徳川政権下での動静
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 02:55 UTC 版)
「沼田御守城」も参照 慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの戦後処理の際、信之は家康の率いる東軍に属して戦功を挙げたことから従来の上野国沼田領(岩櫃領を含む)を安堵されたのに加えて、父・昌幸が治めていた信濃国上田領、弟・信繁の知行を加増された。これにより信之は8万4,000石または上田領(約6万5,000石)と沼田領(約3万石)を合わせ9万5,000石の大名として存続することになった。 西軍に属した昌幸と信繁は、信之と小松姫の父・本多忠勝や本多正信らの嘆願もあり紀伊国の高野山への流罪となったが、その後も信之は昌幸・信繁一行の援助、病気を患った昌幸の助命嘆願を繰り返した。また、昌幸から信之の家臣に宛てた書状の中で御料人(小松姫)からの音信に礼を述べる内容が記されていることから、夫と同様に小松姫も昌幸を気遣っていたことが推測される。 この後、家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任して政務を執り行い、豊臣政権と同様に諸大名の妻子を政権本拠地に集住させたが、小松姫も江戸の大名屋敷に居住したものと考えられる。ただし、当初は信之の母・山手殿が江戸屋敷に、沼田城には小松姫が居住し、慶長18年(1613年)6月に山手殿が亡くなったことを受けて、小松姫が江戸の屋敷に移り住んだとも推測される。 小松姫の父・本多忠勝は、関ヶ原の戦いの功績によって伊勢国桑名藩に移封され、大多喜藩は小松姫の弟の忠朝が継いだ。この時期、忠勝からは信之の家臣・湯本三郎右衛門尉宛てに、小松姫を気遣う書状が送られ、信之と忠勝一族との間で親密な関係が築かれるなど、小松姫との縁戚を通じて交流が図られた。 慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)の大坂の陣では、病気療養中の信之に代わり、長男・信吉と次男・信政が本多忠朝の軍勢の指揮下に入って出陣した。小松姫からは、冬の陣の際に信之の重臣・木村綱成とその妻に宛て、信之は病気の養生のため出陣が叶わぬこと、信吉と信政が沼田城から急遽出陣したこと、信繁が大坂方に加わり大坂城に入場したことを知らせる内容の書状が、夏の陣の際には信吉の家臣・安中作左衛門に宛て「河内殿(信吉)については若いので、伊豆殿(信之)のようにはできないでしょう(中略)、伊豆殿に免じて陣中精を致し、奉公をお願いします」と合戦の経験が不足している信吉を気遣い、その補佐を依頼する内容の書状が残されている。
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