国外退去
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国外退去(こくがいたいきょ)とは、国家が自国内に在留する外国人に対し、出国を命じることを指す。
日本
日本においては、法令上は「退去強制」と「出国命令」があり、いずれも外国人が日本在留の根拠(許可)を喪失した場合に行われる。退去強制または出国命令が執行されれば、その外国人は一定期間上陸拒否の対象となる。なお、特別永住者については、退去強制の要件が内乱罪・外患罪で有罪が確定しその執行を終えた場合などに限定されている。
韓国
全斗煥時代の韓国で、日本人留学生が国家保安法違反に問われ、懲役7年の有罪判決が出た。日本政府は、韓国政府と外交折衝を行い、当該留学生を国外退去にし、刑の執行を免除させた。
アメリカ
アメリカ合衆国における国外退去処分は、2009年から2013年までに約200万人とする記録があり、年間数十万人規模となっている。退去処分の理由は、在留外国人(不法移民も含む)が犯した交通違反など微罪を理由にするものが大半である[1]。
2025年に第2次トランプ政権が誕生。ドナルド・トランプは選挙中から不法滞在者に対して「米国史上最大の国外送還作戦」、「2000万人を強制送還」といった主張を繰り返してきたこともあり[2]、犯罪を犯した移民に不寛容な政策や大量送還、出身国以外の国への退去も行われるようになった。 同年3月にはアメリカ国内で拘束されていたベネズエラのギャング、トレン・デ・アラグアのメンバー238人がエルサルバドルに国外退去処分となり、契約先のテロリスト監禁センターに収容された[3]。 さらに7月には、不法移民犯罪者5人をアフリカのエスワティニに国外退去させた。5人の出身地はベトナム、ラオス、イエメン、キューバ、ジャマイカと退去先のエスワティニと関係ない国であったが、国土安全保障省は「(彼らは)あまりにも野蛮過ぎて、祖国に受け入れを拒否された」と説明した[4]。
海外に滞在する自国民に対する国外退去勧告
アメリカは、北朝鮮に拘束されていたアメリカ人大学生、オットー・ワームビアが帰国後に死亡したことをきっかけに、2017年9月1日より北朝鮮に対する渡航禁止措置を実施した。これに先立ち、北朝鮮に滞在する自国民に対して国外退去勧告を行った[5]。
ドイツ
2000年代以降、ドイツは中東諸国などからの移民や難民を受け入れてきたが、次第に受け入れ者の犯罪が目立つようになった[6]。ドイツは重大な犯罪を犯した移民や難民を国外退去する方針を示し[7]、同年8月30日には、有罪判決を受けたアフガン人28人をアフガニスタンへ強制送還。さらに2025年7月18日には81人をアフガニスタンへ強制送還した。今後も、このような送還は続けるとしている。なお、ドイツ政府とアフガニスタンのターリバーン政権には国交が無いため、送還にはカタールが支援を行っている[8]。
脚注
- ^ 強制送還数が増加、アメリカ JB press(2014年4月16日)2018年1月21日閲覧
- ^ “不法移民1100万人を抱えるアメリカ トランプ氏が掲げた公約「大量強制送還」の現実味”. 朝日新聞GLOBE (2024年12月6日). 2025年7月19日閲覧。
- ^ “米、ギャング容疑者をエルサルバドルへ送還 差し止め命令無視か”. AFP (2025年3月17日). 2025年3月17日閲覧。
- ^ “トランプ政権、不法移民犯罪者を第三国追放「野蛮過ぎて祖国が拒否」”. AFP (2025年7月16日). 2025年7月19日閲覧。
- ^ 北朝鮮渡航者に8月中の国外退去呼び掛け 産経新聞社・産経ニュース(2017年8月3日)2018年1月21日閲覧
- ^ “ドイツが転向を迫られた「移民難民問題」の深刻”. 東洋経済オンライン (2024年9月19日). 2025年7月19日閲覧。
- ^ “ドイツ、ナイフと難民申請者に関する法律を強化へ”. BBC (2024年8月30日). 2025年7月19日閲覧。
- ^ “ドイツ、アフガン人犯罪者81人を強制送還「重大犯罪者に居住権なし」”. AFP (2025年7月19日). 2025年7月19日閲覧。
関連項目
- ペルソナ・ノン・グラータ - 外交官に対する事実上の国外退去命令
国外追放
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「ノロドム・シハヌーク」の記事における「国外追放」の解説
ベトナム戦争中の1970年3月、首相兼国防相のロン・ノル将軍と副首相シリク・マタク(シハヌークの従兄弟)などが率いる反乱軍が軍事クーデターを決行する。議会は外遊中のシハヌーク国家元首の解任、王制廃止と共和制施行を議決し、国名は「クメール共和国」と改められ、ロン・ノルが大統領に就任した。シハヌークは同年3月22日に北京で記者会見を行い、再び政権の座に復帰することや国家元首の称号を保持し続けるつもりはないと言明。また、香港や日本へ亡命するとの噂も不定した。 クーデターは、アメリカがシハヌークを北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線と近い「容共主義者」と見なし、親米派のロン・ノルを支援して追放させたと言われている。 シハヌークは、カンボジア領内に南ベトナム解放民族戦線の補給基地や北ベトナムから南ベトナムへの人員物資補給路であるホーチミンルートの存在を許し、一方で1969年を通してアメリカのカンボジア爆撃を公に非難した。1970年1月にはアメリカ軍と南ベトナム軍の攻撃で多数の民間人死者が出た何千件もの報告を含む政府公式白書を公表していた。また南ベトナムのフルロも軍基地などで反乱を起こした後、しばしカンボジア領に逃げ込んでいた。 クーデター後、ロン・ノル政権は、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、クメール領のベトナム系住民を迫害・虐殺・追放した。また、ロン・ノルはアメリカ軍と南ベトナム軍に南ベトナム解放民族戦線を追撃するためのクメール領内侵攻を許し、さらにこれまで局部的であったアメリカ軍の空爆は人口密集地域を含むクメール全域に拡大された。これにより数十万人の農民が犠牲となり、わずか一年半のうちに200万人が国内難民と化した。とくに東部は人口が集中する都市部なども重点的に爆撃を受けた。農村インフラは破壊され、食糧輸出国だったクメールは食糧輸入国に転落した。こうした状況はクメールの一層の不安定化を招き、クメール・ルージュの勢力拡大に有利となった。
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