対外戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:04 UTC 版)
「アレクサンデル・セウェルス」の記事における「対外戦争」の解説
軍との対立を抱えつつも平穏な統治が続いていたが、サーサーン朝ペルシャ帝国との戦争が破滅の契機となった。歴史家ヘロディアヌスによれば、この戦いでアレクサンデル帝はペルシャ軍に屈辱的な敗北を喫したと記され、「ローマ皇帝群像」も同様の記述を残している。その後、次第に帝国軍は体制を立て直して反撃に転じ、アレクサンデルはアンティオキアに陣を構えた。ところがまたもや、アレクサンデル軍はペルシャ軍に大敗を喫してアルメニア王国に退き、しかもそこで更なる追い討ちを受けた。ペルシャ軍が引き上げたことで破滅は免れたが、帝国軍は異常なまでに規律を乱していた。 232年、タウリアヌスという軍人が属州シリアの軍に反乱を呼びかけ、帝位請求者として蜂起した。どうにかアレクサンデル帝は反乱を鎮め、タウリアヌスは逃れる際にユーフラテス川で溺死したという。233年、アレクサンデル帝はペルシャ帝国と和睦してローマに帰還した。 234年、ライン川の防衛線を破った蛮族が一部ガリア北部に侵入したとの報告を受け、アレクサンデル帝は軍を派遣した。各地から援軍を集めた帝国軍はただちに蛮族をライン川の向こうへ押し返し、勢いづいた軍人達は逆に渡河して防衛線を押し広げようとした。しかし、アレクサンデル帝は母の助言もあって、蛮族達に賠償金を払って矛を収めさせることにした。効果的であったかどうかにかかわらず、この行動は軍の中でアレクサンデル帝への軽蔑を決定的なものにし、軍人達は皇帝を臆病と嘲笑った。歴史家ヘロディアヌスは「軍が狼藉を働いた蛮族を打ち倒さねばならない時、臆病な皇帝は敵を罰するどころか金を与えたのだ」と批判している。 軍内にアレクサンデル帝への不服従が広がり始め、遂には蛮族上がりの下級軍人マクシミヌス・トラクスを中心にした反乱軍が蜂起した。
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