慶応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 03:43 UTC 版)
江戸時代最後の元号であり、一世一元の制導入(一世一元の詔発布)以前の最後の元号である。
改元
経緯
3月17日、朝廷から京都所司代・松平定敬に対して「乾永・文隆・大暦・万徳・慶応・明定・天政」の7案が伝えられ、定敬は幕府に報告したが、将軍・徳川家茂が朝廷に対して「何以被採用所存無之候」「叡慮之通慶応可然被存候」と述べて改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開するなど、江戸幕府創設以来幕府が奏上してきた改元制度が終焉したことを示すものとなった[2]。
なお、この改元の勘申を命ぜられた高辻修長から出された案の中に「平成」が含まれていた[3]が最終の7案には残らず、この時には採用されなかった。「平成」が元号として採用されるのは、124年後の1989年1月8日のことである[注 2]。
出典
『文選』の「慶雲応(まさ)に輝くべし」より。勘申者は唐橋在光。
慶応年間の出来事
- 慶応元年9月 - 兵庫開港要求事件
- 慶応2年 - 五稜郭完成。
- 慶応3年 - ええじゃないか起こる。
- 慶応3年10月14日 - 大政奉還の上奏。
- 慶応3年12月9日 - 王政復古の大号令。
- 慶応4年1月 - 戊辰戦争。
- 慶応4年5月 - 北越戦争。
- 慶応4年 - 慶應義塾が芝新銭座へ移転し、元号をとって塾名とした。
誕生
- 元年: 泉重千代 - (120歳で死亡した男性で、昭和時代に死亡した江戸時代生まれの最後の人物とされてきたが、1880年〈明治13年〉生まれ説もある)
- 2年: 若槻禮次郎 - (第2代憲政会総裁、第2代立憲民政党総裁、第25・28代内閣総理大臣)
- 3年: 夏目漱石 - (小説家、評論家、英文学者)
- 3年: 平沼騏一郎 - (枢密院議長、第35代内閣総理大臣)
- 3年: 志村源太郎 - (銀行家、日本勧業銀行総裁)
- 3年: 鈴木貫太郎 - (枢密院議長、第42代内閣総理大臣)
- 4年: 宇垣一成 - (陸軍大将)
- 4年: 岡田啓介 - (海軍大将、第31代内閣総理大臣)
- 4年: 藪内節庵 - (茶人)
死去
- 2年: 徳川家茂 - (江戸幕府14代将軍、満20歳)
- 2年: 四代目市川小團次 - (歌舞伎役者、満54歳)
- 2年: 孝明天皇 - (第121代天皇、満35歳)
- 3年: 高杉晋作 - (奇兵隊隊長、満27歳)
- 3年: 坂本龍馬 - (海援隊隊長、満31歳)
- 3年: 中岡慎太郎 - (陸援隊隊長、満29歳)
- 4年: 近藤勇 - (新選組局長、満33歳)
- 4年: 沖田総司 - (新選組一番組組長)
西暦との対照表
※は小の月を示す。
慶応元年(乙丑) | 四月 | 五月※ | 閏五月 | 六月※ | 七月 | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月※ | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
グレゴリオ暦 | 1865/5/1[注 3] | 5/25 | 6/23 | 7/23 | 8/21 | 9/20 | 10/20 | 11/18 | 12/18 | 1866/1/17 | ||
慶応二年(丙寅) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月※ | 六月※ | 七月 | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月 |
グレゴリオ暦 | 1866/2/15 | 3/17 | 4/15 | 5/15 | 6/13 | 7/12 | 8/10 | 9/9 | 10/9 | 11/7 | 12/7 | 1867/1/6 |
慶応三年(丁卯) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月※ | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月 |
グレゴリオ暦 | 1867/2/5 | 3/6 | 4/5 | 5/4 | 6/3 | 7/2 | 7/31 | 8/29 | 9/28 | 10/27 | 11/26 | 12/26 |
慶応四年(戊辰) | 一月※ | 二月 | 三月 | 四月※ | 閏四月※ | 五月 | 六月※ | 七月※ | 八月 | 九月※ | ||
グレゴリオ暦 | 1868/1/25 | 2/23 | 3/24 | 4/23 | 5/22 | 6/20 | 7/20 | 8/18 | 9/16 | 10/16–10/23[注 4] |
関連項目
- 宣統 - こちらも近代革命前の最後の元号で、3 - 4年で終わったが、次以降は制定されず廃止された(辛亥革命)という違いがある。
- 「慶応」で始まるページの一覧
- タイトルに「慶応」を含むページの一覧
脚注
注釈
典拠
- ^ 青山忠正『明治維新を読みなおす: 同時代の視点から』清文堂出版、2017年2月13日、16頁。ASIN 4792410665。ISBN 978-4-7924-1066-7。 NCID BB23128933。OCLC 979572270。全国書誌番号:22906258。
- ^ 久保貴子「改元にみる朝幕関係」『近世の朝廷運営-朝幕関係の展開-』岩田書院〈近世史研究叢書〉、1998年5月、289-290頁。ASIN 4872941152。ISBN 4-87294-115-2。 NCID BA36504021。OCLC 41119852。全国書誌番号:99014449。
- ^ 森鷗外「慶應」『元号考』 第二十巻、岩波書店〈鷗外全集〉、1973年、426頁。
慶応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 01:32 UTC 版)
慶応年間には、加賀藩による計画と小沢一仙による計画の2つが並行して進められた。 加賀藩は、慶応2年12月16日(1867年1月21日)に幕府から単独事業の許可を得、翌慶応3年2月から4月にかけて石黒信基らを派遣し敦賀 – 琵琶湖間6経路につき詳細な測量を行った。この際、安政期の計画にも関わった深坂問屋の小林金三郎が案内・図面提供を行っている。 小沢一仙は、慶応2年8月(1866年)幕府に対し、敦賀 – 琵琶湖間に運河を掘り瀬田川を通じ京都・大坂まで船を通すことにより前述の西廻り航路の不安を解消できるという『江湖切割』の建白書を提出、幕府の指示により加賀藩に計画を示し敦賀周辺を検分の後、慶応3年5月(1867年)加賀藩に計画書と絵図を提出している。この絵図には、深坂峠の隧道も示されている。 このほか幕末のものとしては、大阪湾が異国船に占領された場合の対策として琵琶湖 – 伊勢湾間を結ぶとする計画が彦根藩に残されている。
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慶應
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 20:56 UTC 版)
慶應義塾大学法学部に進学する。学生時代、福澤家に書生として住み込んでいたという。水泳部に所属し活躍。身長は180cmと高かったが当時脚がやや細く、鍛えるために一枚羽の鉄下駄を常用していたという。1930年(昭和5年)神宮水泳場開場。同地で行われた同年の極東選手権において正式種目ではなく公開競技として行われた50m自由形に出場、予選B組4位で敗退している。 1931年(昭和6年)、翌年にロサンゼルス五輪を控え日本水泳界は各種目で記録更新が続いていた。当時日本のエースだった高石勝男が100m自由形から離れ他種目に専念すると、100m自由形は前年から活躍していた選手に加えて宮崎康二・遊佐正憲・豊田久吉らの台頭により活況した。この中で河石は、1930年100m自由形で1分03秒0を記録しその年の国内ランキング10位に位置していたが、1931年10月全日本選手権で1分00秒6を記録しその年の国内ランキング3位となり、結果五輪代表候補選手に選ばれ五輪選出直前の強化合宿に参加した。 ただ合宿最後に行われた記録会で、成績は振るわなかったという(公式記録では記載なし、5位だったとも)。諦めていた河石は代表選手発表会場であった神宮水泳場には行かず銀座をぶらぶらとしていると、店のラジオからのニュースで自分が代表選手に選ばれたと知り、慌てて神宮へ駆けつけたという。そしてロス入り後の記録会で宮崎に次いで2位となり五輪エントリーが決まった。
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慶応
「慶応」の例文・使い方・用例・文例
- 明治は5対3のスコアで慶応に敗れた。
- 僕たちの学校は野球で慶応を負かした。
- 彼は慶応大学を卒業するとすぐに家業を継いだ。
- 昨日の試合で早稲田は慶応と引き分けた。
- 今日早稲田対慶応の試合がある。
- あなたは慶応の学生といつもデートしているのね。
- 決勝戦で慶応は早稲田と対戦した.
- 毎年慶応は早稲田と隅田川でボートレースをする.
- 早稲田は 9 対 5 のスコアで慶応に勝った.
- 夏目漱石(本名夏目金之助)は慶応 3 年に生まれ, 東京で育った.
- この日の月桂冠は慶応の頭上に落ちた
- 慶応対早稲田野球試合
- 慶応の末に幕府が倒れた
- 早稲田と慶応の野球試合はいつあるか
- 慶応という日本の元号
- 慶応義塾大学という私立大学
- 優勝決定戦では,早稲田が慶応を10-5で破り,42度目の六大学覇者となった。
- 彼は7回が終わるまで慶応にヒットを許さず,その間に早稲田は7点を挙げた。
- その後,大(おお)石(いし)達(たつ)也(や)投手がリリーフに立ち,試合の残りは慶応を無得点に抑えた。
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