アンティオキアの陥落とは? わかりやすく解説

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アンティオキアの陥落

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:13 UTC 版)

アンティオキア攻囲戦」の記事における「アンティオキアの陥落」の解説

包囲戦はなおも続いた1098年5月末、北メソポタミアモースル領主だったケルボガKerbogha, カルブーガ)はヤギ=シヤーンの救援応じ大軍率いてアンティオキア向かった。これは、それまでのどの援軍よりもずっと大きな規模であったケルボガはディヤール・バクルのアルトゥク家の軍勢ペルシャ軍勢率いており、途中でダマスカスドゥカークアレッポリドワーンの軍とも合流した。しかしケルボガ率いる軍はなかなかアンティオキアに着かなかった。彼は途中で十字軍占領されエデッサ1098年初頭十字軍本隊から別行動をとったブーローニュボードゥアンが町占領しエデッサ伯国築いていた)に向かい、3週間ほど攻城戦したものの、落とすことができなかった。ケルボガこうした寄り道により、迎え撃つ十字軍には時間余裕生まれたケルボガ大軍は、兵力に劣る十字軍にとっては非常に脅威的であった十字軍は、どのような手を使ってでも必ず、ケルボガ大軍が来る前にアンティオキアを落とさねばならないことを理解していた。ボエモンは、アンティオキアの「二人姉妹の塔」の守備責任者であったアルメニア人衛兵フィルーズ(Firouz)と密かに連絡を取ることに成功した。フィルーズはヤギ=シヤーンに憎悪抱いていたため、ボエモンからの賄賂申し出に応じて門を開けることを約束したボエモンは他の十字軍指導者らに対し、もし戦後アンティオキア領有することを認めてくれるなら、他の者もフィルーズが開けた門を通ってアンティオキア市内入ってよいと申し出たレーモン怒り1097年コンスタンティノープルを発つときに約束したとおり、陥落させた町は全て皇帝アレクシオス引き渡すべきではないのかと主張した。しかし、ゴドフロワ、タンクレードロベールら他の諸侯は、ケルボガ接近という不利な状況にあることからボエモン要求呑んだ6月2日長引く包囲戦に耐えかねたブロワ伯エティエンヌらが、ついに陣営出て十字軍離脱しタルスス方面戻ってしまった。しかしこの同じ日、ボエモンらによる市内潜入始まろうとしていた。フィルーズはボエモンに、近くまで迫っているケルボガ面会するふりをして行軍出てアンティオキア城内守備隊油断させ、そのまま夜にアンティオキア戻ってきて城壁にはしごをかけて登るよう指示した同日夜、潜入成功した。フィルーズは城門開け放ち、たちまち十字軍市内になだれ込み虐殺始まった市内にいたキリスト教徒呼応して他の城門開け放ちそのままテュルク人守備隊対す虐殺加わった。しかし十字軍ムスリム市民だけでなくキリスト教徒市民に対して虐殺行った犠牲者中にはフィルーズの兄弟含まれていた。ヤギ=シヤーンは混乱陥ったアンティオキア脱出したが、市外シリアキリスト教徒捕まり、断首され、その首はボエモン元に届けられた。

※この「アンティオキアの陥落」の解説は、「アンティオキア攻囲戦」の解説の一部です。
「アンティオキアの陥落」を含む「アンティオキア攻囲戦」の記事については、「アンティオキア攻囲戦」の概要を参照ください。

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