度々遊歴し吉川帰峰・片山州・五十嵐香圃・岡崎州・久津見晴嵐などの門弟がいる。足羽山にはその流派文房流」の記念碑がある。 東山清水稚児ヶ池で入水。池の畔には羽織たたまれ丁寧に下駄揃えてあり、一煎点てたらしく煎茶道具が並べられていた。京都南禅寺天授庵墓所がある。

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壬生水石」の記事における「略伝」の解説

最初高田春塘・春木胥山に就いて篆刻学び、のちに三雲仙嘯門下古体派刀法を学ぶ。また書画にも巧み池大雅私淑して土佐大雅堂自任した。浪華京都遊歴し関西文人交流呉北渚より印譜について教えられている。豪放質朴な印風で知られ印譜水石堂刻史』がある。また昭和2年川村直流編『壬生水石印譜』が出版される

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浜村蔵六 (二世)」の記事における「略伝」の解説

初世浜村蔵六の甥で後の養子となった。はじめ初世学び長じて京坂に遊んで技芸深め世に名人蔵六称された。 深く印学を研究し六書を学ぶことを怠らなかった。このため中国から舶載される印籍高額であっても購入した。『氏印略』・『漢銅印叢』などを深く追慕している。林述斎二世蔵六の高い志を感じて諸侯にこれを紹介している。文化4年1807年)には、幕命受けて朝鮮通信使返翰用の官印刻し丁銀賞賜として受けた印譜『賁斎印譜』がある。 文政2年7月没。霊山寺初世蔵六の墓に合葬される。

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福井端隠」の記事における「略伝」の解説

勘解由武繁の次男として伊勢上中ノ郷(現在三重県伊勢市)に生まれた正四位外宮権禰宜至った下久保住み、のちに為田に移った小俣蠖庵に就いて書画篆刻を学ぶ。印聖高芙蓉古体派篆刻宗として一家成し大和古印体も得意とした。また、茶道にも詳しく千宗室入門した後、藪内紹智について藪内流究めた門弟山田寒山松木松年山本釣青・上部紅於・田中成章・江川閑雲田代桧垣坡・川崎河村竹・北園などがいる。 享年85墓所新町裏(現在伊賀市上野新町)になる。 子息福井琴も篆刻よくしたが、若くして亡くなった

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篠田芥津」の記事における「略伝」の解説

安部井櫟堂師事して篆刻学び、また鈴木風越1816年 - 1886年)の門人ともいう。秦漢の古印の法に則り文彭何震の印法に従った舶載された清国からの印籍などに影響され浙派作風取り入れている。その印篆は非常に癖があったので「津の撥文字」といわれた。 はじめ江戸出て篆刻家として一家をなしてから京都移り柳馬場に住んだ明治天皇御印三条実美らの名流の印を多く刻している。門戸を叩く者が後を断たなかったが、河井荃廬・章石兄弟などほんの数人だけを門人として許した中国の『広印人伝』に「性豪逸、多奇行」と紹介されているが、異常に几帳面な人でキチンとていないと気が済まなかった。たとえば道を歩くときは必ず真ん中歩き、直角に曲がる。寝具位置は畳の目数で測って決めていて寸分もずらさない。家の門から道までの歩数決めていて、これが合わない何度でも繰り返した李白書幅「古行」の行書文字一字一字切り離してまっすぐに表具し直して床に掛けていた、などなど。これらの行動から強迫性障害疑われる

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浜村蔵六 (三世)」の記事における「略伝」の解説

幼少のころから書を学び最も篆刻好んだ15歳のときに三体千字文臨書二世浜村蔵六はその雄々しく勢いある運筆見て驚き天賦の才見抜いて篆刻の技を磨かせた。「つまらない石印材でも光玉のようになり、鈍刀をもって鋭利となる」とその技量にいたく感服した二世蔵六没する嗣子がおらず、文政2年1819年)、28歳時に代々継承されてきた亀紐古銅印伝授され浜村家を継いだ以後浜村家の名声を汚すことなく、その篆刻絶技評され門戸をたたく者は絶え間なかったという。文政年間には関西遊歴し、客の求めに応じて印を刻した。この時の印を集めて岡本豊彦をはじめ頼山陽篠崎小竹斎藤拙堂などの名士らが序文加えた印譜刊行している。また青華磁器の印を作成し江戸もたらした潔癖症で庭の落ち葉はすべて拾い居宅に埃ひとつ無かった。妻の金山耀も遷号し、画や篆刻よくした。 子が無く備前出身塩見大澥が四世蔵六継承した。なお、篆刻家として、はじめて帝室技芸員となった中井敬所は甥に当たり、その技を伝授している。 天保14年1843年8月没。享年54霊山寺葬られる

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小俣蠖庵」の記事における「略伝」の解説

明和2年伊勢山田上中之郷字河崎世古生まれる。代々豊受大神宮神楽職を任ぜられ、また家業味噌商いした。書画骨董好み富裕であったので名品出会えば高額でも購入し数々の品を蒐集鑑識にも精しかった書・画ともに巧みで、画は越後釧雲泉門弟石川侃斎に就いて学び山水図を最も得意とした。書は蘇軾趙孟頫董其昌私淑し古法帖などで独学した。僧玉潾から明楽習っている。 篆刻芙蓉門の高弟源惟良に就いて学び奥義究め、後に一家成した福井端隠古森雲・中西笠山阪田丘などの優れた門弟輩出した一時家運衰えたので信越地方遊歴し再生称した帰郷した仮住まい篆刻書画三昧暮らし文人墨客訪れその作品求めたという。 蠖庵の号は晩年居宅の名。諸国漫遊から戻ると家が古く棟がたわみ、しかも尺取虫のようだったので蠖庵とした。この号は主に書画揮毫した。篆刻には齋と称した。他に別号が百以上もあった。最晩年は目を悪くしたので眯翁とした。 清雅好み博識無欲気高く、常に穏やかなに人と接した慈悲深く困っている人がいると助けずにはいられなかった。盗賊にあって困窮した人に、即座に自ら画いた書画20贈り復興資金充てさせたという。青木木米零落して伊勢隠れていたときも救済木米は後に京焼陶工として大成した享年73伊勢山田天神岡葬られる印譜に『蠖庵印譜』がある。 蠖庵の生涯福井端隠の『符先生寿伝』に伝えられる

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河井章石」の記事における「略伝」の解説

京都寺町二条南腕利き印判師として知られる川井仙右衛門次男として生まれる。兄の河井荃廬同じく篠田芥津について篆刻を学ぶ。明治36年、荃廬が東京移り住んだので家業である河井生々軒を引継いだ。また金声印社を結び、多く篆刻家育てることに尽力した文人系・官印系のどちらの印の制作もこなし、ほとんどの書体自家薬籠中のものとしたがとりわけ大和古印体優れた。また富岡鉄斎自用印を集めた無量壽佛印譜』、同じく今尾景年の『養素齋印譜』は章石とその一門鈐印して仕立てた印譜である。門弟水野東洞などがいる。

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木村竹香」の記事における「略伝」の解説

白根生まれ。はじめ名工大江萬里門戸叩いた断られそのまま東京赴いて中井敬所門人となる。一年修行し、敬所に香の一字許されて竹香と号する新潟帰り萬里真向い古町通りで開業版木屋を営む。その篆刻技術の高さに萬里舌を巻いたという。妻はマス詩文もよくし、骨董趣味高じた。あるとき、人の借金保証から家財没収され蒐集した骨董品すべてを失ってしまった。会津八一気に入られ親交が深い。 山田寒山とは同郷親交深く十六羅漢の印の制作依頼している。この十六羅漢陶土作成され紫檀の箱に入れその扉に五世浜村蔵六書した金石結縁 瓦礫放光」の文字を竹香が刻んだ巡錫中の永平寺監院星見天海開眼式を行うことになり大評判となった次男正平寒山娘婿となり、東京に出る。長男軍平と三男幸平北洋漁業従事して函館移住していた。ひとり暮らしを心配した息子達呼ばれて函館移住した。しかし、長年住んだ故郷忘れられずに帰郷し回向院新潟県新潟市西区)の副住職となる。昭和11年古希迎えると自らの葬式代わりに寿筵を催したその後再度北海道渡り昭和18年没した享年77

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羽倉可亭」の記事における「略伝」の解説

京都伏見稲荷祠官である延年の子で同宗目代の信賢に養育されその継嗣となった14歳従五位下駿河守17歳非蔵人十八目代となるが、24歳のとき職を辞して各地遊歴した。 幼少のころに村瀬栲亭について経学と書学び、僧月峯に画と篆刻教え受けて、後に岡本豊彦に画を学んだ。売書売印の生活をしながら江戸出て大窪詩仏門下となり、細川林谷篆刻の法を受ける。明治維新後、宮内庁御璽山水図納めている。特に有栖川宮熾仁親王寵遇を蒙っている。 米寿祝賀祇園中村催し山階宮晃親王久邇宮朝彦親王から祝の和歌を賜っている。 翌明治20年8月竹坊にて没した稲荷山墓碑がある。息子南園篆刻生業としている。 東京芸術大学大学美術館山水図などが収蔵されている。

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渡辺秀実」の記事における「略伝」の解説

唐絵目利渡辺秀詮実子。父が43歳のときに生まれた。画はこの父に学びかたわら南蘋派真村廬江にも教えを受ける南蘋派華麗な画風北宗画の力強い画風併せ持つ画風であった享和2年1802年)、唐絵目利職に就任同時に渡辺家7代家督世襲した。しかしなぜか御用絵師はなっていない。先輩石崎融思とは対照的で「性狷介にして妄りに交わるを喜ばず」と評されている。両者にはなんらかの確執があったものと推定される渡辺家初代秀石とその師の小原慶山生涯にわたって敬慕した。 『長崎画人伝』・『歴代画家提要』(1825年)を著している。また流派確立のために夥しい数の粉本収集整理尽力したが、嫡男の秀乾の夭折文政12年1829年)によりこの粉本散逸した門弟荒木千洲・村田皐などがいる。

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望月金鳳」の記事における「略伝」の解説

大坂平野町現在の大阪市中央区)で、接骨医平野浄恵の次男として生まれる。幼名数馬別号小蟹。後に望月家継いだ9歳頃、円山派の手ほどきを受け、この頃は芳号した。後に四条派西山芳園にも学び金鳳号する17歳のとき剣道身を立てようと養家去り京都近辺志士剣客と交わる。しかし、時勢変化武術の道は諦め明治9年1976年上京して内務省勤めた後、開拓使仕官した30歳から15年北海道官吏として暮らすなか、多く動物飼いながらその生態観察して写生努めた明治15年1882年内国絵画共進会北海道から作品を送る。明治23年1890年)職を辞して再び上京第3回内国勧業博覧会出品し浅草清町に塾を開く。主に日本美術協会動物画を出品し、しばしば賞を得た明治29年1896年日本絵画協会結成されると、「枯木」で一等褒状受賞する。しかし、明治31年1898年日本絵画協会審査方針に不満を抱いた野村文挙鈴木華邨らと日本画会結成し、その審査員となる。「新機軸」という言葉を嫌い、拙くて自分研究した絵を描け門弟指導した明治42年1909年文展審査員務め正派同志会会員でもあり、日本美術協会出品作はしばし宮内庁買上げとなった大正4年動脈瘤のため死去享年69

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市河恭斎」の記事における「略伝」の解説

稲毛屋山の子備中庭瀬藩仕えた市河米庵門下で書の才能開花した米庵継嗣がなかったので請われ養子となる。性格温和で人に好かれた。書はとりわけ小楷優れ小米称された。詩文をよくし、篆刻巧みであった江戸下谷住んだ38歳夭折した

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隆子女王 (伏見宮貞敬親王王女)」の記事における「略伝」の解説

伏見宮貞敬親王11女として生まれる。 天保12年1841年10月12日突如伏見宮家御殿から乳母と共に家出するという騒動起こす伏見宮家京都所司代まで失踪届を出すほどの大きな騒ぎとなり、結局10月29日年上の甥(系譜上は異母兄)に当たる勧修寺門跡済範入道親王(後の山階宮晃親王)と同行しているところを与力同心明石発見され、京に連れ戻される。この騒動対す時の天皇仁孝天皇怒りすさまじく、済範は門跡解任された上、親王身分取り上げられ東寺幽閉伏見宮邦家親王隆子女王異母兄、済範の実父)も閉門処分となった当事者である隆子女王出家させられ瑞龍寺生涯お預かり処分となる。 生涯処分解かれることはなく、万延元年1860年)に病気のため瑞龍寺死去中宮寺門跡隆子女王の妹に当たる尊澄成純の働きかけにより賀陽宮朝彦親王誓願で罪が許されたのは死後4年経った元治2年1865年正月のことであった

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長谷川延年」の記事における「略伝」の解説

先祖豊臣氏家臣で後に三条家仕えたという。延年京都生まれ父の事情ですぐに大坂に連れて来られ松江町に住む。戸籍上、蒿善兵衛長男となっているが、自身長谷川慶三が父と述べている。 15歳の頃伝来した道教善書感応篇』・『陰隲文』を読み衝撃を受ける。これ以降生涯通じて道教信仰した。21歳の頃に善書集大成文帝全書50巻を入手。この一部模刻して施本した。そののち善書模刻写本精緻行っている。道教信仰全身全霊傾けその精進のためとした。31歳天保4年)の時、今まで模刻した善書をすべて合わせ綴じ『覚夢篇』として施本。35歳天保8年)の時、大塩平八郎の乱によって居宅焼失模刻してきた版木悉く失ってしまい、手元には『覚夢篇』一冊のみが残った。これ以後、施本活動途絶えた。なお、大塩平八郎とは親交があったといわれる延年篆刻前川虚舟の印風に近く石鼓派に分類される。自刻印印譜『鞱光斎篆刻印譜』は文政7年9月最初の「乾巻」が編まれてから延べ50冊に至るまで累々と編まれた。これは善書の施本活動同じく道教信仰精進現れで「諸悪莫作 衆善奉行」を為すことにほかならなかった。安政4年1860年)にはついに日本における古印の集大成称される博愛集古印譜』を上梓する。これは藤原惺窩高芙蓉藤貞幹穂井田忠友・源嵩年などの古印譜から700余り印影集め緻密に模刻した印譜である。 34歳のとき三条家仕え69歳にて致仕している。55歳杉原氏世津を娶るが、子どもに恵まれず、後に養子迎えている。享年86法名釈了真。慶徳寺大阪府八尾市南本町)の杉原家墓地に葬られる

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アフリク・シモーネ」の記事における「略伝」の解説

彼はブラジル出身の父とモザンビーク出身の母との間にブラジル生まれたが、9歳の時(彼の父の死後)彼と母はモザンビーク首都ロウレンソ・マルケス(つまり現在のマプト)に移らざるを得なかった。一度、彼がマプトステージ立った時、彼のマネージャー彼にロンドンに来るよう頼んだロンドンにおける最初ショービジネスステップとして、彼は他のヨーロッパ諸国首都での出演で、貴重な経験集めた。彼はギグヨーロッパ全土で行う経験持った彼にとって幸運にフランスレコード大君Eddie Barclayがパリでのショーに来た。彼等はすぐに契約書サインしたアフリク・シモーネドイツ語、英語、ポルトガル語フランス語アフリカ諸語を話すが、彼の歌はスワヒリ語他の言語ミクスチュア書かれている。このアイデア結果的に自身母語ヨーロッパハッピーサウンドミクスチュアする結果となった近年彼はモスクワ出会ったロシア人の妻と共にドイツベルリン)に定住しフランスイタリアドイツリトアニアTVショー出演している。

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福田半香」の記事における「略伝」の解説

文化元年1804年)、遠江国見附宿現在の静岡県磐田市)の脇本陣隣の旅籠営み町役人務めていた家に生まれる。母方大久保家生家近く淡海國玉神社神主をしていた。父・市郎右衛門国学学び本居宣長入門している。幼少の頃から絵を好み文化10年1813年)頃から掛川藩御用絵師村松以弘に絵を習う。同門平井顕斎がいる。この頃は、出身磐田近くにある「今の浦」という小さな湖に因んでか、「磐湖」の号を用いている。 文政7年1824年21歳江戸出て尾張出身の匂田台嶺(まがた たいれい)に1年ほど学ぶ。その後一度郷里見附戻り3年間家で私塾手伝いながら、写生花鳥画独学し毎日100描いたという。天保元年1830年)頃から「半香」の号を用いるようになる。 やがて遊歴の旅に出て天保4年1833年4月30歳の時、田原帰郷中だった渡辺崋山訪ね崋山筆『客参録』)、山本梅逸らの諸先人の絵について語り合う翌年再び江戸へ出て以後崋山教えを受けながら主に江戸で活躍する。その一方関東地方中心に巡業行い糊口しのいでたようだ梁川星巌筆の斡旋状が残っており、星巌のような著名な文人仲介頼りに、地方旧家回って画作依頼受けてたようだ崋山田原永蟄居になると、天保11年1840年10月田原まで崋山訪ねて喜ばせている。半香生活費工面もしていたらしく、蟄居状態で公に絵を売れず困窮している崋山の生活を助けようと書画会企画する。ところが、これが田原藩問題視され崋山切腹追い込む原因となってしまう。この事件半香にもショック与えたらしく、同時期の作品にも精彩を欠くが、やがて立ち直り緻密繊細な作品を残す。 元治元年1864年)、61歳病没戒名蔭舎暁夢居士崋山死に追いやった事を生涯悔やみ地下崋山謝罪するため、渡辺家菩提寺である小石川富坂善雄寺に葬らせた。善雄寺には、大沼枕山撰文墓碑銘があり、磐田市大見寺にも石川鴻斎による、没後大正13年1924年)に建てられ顕彰碑がある。 明清画学び穏やかな描写半香持ち味がある。若いころ緻密な着色多く晩年になると水墨画作品目につくようになっていく。崋山弟子ではあるが、師と異なり絵師として分を弁え西洋画関心を持たなかった。兄弟子椿椿山花鳥画を得意とし、椿山には及ばない感じた半香山水画に心を注いだが、花鳥画にも佳作残している。

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生田良佐」の記事における「略伝」の解説

1837年天保8年)、大野毛利家家臣郷校弘道館学頭務めていた生田箕山次男として周防国熊毛郡大野村生まれる。幼少から聡明で、妙円寺勤王僧である月性指導受けた1858年安政5年7月には吉田松陰松下村塾入り松陰教え受けたこのため安政の大獄起こって松陰老中間部詮勝暗殺計画すると、その計画賛同したために長州藩捕らえられ弘道館監禁された。 松陰没後1859年安政6年11月許され出獄し藩校明倫館入学したが、5か月後に眼病かかって失明しその後闘病生活続けながら文久元年1861年11月12日死去した享年251888年明治21年)に靖国神社合祀され、1924年大正13年)に従五位贈られた。

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池永道雲」の記事における「略伝」の解説

先祖相模国小田原土豪文禄年間江戸出て薬種売って生計立てた。やがて業が成り富裕な薬種商となった道雲はこの薬種商嗣子として江戸人形町生まれる。幼い頃から学を好み書をよくし、榊原篁洲師事した。また細井広沢師友となり最も親しく交わっている。篆刻黄道謙に私淑している。長じて書家篆刻家として名を成した家業怠ることなく家訓守り隆盛させ、長子の道習(宗右衛門)に譲っている。隠居後文房清玩凝り、興が乗れば揮毫篆刻し、飽きれば琵琶奏でるという悠々自適の生活を送っている。 篆書を誰よりも深く研究した。『篆海』・『篆髄』・『三体千字文』など、1850余巻の浩瀚な書を著す。とりわけ一刀万象』が刊行される清国人なども賞賛惜しまず、その名声海外にも聞こえたという。当時名士競ってこの書を買い求めようと門前集ったが、「100しかないので友人知人にのみしか分けられない」と断っている。権大納言藤原俊清・参議菅原長義使いにも同じ返答だったが、霊元上皇妙法院法親王上る聞く及んで大変な名誉である」として装帙に入れてこの書を渡した後日上皇はたいへん喜ばれ、香品など下賜された。なお、この『一刀万象』は上中巻では千字文刻し下巻では169印の印影掲載しており、日本印譜嚆矢となった。 自らの死期察する親戚旧知会い沐浴して「吾まさに道山に帰休せんとす」と告げた。それから平家二曲琵琶奏で家人に自らの葬儀指示をし墓碑を撰したのち、浩然と逝ったという。浅草誓願寺塔頭受用院に葬られたが、昭和2年に、受用院の移転に伴い東京都練馬区田島山十一ヶ寺に移葬された。門弟勝間竜水がいる。

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横田汝圭」の記事における「略伝」の解説

谷文晁門下鳥越明神前に住む。中国元・明の画風慕い山水図花鳥図を得意とした。一時甲州移り住んだが、再び江戸戻り気まま生活したという。 尚歯会加わり狩谷棭斎松崎慊堂渡辺崋山亀田鵬斎渡辺南岳など多く文人交流があった。尚方鑑(古銅鏡)を所蔵し記録がある。 行年78歳下谷長久院埋葬される伝存作品少ない。

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大岡利右衛門」の記事における「略伝」の解説

大岡利右衛門は、天保3年1月4日1832年2月5日)に近江国野洲郡比留田(後の中里村、現滋賀県野洲市比留田)で大工を営む傍ら農業を行う、大岡宇八と妻浪の第三子として誕生した利右衛門育った近江湖南地域では少年時近江天保一揆起こり米作り生きる村人約4万人自分達の生活を守るために命がけで立ちあがった利右衛門近江天保一揆農民立ち上がったことに、深く感動していたことが伝えられている。幼い時から農業興味持ち農業改良新し米づくり夢見ていた。 安政4年1857年)、利右衛門分家し僅かだが自分の田を持つと、米の生産増やすための様々な工夫試み一人行い始めた最初に分散している田を一カ所に集める為、近隣農家土地交換交渉行い実験成果一目でわかり、かつ農の効率求めた。「良い米が作れた」「沢山の米が収穫できた」などの話を聞くとそこに行き耕作方法聞くと共に稲の品種改良のためには籾種交換選択必要なことから、各地良い籾を分けてもらい自分の田で育てた明治14年1881年)には、利右衛門農業改良への実績認められ野洲郡北部試作人を命じられた。利右衛門は、実りが多い稲ができた時には自作の籾を農家分けた近隣分けた量は明治17年1884年)には、43200余人農家27石にのぼった伝えられる利右衞門作り出した品種としては「大岡」「新日光」などがある。この後多く品評会利右衛門作った米は様々な賞を得た江戸時代田植えは稲をばら撒き行われ、今のような規則正しく植える「正条植え」はほとんど行われていなかった。利右衛門は稲がよく育つためには日光風通し大事だ考え毎年正条植え」を続けた結果明らかに収穫に差があることがわかり、正条植え農民等に奨励し、自ら指導を行うと共に普及努めた滋賀県では明治後半には多くの田で正条植えが行われるようになったまた、田を取り巻くように植えられた畦地の木については、稲への日光を遮るものとしての伐採代わりに畦地での大豆栽培推奨した。昔から琵琶湖増水による水害に度々襲われ湖岸地域に対しては、水害に強い雑穀育成指導した利右衞門多く農家より良い収穫得られるように努め姿勢評価され明治29年1896年4月緑綬褒章受章した利右衛門は、より良い米作り豊かな農村作り一生をかけ、大正元年1912年死去した

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真村廬江」の記事における「略伝」の解説

長崎博多町住み早くから熊斐入門沈南蘋直伝画技を受ける。師熊斐没した後、来舶清人方西園に画を習い独自の画風確立する淡彩基調とした清新雅な作品が多い。 一時期豊後日田五石の家に寓居して創作活動行った田能村竹田竹田師友画録』)。享年42門弟唐絵目利渡辺鶴洲がいる。子の真助は唐絵目利荒木家養子となり荒木君瞻と名乗り画を画いた

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高橋廣湖」の記事における「略伝」の解説

熊本県鹿本郡山鹿町松坂現在の熊本県山鹿市)に、浦田長次郎と登喜長男として生まれる。本名は久馬記(くまき)。長次郎熊本藩御用絵師矢野良敬に師事雪舟流れをくむ雲谷派学び地元山鹿画塾「観堂」を開いていた。翁・長の号を持ち今でも山鹿周辺の寺社には長次郎描いた絵馬多く残っている。初めは父に絵の手ほどきを受け、同じく次弟一二(号は天鹿)、四男の四郎(号は湖月・廣香)も日本画家になっている明治25年1892年17歳熊本在住南画家犬塚琴に弟子入りする琴は道釈人物画を得意とし、廣湖も南画筆法人物画研究打ち込む3年後明治28年1895年)には、初号「天鹿」を名乗り熊本移住する熊本では市内の新鍛冶橋にあった絵画研究所共進舎」の教員となり、絵の指導行いつつ、西洋陰影法写実性取り入れよう模索する。また同年結婚している。 翌年熊本東雲座巡業来ていた高橋こうと出会う。こうは幕末明初の新吉原一世を風靡した花魁今紫3代目)で、この頃は「阪東かおる」「高橋屋今紫」「錦糸」の名で男女合同劇の女優となり各地巡業していた。廣湖が舞台上でのこうの舞姿を連日スケッチしていると、ある時こうから声をかけられるスケッチ出来栄え感心したこうは、東京絵の修業をするよう促した。こうと廣湖は二人がかりで父を説得して上京高橋家菩提寺繁成寺寄宿し明治30年1897年亀井裕記なる人物の紹介松本楓湖内弟子となり安雅堂画塾入塾する。門弟の中では今村紫紅同期で、速水御舟小茂田青樹と共に研鑽した。翌年香川県琴平門弟派遣するのに自ら志願四国遊歴するこの頃、師から廣湖の号を授かる明治32年1899年安雅堂画塾生が多く加わる巽画会参加同年第7回日本絵画協会第2回日本美術院連合絵画共進会に《趙宜子仮寝》を初出品し二等褒状を受ける。翌年安雅堂画塾から独立し一時熊本出身人形師安本亀八亭を間借りした後、浅草区三好町現在の台東区蔵前)の一軒家に移る。 同年第8回日本絵画協会第・3回日本美術院連合絵画共進会に《四季》《苦心経営》《雪月花》を出品第9回日本絵画協会第4回日本美術院連合絵画共進会に《春夏秋冬》《秋風》《子供》を出品し銅牌受賞第10回日本絵画協会第5回日本美術院連合絵画共進会に《天孫降臨》を出品し銅牌受賞。続く第11回日本絵画協会第6回日本美術院連合絵画共進会にも《天孫降臨》を出品し銅牌翌年第12回日本絵画協会第7回日本美術院連合絵画共進会に《貴賎苦楽》(熊本県立美術館)を出品し銅牌第13回日本絵画協会第8回日本美術院連合絵画共進会に《美人摘草》《田家驟雨》《元寇》を出品し銅牌翌年第15回日本絵画協会第9回日本美術院連合絵画共進会に《馬上の杯》《女風呂》を出品第5回内国勧業博覧会に《薬狩》を出品するなど、キャリア重ねていく。一方日本美術院内の研究会・互評会を統合した二十日会紅児会橋本雅邦川合玉堂らが結成した二葉会、小堀鞆音らによる歴史風俗会などに参加、更に研究に励む。この頃千住人々とも交流旦那衆が支援団代「芳廣会」を組織し、廣湖の活動支えた。なお、高橋こうも上京後熱心に廣湖を支援し続けていた。廣湖は相続者不在だった高橋家を継ぐことを決意し、再び父を説得し明治33年1900年)廣湖の家督廃嫡その後次弟一二譲り明治39年1906年)ようやく高橋家夫婦養子となることが認められる同年今村紫紅とともに巽画会評議員となり、翌明治40年1907年国画玉成会結成する際には発起人一人となる。同年締切に間に合わず第1回文展に《重盛諫言図》が出品拒否されると、後藤新平働きかけ同作展示する個展開かれ、廣湖の名は上がった明治44年1911年花房義質からその一代絵巻尾竹竹坡分担制作依頼されると、翌年5月その取材のため朝鮮旅行する。ところが、旅行中猩紅熱にかかり、帰国後これが悪化6月2日湯島天神町の自宅急逝してしまう。享年37翌年巽画会主催で「故高橋廣湖遺墨展覧会」が上野竹の台陳列館開かれ、『故高橋廣湖作品画集』が刊行された。 弟子堅山南風亀井琴仙など。なお、父が没する浦田家は上京家督と天鹿の号を継いだ次弟一二その後不明だが、四男の四郎亡くなるまで日本画家として活動続け息子日本芸術院会員となった浦田正夫がいる。

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住吉廣賢」の記事における「略伝」の解説

伊予松山藩御用絵師遠藤實の三男として生まれる。遠藤家は元々江戸住み狩野興以の子・興甫に連なる一族だったとも推測されるが、少なくとも祖父遠藤廣古の代には住吉派転向し江戸で松山藩仕えようになった。父・広實も父の跡を継いで松山藩仕え江戸幕府御用絵師住吉廣行弟子だった。廣賢も廣行の次男住吉家を継いでいた住吉弘貫(廣定)に絵を学ぶ。実兄である遠藤廣宗・貫周は既に弘貫に学んでいる兄弟子で、弟弟子山名貫義がいる。時期不明だが弘貫の養子となり、1863年文久3年に弘貫が亡くなると、翌年30歳で跡を継ぎ幕府御用務めた。 しかし、1868年5月11日慶応4年4月19日)に若年寄服部常純から御用絵師の職を解かれた旨を通達される徳川家静岡下向付き従おうとしたが、病身のため同行できなかった。ところがこれが幸いし同年9月17日新政府への出仕命じられ東京府貫属とし家禄として現米13石を支給された。11月13日18日行われる明治天皇による新嘗祭用い砂子泥引の四季花鳥図屏風一双制作急遽命じられ18日当日奉納したその後新政府への画事は続き、翌1869年明治2年会計官租税司の図籍方へ移動1871年明治4年9月大蔵省、後に内務省出仕となり、大小広範囲に渡る画事を依頼される1875年明治8年内務省地理寮11出仕免職となるが、東京国立博物館やに現存する古画模本多くがこれ以降制作されたと見なせる事から、その後官公庁半官的な職務請け負ってたようだ1878年明治11年)にアーネスト・フェノロサ来日すると、狩野友信狩野永悳と共に彼の日本美術研究協力した享年49歳戒名は常輕院深達廣賢居士墓所は、『東洋美術大観』や『東京美術家墓所誌』によると護國院だが、現在は多磨霊園にある。跡は息子住吉廣一が継いだ大成せず39歳若さなくなったため住吉家も途絶えた弟子高取稚成など。

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山田寒山」の記事における「略伝」の解説

曹洞宗の僧であったが、18歳の頃、小曽根乾堂訪ねて篆刻について問い24歳のときに福井端隠入門し高芙蓉流れを汲む古体派篆刻を学ぶ。明治16年最明寺熊野市二木島町住持任されるが同19年には辞して大坂に出る。同28年東京移り住み瓢箪池畔に仙堂と名付けた庵を結ぶ。同30年清国渡り呉昌碩親しく交わりその門下となっている。 伊藤博文自用印を受けてから知遇得て交際深めた倭寇奪われたという蘇州寒山寺梵鐘国内捜索した発見できず、新たな梵鐘鋳造するときに博文にその銘文撰定依頼その後寒山寺檀徒総代託している。清国から帰朝した後、博文らの賛助得て大正4年1915年千葉県海上郡野尻村長山現在の銚子市長山町)に寒山寺別院建設し住職となる。 「寒山寺#寒山寺の鐘」を参照 明治40年1907年)に河井荃廬をはじめ初世中村蘭台五世浜村蔵六岡本椿所らと丁未印社を結成。他にも益斎富鴻の『印章備正』の刊行中村不折と書会を催すなど活発に行動し後進育成篆刻芸術発展尽力した篆刻家木村竹香とは新潟同郷生涯の友として交際した。竹香の編集した著名な印譜羅漢印譜』に寒山傑作収録されている。また竹香の次男正平娘婿迎え篆刻業を継がせている。 その篆刻豪放磊落作風知られ高芙蓉正統流れ汲み、自らその五世と称した高芙蓉源惟良小俣蠖庵 - 福井端隠山田寒山 - 山田正平 篆刻には篆書以外にも隷書楷書・行書・草書大和古印体仮名梵字など自由闊達用い印材多様石印以外に鋳造印・陶印木印などを製作している。また多芸多才であり、篆刻以外にも詩・書をよくし、画・陶芸巧みだった。生涯清貧暮らした大正7年(1918年)12月26日下谷区下谷町にて亡くなる。享年62歳。戒名は「自得寒山想潤居士」といい、紀州最明寺葬られた。なお、鎌倉円覚寺分骨もされている。

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清原雪信」の記事における「略伝」の解説

探幽門下四天王のひとり父・久隅守景と、同じく探幽四天王数えられる神足常庵の娘で、探幽の姪に当たる母・国との間に生まれる。伊藤仁斎の子伊藤梅宇著の『見聞談叢』では、宇の祖母・那倍は「画工狩野信」と親しかった記され、その談話がよく引用される。それによると、信は狩野法眼探幽)の姪で、17・8歳で絵を良く日々法眼通っていたが、稽古の時尼崎仕官の子通じた。これを清信の母が強く叱ったため、家を出てその男別宅し画を描いて渡世とし、後に大い繁盛し尼崎にて没したという。 探幽の弟狩野安信高弟狩野昌運記した昌運筆記』では、清原氏嫁いで京都住んだとし、さらに「白石蔵本狩野系図」という資料を引き、探幽門人清原氏平野兵衛清に嫁したとする。しかし、落款の「清原氏女」を素直に解釈すれば本人清原氏だと考えられ神足一族家系図から清原氏祖父・常庵の姓だと見なせる。信が父方ではなく母方の姓を名乗ったのは、神足家山城国西岡現在の京都府長岡京市)の国人で、その盟主存在という由緒ある武士の家だった。更に母の家系探幽連なっていることを踏まえれば、信にとって「清原氏」とは自らの家系・画系の正当性保証する名前だったと考えられる白井華陽筆の『画乗要略』では、絵を探幽学び識者女性画家の中で一番だと讃えたという。 井原西鶴の『好色一代男』巻七「末社らく遊び」における島原太夫衣装は、白繻子の袷に信が秋の野描き公家和歌添えた記され談林蕉風与謝蕪村俳句にも詠まれた。更には女絵狩野雪姫」「富仁親王嵯峨錦」「祇園祭礼信仰記」の浄瑠璃歌舞伎作品などで、信をモデルとした「雪姫」という人物登場するし、当時人気の高さが窺える。娘に同じく絵師だった清原春信がいるが、活動時期短かったらしく現在作品3点しか知られていない

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山本光一」の記事における「略伝」の解説

酒井抱一弟子山本素堂長男四世継いだ酒井道一実弟江戸時代中期儒学者山本北山曽祖父に当たる。三世酒井一の門人で、新吉原江戸町住んだ明治7年1874年)に設立され起立工商会社では、鈴木其一次男一や、其一門人の稲垣其達と共に製作下絵描き明治14年1881年)の時点では中心的存在だった。東京芸術大学大学美術館には749点もの図案残っており、これは画工名がわかる図案の中では最も多い。図柄だけでなく、洋風器物の形も一緒に考案し金工蒔絵など多様な技法による製品化要求答えるなど、幅広い仕事をしている。明治10年1877年)の第一回内国勧業博覧会で、漆器図案花紋賞を受賞翌年パリ万国博覧会に行く話もあったが、同僚渡辺省亭にくじで敗れパリ洋行は叶わなかったという(「西尾卓郎翁の談話」)。明治13年1880年)に竣工した靖国神社燈籠図案担当する明治15年1882年第一回内国絵画共進会翌年第一回パリ日本美術縦覧会にも出品している。明治22年1889年)には熱海遊び当地名所絵なども描いている。 しかし、明治24年1891年起立工商会社閉鎖されると、どこからか誘いあったらしく金沢へ居を移し後半生北陸舞台活躍した明治29年1896年)頃までは金沢工業学校現石県立工業高等学校)に、翌明治30年1897年3月から翌年9月までは富山県立工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)にも図案絵画教師として在職している。金沢では拈華会を主催し日本画加賀友禅若手作家育成した岡本光谿、伊藤光下村など、「光」の字を継ぐ画家たち光一門人たちである。日本画家石崎光瑤この頃弟子で、晩年まで長文の手紙を出すなど子弟交流があった。明治30年1897年)に光瑤に雅号授与する送り状では、自らを「尾形専門」と称し本阿弥光悦俵屋宗達尾形光琳以降絵師系譜記した尾形系統略」という系図南砺市立福光美術館)を贈っている。創刊間もない北國新聞からも挿絵依頼されたらしく、北国新聞社にはその原画残っている。後に粟津小松にも在住し数々屏風絵を残す。明治38年1905年)頃石川から姿を消し消息途絶えるが、一説には京都行ったともいわれる人物画草花図など幅広い画題をこなし、屏風絵大作多く残すなど、近年多く作例知られ始めている。

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滝和亭」の記事における「略伝」の解説

江戸千駄ヶ谷生まれる。本姓田中幼名長吉、名は邦之助。7,8歳頃近所佐藤翠崖に学び山、翠山と号するまた、荒木寛快片桐陰(渡辺玄対門人)にも学んでいる。大岡雲峰坂本浩然師事したのち、長崎遊学する日高鉄翁学び陳逸舟などの清国人とも交わりをもつ。安政元年1854年江戸帰る幕府仕え安政3年1856年)から諸国歴遊し、慶応2年1866年江戸帰るウィーン万国博覧会フィラデルフィア万国博覧会シカゴ万国博覧会出品し内国勧業博覧会内国絵画共進会では毎回受賞する明治26年1893年9月25日帝室技芸員となる。美学者滝精一息子弟子に、和亭の二女縁組した原丹荒井寛方の父・荒井佐藤紫煙女流画家波多野華涯など。

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胡震」の記事における「略伝」の解説

生涯にわたって仕官せず布衣のまま過ごした。書は篆書八分に非常に精しい篆刻銭松啓発され、深い親交結んだ広東の厳荄が『銭叔蓋・胡鼻山両家刻印2巻編集している。後の呉昌碩がこの二人絶賛し影響受けていた。作風は素野趣があるとされる

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終南浄寿」の記事における「略伝」の解説

小島息安の次男として生まれる。伊藤岡の実弟で、この兄より書法受けた。わずか9歳にて山代甘南備寺得度し享保14年1729年)に南嶺元勲法嗣となる。のちに洛北神光院萬福寺聖林院住持となる。悟心元明とは親友でともに江戸遊学し詩文通じ書名馳せた洛東岡崎では介石庵を結び大典顕常大潮元晧・木村蒹葭堂高芙蓉文人交わった享年57萬福寺万松崗に墓所がある。 印譜『巽斎捐因』や『終南悟心印譜』にその刻印掲載されている。

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鶴澤探山」の記事における「略伝」の解説

出身江戸とも京都とも言われるが、後に京都活躍したことを踏まえれば後者可能性が高い。探幽最晩年弟子で、探幽四天王中に探山が入ることもある。元禄年間東山天皇勅書により上洛それまでの探川の号を探山に改める。1700年元禄13年)に法橋位を得る。1708年宝永5年)に完成した第五皇子慶仁親王中御門天皇)の御所障壁画制作するその後宝永度の内裏障壁画や、1713年正徳3年)の近衛尚子女御御所障壁画小浜千石障壁画などに彩管振ったこうした禁裏御用絵師としての活躍認められてか、晩年1724年享保9年法眼叙されたが、その5年後に死去享年75。墓は京都善導寺息子鶴澤探鯨鶴澤派を継いだ弟子橘守国など。 壮年期御所障壁画が殆ど失われたため、画名の割に現存作品数は多くない画風探幽によく似ており、余白広め取り構図簡略化し、少な筆致対象描き出している。そのため、落款「山」の字を「幽」に書き換え探幽画とする者がいたという逸話残り実際そうした改変の跡が認められる作品残っている。

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ミハイル・ポクロフスキー」の記事における「略伝」の解説

1891年モスクワ大学文学部卒業する1905年ロシア社会民主党入党しボルシェヴィキ所属する1906年に党のモスクワ市委員1907年中央委員となる。1909年パリ亡命し研究活動や党機関紙である「ナシェ・スローヴォ」の編集在外学校講師仕事従事する1917年ロシア革命始まってから帰国しボルシェヴィキでもなくメンシェヴィキでもない「メジライオンカ」と称されグループ所属した。「イズヴェスチア」紙の編集委員をへて、十月革命後はモスクワ・ソヴィエト議長となり、ブレスト・リトフスク講和会議にも出席している。1929年からは科学アカデミー正会員社会主義アカデミー初代総裁ソヴィエト史学重鎮として外交文書革命資料編集諸種雑誌編集後進である歴史家養成あたったその死後になってロシア共産党から除名されスターリン批判後の1962年に名誉回復され1967年には著作集4巻公刊された。

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山鹿秀遠」の記事における「略伝」の解説

菊池系図』によると、大宰権帥藤原隆家の子政則が父と共に大宰府下向し、鎮西兵頭宣旨受けて号したその子則隆は肥後国菊池下って領主となり、菊池称した。秀遠はその子孫・経遠の子とするが、『尊卑分脈』で隆家の子に政則の名は見られない『平家物語』大宰府落」で、都を追われ平氏一門九州逃れて来ると、平家から源氏方に転じた緒方惟栄追い払らわれ、平家の家人であった秀遠と原田種直軍勢率いて迎え参じたが、両者不和のため、種直は引き返している。秀遠に伴われ平氏一門一時秀遠の山鹿城立て籠もったが、敵が攻めてくるとの知らせで再び海上逃れた『平家物語』では秀遠は九州第一精兵とされ、壇ノ浦の戦い平家方の大将軍として軍船率いて奮戦した戦後所領没官となった『吾妻鏡』文治元年12月6日条)。

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今井順斎」の記事における「略伝」の解説

松浦静軒の子で、代々続く医業継いだ様々なに就いて医業研鑽一家成した傍ら篆刻嗜み、篆学に精しく一説亡命した明の石周麟学んだという)鉄筆揮った貞享3年1686年)に江戸出て池永一峰の家に寓居してともに篆刻研鑽した。一峰の『一刀万象』に序文寄せ、そのタイトルも順斎が名付けたという。篆刻黎明期にあって唐・宋以降装飾的な印風を排撃し古印を尊ぶ姿勢示している。法帖模刻したが、技術未開発劣悪だった。貞享年間榊原篁洲細井広沢正面刷の技法編み出し以来法帖精度格段に高まった。後にこの方法を世に紹介している。 元禄2年1689年10月医師として水戸藩仕え正徳5年1715年3月には幕府侍医に至る。

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益田遇所」の記事における「略伝」の解説

幼いうちから長橋東原について書を学び、また経学好んだこの頃東嶺号している。次に益田勤斎入門し篆刻を学ぶ。勤斎門下抜きんでて技量優れていた。天保4年1833年)に勤斎が没する継嗣がなく親戚らが協議して所を養子迎え入れて跡を継がせた。盛名高まり名士こぞってその印を求めた安政4年1857年)と安政6年1859年)には幕府の名を受けて印を刻し賞賜授かっている。江戸下谷和泉通り付近に居宅があった。門弟には中井敬所育ち、子の香遠が家業引き継いでいる。 作風高芙蓉古体派であったが、独自の作風加えて新味出し、号に因んで浄碧居派と称している。常日ごろから『氏印略』や『秦漢印存』などの印譜を範としていた。

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略伝

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マックス・ベア (ジャーナリスト)」の記事における「略伝」の解説

オーストリア帝国ガリツィア・ロドメリア王国現在のポーランド・ポトカルパチェ県)のタルノブジェク市に生まれた1889年ドイツ移住して「マクデブルク・フォルクスシュティンメ(ドイツ語版)」紙の編集者となり、その8ヶ月後に階級闘争けしかけドイツ軍官憲侮辱した罪で逮捕され有罪判決をうけ10ヶ月禁固刑科せられた。 1894年6月にはイギリス移住し翌年から1年間ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学ぶ。1897年にはパリに赴き、そこでドレフュス事件見聞している。さらにニューヨークへ渡り1898年から1902年における米西戦争フィリピン人反乱知り、後にアメリカ覇権主義成立としてドイツ社会民主党の「ノイエ・ツァイト(ドイツ語版英語版)」紙や「フォルヴェルツドイツ語版英語版)」紙に分析提供することになる。ベアは「ミュンヒェナー・ポスト(ドイツ語版)」紙や「ジューイッシュ・アルバイター・ツァイトゥング」紙の通信員でもあり、「エンサイクロペディア・ジュダイカ」の編集にも協力している。 エドゥアルト・ベルンシュタインイギリス去ってドイツ戻ったため、ベアは「フォルヴェルツ」紙のイギリス通信員となるよう要請され1902年から1912年までその地位にあった第一次世界大戦中1915年敵性外国人としてドイツへ追放され1919年から1921年まで「鐘 (Die Glocke)」紙を編集。この「鐘」は、ドイツ社会民主党極右属し、パウル・レンシュ(ドイツ語版)やコンラッド・ヘーニッシュ(ドイツ語版)やハインリッヒ・クノー(ドイツ語版)の仲間であったアレクサンドル・パルヴス資金提供されていたが、ベア社会民主党政治的道具から「鐘」を脱却させ、むしろ文化評論教育的な紙面作りめざしたためにパルヴスによって解雇されたという。1919年以後ドイツ革命に関するベア見解は、社会民主党フリードリヒ・エーベルトグスタフ・ノスケナチズムへの道を準備した、というものだった1927年からダヴィド・リャザノフ要請によりモスクワマルクス・エンゲルス研究所で、1929年からはフランクフルト社会調査協会ドイツ語版英語版)で活動しドイツ共産党所属していたが、ナチス権力奪取により1933年にはロンドンへ亡命余儀なくされ、同地死去した

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略伝

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アルフォンソ・デ・リゴリ」の記事における「略伝」の解説

ナポリ近郊のマリアネッラ生まれナポリ大学法学修め法律家となるが、1723年父親反対押し切って聖職者となり、3年後には司祭となる。主にナポリ貧民窟孤児ハンセン病患者など当時疎外されがちだった人々中に入って宗教活動行い、この活動が基となって1732年レデンプトール会創設1762年にはサンタアガタ=デ=ゴッティ司教叙任されジャンセニスムとの論争傍ら道徳神学大きな足跡残した。 リゴリは告解のための摘要3巻著し、それによって教会下す刑罰時には厳しく時にはより寛大に操作できるようにした。それによって教会運営詐欺師娼婦商法のように柔軟性のあるものにした、というのが20世紀社会学者ワルター・ベンヤミン評価だった。

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伊集院須賀」の記事における「略伝」の解説

嘉永5年1852年)、縁あって西郷家嫡男だった吉之助(隆盛)と結婚するその際は吉之助の父母祖父母ともに健在であったが、同年に吉之助の祖父・竜右衛門、父・吉兵衛、母・政佐と相次いで亡くなり翌々年安政元年1854年)には吉之助自身藩主島津斉彬に従って江戸へ出府してしまったため、家計大い苦しくなった。その影響もあってか、江戸在府の吉之助に親族から相談持ちかけて離縁したその後の吉之助と弟兼寛の関係が悪くなった様子もないので、円満な離縁だったといわれる。しかし、吉之助は終生これを後悔していたという。その後消息歴史表舞台から消え一切不明である。

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徐渭」の記事における「略伝」の解説

徐渭の父の徐鏓(じょそう)は夔州府知府つとめた徐渭はこの父の召使いとの間に生まれた庶子であった正妻の童氏の子である二人の兄の徐淮(じょわい)と徐潞(じょろ)がいたが、徐渭生まれたときは既にこの正妻亡くなっていた。生後百日目で父が病死後妻だった氏が嫡母となって徐渭育てた6歳からエリート教育を受け、経学をはじめ八股文古琴琴曲剣術などを学んだ14歳のときに嫡母没し精神的な支柱を失う。20歳のときにようやく童試合格し秀才となる。その後20年の間に8度郷試に臨むも及第に至ることはなかったが、その間多く師友学友得て郷里では「越中十子」と称されたという。この中には画家の陳泰州知州のぼった公節などがいる。 20代はじめころ潘克敬の娘婿となり長男の徐もうけた25歳のときに長兄の徐淮が急死。すぐのち19歳若妻の潘氏が亡くなるという不幸が重なる科挙に受からず役人になることはできなかったため、やむなく家塾を営んだが生活は貧窮した友人頼って各地転々とするうち、32歳のとき紹興侵入した倭寇討伐軍に剣術の師である彭応時友人呂光升らと参加戦果挙げたことで胡宗憲など高級官僚から幕客私設秘書)として迎えられた。この頃名将として名高い戚継光兪大猷に彼らを讃える詩を贈っている。胡宗憲徐渭文才見抜き様々な文章代筆依頼した殊に1560年制作した鎮海記」が高く評価され褒賞を得る。これを元手40歳にして自宅となる酬字堂を建築。この模様を『酬字堂記』として著している。 しかし2年後胡宗憲不正事件連座失脚徐渭自身は罪に問われなかったとはいえ有力な後ろ盾失い生活は困窮。しだいに精神不安定になっていく。一旦は北京に職を見つけるがすぐに辞め紹興戻った。自ら「墓志銘」を書き2年間、9回の自殺未遂重ねた1566年、ついに狂気から妻である張氏を殺害7年獄中生活を送る。知人でありパトロンであった天復張元父子減刑釈放奔走し親身になって徐渭救出試みている。 釈放後、紹興近く名勝諸曁県五洩山に友人らと滞在し「遊五洩記」を著しその後杭州南京・宣府など中国各地遊歴多く人物交遊盛んに詩や画の制作文筆行った北京では武将李如松面識得て後に任地馬水口に賓客として厚遇された。1582年、病が進行し帰郷する家庭内不和長男の徐別居となり次男の徐(じょき)と暮らす。門戸閉ざし誰とも会おうとはせず遠出もすることはなかったが、制作意欲旺盛で「西渓湖記」など多く傑作残した1587年に再び、李如松招かれたため北京赴く途次徐州発病しやむなく自宅に戻る。徐のみが赴き幕客となっている。後にこのとき徐得た報酬充て徐渭詩文集を編纂した1593年、徐岳父屋敷仮寓自伝『畸譜』を書き上げると、その年に没した享年73

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ヘンリー・クリストファー・ベイリー」の記事における「略伝」の解説

ロンドン生まれる。オックスフォード大学に籍をおき、古典学んでいる。在学中に"My Lady of Orange" という歴史小説書いて小説家書誌学者アンドリュー・ラング認められイギリスアメリカ両国出版された。卒業とともにデイリー・テレグラフ紙入社し劇評担当し第1次世界大戦時期従軍記者になり、後にはリーダー・ライターとして認められる1914年頃から医者探偵役もつとめるレジナルド・フォーチュン主人公とする探偵小説シリーズ書き始め1920年には初めての短編集フォーチュン氏を呼べ Call Mr.Fortune』が出版され以来1948年まで長編短編あわせ23冊もの人気シリーズとなった欧米各国広く愛読され1950年代イギリス探偵小説としてはセイヤーズクリスティークロフツフリーマンとともに五大家と評価されていた。

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秦星池」の記事における「略伝」の解説

はじめ平陵師事し孫過庭摸す。のちに長崎で清の書家胡兆新書法学んだ楷書行書能くした。1823年に歿、行年61歳法帖に「清風帖」など。著作に「和漢対照書札」。

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吉村孝敬」の記事における「略伝」の解説

京都の人。吉村洲の長男として生まれる。洲は滋賀県野洲市農業を営む西川権三郎の息子で、幼少より寺院仕え絵師になったことが知られる洲も応挙学んだが、寛政2年1790年禁裏造営の際は、障壁画制作願書名を連ねながらも不採用になっている若い頃の孝敬についてはよくわかっていないが、幼少より父から絵を習い早く応挙門に入った考えられる寛政10年1798年小石元俊指導行われた腑分けに、父洲・木下応受(応挙次男と共に同席し、『施薬院男体臓図』(京都大学図書館などが所蔵)の解剖図を描く。享和2年1802年33歳の時、父と共に西本願寺本如宗主から「茶道格」を仰せつかる。そのため西本願寺の画事を多く務めている。 弟子に、子の吉村孝文wikidata)や、安政御所造障壁画制作参加した駒井孝礼がいる。

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杉山松助」の記事における「略伝」の解説

安政5年1858年)の吉田松陰による間部詮勝天誅計画をはじめとした過激な尊皇攘夷運動参加文久2年1862年)には京都に赴き、久坂玄瑞と共に活動続ける。藩主より功績認められ藩士の身分許された。 元治元年6月5日池田屋事件遭遇脱出して深手負いながらも長州藩邸に辿り着いて危険を知らせたが、重傷だったため助からず、翌日死亡した享年27明治24年1891年)、従四位贈られる

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中林竹洞」の記事における「略伝」の解説

竹洞は、名古屋産科医中林玄棟の子として生まれた。幼い時から画を好み14歳沈南蘋風の花画を得意とする絵師山田宮常に学ぶ。翌年尾張画壇パトロンとして知られ豪商神谷天遊才覚見込まれる同家引き取られひたすら古画臨模行って画法会得した天遊に連れられ万松寺出向いたとき衎(リカン元代)の「竹石図」を見て深く感銘したことから竹洞の号を授けられといわれる。このとき弟弟子山本梅逸王冕の「墨図」に感銘したことからその号を与えられた。19歳時には絵画をもって生計立てるにいたった享和2年1802年)、恩人天遊病没するとと共に上洛寺院などに伝わる古書画の臨模行い京都文人墨客交流した天遊友人内田著に仕事依頼受けて生計立てた30代後半には画家として認められ以後40年にわたり文人画家重鎮として知られた。墓所京都府黒谷真如堂墓碑に「竹洞隠士」とある。 竹洞は『画道金剛杵』(1802)や『文画誘掖』(文政二年〔1819〕刊・弘化二年〔1845〕刊の二版があって内容異なる)といった画論書を著し著作30種類超える中国南宗画臨模勧め清逸深遠趣きを表すべきである文人として精神性重要さ強調している。また室町時代からの画人47人を品等付けし、その上で池大雅最高位置いている。 その画風清代文人画正統派繊細な表現スタイルを踏し、幕末日本文人画定型といえる中国絵画規範に自らの型を作って作画するため構図趣向パターン化し多作なことも手伝い変化乏しくどの作品似たような印象を受ける。ただし、70年前後から亡くなるまでの最晩年は、筆数が少なくなり、素直に自身心情吐露し作品変化するのが認められる長男中林竹渓三女中林清淑南画家門人大倉笠山今大路悠山勾田台嶺斎藤畸庵高橋李村玉井鵞溪、梁川紅蘭がいる。

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宇喜多一蕙」の記事における「略伝」の解説

戦国大名宇喜多秀家七世の孫と言う京都出身初め田中訥言師事して7年土佐派を学ぶ。訥言は『伴大納言絵巻』の模本3本制作しそのうちの1本を一蕙に与えたとされ、一蕙も師に忠実に仕えたという。訥言晩年眼病病み失明を苦に自殺したとされ、こうした師の最期は一蕙にも強い衝撃与えた推測される。のちに土佐光孚にも学び大和絵古法修めて機軸出した画風古典的題材好み、師の田中訥言冷泉為恭とともに復古大和絵派巨匠として評価得ている。ただし、一蕙と為恭は互いに面識はあったものの、信条違いからか親交もたなかった。為恭の弟子田中有美回想によると、一蕙と為恭は私的な交わりではさほど不和には見えなかったが、一度画道の話となると互いに罵倒し合っていた。為恭は一蕙の絵には独創がなく、尽く古画模倣であり、彩色極めて稚拙だと評したことがあるという。天保3年高久隆古が、安政元年頃に若き富岡鉄斎入門している。また和歌書道にも通じ京都活躍した性格豪快剛直な熱血漢伝えられ古典を学ぶ内に尊皇攘夷思想傾斜嘉永6年1853年ペリー来航時には神風夷艦を覆す図」を描いて幕府ペリーの対応を批判安政元年1854年皇居造営に際しては「列所伝周宣姜」を描いて公武合体風刺した以後絵画によって尊皇活動展開し大老井伊直弼を陥れようと画策し信州松本勤王家・山本貞一郎近藤茂左衛門兄弟らと、青蓮院宮尊融法親王三条実万らに国策説くなどした。また、いち早く情報入手した和宮降嫁思いまらせようと、『婚怪草紙』を描き中山忠能通じてこれを献じた安政5年1858年安政の大獄により、子の可成とともに弾圧受けてえられる山本自決)。後に江戸送られて、翌安政6年1859年6月10日所払刑となり、帰京する獄中得た病で洛東田中没した享年65。墓は上京区金山華光寺明治24年1891年従四位贈られ東山霊園記念碑立てられた。 速筆による淡彩作品が多い。弟子語った古画精神私心混じえずに写し止めるよう努力すれば自然に自己の特徴生まれるようになる」というのが、一蕙の制作信条だった。

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松平重休」の記事における「略伝」の解説

第2代藩主松平重栄次男宝永5年1708年11月23日、父の隠居により家督を継ぐ。正徳2年1712年)、幕府から与えられ朱印状で「木付」を「杵築」と誤記されていたことを機に、「杵築」に改めた民政尽力し領民慕われる善政布いたといわれているが、正徳5年1715年8月10日25歳死去した。跡を甥で養嗣子の親純が継いだ大正5年1916年)、従四位追贈された。

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島津久治」の記事における「略伝」の解説

天保12年島津久光次男として重富館(現鹿児島県姶良市)に誕生する。母は正室千百子。嘉永5年1852年)閏4月島津久宝養嗣子となることが決定し同年3月家督相続したまた、久宝の娘と結婚する

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東郷実賢」の記事における「略伝」の解説

東郷位照東郷実勝異母弟。母は二階堂右衛門行格の娘で、伊集院俊方同母弟である。伯母島津綱貴側室伯父二階堂行宅。 上の2人の兄が遠島になり、さらに3番目の兄が伊集院家養子入りしており、実満の子としては示現流東郷家残った唯一の人物であったが、父の死後家督相続した2つ年下の甥である実昉同様に若年ゆえに示現流皆伝するまでにいたらず門弟統べる力量はなかった。島津吉貴許可得て薬丸兼慶東郷家代理として指南させることにした。 後に小野村西之谷現在の鹿児島市小野)に移住72歳死去し曹洞宗松原山南林寺埋葬された。

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黒葛原俊宗」の記事における「略伝」の解説

万治2年1659年)、勘定奉行就任また、同年作成の「鹿府万治高帳」に『高393石4斗 黒葛原周右衛門』とある。船奉行納戸奉行奏者番勤め平松郷、踊郷、馬越郷などの地頭兼任する寛文8年1668年8月19日、父の黒葛原周右衛門忠清死去宝永4年1707年)、隠居示現流高弟薬丸兼陳の娘と結婚し、4男2女を儲ける。後に義兄弟薬丸兼福に子がなかったので、次男忠長養子に出すが、天和2年1682年7月3日長男の周八忠朝が夭折したために、養子出して丸半介武兼と称していた次男呼び戻し嫡子とする。後に改め三男を兼福の養子に出す。これが薬丸兼慶である。 正徳3年1713年10月13日死去

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宮原義直」の記事における「略伝」の解説

文政10年1827年12月15日将軍徳川家斉御目見する。文政11年1828年11月4日部屋住ながらも高家見習召し出される。同年12月16日従五位下侍従摂津守に叙任する。後に従四位下に昇進する安政元年1854年9月27日高家肝煎就任する安政2年1855年11月16日、父義周の隠居により家督相続する慶応4年1868年3月11日高家肝煎辞職し明治14年1881年2月11日73歳逝去した。 『大日本人名辞典』4(1887年 初版1974年 講談社復刊)、『名家伝記資料集成』4(1984年 思文閣)には、維新の際に公武間を周旋して政治上の功績があり、和歌書画茶道にも秀でていたことが記述されている。 表 話 編 歴 宮原家10代当主1855年 - 不詳)義照 - 義久 - 晴克 - 義辰 - 義真 - 氏義 - 義汨 - 義潔 - 義周 - 義直 - 義路 - 聡氏 - 厳夫 -

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桂孝古」の記事における「略伝」の解説

桂氏藩主同じく大江広元を祖とし、藩政担い藩主側近輩出する家柄である。家格大組(八組・馬廻り)、門家で「木戸」とも呼ばれていた。のちに小五郎木戸姓に改名したのは、この「木戸にちなんでいる。 孝古は嗣子失っており、病床にあって家名断絶恐れがあった事から、近所藩医和田昌景の子である8歳和田小五郎末期養子迎えた。その十数日後、62歳で没。藩により桂家存続認められるが、規則により家禄150石から60石は召し上げとなり、残り90石を小五郎相続し桂小五郎となる。翌年1月には孝古の妻も病死し小五郎桂家継いだ後、生家和田家で育つ事になる。

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武市富子」の記事における「略伝」の解説

嘉永2年1849年)、武市瑞山嫁ぐ。夫の瑞山土佐若手志士たちと交流深く、富子はたびたび訪れ志士たちの応対努め、夫を助けた文久3年1863年)、瑞山投獄されると、自分も夫の辛苦共にするために、その日以来板の間寝て決して畳で眠らず、夏は蚊帳をせず、冬は蒲団使わず過ごしたという。慶応元年1865年)、夫が切腹となると家財ことごとく没収され困窮内職でもって生計立てた瑞山との間に実子はなかったが、養子に半太を迎え、共に東京引っ越すも、明治45年1912年)、半太とともに土佐帰郷した叔父島村雅事従弟島村衛吉である。

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関思恭」の記事における「略伝」の解説

先祖武田信玄家臣とされ、曾祖父伊藤友玄の代になって水戸藩仕え祖父友近もやはり水戸藩仕官。しかし父の伊藤祐宗(号は道祐)は生涯仕官していない。思恭はこの父と母戸張氏)の第四子として水戸生まれ故あって関氏名乗る幼少から筆や硯を遊具代わりとするほど書を好んだ16歳のとき江戸出て細井広沢にその才能を見いだされ入門。その筆法極めて優れ、たちまち広沢門下第一となった広沢が思恭に代書させるに及んでその評判高まった因みに浅草待乳山歓喜天の堂に掲げられる金龍山』の扁額広沢落款印があるものの思恭が代筆したのである経学太宰春台に就いて学び詩文天門から受けた。また射術優れた27歳文学を以て土浦藩仕え禄を得た広沢没後三井親和並称されその評判はますます高まり門弟およそ5千人擁したという。40歳妻帯し3女をもうける。60歳頃より神経痛患い歩行が困難となり家族介護されるもその運筆衰えなかった。享年69江戸小石川称名寺葬られる門人関口忠貞がいる。娘婿の其寧が跡を継ぎ、孫の克明曾孫の思亮とその子である雪江いずれも書家として名声得た。 宋の婁機『漢隷字源』を開版している。

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森琴石」の記事における「略伝」の解説

摂津国有馬温泉現在の兵庫県神戸市北区)で、梶木源次郎三男として生まれる。名は熊、後年繁と改める。初号蘆橋次に金石、更に琴石と改めた。字は吉夢別号に栞石、鉄橋雲根館等も号し、斎号を聴香読画廬。父・源次郎は、現在も同地で高級旅館として知られる「中の坊」を経営し有馬温泉炭酸水発見者でもある。1846年弘化3年大坂旅館出石屋」を経営する猪平(のち善蔵)の養子となり、1850年嘉永3年鼎金城南画学んだ金城1862年文久2年)に亡くなると、忍頂寺静村梅谷)の門に転じ一方漢籍妻鹿(めが ゆうしょう)、高木退蔵学んだ1873年明治6年東京遊学して、高橋由一から油絵の手ほどきを受けたという。ただし、由一の門人帳には琴石に当たる名が見えず実際の所は不明である。ただ、由一と親交があり銅版画家で知られる松田緑山二代目玄々堂)とは、何らかの接触があったと推測される明治10年頃から胡鉄梅王冶梅ら来舶清人画家交流する。に明治10年代には全国各地景勝地巡り写生画稿が幾つか残っている。1882年明治15年)の第一回内国絵画共進会褒状1884年明治17年浪華画学校の支那教員となり、後に同僚になった矢野五洲と協働して1889年明治22年浪華画会結成翌年大阪府博物場で大阪絵画共進会開催する翌年9月宮内庁の御洋画家となったとされるこのように南画家として活発に活動する一方で明治8年頃から2122年にかけて多く銅版画手掛けている。現在確認されているだけで60点から70点以上、特に地図25点以上と多い。琴石が銅版画をどこで身につけたかはよく分かっていない。若林春水堂学んだとされるが、作風類似から松田緑山からも影響受けたとも言われる明治銅版画家には、青野洲、結城正明柳田中村月嶺らのように、狩野派絵師から転じたものが少なくないが、琴石のように南画家出身者異例である。 その後も、内国勧業博覧会日本美術協会展などで受賞重ね大家として認められるうになる大正2年1913年大阪画家では初め文展審査員選ばれた。なお琴石を扱った文献では、同年帝室技芸員拝命したとされる。しかし、当時の『官報』に記載はなく、帝室技芸員扱った学術論文などにも琴石の名は無い。これに先立つ明治43年1910年)にも帝室技芸員審査があり、琴石は鈴木松年野村文挙村瀬玉田山本梅荘菊池芳文竹内栖鳳山元春挙と共に総長から候補には挙げられたものの、最終的に選から漏れたようだ。晩年病気がちで、大正10年1921年78歳没した。墓は当初安治川墓地(場所不明)に葬られたが、後に四天王寺移された。

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頼春風」の記事における「略伝」の解説

頼家は元々小早川氏仕え、のち竹原移り海運業始めその後紺屋営んでいた。その当主頼惟清には5人の息子生まれそのうち次男と五男は早世し、残った3兄弟頼春水春風頼杏坪である。また春水息子頼山陽であることから、春風の甥が山陽になる。 春風は、竹原生まれる。父・惟清は息子たち勉学に励ませ、春風もこれを努める。春風14歳時に兄・春水従い大阪で学ぶ。のち弟・坪もこれに加わる。尾藤二洲とは親交温めた春風は、儒学を、そして医術古林見宜から学ぶ。 安永2年1773年)父・惟清が倒れたことから春風だけ竹原戻り頼家宗家いわゆる竹原頼家家督を継ぐ。そして医業開業している。安永9年1780年)には塩田経営始めている。天明元年1781年邸宅春風館」を建て、紺屋叔父の頼惟宣(伝五郎)に譲った。その一方で竹原文化向上にも貢献し寛政5年1793年)に郷塾竹原書院」の開講春水と共に参加し講師となった。この竹原書院は現在市立竹原書院図書館として存続している。 頼家の3兄弟はいずれ学問詩文、書と優れのち「三頼」と称される篠崎三島は頼兄弟を「春水は方(四角)、春風は円、坪は三角」と漢詩譬えて、後の世人は春風はその詩風だけではなく円満の人であった評している。兄弟2人がのちに広島藩儒となり順調に出世していったのに対し春風竹原とどまり悠々自適な生活を過ごした。3兄弟とも菅茶山との交流があったが、管は春風自由な生き様に一番共感していた。 兄・春水の子山陽出奔した際には、春風追手一人となった。のち山陽連れ戻され幽閉された際に『日本外史』の構想を練る事になるが、この題名春風の案である。また山陽廃嫡したため春水嗣子がいなくなったことから、春風長子頼元鼎(景譲)を春水の養嗣とした。春風相続者は、長女・唯子に婿養子として花山文台の子迎え養嗣とした。これが頼小園である。また元鼎春水相次いで死去し春水の孫・頼聿庵広島頼家家督継いだ際には、春風藩命によりその後役となり七人扶持与えられ御医師格(藩医となっている。 文政8年1825年竹原春風館で死去享年73墓所竹原照蓮寺著書に『春風館詩鈔』『適肥』『芳山小記』など。子孫広島大学名誉教授頼桃三郎・頼祺一親子がいる。

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池田孤邨」の記事における「略伝」の解説

越後国水原近辺現在の阿賀野市出身。名は三信(みつのぶ)、三辰、字は周二、通称・周次郎。号は自然庵、、冬街士(天保後期)、煉心窟(安政から文久頃)、画戦軒、天狗堂、旧(舊)松軒久松軒など。 池田藤蔵の子として生まれる。10代後半には江戸へ出て酒井抱一師事したと見られる水原天領で、越後有数の米処として、干拓新田開発積極的に行われたその結果廻船業などで富を成す素封家多く江戸京阪文人墨客水原訪れ逗留することも珍しくなかった。父藤蔵水原こうした素封家交流があり、弧邨が若く江戸に出るのも、水原来訪した文化人関与したとする説がある。また、抱一弟子で、後に孤邨の弟子となる野沢の父・九皐庵九甲の紹介とする説もある。孤邨は後々まで水原との関係を保ち続ける。嘉永6年1853年2月に父が亡くなると、同年4月水原古刹西福寺に父の墓碑建立している(大橋訥庵銘文)。 文政年間前期頃に抱一入門抱一の号の一つ邨」の1字から孤邨を名乗った推測される抱一死後30代半ばから一時深川冬木町住み40代後半には両国久松町移り没するまで過ごした。しかし、深川時代作品関東大震災多く失ったとされ、動向不明な点が多い。安政6年1859年)刊の『書画會粹 二編』では「画名天下高し然れども名を得る事を好まず、戸を閉め独り楽しむ」とあり、その人物を伝えている。書画鑑定優れ茶道好み和歌通じた教養人で、好み」と号した琳派後継者自認し最晩年元治2年光琳新撰百図』上下弟子野沢跋、ボストン美術館など)、慶応元年1865年)『抱一上人真蹟鏡』上下出版した。これらは絵手本として使用された他、ジャポニズム機運にのって西洋渡り装飾美術隆盛寄与した1882年イギリス初のインダストリアルデザイナーとして活躍したクリストファー・ドレッサー出版した日本 その建築美術美術工芸』では、早くも光琳新撰百図』が引用されている。一方文中に「大和魂」「皇国」といった語句散見し、孤邨が勤王思想持っていたことが窺える。墓は江戸川区西瑞江大雲寺。 孤邨は其一ほど多作ではなく作品の質も振り幅大きい。また、抱一や其一、酒井鶯蒲比べて画材劣り状態が劣化しているものが少なからずあり、彼らに比べて大名豪商注文少なかった推測される。しかし、代表作屏風」(バークコレクション)には、近代日本画を先取りする新鮮な表現みられる弟子中村岳陵最初の絵の手ほどきをした野沢木村江村孤山、胝狐仙、胝八木沢松嶺、西崑山高橋孤道、福島孤龍など。早稲田大学図書館初代館長などを務めた市島謙吉は、数多く印章コレクションしており、その中には同郷の孤邨の印章37含まれ、現在は早稲田大学會津八一記念博物館所蔵されている。

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劉諶」の記事における「略伝」の解説

263年、魏が蜀漢侵攻してきた際、成都廟堂にて劉禅光禄大夫譙周発言受け入れて降伏しようとすると、劉諶徹底抗戦主張して反対したが容れられず、黄皓らによって宮中からしめ出されてしまった。帰宅後、劉諶妻子殺害し、その首を携え祖父昭烈皇帝劉備)の廟前で、己の首を刎ねて自害した小説『三国志演義』では、妻の姓は崔。妻と数人王子自害したという設定になっている

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楊儀」の記事における「略伝」の解説

かつては曹操仕えた傅羣荊州刺史)の主簿であった。しかし、関羽慕っていたことからその下に降り、功曹に採り立てられた。後に劉備の下へ使者として赴き、気に入られ左将軍府の兵曹となった219年劉備漢中王になると尚書となった。しかし221年劉備即位すると、上司劉巴喧嘩して弘農太守左遷された(太守ではあるが、弘農郡は魏の領地である)。しかし、諸葛亮彼の才幹高く評価していたため、劉備亡き後に再び採り立てられ丞相参軍幕僚)・丞相長史幕僚長)[蜀書楊儀伝では、八年.遷長史.加綏軍將軍…とある]へと累進し諸葛亮補佐当たった諸葛亮出征時、事務処理優れていた楊儀は、丞相府の幕僚筆頭として、部隊編成計画立案軍需物資確保などの重要な任務滞りなく処理した。ただ、狭量自分才覚鼻にかけるようなところがあったため、魏延と仲が悪かった軍議の場で両者言い合いになると、魏延白刃楊儀脅し楊儀がこれを恐れて泣くような時もあったという。諸葛亮は、楊儀才能深く惜しみ同時に魏延勇猛頼りとしていたため、どちらか罷免する忍びず、2人不仲なことに心を痛めていた。 234年諸葛亮五丈原で魏との対峙中に病死すると、楊儀諸葛亮遺言に従って諸将指揮執り全軍撤退成功させた。この時、魏延撤退命令に従わなかった上、兵を挙げ楊儀討とうとしたが、他の諸将らが諸葛亮遺命に従って楊儀味方し魏延配下兵士までもが彼を見捨てたため、軍が四散してしまう結果になった魏延息子達漢中逃げたが、その途中で楊儀の命を受けた馬岱軍勢によって殺害された。『三国志』蜀書魏延伝によると、楊儀届けられ魏延の首を踏みつけ「庸奴(知恵足りぬ輩)め、もう一度悪さができるものならやってみよ」と言ったという。 楊儀諸葛亮の死後長年実績政敵魏延討ち取ったことから、自分こそがその後継者に相応しいと考えていた。ところが諸葛亮後継者には、留府長史として後方勤務務めてきた蔣琬選ばれ尚書令益州刺史という要職任命されたのに対し楊儀統括する部署のない中軍師に任命されたのみで、職務もないという状態であった。これは諸葛亮がその生前楊儀能力について評価していたものの、その狭量すぎる性格問題視し、自らの後継者には彼ではなく蔣琬密かに指名していたからであった楊儀それまで蔣琬のことを、経歴実績いずれも自分後塵拝してきたと考えていたため、この処遇大きな不満を覚え費禕対し「かつて丞相諸葛亮)が亡くなった際に、軍を挙げて魏についていたら、こんな風に落ちぶれる事はなかったろうに」と漏らした費禕その内容劉禅密告すると、楊儀庶人落とされ漢嘉郡流罪となった。ところが楊儀は、流刑地から他人誹謗する激越内容の上書を送り続けたこのためついに劉禅らが楊儀拘束させると、楊儀自殺したといわれるその後妻子成都に戻ることを許された。

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和田義亮」の記事における「略伝」の解説

大和国宇智郡大岡村現在の奈良県五條市岡町)の庄屋山田家出身山田家甲斐国郡内小山田氏の者が武田信虎について高野山に来た後、宇智郡土着したと伝え小山田山田改めたという。ちなみに小山田氏坂東平氏である。和田平氏名乗っていた。山田氏末裔に残る文書にも小山田とある文書がある。父は佐平としているが、山田氏墓地の墓には真平とある。同じ五條森田節斎学んだ文久年間頃より尊皇攘夷運動参加して真木保臣平野国臣高杉晋作らと親交結んだ生野の変参加し池田屋事件では新撰組襲撃遭いながら咄嗟判断隠れることに成功して生き延びた禁門の変において長州藩軍と合流して天龍寺駐屯するが、敗退後天王山にて真木最期看取り、その遺言高杉晋作三条実美らに伝えるために長州藩向かいそのまま同藩に留まる四境戦争では長州側の一員として小瀬川攻防戦奮闘した戊辰戦争では北陸道総督の下で鎮撫活動にあたり戦功で4人俸禄授けられた。その後宮内省出仕したが、晩年京都西陣織職人となり、西陣織再興尽力した大正8年1919年)、正五位贈られた。

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真徳秀」の記事における「略伝」の解説

幼少時から天才知られており、4歳ときにはどんな書物暗誦することができたという。慶元5年1199年)に進士となる。博学宏詞科に及第し南宋光宗仕えて大学博士となったが、その後継いだ寧宗には疎まれ地方官左遷されてしまった。しかしそこで、泉州交易海防対策功績挙げている。寧宗死後即位した理宗儒学肌の教養人であったため、礼部侍郎中書舎人任じられ中央政界復帰し翰林学士参政知事歴任理宗側近として活躍したが、当時南宋実権握っていた有力者である史弥遠からその活躍妬まれ左遷されかけたこともあり、結局真徳秀が行なった理宗対す10万にも及ぶ上奏成果挙げられなかった。理宗真徳秀重用することで儒学による治世望んだが、当時モンゴル帝国との問題もあり、これは実現することなく終わったのである。しかし、朱熹時代起こった偽学の変で弾圧され儒学者たちを解放するように皇帝進言してこれを実現させるなど、一部では評価されている功績がある。端平2年1235年)、58歳で死去した。 明の正統年間1436年 - 1449年)に、孔子廟に従祀され、成化3年1467年)には浦城伯を追贈された。

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独立性易」の記事における「略伝」の解説

父は敬、母は陳氏泰昌元年3月1620年)に父が没し翌年大火家産焼失したため、医をもって生業にすることを決意し儒学医術学び明朝仕官した名流集う詩社参加して、詩や書で名が聞こえていた。宦官魏忠賢による政治乱れを嫌い、長水語渓(浙江省嘉興市桐郷市)に隠れ医術を業とした。 明朝滅亡後清朝圧政逃れて永暦7年1653年58歳のとき、商船乗って長崎渡来そのまま亡命する。 しばらく帰化人医師川入徳の許に身を寄せていたが、ここでは朱舜水同居となっている。承応3年12月1654年)、隠元隆琦請う興福寺にて得度し儒者であった仏門帰依道号独立法諱性易名乗った同年隠元普門寺行き記室として随行続いて万治元年1658年隠元徳川家綱謁見するための江戸行きにも随うと、漢詩や書、篆刻水墨画などが高く賞賛された。噂を聞いた老中松平信綱より平林寺招かれる栄誉にも浴した。 しかし、病を得万治2年1659年)には長崎に戻る。興福寺の幻寄山房にて脚痛の養生しながら自著斯文大本』を元に書論』を著し正し書法啓蒙努めた明代新し篆刻伝え日本の篆法を一新した。また初め石印材に刻する印法を伝えた万治4年1661年)に岩国藩吉川広正と子の広嘉に招聘され施術した。岩国では錦帯橋架設重要な示唆与えている。 寛文2年1662年)、67歳からは各地行脚しながら医業専念貧富かかわらず民に施し病を癒したという。とりわけ疱瘡治療知られた。岩国吉川家長州毛利家小倉小笠原家などからも招かれている。 寛文5年1665年)、即非如一の広寿山福聚寺書記となり白雲室を与えられている。 寛文12年1672年3月海を渡って二人訪れた同年11月崇福寺広善庵で示寂する。享年78荼毘付され遺骨従者の慧明・祖明によって宇治黄檗山萬松岡(ばんしょうこう)に奉じられた。 正徳6年1716年)に弟子高玄岱独立記念して武蔵平林寺に戴渓堂を建立し享保3年には高松弟子年江直美と共に木牌を建て行状記した明治23年1890年)、中井敬所によって『独立禅師印譜』が編集され、現在東京国立博物館所蔵されている。この印譜に鈐された印は独立中国から持ち込んだ印で、弟子玄岱に授けられたものが代々門弟通じて敬所に届いたのである。 他に書家北島雪山弟子となっている。

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孫君沢」の記事における「略伝」の解説

浙江省杭州銭塘県出身生涯は全く不明だが、画風から馬遠夏珪学んだとされる。元時代杭州には南宋画院画家末裔職業画家となって活動していたと考えられ孫君沢その中で代表的な画家である。中国では評価され現存する作品はないが、日本では高く評価された。室町幕府6代将軍足利義教は、従来尊重されていた禅僧余技描いた水墨画より、技術的に優れた職業画家作品好み孫君沢作品熱心に集めていた。その後編纂された『君台観左右帳記』では「上」の部に記載され長谷川等伯も『等伯画説』の第53条で、孫君沢楼閣山水図名手記している。 現在確認されている作品15点ほど。画面対角線片側モチーフ集めたいわゆる「辺角の景」の構図景物の形、岩や土坡の処理などは馬遠夏珪院体画継承しているが、輪郭線が強調され描写固くなり、奥行き感は減少し情趣乏し面があるこうした要素は、後の明代画院における浙派南宋院体山水様式にも繋がる要素であり、中国では忘れ去られる原因となったが、孫君沢線描基本とし画面幾何学的に構成する画法は、日本絵師たちには学びやすかったまた、日本招来され南宋絵画小品が多いのに対し、(伝)孫君沢作品大幅多く、大画面障壁画の手本としても有用だった見られ雪舟祥啓狩野派画家たち大きな影響与えた

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黒田綾山」の記事における「略伝」の解説

高松田町町家生まれる。幼少の頃から読書と画を好んだという。最初の画の師は江戸幕臣にして狩野派画家加藤文麗だったという。やがて池大雅私淑して21歳安永4年1775年)のとき、大坂出て大雅高弟福原五岳入門同門林閬苑親友となる。 26歳安永9年1780年)のとき備中玉島遊歴し、売画をして暮らし土地人々親交を結ぶ。その後山陽道讃岐・京坂など諸国遍歴したが、天明5年1785年)再び玉島に戻ると永住決意当時天領であった玉島海運中心に商業発達し商人の町として活気があった。居宅を起屈と命名して画を以て生計立てた天明の飢饉のときは窮民に自らの画を与えて援助した最初の妻先立たれたが、再婚し44歳過ぎてから2女を儲ける。次第画業名声高まり丹波亀山藩絵師として招聘されるが、これを固く辞退。それでも亀山藩からは厚遇され終生俸禄支給されている。家庭では次女3歳亡くし、妻も早世する不幸に見舞われた。 綾山は明・呉派の銭貢の画風敬慕若き日田能村竹田は綾山に画の批評請うたという。書風大雅傾倒し独自の書風をもった。詩文能く和歌詠んだ菅茶山西山拙斎頼春水皆川淇園横溝藿里・福武重な名だたる文人交友した。 60歳にて病没墓所岡山県倉敷市玉島竹浦共同墓地にある。法名崇高山居士」。 門人岡本綾江は綾山没後建碑企て大坂儒者篠崎小竹撰文依頼したのだが、資金難から永らく碑を建てられずにいた。しかし、白神皞々に師事した富商中原国華中心となって費用捻出し、綾山没後34年後にあたる嘉永元年1848年)ようやく丸山高運寺に「綾山黒田翁之碑」が建てられた。

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春屋妙葩」の記事における「略伝」の解説

甲斐国山梨県)の生まれ母方叔父である夢窓疎石のもとで受戒すると天龍寺住職となり、室町幕府に対して五山第一南禅寺楼門山門新築提言幕府楼門建設援助をしたが南禅寺紛争状態であった園城寺がこれに抗議比叡山門徒もこれに加わり楼門撤去妙葩配流求め紛争政治問題にまで発展する1369年応安2年/正平24年)に管領細川頼之楼門撤去させる。妙葩は頼之と対立して天龍寺住職辞して阿波国光勝院、さらに丹後国雲門寺隠棲する。頼之は妙葩との和解のために会談求めるがこれを拒絶対して頼之は門徒僧籍剥奪を行う。足利義満の命により、1376年絶海中津とともに日本帰ってきた汝霖良佐に法を授ける。 1379年康暦元年/天授5年)の康暦の政変で頼之が失脚した後に入京し、南禅寺住職として復帰する妙葩は頼之が失脚する直前丹後出立しており、政変への関与考えられている。 3代将軍足利義満帰依を受け、同年10月10日初代僧録となる。同年義満要請により全国禅寺統括その後嵯峨宝幢寺開山。さらに義満相国寺創建すると妙葩開山第一世を請じたが、妙葩はこれを固辞やむなく師の夢窓疎石開山始祖とし、妙葩第二住持となった実質的に妙葩相国寺開き五山十刹制度作り五山派興した五山版刊行なども行い五山文化の発展寄与した。また多く弟子育て、彼らは日明貿易を行う際に幕府外交顧問となった

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永樂保全」の記事における「略伝」の解説

幼名は千太郎出自不明だが、一説京都織屋沢井家出身で、幼少から陶器釉薬商う百足屋へ奉公し大徳寺黄梅院住職大綱和尚のもとで喝食として修行したという。1806年頃に和尚紹介十代善五郎である永樂了全養子となる。十一代善五郎襲名したのは1817年であり、1827年には紀州藩十代藩主徳川治寶西浜御殿御庭焼開窯招かれ作品賞して「河濱支流(かひんしりゅう)」の金印と「永樂」の銀印を拝領した。これが永樂姓の由来であるが、正式に改姓するのは明治入ってからである。1843年息子の和全に善五郎の名を譲って善一郎と名乗り、さらに1848年には保全(やすたけ)と名乗り変えたこのため没後は他の善五郎との区別のため保全(ほぜん)と呼ばれる奥田頴川やその弟子欽古堂亀祐青木木米仁阿弥道八など他の京焼作家とは別軸で活躍していた。長年京都活動しその後大津湖南焼開窯摂津高槻での開窯など、京都離れた地域でも積極的に陶作を行なった一説には息子の和全と不仲だったのも京都離れた理由一つだという。

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頼采真」の記事における「略伝」の解説

広島藩であった頼杏坪長男いわゆる頼家嫡子。母は藩儒加藤十千の孫にあたり加藤静古の娘である恭子玲瓏子)。夫妻結婚当初から坪の長兄夫婦である頼春水頼梅颸その子である頼山陽同居しており、広島頼家居邸であるの木小路武家屋敷(現頼山陽史跡資料館)で采真は生まれる。のち一家独立する。 采真は儒学父母より学ぶ。坪の兄つまり采真の叔父にあたる春水広島頼家同じく叔父頼春風竹原頼家、彼らの友人達儒者らと交わる。 父坪は藩儒から平士として藩務についたが、采真は藩儒はならず平士として藩に仕え始める。文化5年1808年)、藩主浅野重晟参勤交代に隨ったに連れられ江戸に向かう。翌文化6年1809年)帰藩。 文政5年1822年15石3人扶持を給せられる。 父坪の藩務に幾つか携わっている。文政元年1818年)『芸藩通志』の編纂坪が命じられた際には采真もこれに加わり文政8年完成している。文政11年1828年)、坪が三次町奉行となった際に、采真は藩命によりその勘定所吟味役格として郡町事務務めた天保元年1830年)、父坪が隠居、そのため采真はいわゆる頼家家督継ぎ知行140石を給せられ、広島に戻る。同年銀奉行勘定奉行付で金銀出納管理する役職に任ぜられ、同年藩より白島屋敷拝領する天保3年1832年蔵奉行天保5年1834年)から天保7年1836年)まで江戸勤番天保8年1837年)から 弘化元年1844年)まで大阪蔵屋敷留守居役(番目付)。大阪時代には当地儒者と交わる。弘化2年1845年普請奉行となった知行190石。 嘉永3年1850年普請奉行時に病死享年60墓所広島安養院現在の多聞院)。妻は矢野八幡宮神主香川氏の娘、かね子。子は三男二女嫡子長男頼正義。

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胡湄」の記事における「略伝」の解説

科挙制度においては諸生甘んじた書画などの収蔵家で知られる項元汴外孫であったので、その収蔵物模写臨模自由に行え画業進んだ虫魚図・花鳥図を得意とし仙筆と称揚された。金銭によって画を求められても気に入らない者には応じなかった。詩文にも優れ高雅の士と交友。その名声日本にも届き徳川幕府招聘をしようとしたが既に没しており、その代わり弟子沈南蘋来日した

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略伝

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呂大臨」の記事における「略伝」の解説

京兆府藍田県出身。はじめは張載師事し熙寧10年1077年)に張載没する程頤のもとに入門し学び謝良佐游酢楊時とともに程門の四先生称せられるまでになった文章良く六経通じ、礼にもっとも精しく兄の呂大防とともに考究論議した元祐年間1086年-1094年)に太常博士となり、秘書省正字うつった元祐7年1092年)、政治家の范祖禹が呂大臨学風古人のごとき身の修め方を好み、講官に抜擢しようとした用いられる前に没した著書として『玉渓集』『考古図(中国語版)』がある。

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略伝

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狩野永岳」の記事における「略伝」の解説

父は京狩野絵師影山洞玉(後の狩野永章)、弟は狩野永泰で、その子冷泉為恭早く才能を見いだされ京狩野8代狩野永俊の養子となり、文化13年1816年)永俊が没する27歳家督継いだ初代狩野山楽末裔であることを誇りとし、箱書き落款に「山楽九世孫」としたためている。山楽二代山雪の画を熱心に学び、特に30代までは桃山時代巨木表現に範を取った復古画風基本とした。 その上で当時京都人気博していた四条派画風積極的にとり入れている。この他にも江戸中期来日した沈南蘋流れを汲む長崎派や、谷文晁によって広まった北宗画文人画宗達光琳装飾的な琳派、甥にあたる冷泉為恭から復古大和絵直接学んだこのように様々な画風貪欲に吸収し自家薬籠中の物とした。 京狩野家代々九条家と関係が深く、永岳33歳の時、画を好む九条尚忠家来となった嘉永6年1853年)、尚忠左大臣公務江戸下ったとき、これに同行し富士山実見し富士百幅」を描いている。 永岳の代になって京狩野紀州徳川家彦根井伊家御用絵師務めようになった井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる井伊直弼肖像画は永岳が画いたとされる57歳にして禁裏朝廷御絵師御次となってから落款に「金門画史」・「金門画院第一史」と記すこともあった。66歳のとき禁裏安政造営が行われ多く障壁画制作にあたっている。 臨済宗妙心寺には永岳の作品多く残りとりわけ隣華院客殿障壁画は永岳の代表作といえる同じく臨済宗大徳寺にも頂相など多数作品残されている。東本願寺にも大障壁画を手掛けたがのちに焼失した本願寺通じて地方別院にも永岳の作品多数見られるこの他にも永岳は多くパトロンをもち、京都はいうに及ばず長浜飛騨高山にも足を伸ばし富商富農求めに応じて絵を画いた禁裏御用絵師とはいえ、永岳が家督継いだ頃の京狩野派は、土佐派鶴沢派の後塵拝し不遇な立場にあったなおかつ江戸後期には伝統的な画派勢力弱め特色持った新興画派台頭していた。永岳は生き残り掛け京狩野伝統革新させ、特色打ち出すことに成功する京都画壇では重鎮として扱われた。享年78養子の永祥が10代相続