近代以降(最盛期)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:33 UTC 版)
和歌浦は玉津島神社、東照宮、天満宮の遷座する聖地など古蹟名勝地として知られていたが、1885年に療養地としての海水浴場が開業し、日清戦争以後は別荘地・行楽地の性格を増していった。1909年には和歌山水力電気の路面電車(のちの南海電鉄和歌山軌道線)が和歌浦まで開通し、観光客増加に一役買っている。市電は1913年には和歌浦港まで延伸し、鉄道のない紀伊半島各所と水路で直結できるようになった。1910年には旅館望海楼が奠供山エレベーターを開設し、翌年には夏目漱石が乗っている。その様子は小説『行人』に描かれている。 1917年に伊都郡の資産家森田庄兵衛が開発会社新和歌浦土地を設立し、和歌浦は転機を迎えた。庄兵衛は和歌浦港より西側の海岸線を買い占め、道路を開いて本格旅館を相次いでオープンさせた。庄兵衛の死後も新和歌浦のリゾート開発は継続され、1932年には年間100万人を誘致する観光地となった。その一方で、旧来の和歌浦は老舗旅館が相次いで廃業・移転し、片男波と歌われた海岸は工業用地として開発されるなど、行楽地としてのポジションは新和歌浦側に移ってしまった。また、和歌浦と旧城下町の中間にあたる旧雑賀村エリアは1930年代に区画整理が行われ、繊維産業の重役や近接する高等商業専門学校の教員が邸宅を構える高級住宅地が形成された。 1950年に、毎日新聞による「新日本観光地百選」の海岸の部にて1位を獲得すると、その美しさが全国的に知られるようになり、加えて縁結び信仰が強かった玉津島神社の存在意義も相俟って、全国随一の新婚旅行スポットとなり、観光客は一段と増加した。さらにその後は瀬戸内海国立公園への編入も決定したことで、年間宿泊者350万人を数える一大観光地に成長した。高津子山(たこずしやま、章魚頭姿山とも)にはソメイヨシノが植樹され、春先になる絢爛と花を咲かせることから、「西の嵐山」などと称された。ほかに、新和歌浦ロープウェイ(和歌の浦温泉 萬波 前の高津子山に存在した)の敷設や和歌浦遊覧船の周航開始など、次々に観光開発が進行し、うらぶれた漁村であった一帯は大きな変化を遂げることになった。
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