徳川政権時の相論とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 徳川政権時の相論の意味・解説 

徳川政権時の相論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 03:04 UTC 版)

伊勢神宮遷宮前後相論」の記事における「徳川政権時の相論」の解説

次の式年遷宮話題上がるようになったのは、慶長13年1608年)のことである。 神宮伝奏大御所徳川家康の間で遷宮費用の負担についての協議が行われ、翌慶長14年1609年2月には家康から6万石分の兵粮米造営費用として支給されている。7月頃から再び内宮・外宮の間でどちらを先に造営するかについての訴え出され外宮後柏原天皇綸旨内宮正親町天皇綸旨根拠として自己の優先主張した後陽成天皇同年内宮外宮の順で造営を行う意向有していたが、神宮伝奏であった大炊御門経頼神宮祭主に対して家康意向確認するように命じている(『御湯殿上日記慶長14年8月24日条)。これは6月発生し当時まだ処分出ていなかった猪熊事件問題残されていたために天皇慎重な態度示した考えられている。 家康天皇意向のままにとする一方日程について家康意向踏まえて宣旨書き換え実施された(『御湯殿上日記慶長14年9月13日14日条)。その結果慶長14年9月21日内宮が、その6日後に外宮遷宮実施されることになった(なお、『外宮慶長遷宮記によれば家康日程介入前は23日遷宮予定準備進められていたという)。 遷宮日程は本来、天皇権限であり信長秀吉ですら関与をしなかった部分であった。そこに家康関与するという事態は、造営費用全面的負担神宮造営警護担当する山田奉行設置によって江戸幕府式年遷宮深く携わるようになった側面考慮したとしても、猪熊事件の処理と並んで江戸幕府朝廷内部関与していく萌芽であるとも考えられている。 以後朝廷及び江戸幕府方針に基づき同じ年に内宮先に外宮同日もしくは3日後に遷宮を行うという慣例確立されることになる。

※この「徳川政権時の相論」の解説は、「伊勢神宮遷宮前後相論」の解説の一部です。
「徳川政権時の相論」を含む「伊勢神宮遷宮前後相論」の記事については、「伊勢神宮遷宮前後相論」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「徳川政権時の相論」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「徳川政権時の相論」の関連用語

徳川政権時の相論のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



徳川政権時の相論のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの伊勢神宮遷宮前後相論 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS