アンティウム分配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:04 UTC 版)
紀元前467年、ついに実際に土地が分配される機会が訪れた。前年ウォルスキ族の主要都市の一つアンティウムを陥落させており、その土地を分配するための三人委員会が組織された。メンバーはいずれも執政官経験者のティトゥス・クィンクティウス、プブリウス・フリウス、アウルス・ウェルギニウスであった。しかしながら、プレブスはローマの土地を希望し、アンティウムへ行く者はわずかであった。 その後しばらくローマはウォルスキやアエクイ族の攻撃や疫病に苦しみ、紀元前462年には執政官権限を制限するテレンティリウス法案が提出された。その争いをきっかけに紀元前454年にはソロンの法研究のためアテナイに使節団が派遣され、その帰国後の紀元前451年に十人委員会が設立されると十二表法が完成する事になる。
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