アンティオキア公国の建設と拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:24 UTC 版)
「アンティオキア公国」の記事における「アンティオキア公国の建設と拡大」の解説
第1回十字軍以前は、アンティオキアはセルジューク朝の総督ヤギ・シヤーンが治める難攻不落の城塞都市だったが、セルジューク朝征服以前からのギリシア人住民も多く、東ローマ帝国はここを帝国固有の領土と考え、セルジューク朝から回復しようと考えていた。第1回十字軍遠征の際、アンティオキア攻囲戦において活躍した南イタリアのノルマン人封建君主であるターラント公ボエモンは攻略中からこの都市の領有の希望を公言するようになり、1098年、半年に渡る包囲の末にアンティオキアが陥落し市民の虐殺と略奪が終わると、この地の君主(公、ボエモン1世)に就任し、アンティオキアを首都とするアンティオキア公国が建設された。ボエモン1世は十字軍の本来の目的であったエルサレム攻略への参加を止め、アンティオキア公国の確立に専念することになる。 ボエモン1世は1100年に小アジア内陸のセルジューク朝系ムスリム政権ダニシュメンド朝の王ダニシュメンド・ガーズィーを討とうとして、逆にダニシュメンドの捕虜となってしまう(メリテネの戦い)と、甥のタンクレードが摂政に就任した。ボエモン1世は身代金を払い解放されると、同じ十字軍国家のエデッサ伯国と協力しシリア北部のハッラーンを制圧し、セルジューク朝の分裂に乗じモースルやバグダードをうかがう勢いだったが、モースルのムスリム軍に完敗し退却を余儀なくされた(ハッラーンの戦い)。さらにアンティオキアのあり方をめぐってアンティオキアの宗主権を主張する東ローマ帝国の圧迫を受けたため、援軍を求めてイタリアに帰国してしまい、再びタンクレードが摂政となった。 1108年にはボエモン1世がマケドニアで東ローマ皇帝アレクシオス1世とデヴォル条約を結びアンティオキア公国を東ローマ帝国の臣下とすることを約束したが、タンクレードはこれを拒み独立国としてあり続けることを選んだ。1111年にボエモン1世がイタリアで死ぬと、タンクレードは従弟でボエモン1世の遺児(ボエモン2世(英語版))を立てて摂政を続けた。タンクレードはエデッサ伯国と協力して東ローマ帝国からラタキアを奪い、バニヤースの南をトリポリ伯国との境界とした。北シリアの主要都市で内陸に隣接するアレッポにはシリア・セルジューク朝のリドワーン王が陣取っていたが、これと戦って破り、オロンテス川の中流域とアレッポを取り巻く周囲に至るまでの内陸側をすべて征服し、シリアの強国として君臨するアンティオキア公国の事実上の建国者として活躍した。
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