アンティオキアの陥落
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「アンティオキア攻囲戦」の記事における「アンティオキアの陥落」の解説
包囲戦はなおも続いた。1098年5月末、北メソポタミアのモースルの領主だったケルボガ(Kerbogha, カルブーガ)はヤギ=シヤーンの救援に応じ、大軍を率いてアンティオキアに向かった。これは、それまでのどの援軍よりもずっと大きな規模であった。ケルボガはディヤール・バクルのアルトゥク家の軍勢やペルシャの軍勢も率いており、途中でダマスカスのドゥカークやアレッポのリドワーンの軍とも合流した。しかしケルボガ率いる軍はなかなかアンティオキアに着かなかった。彼は途中で十字軍に占領されたエデッサ(1098年初頭、十字軍本隊から別行動をとったブーローニュのボードゥアンが町を占領し、エデッサ伯国を築いていた)に向かい、3週間ほど攻城戦をしたものの、落とすことができなかった。ケルボガのこうした寄り道により、迎え撃つ十字軍には時間の余裕が生まれた。 ケルボガの大軍は、兵力に劣る十字軍にとっては非常に脅威的であった。十字軍は、どのような手を使ってでも必ず、ケルボガの大軍が来る前にアンティオキアを落とさねばならないことを理解していた。ボエモンは、アンティオキアの「二人姉妹の塔」の守備責任者であったアルメニア人衛兵フィルーズ(Firouz)と密かに連絡を取ることに成功した。フィルーズはヤギ=シヤーンに憎悪を抱いていたため、ボエモンからの賄賂の申し出に応じて門を開けることを約束した。ボエモンは他の十字軍指導者らに対し、もし戦後アンティオキアを領有することを認めてくれるなら、他の者もフィルーズが開けた門を通ってアンティオキア市内に入ってよいと申し出た。レーモンは怒り、1097年にコンスタンティノープルを発つときに約束したとおり、陥落させた町は全て皇帝アレクシオスに引き渡すべきではないのかと主張した。しかし、ゴドフロワ、タンクレード、ロベールら他の諸侯は、ケルボガ軍接近という不利な状況にあることからボエモンの要求を呑んだ。 6月2日、長引く包囲戦に耐えかねたブロワ伯エティエンヌらが、ついに陣営を出て十字軍を離脱し、タルスス方面に戻ってしまった。しかしこの同じ日、ボエモンらによる市内潜入が始まろうとしていた。フィルーズはボエモンに、近くまで迫っているケルボガに面会するふりをして行軍に出てアンティオキア城内の守備隊を油断させ、そのまま夜にアンティオキアに戻ってきて城壁にはしごをかけて登るよう指示した。同日夜、潜入は成功した。フィルーズは城門を開け放ち、たちまち十字軍が市内になだれ込み虐殺が始まった。市内にいたキリスト教徒も呼応して他の城門を開け放ち、そのままテュルク人守備隊に対する虐殺に加わった。しかし十字軍はムスリムの市民だけでなくキリスト教徒の市民に対しても虐殺を行った。犠牲者の中にはフィルーズの兄弟も含まれていた。ヤギ=シヤーンは混乱に陥ったアンティオキアを脱出したが、市外でシリア人キリスト教徒に捕まり、断首され、その首はボエモンの元に届けられた。
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