とくがわ‐よしのぶ〔トクがは‐〕【徳川慶喜】
徳川慶喜 (とくがわよしのぶ)
徳川慶喜 (とくがわよしのぶ)
徳川慶喜
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徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ、旧字体:德川 慶喜)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代の日本の政治家、華族。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。
注釈
- ^ 「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料には「七郎麿」と表記されているが慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。
- ^ 父の正室が生母である将軍は3代家光以来。
- ^ この処分について慶喜は当時、「抑三卿は幕府の部屋住なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなり」と不満を漏らしたが、後年に慶喜本人曰く「血気盛りの意地よりして」、謹慎中は居室の採光を極限まで抑え、起床後は麻の裃を着用して夏の暑い時も水浴びせず、月代も剃らないといった、厳しい条件を自ら課して過ごした[2]。
- ^ 原文は「骨折るゝ故(中略)天下を取りて仕損ぜんよりは、天下を取らざる方大に勝るべし。」[3][4]。
- ^ 家茂が後継に指名した田安亀之助(後の徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた[18]。
- ^ これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である[19]。
- ^ 後に慶喜は回顧録の中で、「討薩表はあの時分勢いで実はうっちゃらかしておいた」と語っている[33]。
- ^ 「烈公尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(注・慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて「おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」と宣えり。」[38]
- ^ 「明治三十四年の頃にや、著者栄一大磯より帰る時、ふと伊藤公(博文)と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて、「足下は常によく慶喜公を称讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非几なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、「一昨夜有栖川宮にて、西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり、公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりと申されき、如何に奥ゆかしき答ならずや、公は果して常人にあらざりけり」といへり。余は後に公に謁したり序に、此伊藤公の言を挙げて問ひ申しゝに、「成程さる事もありしよ」とて頷かせ給ひぬ。」[39]
- ^ 慶喜がいつ恭順の意思を持ったかについて石井孝は、慶喜が1月19日、26日、27日のフランス公使ロッシュとの会見で恭順の意思を示しておらず、2月5日の松平春嶽宛ての嘆願書の中で初めて恭順の意思が出てくることを根拠に江戸へ戻った直後の慶喜は戦争する意向だったという説を唱えている[36]。
- ^ 「第942 徳川慶喜ノ謹慎ヲ免ス」[60]
- ^ 現在、敷地の大半は国際仏教学大学院大学になっている。
- ^ また、謎解き!江戸のススメ(BS-TBS、2015年3月9日放送)でも紹介された。
- ^ 徳川慶喜 叙正二位位記袖書從三位源慶喜
右可正二位
(訓読文)従三位源慶喜(徳川慶喜 同日、権中納言から権大納言に転任)、右正二位にすべし、中務、将家系(将軍家当主)を受け、武威の名を揚げ、亦忠誠に抽んで能(よ)く禁闕(きんけつ 朝廷)を護る、宜しく栄爵を授くべし、式(もっ)て殊恩(しゅおん)を表はす、前件に依り主者施行すべし、慶応2年(1866年)12月5日 — 平田職修日記
中務受將家系揚武威名亦抽忠誠能護禁闕
宜授榮爵式表殊恩可依前件主者施行
慶應二年十二月五日
- ^ 「◯宮廷錄事 ◯拜謁 昨二日午前十一時天機竝ニ御機嫌伺ノタメ從一位德川慶喜參內セシ處臨御 天皇 皇后兩陛下仰付ラレタリ」
- ^ 例えば、太田才次郎編集、明治三八年博文館発行の『新式いろは引節用辞典』(内題による)835ページに「よしひさ」という訓読みがみられる。明治8年(1875年)11月の『仮名傍訓 公布の写』(鈴邨憲章輯)はすべて「とくがは よしひさ」の振り仮名で通す。『日新真事誌』を創刊したジョン・レディ・ブラックによる『YOUNG JAPAN. YOKOHAMA AND YED. (1880)』の巻頭に添えられた写真には“HIS HIGHNESS THE LAST SHOGUN.”というキャプションとともに、“…Hitotsubashi, Yoshi-nobu, Yoshi-hisa; and subsequently known as Keikisama.…”という紹介がつけられている[125]。
- ^ 本文のものは明治16年(1883年)刊。「十五代 慶喜(ノリヨシという訓 ※筆写註) 水戸斉昭六男中納言 ●二年 ○四十才」という記述がある。十二代将軍は「家慶(イヘノリ)」[131]。
- ^ 部屋のどこから刺客が入ってきても誰かに当たり、刺客到来にいち早く気づけるため。
- ^ 公的機関にある作品として、「蓮華之図」(寛永寺蔵)、「西洋雪景図」(福井市郷土歴史資料館蔵、明治3年慶喜から松平春嶽に送られた作品)、「河畔風景」(茨城県立歴史館蔵)、「西洋風景」「日本風景」(共に久能山東照宮蔵)、「風景」(静岡県立美術館蔵)の他、個人蔵が数点ある。
出典
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徳川慶喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:47 UTC 版)
第15代将軍。学問や馬術に秀で、眉目秀麗な人物であるが、父斉昭を疎んずる江戸城大奥により嫌われ、宮中で折衝の最中に体の不調を訴え、良順の診察を受ける。将軍宣下後も四面楚歌のような状況にある。1867年慶応3年に大政奉還を行い、その後戊辰戦争では自ら指揮官の地位を捨て、蟄居生活を送る。
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徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)
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「エンジニール〜鉄道に挑んだ男たち〜」の記事における「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)」の解説
島と雨宮に「日本の鉄道」が遅れていることを憂いていた。彼の言葉がきっかけで島親子三代(安次郎・秀雄・隆)にわたり、「新幹線」構想を手掛ける。
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徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)
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「相棒 (五十嵐貴久の小説)」の記事における「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)」の解説
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徳川慶喜
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第二次長州征討の最中、14代将軍・徳川家茂が大坂城で急死した後、後継者と見なされた徳川慶喜は徳川宗家の継承のみ承諾したが、将軍襲職は固辞した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}周囲から推され、それを断り切れずに就任する形式をとろうとしたためと言われる。[誰?]5ヶ月後の12月5日、ようやく慶喜は征夷大将軍に就任する。しかし、同月に孝明天皇が突然崩御。慶喜は治世序盤にして大きな後ろ盾を失うこととなった。 新将軍・慶喜にとっての大きな課題は、前将軍急死に伴って停戦したとはいえ未だ表向きは朝敵であった長州藩への処分問題と、諸外国と約束したものの孝明天皇の強い反対によって実現しなかった兵庫港の開港問題であった。 慶喜は、第二次長州征伐に失敗するなど、権威が失墜していた幕府を、幕府を中心とした朝廷との公武合体によって権威を回復し、政治の主導権を握りたいと考えていた。[独自研究?]
※この「徳川慶喜」の解説は、「四侯会議」の解説の一部です。
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徳川慶喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 22:30 UTC 版)
15代将軍。鳥羽・伏見の戦いで敗戦後、大坂より江戸に脱出し、朝敵にされると江戸城を出て謹慎した。
※この「徳川慶喜」の解説は、「陽だまりの樹」の解説の一部です。
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徳川慶喜と同じ種類の言葉
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