徳川慶喜への再入京の朝命とは? わかりやすく解説

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徳川慶喜への再入京の朝命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「徳川慶喜への再入京の朝命」の解説

京都から越前藩士・中根雪江尾張藩の者ら4、5人が大阪へきて、朝命天皇家政体朝廷からの指令)によって、慶喜へ再び京都へくるよう勧めた慶喜は「では軽装少数お供だけを連れて朝議参内)で京都行こう」と考えたが、会津藩桑名藩やほかの旗本の者らがこの慶喜台慮貴人思い)をききいれず反対し、「薩摩藩を討つ好機会なので、十分な兵力持って京都行き、是非とも君側の奸清めましょう」と主張した。このとき、官僚で最も身分が高い者で老中からそれ以下官職にあたる大目付目付までほとんど半狂乱ありさまで、もし慶喜薩摩藩征討(討薩)を肯定しなければ配下が一体なにをしだすか想像できない状態で、しかも官僚から兵士らまでみなが完全に討薩を心から固く決意している気配だった。当時大小目付部屋光景驚くべきもので、居並ぶ武者のみながあぐらをかき口角泡を飛ばしながら討薩論に熱中しているありさまは、ほとんどどこからも手の下しようもない状態だった。 このとき慶喜風邪をひいており、寝巻寝間着寝衣)のまま寝床布団)の中にいたところへ老中板倉勝静やってくると、将校から兵士までの討薩を望む士気激昂は凄まじいもので、このまま何もせずには到底いられない旨、また「いくら少数お供除けばおひとり京都行かれたいとはいえ所詮大君日本最大大名)であらせられるからには万が一為に御身お守り申しあげる大勢兵隊帯びねば到底その様な事は叶いますまい」とくりかえし慶喜説き伏せた慶喜そのとき読みかけ『孫子』一節示しながら「『彼を知り己を知れば百戦あやうからず』とこの本にある。そこで試しに聞くのだが、今わが幕府西郷隆盛匹敵すべき人物はいるか」と板倉に問うと、板倉はしばらく考えてから「おりません」と答えた慶喜続けて「では大久保利通ほどの者はどうか?」と問うと、板倉はまた「おりません」といった。慶喜はさらに吉井友実薩摩藩名のある数人挙げこの人々に拮抗しうる者はいるか」とつぎつぎ尋ねてみると、板倉またまたおりますとは言えなかった。このため慶喜は「こんなありさまでは、もしわが軍薩摩藩側と戦って必勝期し難いだけでなく、遂にいたづら朝敵汚名こうむるだけではないか決してわが方から戦を挑むことなきよう」と板倉無謀な開戦制止した。それでも、板倉若年寄永井尚志らはしきりに将校兵士らの激憤状態を慶喜説明し、「もし上様慶喜)が飽くまで討薩の命令ゆるして下さらなければ、おそれ多くも、上様刺し違えたてまつってでもわが軍隊は脱走しかねない勢いなのでございます」といった。慶喜は「まさかおのれを殺すまではしまいが、わが方の兵が脱走しそうなのは勿論だ。そうなったらいよいよ国が乱れるもとであろう」と、自軍制御十分に及んでいないのをひたすら嘆いていた。こうして江戸薩摩藩邸の焼討事件以後なおさら大阪城のなかの将校兵士らの憤激は到底制御することが不可能になった。 慶喜薩摩藩への義憤逸る大阪城配下兵隊大勢抑え続けられなくなり、「なんじらのなさんと欲するところをなせ」「いかようとも勝手にせよ」と放任すると、将校兵士らは『討薩表』を慶喜の名で書くと旗本竹中重固薩摩藩側へ持って行った。 こうして朝廷から御所への参内命じられ慶喜は、慶応4年1868年元日討薩表と共に2日から3日にかけて[要出典]京都へ向け近代装備擁する1万5千の[要出典]軍勢進軍させた。さきども進軍の間、朝命のとおり軽装上京するつもりで出兵本意ではなかった慶喜はこのとき風邪をひいてずっと寝巻布団中にいて、はじめからおわりまで大阪城の中から出ず甲冑軍装などの軍服着ずに、ただ嘆息していた。後年慶喜回想談中で、自身はもとから朝命どおり軽装連れて少数お供だけ)で御所参内するつもりだったことともあわせ、当時大阪城配下ことごとくなにがなんでも討薩の命令を」と大憤激し全軍総指揮としての自分には彼らの進軍抑えきれなくなってしまったありさまは、自身為に御所までの道を開け先供制止あらゆる手を尽くした最早どんななすすべもなく、形の上そういう結果立ち至ってしまったもの、と語っている。 アメリカ合衆国米国弁理公使駐日アメリカ合衆国大使)・ロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグはの老中板倉勝静酒井忠惇松平信義 (丹波亀山藩主)らへ正式な外交文書送りそのなかで旧幕府側は条約に基づく米国人保護依頼されると共に旧幕府は現在誰と戦争をしているのか」「旧幕府側に反抗しているのは島津忠義だけか、それとも味方協力者がいるのか」と米国政府側から問われると、これへ返信した老中板倉勝静酒井忠惇連署による公文書で「当今わが国日本国)に政変があり、やむを得ず兵力用いるときは賊徒・不臣である島津忠義の一藩(薩摩藩)を除くためで、同藩がどこへ潜伏しどんなはかりごと企んでいるかも測り難い。旧幕府兵力用いる際、条約批准済み外国人保護しその方法厳重に手配するので安心して欲しい。事態鎮静化までにはなるだけ遠行等もなきようお心づきを頼み入ります」と、不測の事態による武力衝突時には飽くまで徳川方反抗し謀略企んでいる島津忠義率い薩摩藩一藩との間のもの、との政府式見解を出した武備を鞏めての進軍明らかに朝廷対す威圧行為であった。[独自研究?] 旧幕府主力幕府陸軍歩兵隊及び桑名藩兵、見廻組等は鳥羽街道進み会津藩桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ旧幕府軍の本営は淀本宮(淀姫社)に置かれ総督松平正質副総督塚原昌義であった慶喜出兵報告受けて朝廷では、2日旧幕府側の援軍東側から京都進軍する事態想定して橋本実梁総督として柳原前光補佐につけて京都東側要所である近江国大津滋賀県大津市)に派遣することを決めとともに京都部隊を置く複数の藩と彦根藩に対して大津への出兵命じた。だが、どの藩も出兵躊躇し命令応えたのは大村藩のみであった渡辺清左衛門率い大村藩兵は3日未明には大津到着したが、揃えられた兵力はわずか50であった

※この「徳川慶喜への再入京の朝命」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
「徳川慶喜への再入京の朝命」を含む「鳥羽・伏見の戦い」の記事については、「鳥羽・伏見の戦い」の概要を参照ください。

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