オランダ東インド会社とは? わかりやすく解説

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オランダ‐ひがしインドがいしゃ〔‐ひがし‐グワイシヤ〕【オランダ東インド会社】

読み方:おらんだひがしいんどがいしゃ

1602年オランダの諸会社合同で設立した会社政府保護のもとに、ジャワ島中心にして、独占的に香料貿易植民地経営当たった1799年解散


オランダ東インド会社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/27 01:08 UTC 版)

オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、正式には連合東インド会社オランダ語: Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称VOC)は、1602年3月20日オランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約650万ギルダー重役会は17人会と呼ばれた。これには同国の銀行のホープ商会も参加した。本社はアムステルダムに設置され[要出典]、支店の位置づけとなるオランダ商館は、ジャワ平戸などに置かれた。18世紀末の1799年12月31日にオランダ政府により解散させられた。


  1. ^ 1613年にはイギリス東インド会社も平戸にイギリス商館を設置したが、1623年のアンボイナ事件をきっかけに出島から撤退し、1951年には英蘭戦争が発生した。
  2. ^ 1662年には台湾が建国され、鄭成功に一掃された。
  3. ^ オランダは主に造船業によって発達し、またイギリスやオランダはアジア貿易の拠点であったゴアマカオ香港バタヴィア香料諸島においても独占的な支配力を持つに至った[4]
  1. ^ 日蘭交流の歴史 在日オランダ大使館、2021年2月21日閲覧。
  2. ^ 東洋文庫 2015, pp. 18–30.
  3. ^ a b 根室市‐学芸員日誌‐「最初の千島探検」
  4. ^ 池田, 1964年
  5. ^ 中野 2002, pp. 4.
  6. ^ a b c 八重森 2017, pp. 80.
  7. ^ 八重森 2017, pp. 86–87.
  8. ^ Heijer, Henk J. den (2005), p. 84
  9. ^ 橋本 2019, pp. 75–76.
  10. ^ 橋本 2019, pp. 76–81.
  11. ^ オランダ東インド会社からみた近世海域アジアの貿易と日本” (日本語). nippon.com (2013年5月6日). 2020年6月15日閲覧。


「オランダ東インド会社」の続きの解説一覧

オランダ東インド会社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 16:23 UTC 版)

オランダ領東インド」の記事における「オランダ東インド会社」の解説

詳細は「オランダ東インド会社」を参照 1598年オランダバンテン王国によってバンテン商館設置することを許可され、さらに東方貿易一元化するため、1602年、「オランダ東インド会社」(Vereenigde Oostindische Compagnie、以下VOCと略す)を設立1609年には、この商館における活動統括する東インド総督」を置いた。 しかし、VOCは、バンテンでは王国警戒されて思うような交易上の成果をあげることができなかったため、1619年バンテン東方に位置するジャヤカルタ(現在のジャカルタ)に新たに商館設置この地を「バタヴィア」と改めて、オランダ東方貿易拠点として、都市建設すすめていった。VOCその後マルク諸島での香料独占をはかるため、アンボン島でのポルトガル人排除バンダ諸島征服などによって、貿易独占達成成功したこのようにVOCは、当初、港と商館中心とする交易独占によって利益をあげていたが、17世紀後半からジャワ島内陸部へと進出し領土獲得熱意をみせるようになった。すなわち、獲得した領土当時の有力商品であるコーヒーなどを栽培し、これを輸出することで利益をあげるためであるいわゆる点と線」の支配から「面」の支配への転換はかろうしたのである。 VOCは、ジャワ島内部王朝間での戦争や、各王家内での後継者争いなどに介入することで、17世紀後半にはマタラム王国衰退させ、そして1752年にはバンテン王国属国とすることに成功した。しかし、領土獲得のために要した莫大な戦費と、会社自体放漫経営のために、VOC経営悪化し1799年VOC解散することになったその後引き継いで植民地経営あたったのは、すでに本国オランダ占領していたフランス衛星国となったバタヴィア共和国である。

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オランダ東インド会社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:02 UTC 版)

ボゴール」の記事における「オランダ東インド会社」の解説

17世紀後半他の西ジャワ同じく、パクアンは公式にはバンテン王国支配下であったが、次第にオランダ東インド会社(VOC)の統治下入っていった。公式な移行バタヴィア王太子VOCとの間に成立した条約によってである(1684年4月17日)。 最初の、そして一時的なパクアンにおける定住は、タヌウィジャヤ中尉によるキャンプである。彼はVOC雇われスンダ人で、1687年この地開発するために派遣された。1699年1月4日から5日にかけてサラク火山インドネシア語: Gunung Salak)による噴火によって多大な被害受けた。しかし森林火災多くの樹木焼いたため、結果的に稲田やコーヒープランテーション用地残された短期間に、パクアン周辺いくつかの農業地開発が行われた。その中で最大なのが「カンプン・バリ」(新しであった1701年行政地区創設し、タヌウィジャヤがこの地長官選ばれた彼は現在のボゴール県の創始者みなされている。 1703年にはVOC総監アブラハム・ファン・リーベック(ケープ・タウン創始者で、VOC総督となったヤン・ファン・リーベック息子)を長とする探検進められこの地開発がさらに進んだファン・リーベック探検は、パクアン遺跡詳細な研究推し進め多くの考古学調査発見なされたその中にはプラサティも含まれるまた、VOC従業員のための住まい建てられた。行政の中心ありながら暑いバタヴィアと比べて、パクアンは、その地理的条件穏やかな気候からオランダ人好まれた。1744年から1745年に、総督住まいがパクアンに建設され、夏の間はここに住むようになった。 1746年総督グスターフ・ウレム・ファン・インホフの命令によってオランダ人居住区九つ現地人居住区一つ行政区画統一され、「バイテンゾルフという名の宮殿建てられた。これは、オランダ語で「憂いの外」という意味で、プロイセンフリードリヒ大王ポツダム近郊夏の宮殿として建てたサンスーシー」と同じ意味である(ちなみに日本では無憂宮」と訳される)。ほぼ同じ時期に、この地地方名としてのボゴール」という名前が初め記録現れる1752年4月7日行政報告には、宮殿隣接するバイテンゾルフ一部として記載されている。「ボゴール」はバイテンゾルフ代わって全体を指す、この土地の別の名前として使われるようになった。この名前は砂糖椰子 (Arenga pinnata) を指す「BOGOR」というジャワ語から来ている考えられており、現在でもインドネシア語使われている。別の説では、古ジャワ語で牛を意味する「bhagar」から来たとも、この地住人が「Buitenzorg」のスペル書き違えことからきた、とも言われている18世紀後半から19世紀にかけてこの街急速に発展した。この発展もたらした理由一つにはイギリスによる占領がある。1811年から1815年にかけてオランダ領東インドイギリスによって占領された。当時オランダ占領していたナポレオンフランス領土とすることを妨げるため、イギリスジャワ他のスンダ諸島上陸したイギリス行政の長であったスタンフォード・ラッセルは行政の中心バタヴィアからバイテンゾルフ移動し新し効率的な行政方法導入した

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