えいらん‐せんそう〔‐センサウ〕【英蘭戦争】
読み方:えいらんせんそう
英蘭戦争
英蘭戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:36 UTC 版)
「近世における世界の一体化」の記事における「英蘭戦争」の解説
イングランドではエリザベス1世に後継者がいなかったことから、スコットランドよりスチュアート家のジェームズ6世をイングランド王ジェームズ1世として招いた。しかし、王権神授説の信奉者である王と議会とはしばしば対立し、1621年には「議会の大抗議」が起こっている。なお、1623年のアンボイナ事件によってマラッカ以東のアジアのイングランド勢力はオランダ勢力によって駆逐され、同年、平戸商館を閉鎖して日本との交易からも撤退している。こののち、イングランドはインドへの進出に専念するようになる。 次のチャールズ1世の代になっても権利の請願(1628年)、スコットランド反乱(1639年)、議会の大諫奏(1641年)など政治の混迷は続き、王と議会の対立はついに内戦へと発展(ピューリタン革命)、1649年には国王チャールズ1世が処刑されてオリバー・クロムウェルによる共和政が始まった。クロムウェルは様々な特権や産業統制を廃止し、オランダの金融政策や財政政策を学んで商工業の発展に努力し、1651年には仲介貿易におけるオランダの優位性の打倒を企図して航海条例を発布、第1次英蘭戦争(1652年-1653年)を引き起こしてオランダの海上権に打撃を与えた。 王政復古後、イングランド軍が北米オランダ植民地ニューアムステルダムを占領したことを発端として、チャールズ2世を戴くイングランドとヨハン・デ・ウィット率いるオランダとの間で第2次英蘭戦争(1665年-1667年)が起こった。戦争の結果、イングランドが勝利し、ニューアムステルダムはイングランド領となって、オランダは北米における拠点を失うこととなった。 これにより、オランダは大西洋の海上権を失い、転落傾向をみせるが、その理由や背景としては以下の諸点が考えられる。 オランダの主力商品だったアジアの香辛料の人気が落ちたこと イギリスの主力商品だったインド産の綿布(キャラコ)が大流行しはじめたこと。香辛料は消費・需要が限られていた。綿製品は潜在的需要がはるかに高かったのみならず、粗布を輸入して加工・再輸出するという産業を興す基盤にもなった。もっとも、イギリス東インド会社は初めから長期的展望をあてこんでキャラコを選んだわけではなく、香辛料の買い付けから締め出され、船倉を満たすためにやむを得ず持ち帰ったキャラコが当たった。 3次にわたる英蘭戦争とフランスによるネーデルラント継承戦争(南ネーデルラント継承戦争とオランダ戦争)で国力を消耗したこと 依然として豊かなオランダ資金がイングランドの産業に投資されるようになったこと 1640年にポルトガルがスペインとの同君連合を解消し、オランダ政府と休戦条約を結んだため、オランダ勢力がポルトガル植民地に食い込むことが不可能になったこと(詳細はオランダ西インド会社参照) 第3次英蘭戦争(1672年-1674年)はフランスの始めたオランダ侵略戦争(1672年-1678年)にイングランドが協力するかたちで始まった。1673年、イングランドとフランスは大艦隊を組織してオランダを襲ったが、オランダの名提督ミヒール・デ・ロイテルに撃退された。この後オランダ総督ウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)はオーストリア・スペインと同盟を結んでフランスを包囲、フランス軍を撤退させた。戦局ふるわず、財政危機に陥ったフランスは、1675年、多額の戦争資金を募り、スウェーデンの参戦を促した。しかしスウェーデンのドイツ侵攻はドイツ諸侯の反感を買い、その最前線にあったブランデンブルク選帝侯はオランダと同盟を結んで対抗した。ブランデンブルク=プロイセンの興隆は、後の英仏関係にも大きく影響をおよぼすこととなった。 さらに、イングランド議会では、オランダがフランスの手に落ちればイングランドはフランス重商主義によって経済的に屈服させられるという声が高まり、チャールズ2世に親仏路線の撤回を求めた。このため、1677年にチャールズ2世は弟ヨーク公(後のジェームズ2世)の娘メアリ(後のメアリー2世)をウィレムに嫁がせて同盟を結んだ。
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英蘭戦争
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「マールテン・トロンプ」の記事における「英蘭戦争」の解説
詳細は「英蘭戦争」を参照 第一次英蘭戦争では1652年5月29日にドーバー沖でトロンプ提督のオランダ艦隊とロバート・ブレイク提督のイングランド艦隊が衝突して開戦の口火が切られるが(ドーバーの海戦(英語版))、この時は引き分けに終わりトロンプは一時司令官職を解任され、後任としてウィット提督が任命されたが、ケンティッシュ・ノックの海戦(英語版)でブレイクに敗北を喫したことでトロンプは復職した。同年12月のダンジュネスの海戦(英語版)ではブレイク艦隊と再戦して勝利し、オランダに制海権を取り戻した。 しかし、1653年2月から3月にかけて生じたポートランド沖海戦(英語版)で、ジョージ・マンク提督が率いるイギリス艦隊の前にトロンプは大敗し、オランダは制海権を失った。6月のガッバードの海戦(英語版)(ノースフォアランドの海戦)でもブレイクに代わって指揮を執ったマンク艦隊に再び敗れて、オランダ沿岸の封鎖を許すこととなった。更に8月には再建途中のオランダ艦隊がマンク艦隊に発見されシェヴェニンゲンの海戦(英語版)(テル・ヘイデの海戦)が起こり、激戦の末にオランダ艦隊は大きな被害を出しトロンプも戦死したが、イギリス艦隊の損害も大きく沿岸封鎖を続けることは出来なくなった。 トロンプ死後の1654年、ウェストミンスター条約が成立し第一次英蘭戦争は終結した。オランダ艦隊はトロンプの下で戦歴を積んだミヒール・デ・ロイテルが引き継ぎ、次の戦争を迎えることとなった。
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