アンティオキア【(ラテン)Antiochia】
アンティオキア 【Antiochia ラテン】
アンティオキア
アンティオキア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:22 UTC 版)
「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「アンティオキア」の解説
一向に事態が好転しない事に対する不安が募る中、思いがけず白羽の矢が立てられたのが無能力さから今回の動乱にも無関係と思われていたルキウス帝であった。元老院はルキウス帝を前線に派遣することで軍の督戦を行わせようと考えた。しかしルキウスに関する伝記はそれ以外にも「ルキウス帝に皇帝の責務を自覚させる」「戦場の恐怖で倫理観を抱かせる」といった具合に、云わば厄介払いとしての部分もあったのではないかと記録している。ともかく162年に元老院はルキウス帝の親征を承認する決議を行ったが、アウレリウスに関しては「民衆が滞在を望んでいる」としてローマへ留まることが勧められた。 ルキウス帝は一部の例を除いて殆どの時間をアンティオキアの後方陣営地で過ごした。同時代の論者達はルキウスの退廃癖が前線でも改められていないと批判し、朝から晩までルキウス帝は賭け事に熱中して前線を訪問せず、周囲にお気に入りの役者達を置いて気侭な生活を送っていた。更に実務面を統括していたシリア総督アンニウス・リボの存在を疎んで暗殺したと噂されている。 163年、アウレリウス帝は自身の長女ルキッラとルキウス帝の婚姻を取り決めた。アウレリウス帝はルキウス帝が既に大勢の愛人を抱えていることを知っていたが、敢えてルキウス帝への親睦として娘を嫁がせた。この時、ルッキラは15歳に満たない少女であったと考えられている。結婚の仲介役としてルキウス帝の叔父にあたるウェトゥレヌス・シウィカ・バルバルウス(Vettulenus Civica Barbarus)を向かわせた。バルバルウスは実質的にアンニウスの後任としてルキウスの目付け役も兼ねていたと思われる。 当初、アウレリウスも娘の婚姻に合わせて前線に向かう計画もあったが、これは実現しなかった。アウレリウスは途中まで娘と一行を見送ると自らはローマに戻り、各属州に一行に対して何かしらの特別扱いを行わないように命令を下している。
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