シーボルト‐じけん【シーボルト事件】
シーボルト事件
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シーボルト事件(シーボルトじけん)は、江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処罰された。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。
- ^ a b 石山禎一「シーボルトの生涯とその業績関係年表1(1796‐1832年)」『西南学院大学国際文化論集』第26巻第1号、西南学院大学学術研究所、2011年9月、155-228頁、ISSN 09130756、CRID 1050001337616665344。
- ^ 秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫、1996年) 第一部 第七章 北方の男たち 171頁
- ^ 秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫、1996年) 第二部 第十章 シーボルト事件 228 - 239頁
- ^ a b c d “シーボルト事件 発覚過程 記す新史料見つかる 江戸露見説を裏付ける”. 長崎新聞. 2019年12月27日閲覧。
- ^ 訊問と帰化願いの始末は秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫、1996年) 第2部 第十章 シーボルト事件 239 - 257頁 を参照。
- ^ 秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫、1996年) 第二部 第八章 嵐の前の静けさ 199 - 202頁、また第十章 シーボルト事件 258 - 262頁 シーボルトからバタビア蘭印総督ファン・デル・カベルレンへの手紙内容。
- ^ 秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫、1996年) 第二部 第八章 嵐の前の静けさ 203頁
- ^ “シーボルト記念碑とたき・いね・たかへ >> 私のこと”. 長崎の面白い歴史. 岩田祐作. 2015年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月16日閲覧。
- 1 シーボルト事件とは
- 2 シーボルト事件の概要
- 3 参考文献
シーボルト事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:06 UTC 版)
文政3年(1820年)、父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、抜きん出た学力で塾頭となる。文政11年(1828年)、シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れている。まもなく豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという(異説もある)。この間、義父玄斎が亡くなっており、長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、逡巡したもののついに拒絶。家督を捨て、同時に武士の身分を失う。
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シーボルト事件
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「大日本沿海輿地全図」の記事における「シーボルト事件」の解説
幕府に提出された伊能図は、江戸城紅葉山文庫に秘蔵され、一般の目に触れることはなかった。あまりに詳細な地図のため、国防上の問題から幕府が流布を禁じたためである。文政11年(1828年)紅葉山文庫を所管する書物奉行でもあった高橋景保が、長崎オランダ商館付の医師であるシーボルト(1796年 - 1866年)に禁制品である伊能図を贈ったことが露顕し、高橋景保は逮捕され、翌年3月に獄死した(シーボルト事件)。 日本を強制退去となったシーボルトは帰国後の1840年に、伊能図をオランダでメルカトル図法に修正した「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」を刊行している。その精度の高さにより、当時のヨーロッパ識者の一部に日本の測量技術の高さが認識されることになる。
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