第三次英蘭戦争 (1672年–74年)
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「ジョン・ハーマン」の記事における「第三次英蘭戦争 (1672年–74年)」の解説
第三次英蘭戦争が勃発した後、1672年5月28日に英仏間で最初の大規模な戦闘ソールベイの海戦が起きた。この時、ハーマンはサンドウィッチ戦隊の将官としてその旗艦にいた。この戦隊はオランダ艦隊の攻撃を受け炎上したが、ジョン・アーンリの指揮する戦列艦ドーヴァーがハーマンと戦列艦チャールズを敵の火船から救出した。 1673年8月21日のテセル島の海戦では、ハーマンはカンバーランド公ルパートの将官として戦った。この年、ハーマンは赤戦隊の副提督となり、旗艦ロンドンに乗ることになった。テセル島の海戦では抜群の働きを見せたハーマンだったが、すでに彼の病は重くなっていた。8月21日にエドワード・スプレイジが死去したことを受けて青戦隊の提督となったが、ハーマンも実際に指揮を執ることなく10月11日に死去した。その後、1674年2月19日にイングランドとオランダはウェストミンスター条約を結び、終戦した。 ハーマンには1人の息子と1人の娘がいた。息子ジェームズ・ハーマンも海軍軍人となったが、1677年1月19日にアルジェリアのクルーザーと戦い死んだ。グリニッジの国立海洋博物館には、『ローストフトの旗手たち』として知られるピーター・レリーによる13人の海軍軍人の肖像群が展示されているが、ハーマンもこの中の一人に含まれている。
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第三次英蘭戦争
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詳細は「第三次英蘭戦争(英語版)」および「仏蘭戦争」を参照 当初フランスの侵略意図が明らかになると、デ・ウィットは1668年に英瑞蘭の間で三国同盟を結び、これを脅威と見たフランスはアーヘンの和約でネーデルラント継承戦争を終わらせた。しかしルイ14世はオランダの妨害を根に持つと、絶世の美女ルイーズ・ケルアイユを与えてチャールズ2世を籠絡し、イングランドを味方につけた。チャールズ2世はフランスのルイ14世とドーヴァーの密約を締結。密約が発覚して三国同盟が破綻すると、1672年には仏瑞同盟が締結された。 1672年、フランス軍はオランダに侵攻して国土の大部分を占領したが、オランダ側は堤防を決壊させて洪水線でオランダを水浸しにし、何とかフランス軍によるアムステルダム占領を防いだ。危機に瀕した国内ではオラニエ=ナッサウ家の統領(総督)職復帰を望む声が強まり、若いオラニエ公ウィレム3世(後のウィリアム3世)が軍最高司令官、次いで統領に就任した。その後で発生した暴動によりデ・ウィット兄弟は民衆に惨殺された。ウィレム3世はオーストリア、スペインと同盟を結んでフランスを包囲し、フランス軍を撤退させている。 チャールズ2世は1672年から1674年にかけて、フランスの始めた仏蘭戦争に予定通り協力する局地戦の形で第三次英蘭戦争を開始した。戦争初期の1672年にイングランドはヨーク公・サンドウィッチが艦隊を指揮、フランスとの連合大艦隊を組織してオランダ上陸作戦の準備を開始したが、停泊中にロイテルに奇襲され、大損害を受けて72年中のオランダ上陸作戦は実行不可能となった(ソールベイの海戦)。サンドウィッチは戦死、ヨーク公は政争の煽りを受けて辞任してルパートが艦隊の指揮を受け継いだ。1673年にルパートはスホーネヴェルトの海戦(英語版)、テセル島の海戦でオランダ海軍に挑んだが、いずれもロイテル艦隊に敗北したためオランダ侵攻は不可能になり、フランスとの連携が出来なくなった。 一方、イングランド議会では、オランダがフランスの手に落ちればイングランドはフランス重商主義によって経済的に屈服させられると言う声が高まり、チャールズ2世に親仏路線撤回を求めるようになった。このため、1674年にチャールズ2世はウェストミンスター条約でオランダと和睦、1677年には姪でヨーク公の娘メアリー(後のメアリー2世)をウィレム3世に嫁がせて同盟を結び、国内の不満の沈静化に努めることになった。
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