アンティオキア学派ネストリオスとの論争
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「アレクサンドリアのキュリロス」の記事における「アンティオキア学派ネストリオスとの論争」の解説
もう一つの大きな争いは神学上のアレクサンドリア学派とアンティオキア学派との間での信仰と語法に関するものであった。この論争は、コンスタンティノープル総主教管区の、より古いアレクサンドリア及びアンティオキア総主教管区に対する優位を認めた第1コンスタンティノポリス公会議第三決議を拡張したもので、アレクサンドリア管区とアンティオキア管区との争いはすでにコンスタンティノープルをも巻き込んでいた。この衝突はアンティオキア学派のネストリオスが428年にコンスタンティノープル総主教になるとともに土壇場に来た。 アンティオキアの聖職者がコンスタンティノープルでネストリオスの命によって聖母マリアを「神の母」と呼ぶことに反対する説教を始めた際にキュリロスはアレクサンドリアのアンティオキア及びコンスタンティノープルに対する優越性を取り戻す機会を得た。「神の母」という言葉は長い間マリアに用いられていたため、コンスタンティノープルの在家信者たちはアンティオキアの聖職者に不満を抱いていた。ネストリオスは、聖母マリアは人の母でも神の母でもなく、「キリストの母」であると主張した。ネストリオスによれば、キリストは神性と「神殿」(ネストリオスは人性をこう呼んだ)との併合(συνάΦεια)である。 論争はキリストの受難の問題を中心とした。神の子つまり神の言葉は本当に「受肉して」受難なさったとキュリロスは主張した。しかし、ネストリオスは、神の子は肉体における結合をも含めると完全に受難することはできないと主張した。ドリュラオンのエウセビオスはネストリオスの説を養子的キリスト論だと責めた。 コンスタンティノープルでの議論がアレクサンドリアに伝わると、429年の復活祭の折、キュリロスはエジプトの修道僧たちにネストリオス説に注意するよう書簡を送った。この書簡の写しがコンスタンティノープルにまで到達すると、ネストリオスはそれに反論する説教を行った。ここからキュリロスとネストリオスの間で複数回にわたる書簡の応酬が始まり、次第に攻撃的な調子を強めていった。 この論争を解決するために皇帝テオドシウス2世がエフェソスで公会議を開いた。キュリロスがエフェソスを開催地として選んだのは当地がマリア崇敬を強く支持する土地柄だったからである(キリスト教以前はギリシアの女神アルテミスを崇拝していたのがマリア崇敬へ替わった)。エフェソス市民はキュリロスに友好的で[要出典]、キュリロスとその支持者はネストリオスとその支持者がアンティオキアやシリアから到着する前にエフェソス公会議(431年)を開会させ、ネストリオスが召喚されても参加を拒み、ネストリオスが異端であるとして職務剥奪、国外追放を決定した。 しかしアンティオキアのヨハネやその他の元ネストリオス派の司教たちがエフェソスに到着すると、公会議でキュリロスに異端宣告し、総主教の地位の剥奪を宣誓して、「教会を破壊するために生まれ育てられた怪物」とレッテルを貼った。皇帝テオドシウス2世は公会議の評決を無効だと宣言してキュリロスを捕えた。しかしキュリロスは逃げおおせ、エジプトに逃げ帰るとテオドシウスの廷臣にわいろを贈り、また、隠者コンスタンティノポリスのダルマティオスに率いられた群衆を送り込んで、テオドシウスの宮殿を包囲して罵声を上げさせた。ついにテオドシウスは降参し、ネストリオスを上エジプトへ流刑に処した。 キュリロスは444年に世を去ったが、エフェソス強盗会議(449年)からカルケドン公会議(451年)以降、論争は数十年続いた。
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