国土の変遷とは? わかりやすく解説

国土の変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:58 UTC 版)

日本」の記事における「国土の変遷」の解説

古代 弥生時代後期西日本各地広域地域勢力勃興した2世紀末には畿内中心として、西日本広域支配する邪馬台国連合創設された。邪馬台国連合3世紀には東海・北陸のほか東日本支配下に置き倭国成立した古墳時代前期前半には、現在の九州宮崎県から東北宮城県範囲まで国土拡大されたことが、古墳造営消長から明らかになっている。荒井秀規は、3世紀末から4世紀倭王による東国への最初の接触があった後、4世紀末から5世紀にかけて倭王による東国への征服戦争が行われたと想定している 。ただし倭国東北など各支領域確保維持しようとする考え持っておらず、6世紀には、経済基盤脆弱な阿武隈川以北倭国支配地から切り離し古墳時代後期には太平洋側では現在の宮城県南部日本海側では現在の新潟県中部までが倭国支配領域となった。またこの間400年履中天皇元年)と404年履中天皇5年)に倭は朝鮮半島百済加耶諸国と共に高句麗百済連合軍2度わたって合戦行っている。 奈良・平安時代日本国は、北は津軽海峡まで、南は喜界島までを国土認識していた。しかし東北地方に対して関心希薄さは変わることがなく、東北地方北部を完全な形で支配する必要性感じていなかったため、実際に大崎平野までが8世紀における日本国北限であった9世紀陸奥出羽からの徴税京進が行われなくなると関心は更に希薄になり、東北北部経営現地官人任せになっていった。また、南西諸島への関心薄れていった。 古代日本では畿内と言われる行政区設けられていた。大化の改新によって設置され当時から機内支配者にとっての特別な地域認識されていたが、律令制施行後直轄地として国家支え役割担った中世 中世後期日本は、室町将軍との間に<主-従の関係>を築くことが出来ているか、室町将軍頂点とした階層的な秩序の内に居るか、あるいは外に居るかで境界引かれていた。将軍反逆し命令届かない地域支配権の外に置かれ、<主‐従の関係>の有無によって境界明瞭化された。 歴史学において室町幕府3代将軍足利義満治世は初の公武統一政権評価されている。しかし室町幕府地方への関心を殆ど持たない政治権力であり、自らが統治すべき範囲畿内近国瀬戸内中部地域考えており、幕府にとって東北関東九州辺境でしかなかった。 15世紀前半永享の乱によって将軍鎌倉公方との<主ー従の関係>が崩れると、幕府日本国東側境界駿河国までであると規定するようになり、東国日本国から切り離した一方で当時独立国だった琉球国室町将軍との間に<主‐従の関係>を結んでおり、将軍による<主‐従の関係>は国家間においても成立しうる概念でもあった。 1419年応永26年)、李氏朝鮮倭寇拠点壊滅目的対馬攻撃した作戦失敗終わった応永の外寇)。その後対馬李氏朝鮮領とするため対馬-李氏朝鮮間で交渉が行われたが、交渉不調に終わり対馬引き続き日本国所属することになった文明年間大和興福寺別当尋尊は「大乗院寺社雑事記」で、中世後期日本国範囲現在の近畿東海・北陸中国・四国各地域であるとしている。一方戦国時代末期天正9年1581年)、織田信長毛利氏との決戦意思明らかにした際、「今度毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長御出馬を出だされ、東国西国人数膚を合せ、御一戦遂げられ悉く討ち果たし本朝滞りなく御心一つ任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り東国織田領)と西国毛利領)が合戦西国討ち果たせ本朝日本国)は滞りない状態になるだろう、と日本国範囲規定している。 近世 織田政権継承した豊臣政権は、四国平定九州平定経て1588年天正16年日本国統一成し遂げた豊臣政権その後東日本にも支配拡大し1590年天正18年)の奥羽仕置により初め本州北端までを日本の国土組み込んだ。更に秀吉は「唐入り」と称して朝鮮半島2度亘って攻め込むが、中国大陸朝鮮半島支配拡げるには至らなかった(文禄・慶長の役)。 豊臣政権継承した徳川幕府は、豊臣政権とは一転して国際的孤立主義の道を選び長崎対馬琉球薩摩)・松前の4地域窓口として対外交渉行った1609年慶長14年)、薩摩藩琉球侵攻し冊封関係を築き支配下置いたが、琉球中国とも朝貢関係を持ち続け日本国中国明・清)との間で両属的な関係を維持したまた、徳川政権期蝦夷地北海道)は松前藩支配する渡島半島南部の「和人地」以外は日本国の外と認識していた。 近代以降 詳細は「大日本帝国#領土」を参照 辺境地域領土確定課題としていた明治新政府1870年明治3年)、北海道日本国組み込み1879年明治12年)には清との帰属交渉未決のまま、琉球沖縄県として公式に日本国編入した。 19世紀末以降日本国対外戦争により国土を拡げていき、20世紀前半には日本史史上最大規模拡大した1895年明治28年)に日清戦争結果清か台湾獲得下関条約)し、1905年明治38年)には、日露戦争後交渉で、ロシアより南樺太割譲受けたポーツマス条約)。更に1910年明治43年)にはそれ以前より日本国保護にあった朝鮮併合したその後1922年大正11年)には南洋諸島委任統治開始し太平洋側へも支配地域拡大させた。 1932年昭和7年)には満州国建国し。1937年昭和12年)、盧溝橋事件きっかけ開戦した日中戦争により中国大陸占領地拡大1940年昭和15年9月フランス領インドシナ北部進駐開始し仏印進駐)、翌年7月には南部仏印進駐翌年7月には南部にも進駐開始した1939年昭和14年2月台湾総督府海軍と共に海南島占領した台湾総督府台湾重工業化を企図し、「台湾植民地」として海南島支配下に置くことを目論んだのだった。だが占領後海南島支配海軍主導することになり、台湾総督府海軍協力することでしか関与できなかった。 1941年昭和16年12月日本太平洋戦争開戦と共に南方作戦発動し翌年5月には東南アジア一帯国土組み込んだ。しかし太平洋戦争敗れると、日本それ以前からの各植民地失い満州国消滅1951年昭和26年)に締結されサンフランシスコ条約により南樺太千島列島領有権放棄することになった1972年昭和47年)には、太平洋戦争末期からアメリカの占領状態にあった沖縄日本返還され現在に至っている(沖縄返還)。

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