徳川慶喜への再入京の朝命
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「徳川慶喜への再入京の朝命」の解説
京都から越前藩士・中根雪江や尾張藩の者ら4、5人が大阪へきて、朝命(天皇家の政体・朝廷からの指令)によって、慶喜へ再び京都へくるよう勧めた。慶喜は「では軽装(少数のお供だけを連れての朝議参内)で京都へ行こう」と考えたが、会津藩・桑名藩やほかの旗本の者らがこの慶喜の台慮(貴人の思い)をききいれず反対し、「薩摩藩を討つ好機会なので、十分な兵力を持って京都へ行き、是非とも君側の奸を清めましょう」と主張した。このとき、官僚で最も身分が高い者で老中からそれ以下の官職にあたる大目付や目付までほとんど半狂乱のありさまで、もし慶喜が薩摩藩征討(討薩)を肯定しなければ配下が一体なにをしだすか想像もできない状態で、しかも官僚から兵士らまでみなが完全に討薩を心から固く決意している気配だった。当時の大小目付部屋の光景は驚くべきもので、居並ぶ武者のみながあぐらをかき口角泡を飛ばしながら討薩論に熱中しているありさまは、ほとんどどこからも手の下しようもない状態だった。 このとき慶喜は風邪をひいており、寝巻(寝間着、寝衣)のまま寝床(布団)の中にいたところへ老中・板倉勝静がやってくると、将校から兵士までの討薩を望む士気の激昂は凄まじいもので、このまま何もせずには到底いられない旨、また「いくら少数のお供を除けばおひとりで京都へ行かれたいとはいえ、所詮、大君(日本最大の大名)であらせられるからには、万が一の為に御身をお守り申しあげる大勢の兵隊を帯びねば到底その様な事は叶いますまい」とくりかえし慶喜を説き伏せた。慶喜はそのとき読みかけの『孫子』の一節を示しながら「『彼を知り己を知れば百戦あやうからず』とこの本にある。そこで試しに聞くのだが、今わが幕府に西郷隆盛に匹敵すべき人物はいるか」と板倉に問うと、板倉はしばらく考えてから「おりません」と答えた。慶喜が続けて「では大久保利通ほどの者はどうか?」と問うと、板倉はまた「おりません」といった。慶喜はさらに吉井友実ら薩摩藩で名のある数人を挙げ「この人々に拮抗しうる者はいるか」とつぎつぎ尋ねてみると、板倉はまたまた「おります」とは言えなかった。このため慶喜は「こんなありさまでは、もしわが軍が薩摩藩側と戦っても必勝を期し難いだけでなく、遂にはいたづらに朝敵の汚名をこうむるだけではないか。決してわが方から戦を挑むことなきよう」と板倉へ無謀な開戦を制止した。それでも、板倉と若年寄・永井尚志らはしきりに将校・兵士らの激憤状態を慶喜へ説明し、「もし上様(慶喜)が飽くまで討薩の命令をゆるして下さらなければ、おそれ多くも、上様を刺し違えたてまつってでもわが軍隊は脱走しかねない勢いなのでございます」といった。慶喜は「まさかおのれを殺すまではしまいが、わが方の兵が脱走しそうなのは勿論だ。そうなったらいよいよ国が乱れるもとであろう」と、自軍の制御が十分に及んでいないのをひたすら嘆いていた。こうして江戸薩摩藩邸の焼討事件以後、なおさら大阪城のなかの将校・兵士らの憤激は到底制御することが不可能になった。 慶喜が薩摩藩への義憤に逸る大阪城配下の兵隊の大勢を抑え続けられなくなり、「なんじらのなさんと欲するところをなせ」「いかようとも勝手にせよ」と放任すると、将校・兵士らは『討薩表』を慶喜の名で書くと旗本・竹中重固が薩摩藩側へ持って行った。 こうして朝廷から御所への参内を命じられた慶喜は、慶応4年(1868年)元日『討薩表』と共に2日から3日にかけて[要出典]京都へ向け近代装備を擁する約1万5千の[要出典]軍勢を進軍させた。さきども進軍の間、朝命のとおり軽装で上京するつもりで出兵が本意ではなかった慶喜はこのとき風邪をひいてずっと寝巻で布団の中にいて、はじめからおわりまで大阪城の中から出ず、甲冑・軍装などの軍服も着ずに、ただ嘆息していた。後年、慶喜は回想談中で、自身はもとから朝命どおり軽装(連れても少数のお供だけ)で御所へ参内するつもりだったことともあわせ、当時の大阪城の配下がことごとく「なにがなんでも討薩の命令を」と大憤激し、全軍の総指揮官としての自分には彼らの進軍を抑えきれなくなってしまったありさまは、自身の為に御所までの道を開ける先供の制止にあらゆる手を尽くしたが最早どんななすすべもなく、形の上でそういう結果に立ち至ってしまったもの、と語っている。 アメリカ合衆国(米国)弁理公使(駐日アメリカ合衆国大使)・ロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグはの老中・板倉勝静、酒井忠惇、松平信義 (丹波亀山藩主)らへ正式な外交文書を送り、そのなかで旧幕府側は条約に基づく米国人保護を依頼されると共に、旧幕府は現在誰と戦争をしているのか」「旧幕府側に反抗しているのは島津忠義だけか、それとも味方や協力者がいるのか」と米国政府側から問われると、これへ返信した老中・板倉勝静と酒井忠惇は連署による公文書で「当今わが国(日本国)に政変があり、やむを得ず兵力を用いるときは賊徒・不臣である島津忠義の一藩(薩摩藩)を除くためで、同藩がどこへ潜伏しどんなはかりごとを企んでいるかも測り難い。旧幕府が兵力を用いる際、条約批准済みの外国人は保護し、その方法も厳重に手配するので安心して欲しい。事態の鎮静化までにはなるだけ遠行等もなきようお心づきを頼み入ります」と、不測の事態による武力衝突時には、飽くまで徳川方へ反抗し謀略を企んでいる島津忠義の率いる薩摩藩一藩との間のもの、との政府公式見解を出した。武備を鞏めての進軍は明らかに朝廷に対する威圧行為であった。[独自研究?] 旧幕府軍主力の幕府陸軍歩兵隊及び桑名藩兵、見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。旧幕府軍の本営は淀本宮(淀姫社)に置かれ、総督は松平正質、副総督は塚原昌義であった。 慶喜出兵の報告を受けて朝廷では、2日に旧幕府側の援軍が東側から京都に進軍する事態も想定して、橋本実梁を総督として柳原前光を補佐につけて京都の東側の要所である近江国大津(滋賀県大津市)に派遣することを決めるとともに、京都に部隊を置く複数の藩と彦根藩に対して大津への出兵を命じた。だが、どの藩も出兵に躊躇し、命令に応えたのは大村藩のみであった。渡辺清左衛門率いる大村藩兵は3日未明には大津に到着したが、揃えられた兵力はわずか50名であった。
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