徳川政権期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:15 UTC 版)
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康と誼を通じた。慶長4年(1599年)、家康への臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上した。また、アイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで慶広とその子供たちのみ苗字を松前に改めた。慶長5年(1600年)には家督を長男・盛広に譲り、盛広も従五位下・若狭守を賜ったが、その後も慶広が政務を司った。慶長8年(1603年)には江戸に参勤して百人扶持を得た。慶長9年(1604年)、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下伊豆守に叙位・任官された。これらを以って、松前氏を大名格とみなし、慶広を松前藩の初代藩主とするが、正式な家格は交代寄合である。 慶長14年(1609年)に猪熊事件が起きて左近衛少将・花山院忠長が蝦夷・上ノ国に配流された。慶広は忠長を城下の福山(松前)で賓客として厚遇した。忠長は5年で津軽へ移されるが、京都の公家に誼を得たことで、松前家には以後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高めると共に、松前に京都の公家文化をもたらした。 慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の二回にわたり、徳川家康に海狗腎(オットセイ)を献上している(『当代記』)。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には徳川方として参陣した。なお、慶長19年(1614年)に豊臣氏に通じたとして、親豊臣派であった四男・由広を誅殺している。 元和2年5月(1616年)、剃髪して海翁と号した。10月12日に死去。享年69。長男・盛広は早世していたため、嫡孫である盛広の長男・公広が後を継いだ。
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